「おかえりなさいませ、三薙様」 「宮城さん」 家に帰ると、宮城さんが待ち構えていたようにやってきた。 いつもながら、この小柄な初老の男性は、どうやって俺が帰ってきたことを知るのか、近づいてくるのか、さっぱり分からない。 術も使ってる気配はなさそうだし。 うちの家の中で、一番得体が知れない人かもしれない。 「双馬様がお待ちでございます」 なんてことを考えていると宮城さんが、そっと頭を下げる。 ああ、そうか、一兄はもう手配してくれたのか。 相変わらず、仕事の早い人だ。 「………そうですか。ありがとうございます。双兄はどこにいるんですか?」 前に部屋を見に行ったが、いなかった。 謹慎はしてないってことだったが、俺が感じ取れる範囲にはいない。 「ご案内いたします。こちらに」 「はい」 いくらうちの家が広いと言っても、幼い頃から知り尽くしている家だし、人をすっかり隠しておけるほど広くはないと思うのだけれど。 でも天や志藤さんがいるところも分からないし、見た目よりも宮守家はずっと広いのかもしれない。 「………」 前を歩く小柄な男性は、足音をさせず、そっと歩いている。 まるで、体重がないようだ。 覚えてもいない祖父の頃から、この家に勤めていると聞いている。 ずっと、前から、か。 「………宮城さんは、二葉叔母さんを、前の奥宮を知ってますか?」 「はい、存じ上げております。聡明でお優しい、奥宮に相応しいお方でした」 宮城さんはこちらを見ないまま、けれど答えてくれる。 奥宮に、相応しいか。 それは何をもって、相応しいというのだろう。 相応しいことが、二葉叔母さんにとって、いいことだったのだろうか。 「その前の奥宮のことは?」 「存じ上げております。先代先宮のお姉様でございました」 お祖父さんの、お姉さん、か。 その人もまた、あの儀式をしたのだろうか。 ああ、本当になんて、気持ちの悪い一族なんだろう。 その歪で醜悪なあり方に忌々しさを感じるが、生理的な嫌悪感は浮かばない。 俺が一兄や天に触れても嫌悪感を感じなかったように、二葉叔母さんも、その大伯母も、嫌悪感を感じることは、きっとなかったのだろう。 そういう、一族なんだ。 「………どんな人でしたか?」 「美しく、芯のお強い方でした」 その人は、奥宮を嫌がってはいませんでしたか。 逃げ出そうとは、しませんでしたか。 なんて聞いて、この人が応えるわけがないか。 「………そうですか」 「お二人とも、宮守家のために身を尽くした、誇り高く尊いお方たちです」 思わず、軽く笑ってしまう。 生贄の誇り、か。 俺にもそれを持てというのだろうか。 到底、できそうにないけれど。 「宮城さんは、宮守家が好きなんですね」 この人は確か、結婚もしてなかったはずだ。 独身で私心なく、ただ宮守家のために身を捧げていてくれる人。 時代錯誤と言ったら失礼かもしれないけど、どうしてそこまでこの家に尽くせるのだろう。 「私は宮守家に拾われ、育てられ、一生のご恩を賜りました。未だ、至らない身ですが、宮守家のために、少しでも恩返しが出来れば幸いです」 軽く、驚く。 この人がそんなプライベートなことを話してくれるとは思わなかった。 世間話をしているところすら、めったに見たことはない。 「そう、ですか」 何と言ったらいいか分からず、間抜けにもしれしか言えなかった。 この人にとって、宮守家は、救いだったのか。 大事な、ものなのか。 「わ」 広間に向かう廊下の途中で、宮城さんがぴたりと足を止める。 考え事をしていたので、あやうくぶつかるところだった。 「どうしたんですか………あ、結界」 そこで、宮城さんがただの壁に見えるところに手を触れる。 そうされるまでまったく気づかなかったが、微細な力を感じた。 細く、けれど精密に編み上げられた結界が、そこにあった。 「少々お待ちを」 宮城さんが懐から札を取り出し、壁にあてると軽く口の中で呪を唱える。 すると白い壁に見えていた場所がぐにゃりとバターのように溶けていく。 そして、1分もしないうちに、そこには襖が現れていた。 「こんなところに」 「この扉は移動いたしますので、いつでもここにあるという訳ではありません」 「………」 つまり俺だけでもう一回来ようとしても無駄ということか。 この家には、こんな仕掛けがいくつもあるのだろうか。 全然、知らなかった。 双兄も天も志藤さんも、見つからないのは当然だ。 多くの術がかかってる家の中では、こんな微細な力、俺には感じ取ることはできない。 宮城さんが襖を開き、暗い廊下をすたすたと歩いていってしまう。 慌ててその後を追うと、闇の奥に白い襖が見える。 すごく遠く見えたが、5歩も歩けば、襖に辿り着いてしまった。 ここは、どうなっているのだろう。 あの、双兄の夢の中の世界のようなものなのか。 「双馬様、失礼いたします。三薙様が参りました」 中から声はしない。 けれど宮城さんはさっさと襖を開いてしまった。 そして身を横にずらし、手で俺を促す。 「どうぞ」 「………双兄、入るよ?」 少しだけためらって、部屋の中に入る。 そこは、ごく普通の、8畳ほどの和室。 障子が入っている窓は、明るくぼんやりと光っていて、部屋の中も明るい。 けど、今はもう夕暮れのはずだ。 外があんなに明るいはずがない。 ここは、普通の空間ではないらしい。 「………双兄?」 入った途端感じるのは、甘く据えた匂い。 畳に転がっているいくつもの瓶や缶。 思わずため息が漏れてしまう。 「酒臭い」 双兄は、部屋の奥で俯いて座り込んでいる。 「双兄は自由だって聞いてたんだけど、これって、双兄出られるの?」 これじゃ、完全に監禁に見えるのだが。 話しかけると、双兄が、のろのろと顔をあげた。 「………三薙」 髪はぼさぼさで、髭も生えっぱなしぽい。 目は充血して、頬はこけている。 元々痩せている人なのに、更に痩せてしまったようだ。 あれからずっと荒れて、酒を飲んでいたのか。 困った人だ。 「宮城さん、二人で話したいんですけどいいですか?」 部屋の外にいた宮城さんが黙って頭を下げて、襖を閉めてくれた。 それを見届けて、双兄にゆっくり近づく。 蹲っていた双兄が、びくりと震えて、壁に張り付くように身を引く。 そんな怯えなくてもいいのに。 いつも明るく楽しく飄々としていた次兄の今の態度に、軽く笑ってしまう。 「その年でアル中になったら大変だよ?」 近づいて顔を覗き込むと、双兄がくしゃりと顔を歪める。 「三薙、三薙………っ」 そして身を伏せるようにして、俺の足にしがみついてくる。 みすぼらしくて、みっともない姿。 双兄のこんな姿も、見たくなかったな。 双兄はいつでも自信があって、楽しくて、俺をからかって遊んでるぐらいで、よかったのに。 「双兄には、まだ先があるんだから、体を大事にしてよ。俺と違って」 身勝手な失望と共に、そんな意地悪を言ってしまう。 何か本当に性格がますます悪くなってるかもしれない。 「あ………」 双兄の顔が、紙みたいに真っ白になる。 紫色の唇が震える。 縋りつく手から、力が抜けてく。 「ごめん、意地悪いこと言った」 罪悪感で、胸が痛くなってしまう。 謝るが、双兄は畳にがばっと顔を伏せた。 「ごめん…、ごめん、ごめんごめんごめん、ごめんな、三薙、ごめんな、ごめん」 みじめに、情けなく、謝罪を繰り返す。 本当に、弱い人。 「…………うん」 真実を俺に告げたこの人を恨む気持ちはある。 何も知らないでいたら、俺は苦しむこともなかったかもしれない。 歓んで奥宮になったかもしれない。 こんな思いはしないで済んだかもしれない。 今でも知ったことがよかったのか悪かったのか、分からない。 「大丈夫、だよ。双兄」 でも、迷って、苦しんで、逃げようとして、結果的に事態を引っ掻き回す。 謝っても、結局この人には何も出来ないのだ。 それが、双兄という人なんだ。 言っても、仕方ない。 なんて、こんな目で、双兄のことを、見たくなかったな。 「大丈夫。顔をあげて」 しゃがみこんで、双兄の伸びてしまったぼさぼさの髪を撫でる。 のろのろと顔を上げて、泣いて潤み充血した目で、俺をおどおどと見てくる。 その哀れな姿に胸が痛くなって、その頭を抱えるようにして、撫でる。 「………お前、決めた、のか?」 「うん、決めたよ」 そう、決めた。 俺が何をしたいか、何をするか、決めたのだ。 「俺、俺は、お前に、知ってほしかったんだ。真実を、知って、それから、選んでほしかったんだ。何も知らないままなんて、嫌だったんだ」 「うん、分かってるよ、双兄」 「ごめ、ごめんな、ごめんな、三薙」 「うん」 双兄は多分、俺のためを想って、やってくれたことなのだろう。 昔、天が俺を奥宮に連れて行ったことを隠したのも、今回の件も全部。 迷い揺れ、それでも、その根本になるのは、俺のため、なんだ。 「………ねえ、双姉と会わせてくれる?」 「え」 「次に、いつ会えるか、分からないから」 こう言えば、双兄はきっと断れない。 それが分かっていて、こういう言い方をしてしまう。 「………分かった」 思った通り、双兄はゆるりと頷いてくれた。 「俺は三薙、本当に、お前が、大事だったんだ。お前に、笑っててほしかったんだ。いっぱい、幸せなこと、知ってほしかったんだ」 「………」 色々なところに連れて行ってくれた。 色々な遊びを教えてくれた。 からかわれ、喧嘩して、謝られて、機嫌とられて、泣いて笑って。 多分一番、普通の、兄弟らしく過ごせたのは、双兄とだった。 この弱い次兄が、俺に笑って接するには、どれほど心を削ったのだろう。 どれほど、苦しんだのだろう。 「………うん、楽しかったよ、双兄。双兄がいっぱい遊んでくれて、嬉しかった」 「そう、か」 楽しかった。 嬉しかった。 大好きだった。 双兄がいてくれて、よかったと、そう思う心に嘘はない。 白い白い世界。 乳白色の上も下もない、不思議な空間。 浮いているような、逆さのような、前を向いているのか後ろを向いているのかも分からない。 「………三薙」 自分がどんな状態なのかも分からない空間に、その声が指向性を持たせる。 ゆらりと現れる白いワンピースを着た女性が現れて、どちらが上で、どちらが前なのかが分かる。 長い髪と華奢な体を持つ女性は、哀しげな顔をして俺を見ている。 その耳には、小さな、赤銅色と濃藍の可愛らしいピアスが揺れている。 それを見て、自然と頬が緩む。 「久しぶり、双姉」 双姉が、俺の姉が、ますます眉を顰めて、今にも泣きそうな顔になる。 双兄も双姉も、別に、俺はそんな顔を見たいわけじゃないんだけどな。 いや、ちょっと嘘かな。 一兄や父さんと違って、俺を見て、感情を表す二人に安堵してるのは確かだ。 「そんな顔しないで。別に双姉を責めに来た訳じゃないし」 「………ごめんね」 「仕方ないよ。双姉には、何も出来ない」 双姉が唇を噛んで、手をぎゅっと握る。 あ、しまった。 「ごめん、そういう意味じゃない」 そういう意味じゃ、ないのかな。 もう、自分でも、分からないや。 この人たちを傷つけたいのか、傷つけたくないのか。 「いいの。ごめんね、三薙。本当に、ごめん。私が、ちゃんと生まれていれば、私が奥宮になることが、出来たのに、ごめんね」 それでも、この人はこの世界から出ることはできない。 双姉が存在できるのは、この乳白色の世界だけ。 なんでもあって、なにもない。 「ううん。ごめんね、双姉」 そんなこの人を、責められるはずがない。 それに本当にもし双姉が生まれていて、奥宮になるとしたら、俺はそれを認めることが出来ただろうか。 何をしてでも、止めたくなったかもしれない。 「………三薙」 一歩進み出て、双姉の手を握る。 しなやかで細く白い手は、けれど冷たいのか温かいのか分からない。 「ねえ、双姉。ここは、一兄にも父さんにも、話は聞かれないよね」 双姉は俺の質問に、首を軽く傾げる。 「ええ。ここは私と双馬しかいないわ。この世界に入らない限り、外の世界からは見えない」 ああ、やっぱり、ここなら、あの二人の目も届かない。 誰にはばかることなく、話をすることができる。 「そっか」 「三薙?」 「あのさ、俺が、昔奥宮を見たことを、忘れさせたのは、双姉だよね」 「………ええ。夢の世界に、封じた」 忘れていいと、繰り返す甘く優しい声。 やっぱりあれは、双姉だったのか。 「それが、正しいことかどうか、分からなかった。間違っていたのかもしれない」 それは俺にも分からない。 知らない方がよかったのか。 知っていた方がよかったのか。 「でも、あなたには、せめて何も知らず、笑っていてほしかった。なんの曇りもなく、無邪気に笑うあなたに変わってほしくなかった」 双姉がそっと目を伏せてる。 長い睫毛が白い頬に落ちるのが、とてもリアルだと思った。 「それが、あなたを、より奥宮に近づけたのかもしれないけど」 奥宮の、資質か。 もし何もかもを知って育てば、俺は奥宮の資格を持たなかったのだろうか。 それは、よかったのだろうか。 悪かったのだろうか。 やっぱり、分からないや。 「あなたは、奥宮に、なるの?」 「………、ねえ、双姉。あのさ、昔、俺が小さいころと、そしてこの前、双兄と双姉は、奥宮の結界を簡単に越えて、事態を隠し通せたよね。双兄と双姉には、そういう力があるの?」 質問に質問で返した俺に、双姉は目を瞬かせる。 けれどそれから、ゆっくりと頷く。 「ええ、夢問いに力の応用で、少しくらいなら、空間を閉ざして隠すことが出来るわ。それで、双馬とあなたたちの存在を隠していなかったことにした。すぐに気づいたから出来たのだけど、だいぶ危なかった。もしかしたら兄さんには、気付かれていたかもしれないわ」 「………そうか」 結界の強いやつみたいなものかな。 ていうか双兄と双姉の力って、かなり汎用性高いんじゃないだろうか。 なんでもできてしまいそうだ。 でも、そうか、双兄と双姉なら、あそこに隠れて入ることは可能なのか。 「ねえ、双姉」 「なにかしら?」 「双姉に、お願いがあるんだ」 「………え」 双姉はまた不思議そうに目を瞬かせる。 純粋で愛らしい、優しい姉。 現実では触れることすら敵わない、夢の中の住人。 「双姉は、なんでもしてくれるって、言ったよね。俺のために、なんでも」 双姉の優しさにつけこむ言葉を口にする自分に、ますます自己嫌悪の感情が沸いてくる。 でも、これしかない。 これしか、考え付かない。 俺は、人の力を頼るしか、出来ない。 俺が出来ることは、ほとんどない。 そして、時間も、きっともう、残されてない。 「ええ、なんでもするわ。あなたのためにできることなら、なんでもするわ。私、あなたのお姉ちゃんだもの」 双姉はこくこくと何度も、子供のように頷く。 その嬉しそうな顔に、胸が痛くなる。 ごめんね、双姉。 「じゃあ、お願いがある。………もちろん聞いてくれなくても構わないんだけどさ」 「なあに?私に出来ることなら、なんだってするわ」 きっと双兄と双姉は、本当になんでもしてくれるだろう。 半ば、その確信がある。 この人たちが、というより双兄が迷って暴走してしまうのは、何をすればいいか、分からないからだ。 無力で、でもなんとかしたくて、でも何もできなくて、ただ目の前にあるものに向かって走ってしまう。 そしてより混乱をもたらしてしまう。 俺がそうだったように。 「あのね、俺がいなくなったら、四天を支えてあげてくれる?」 「え」 「天はきっと、荒れて、暴れるだろうから」 だから、目的を与えればいい。 そして俺がお願いすればいい。 可哀そうな俺のお願い事を叶えるという明確な目的を持てば、双兄は、きっとしてくれるはずだ。 それが、宮守を直接害することにならなければ、やってくれるはずだ。 「だから、それを止めて、天を助けてあげてくれる?」 「四天、を?」 「後、志藤さんも」 あの二人を助けて、救えるのは、双兄と双姉だけだ。 「双姉の力なら、きっと出来るでしょ?それで、熊沢さんと双兄に、言ってくれる?二人を助けてって」 味方のいないこの家の中で、味方につけられる可能性があるのは、双姉と双兄だけ。 でも、双兄だけなら、簡単に一兄に手玉にとられてしまうだろう。 昔から、双兄が一兄に勝てたことは、なかった。 けれど、双兄なら、一兄すら欺くことができる。 もしかしたら、一兄は気づいていたのかもしれないけど、でも、昔の俺と四天のことも、曲がりなりにも隠し通せたのだ。 でも、双兄だけじゃだめだ。 「双兄も聞いてるよね。ねえ、双兄。天と志藤さんを、お願い。双兄と双姉の言うことなら、熊沢さんも聞くから」 抜け目なくぬかりなく、そして何より双兄と双姉を大事にしている熊沢さん。 あの人がいれば、一兄を出し抜ける可能性は、かなり高くなる。 「俺のお願い聞いてくれる?あの二人を助けてくれないかな。あの二人を、支えてあげて」 「………三薙」 双姉が哀しそうな顔で、俺の頬に手を伸ばす。 匂いがしない世界だけれど、花の香りがした気がした。 「俺は俺を大事にしてくれた人たちを、守りたい」 大事にしてくれた人たちを守りたい。 奥宮になりたくない。 でも、他の人が奥宮になるのも見たくない。 でも、このシステムが続いていくのも、見たくない。 「勿論双兄、双姉、二人も守りたい。大事だよ」 俺も双姉の頬に手を伸ばす。 双姉が痛みを感じているかのように、歪める。 「二人が、大好きだよ。だから、信じてるんだ」 「三薙、私も好きよ。大好きよ」 「うん、知ってる。ありがとう、双姉。大好きだよ」 双姉の華奢な体をぎゅっと抱きしめる。 現実でも、抱きしめられればいいのに。 「どうか、あの二人を、助けて」 一兄も双兄も双姉も天も、やっぱり好きだ。 大好きなんだ。 だから、別に聞いてくれなくても構わない。 ただ、無力で他人に頼ることしかできない俺は、呪いの種を撒くだけ。 |