カーテンから光が差し込んでいる。
ああ、また学校をさぼってしまった。
もうすぐ夏休みなのに。
その後には受験が待っている。
勉強、しなきゃいけないのに。

将来のことを考えると、不安でしょうがない。
足元が崩れおちていくような、闇に飲まれていくような頼りなさ。
こんなことしている場合じゃないのに。

それでも、先のことなんて考えられない。
ただ外から切り離されたような家の中で、弟と二人きり。
ひどく、現実感がない。
何もかもが、遠い。

ずっと同じ体勢をしていたのが辛くて、寝がえりを打とうと身じろぐ。
その途端、ぎゅっと拘束するように抱きしめられる。

「体の方向、変えるだけ」

そう言うと、少しだけ力を緩めてくれた。
後ろから抱き締められていた腕の中で体の方向を変え、千尋に向き合う形になる。
そしてまた、千尋の胸に押しつけられるように抱きしめられた。

苦しい。
窮屈。
重い。
温かい。
懐かしい。
落ち着く匂い。

昨日の夜から、ずっとずっとこうしている。
意見は妥協点を見いだせず、平行線。
言い争うことにも疲れてしまった。
もう、何もしたくない。
何も考えなくない。
ただ黙って、こうして二人寄り添って寝ている。
千尋も私を抱きしめるだけで、それ以上のことはしない。

こうしているのは、嫌じゃない。
とても落ち着く。
何かあるたびに、逃げ込んできた腕の中だ。
嫌なものから守ってくれた、腕の中だ。

千尋のシャツに、顔を寄せる。
優しい手が、私の髪を撫でる。
気持ちがいい。
眠っているような起きているようなまどろみの中で、ただゆらゆらと意識を彷徨わせる。
いっそずっと、こうしていられたらいいのに。

現実なんて、見たくない。
ただ二人でこうしていられるなら、それなら私はきっといいのだ。
二人でいれば、違和感に眼を瞑れる。
嫌悪感も薄れていく。
現実感を失い、世界に二人きり。
そうしたら、何も怖くない。

明るい場所に放り出された途端、自分が汚く醜いものに感じるのだ。
現実なんていらないのに。
そうしたら、千尋の要求にこたえることだって、出来る。

けれど、体は現実を訴える。
胃が空腹を知らせる。
喉が渇いて、口の中が張り付く。
トイレに行きたくなる。
ずっとこのままでなんて、いられない。
そんなのは、無理なのだ。

「………千尋、お腹すいた」
「………」
「喉、渇いた」
「………」
「千尋」

再度名前を呼ぶと、ようやく弟は体を離す。
ゆっくりと体を起こすと、ふっとため息をついて肩をすくめた。

「ムードないな」
「ごめんね」
「でも、俺もお腹空いた。なんか作るね」
「うん」
「作り終わったら呼ぶから、それまで待ってて」
「うん」
「家から出ないでね」
「うん」
「絶対に、ここにいて」
「分かった」

何度も念を押して、それでも最後まで私を見降ろし眼を見つめる。
私の真意を探るように。
その綺麗な二重の眼を、まっすぐに見返した。
そのまま見つめ合って、根負けしたように千尋が眼を伏せる。
そして、ようやく部屋を出ていく。

ゆっくりと、体を起こす。
カーテンの隙間からからは、光が差し込んでかすかにグレーのベッドを照らす。
その光がひどく、遠く感じる。

ああ、遠いな。
なんて、遠いんだろう。
この薄暗い部屋が、ひどく、寒く感じる。

陽の光が、遠い。



***




二人でご飯を食べたり水を飲んだり、必要最低限のこと以外はただベッドの上で過ごした。
ただ寄り添って眠っていた。
何も話すことなく、眠る。

千尋は私を離そうとしない。
少しでもどこかへ行こうとすると引き止められる。
ついてくる。
トイレにまでついてこられて、閉口する。
逃げられない。
息苦しい。
でも、どうしようもできない。
ただ、じっと、まどろむ。
それしか、できない。

そうして、カーテンの外の光もオレンジ色に変わってきた。
ああ、もう夕方なのか。
明日は、土曜日か。
休みか。
それなら、明日も明後日も、こうしているのだろうか。

そうしていると、チャイムが鳴った。
出なきゃ、と思って身じろぎすると、千尋がそれを阻止するように腕の力を強める。
一瞬考えて、諦める。
どうせ宅配便か何かだ。
また今度、来るだろう。
チャイムはもう一度鳴る。
私と千尋は、聞かなかったことにする。

三度、四度。
しつこい。
五度、六度。
止んだ。

ガチャリ。
ドアが開く音がする。

「え」
「………」

父か母か。
一瞬考えて、すぐ後に否定する。
あの二人なら別にチャイムなんて鳴らさない。
では、誰だ。
千尋がゆっくりと体を起こす。

「あ、開いてるんじゃん。お邪魔しまーす」

下からかすかに響いてきた声は、とても聞きなれたものだった。
昼休みに、放課後に、毎日のように聞いていた声。

「………う、そ」

私も体を急いで起こす。
千尋がベッドから降りる。

「失礼しまーす。あ、外れ。おーい、どうせいるんだろ、電波姉弟」

一階の扉を無造作に開閉する音が聞こえる。
体温が一気に下がる。
頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。

「ここにいて」
「ち、ひろ」
「絶対に出ないで」

千尋は低く言いきると、部屋から出ていく。
私は何も考えられず、ベッドの上で膝を抱える。

どうして。
なぜ。
なんで。

疑問符ばかりが頭を巡る。
どうして、こんなところに。
なんで、来てしまった。
今の姿を見られたくない。
根木に惹かれながらもずるずると千尋に囚われている醜い私を見られたくない。
恥ずかしい。
怖い。
あの太陽のような男の顔を、今は見たくない。

「お、出てきたな、電波弟。姉はどこ?」
「出てけ」
「上か。失礼します」
「出てけ!」

千尋の余裕のない声が、二階まで鮮明に響く。
ガタガタと争うような音がする。

「暴力反対!俺は弱い!」

バタバタと階段を駆けのぼる音。
近づいてくる。
嫌だ。
怖い。
けれど弟のものとは違うその足音は、ドアの前で止まる。
ゆっくりと、扉が、開く。

「おっと、いた。よかった服は着てるのね」
「………根木」

その男はいつものように、好奇心に満ちた眼で私を見て笑った。
朗らかに、どこか面白がるように。

「カーテンも開けずに不健康だな」
「根木」
「はい、あなたの根木君です」

根木は部屋の中にずかずかと入り込む。
そして、ベッドの乗り上げると、私を通り越してシャっと音を立ててカーテンを大きく開く。
夕日で染まる赤い光が、一気に部屋の中を明るく照らす。
眩しくて、眼をつぶる。

「さて清水、行こうか」
「え」
「迎えにきたよ」

そして眼を開けると、根木が私に手を差し出して笑っていた。
夕日の中、光の中にいる根木は、ただ、眩しかった。





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