「今日は、岡野と帰りたいから、送らなくていい」 放課後に向かう前に、藤吉と佐藤に釘を刺す。 藤吉は俺の言葉に、困ったように眉を顰める。 俺を見張れとでも言われているのだろう。 「別に逃げないし、変なことはしないし、言わないよ。岡野相手に何をしてもどうにもならないだろうし」 「………」 岡野に何を言っても、どう行動しても、事態は変わることはない。 ただ、岡野に迷惑をかけるだけだ。 それは、よく分かっている。 それ以上に、俺が岡野に告げることを望まないことも、しないことも、藤吉と佐藤は分かっているはずだ。 「何々、変なことって何?やだ、いやらしー!」 そして佐藤は分かっているだろうに、にやりと笑って茶化してくる。 相変わら喜々として毒気と悪意を周囲にばらまく。 これまで、この本性を隠し通せてきたのだから、いっそ感心してしまう。 女優にでもなれば、成功するのはないだろうか。 「ねえ、何話すの?なあに?チエもなんか隠してるし、怪しいなあ」 にやりと歯を見せて笑い、俺の耳元に囁いてくる。 ぞわりと、全身に寒気が走る。 間違いなく人であるのに、奇妙なイキモノ 「ね、三薙?」 落ち着け。 動揺するな。 槇が知っていることは、勘づかれたらいけない。 カマをかけてるだけだ。 槇が、佐藤に気取られるわけがない。 佐藤が気づくとしたら、俺の態度からだけだ。 「………少なくとも、佐藤の損になることは、ないよ」 佐藤が俺の首に手を伸ばし、その細い指でそっと頸動脈に触れる。 本能的な恐怖を感じて、反射的に振り払いそうになる。 「まあ、三薙が何をしようと別に私の損になることはないんだけどね。三薙が逃げ出しても、奥宮?だっけ?になっても、どっちも楽しいし」 ひひっと、無邪気にも愛らしくも見える笑顔を見せる。 悪意と毒気の塊なのに、どこまでも無邪気ともいえる。 本当に心底純粋に、俺を甚振ることを楽しんでいるのだろう。 「………」 やっぱり、その闇に侵蝕されるような、気味の悪い笑い方を、どこかで見たことがある。 どこだっただろうか。 佐藤が、本性を、表す前だったはずだ。 「………やっぱり、佐藤、どこかで、あったことあるよな」 「覚えてないかなー?三薙、うちにも来たじゃん!」 佐藤が首を可愛らしく傾げて、聞いてくる。 家。 佐藤の家になんて、行ったことはない。 というか俺は管理者の家以外は、ほとんど他人の家になんて行ったことがない。 「………あ」 そこで、不意に、脳裏に浮かぶイメージ。 暗い、闇に満ちた、館。 奇妙な笑い方をする、少年。 「また来てね。私のおうち」 佐藤はにっこりと、楽しそうに笑った。 放課後、槇にも頼んで、岡野と二人きりにしてもらった。 日が落ちるのが遅くなってきて、外はまだ明るい。 でももう、梅雨だ。 しばらくすれば雨雲ばかり見ることになるんだろう。 明ければ夏で、青い空と、肌を焼く日差しと、噎せ返る熱気の季節だ。 それを俺が見られるかどうかは、分からないけど。 「なんか食べてく?」 これから塾だという岡野だが、寄り道する時間はあるらしい。 前にも寄ったことのある公園に差し掛かったところで、岡野がこちらを振り返り笑う。 気のせい化もしれないけれど、いつもより弾んだ声と、明るい表情。 胸が、ぎゅうと絞られ、引きちぎられそうなほどに、痛みを感じる。 俺がうぬぼれているような感情を持っている訳じゃないのなら、いいのだけれど。 俺を、嫌いなら、いっそそれがいい。 「………あのさ」 「何よ?」 その笑顔を、曇らせたくない。 いつだって笑っていてほしい。 誰よりも何よりも、幸せでいてほしい。 「あ、あの、話したいことっていうか、言いたいことっていうか」 これを言うことが、岡野のために、なるのだろうか。 分からない。 でも、俺には、これしか考え付かない。 どちらにせよ絶対に後悔する。 なら、もう、俺が考え付く最善を尽くすしかない。 「相談したいこと、あるんだ」 「なんだよ、言えよ」 岡野は少し目をしばたかせるが、タメなくすぐにそう答えた。 戸惑う様子も、迷う様子も見せない。 「聞いて、くれるかな」 「とりあえず言え。聞けるかどうかはまた別の話だ」 この前聞いたばかりの言葉に、つい笑ってしまう。 本当に、岡野も槇も、率直で真っ直ぐで、強い。 「なんだよ」 「いや、岡野も槇も、潔いなあと思って」 「何でチエ?」 「槇にも前に相談したとき、そう言われたから」 「ふーん」 そこで岡野は、すこしだけ口を尖らせる。 槇に頼ったことが不満そうに見えるのは、俺の願望だろうか。 俺の錯覚だったら、いいんだけど。 「で、相談ってなんだよ」 「………あのさ」 少しだけ躊躇って、迷うそぶり。 俺はいつも優柔不断で、そんなにストレートにはっきり言える人間じゃない。 不自然じゃない程度に、言いよどむのが、俺らしいだろう。 「なんだよ、はっきり言え!」 「ご、ごめん!そ、その、あの………、俺、雫さんのことが、好きなんだよね!」 岡野に急かされてついという体で、一気に言い切る。 不自然じゃ、なかっただろうか。 引き合いに出して、ごめんなさい、雫さん。 後で、雫さんにもなんらかのフォローは入れておいた方がいいかもしれない。 「………」 岡野が目を丸くして、口を閉じる。 信じてくれているだろうか。 「あの人、年上だし、美人だし、かっこいいし、俺なんて、よくて弟、悪くてただのその辺のガキぐらいにしか思われてないだろうけどさ」 「………」 「でも、好きなんだ」 岡野の吊り目がちの、猫のような目を見て、告げる。 「強くて、かっこよくて、潔くて、綺麗で、可愛くて、優しくて、優しくて、優しくて」 優しくて優しくて優しくて、強くて、温かくて、いつだって君が、俺に勇気をくれた。 挫けそうな時は、叱咤して立ち上がらせてくれた。 やり遂げた時は、我が事のように、一緒に喜んでくれた。 俺を認めてくれた。 そんな君を守りたかった。 「………好きなんだ」 そんな君が、好きだった。 抱きしめたかった、好きだと言いたかった、一緒に並んで歩きたかった。 「………」 「でも、俺、どうしたらいいか分からなくてさ。女心なんて、分からないから」 優しかった。 嬉しかった。 一緒にいれて、幸せだった。 一緒にいたかった。 これからも、君とずっと一緒にいられるなら、どれだけ、幸せだっただろう。 「だから、どうしたらいいか、岡野なら、相談できないかなって」 「………」 「岡野?」 岡野はそこで、赤い唇をきゅっと噛んだ。 その強い目で、俺を睨みつけてくる。 表情に弱弱しさなんて、一切見えない。 いつもの、堂々として真っ直ぐな、岡野だ。 ああ、眩しいな。 「本当にお前は、女心、わからねーな」 「う」 その言葉は、震えても、掠れてもいない、強い岡野の声だった。 傷ついていないといい。 少しでも、痛みがなければいい。 「よりによって、私に言うとか………」 岡野は、少しうつむいて、手をぎゅっと握りしめる。 やっぱり、傷つけたのだろうか。 傷つけたくない。 笑っていてほしい。 俺になんて関わらなければ、こんなことにならなかったのに。 俺のことなんて、好きになんて、ならなくてよかった。 「………わざとか?」 「え」 動揺して、漏れそうになる声を必死にこらえた。 表情に、出してはいないだろうか。 気付かれたら駄目だ。 駄目だ。 「………でも、あんたがそんな器用なことできるとは思えない」 「えっと何が?」 「………」 岡野が目を伏せると、長い睫毛が白い頬に影を作る。 それがなんだかとても寂しく、か弱く見えて、岡野が儚く見える。 抱きしめたい。 抱きしめて、何もかもから、守りたいのに。 「少し、時間を頂戴」 「えっと」 「ごめん。急すぎて、ちょっと話せない」 息が、苦しい。 胸にぐさりぐさりと、鋭い錐を刺されているような痛み。 いっそこの胸が張り裂けてしまえばいいのに。 痛みのままに血が溢れて息絶えれば、楽になれるだろうに。 でも、俺が傷つくことは、許されない。 笑え。 笑え。 笑え。 「そっか。ちょっと、急だったかな。ごめん。どうしたら雫さんに、俺のこと見てもらえるか、よかったら、相談に乗ってくれると、嬉しいんだけど」 「乗れないかも」 「………そっか」 俺は、うまく笑えているだろうか。 うまく、話せているだろうか。 ああ、でも岡野は顔を伏せているので、俺の表情も分からないだろう。 だったら、歪んだ顔も、見られていない。 「………でも、私の気持ちは、変わらないから、いっか」 岡野がまた手をぎゅうっと握りしめる。 そして顔をあげて、挑むように、俺を睨みつける。 キラキラと光る猫のような目が、とても強くて綺麗で、好きだった。 岡野の意思を感じる目と表情が、大好きだった。 「見てろよ、このボケ!へたれ!」 「え、え!?」 宣言して、にっと笑う岡野は、どこまでも強くて潔くて、眩しい。 ひれ伏して、縋りつきたくなってしまう。 「今日は、私、帰る!」 そして俺の方につかつかと寄ってきて、思いきり頭をはたく。 「いった!な、なに!?」 「このボケ!また、来週な!」 そしてくるりと踵を返すと、大股で、後ろを振り返らず、走り去ってしまう。 こんな時でも、岡野は本当に優しくて、強くて、眩しい。 出会わなければよかった。 でも、会えて嬉しかった。 君に会えて、よかった。 ごめんごめんごめん。 もしもう一度あの時に戻って選べたとしても、やっぱり、君に会えることを望んでしまうだろう。 「………ごめん」 俺が消えて、君はそのまま、歩みを止めず先に行く。 そんな未来を歩く人に、姿を消した想い人なんてものほど、厄介なものはいない。 どうか、君の思い出に残る俺は、最低な奴でいればいい。 魅力的な岡野をただの友人としか思っていない無神経で馬鹿な奴であればいい。 「………いるんだろ?」 目を伏せて、泣くのを堪える。 そして、後ろを振り返る。 ちょっと先の通りから、二つの影が現れる。 なんかの術の気配は感じていたが、二人ともいるとは思わなかった。 「二人ともいたのか」 ひょこひょこと現れた藤吉と佐藤の姿が滑稽で、つい笑ってしまった。 藤吉はばつの悪そうな顔で、視線を彷徨わせる。 「………ごめん」 対して佐藤は、手を叩いて飛び上がりはしゃぐ。 「やーん、ドキドキしちゃった。私が相談にのったげよっか?恋バナは大得意だよ!」 「遠慮しとく」 苛立つ心を、必死に抑え込む。 反応して怒ったりしたら、佐藤の思うつぼだ。 こいつは何より、人の負の感情が、楽しいのだ。 「佐藤。岡野と槇を傷つけるようなことしたら、絶対許さない」 ただ、これだけは釘を刺す。 佐藤なら、岡野と槇をからかいがてら傷つけるぐらい、やりかねない。 「あの二人に危害をくわえたら、どんな手を使ってでも、排除する」 これだけは、揺るがない。 人を傷つけるのも、敵視するのも、苦手だ。 でも最後に残ったあの二人を守るためなら、何をしても、構わない。 俺の中の本当を、害す奴は、絶対に許さない。 「かーっこいー」 睨みつけても、佐藤は更にはしゃいで笑うだけだ。 くすくすと笑って、悪戯っぽく首を傾げる。 「そんなこと言われると、余計にやりたくなっちゃう」 「………」 人を、まして女性を、危害を加えたいなんて、めったに思ったことはなかった。 けれど、今はじめて、その口をふさぎ殴りつけたい衝動に駆られる。 「怖い顔だなあ。私泣いちゃいそう」 拳を握っても、佐藤は茶化して笑うだけ。 「………三薙、佐藤は必要以上に宮守の管轄下で動くのは禁じられてる。それに俺も止める。だから、その点は、安心してくれ」 「………藤吉」 一歩踏み出しそうになった俺を、藤吉の言葉が止める。 視線を藤吉に向けると、ひとつ頷いてくれた。 「あの二人には、絶対に、何もさせないから」 信じられるだろうか。 どちらにせよ、うちの管轄で動くことを禁じているというのは、本当な気がする。 そうじゃなきゃ、佐藤はもっと早くに、広く悪意を振りまいていたはずだ。 「分かった。信じる」 「………うん、ありがとう」 藤吉がほっとした顔をする。 別に藤吉を信じたわけじゃない。 単に、藤吉の言葉よりも、状況を信じただけだ。 本当は、信じたいのに。 全部全部、信じたいのに。 「美しい男の友情!感動で涙が出ちゃいそう!」 佐藤はそれでも茶化して体をくねらせる。 もう話す気力すらなく、踵を返す。 早く家に帰りたかった。 あの牢獄のような家に、帰りたかった。 一人になりたかった。 藤吉と佐藤を振り切るように早足で帰り、自室に飛び込む。 自室は残り少ない日差しが差し込んで、ぼんやりと薄暗かった。 荷物を放り出し、ベッドに駆け込み、顔をうずめる。 そこでようやく、息を吐きだせた。 「………っ」 堪えていた嗚咽が漏れる。 涙が、溢れてくる。 布団に噛みつき、せめて声を抑える。 俺が傷つく資格なんてない。 俺が泣く権利なんてない。 でも、痛い。 苦しい。 息が出来ない。 「〜〜〜〜〜〜っ」 優しかった強かった眩しかった嬉しかった。 一緒にいたかった。 好きだった好きだった好きだった好きだった好きだった好きだった。 君を傷つけたくなんて、なかった。 俺はただ、君に笑っていてほしかった、だけだったんだ。 |