「ね、ぎ………」 ただその眩しい笑顔を、見上げる。 朗らかで、でもどこか胡散臭い好奇心に満ちた目。 「ふ、ざけるな!」 バン! 何も言えないで言えると、半分しまっていたドアが乱暴に開け放たれた。 弟が、白い顔を上気させ、醜く歪めて眼鏡の男を睨みつける。 「おっと、来たな電波弟」 根木はそれだけで射殺されそうな視線を受けて、全く動じることはない。 後ろを振り返り肩をすくめてやはり笑う。 「く、そ」 それがまた癪に障ったのか、千尋は根木につかみかかる。 根木はすんでのところで、その手から逃れた。 「うわあ、ちょ、落ち着け、落ち着け!ストップ!だから暴力反対!」 「うるさい!あんたは本当に目障りなんだよ!」 拳を握り、男の顔をめがけて振り下ろす。 根木は慌てながらもなんとかそれを避ける。 「落ち着けって言ってんだろ、この馬鹿!」 「黙ってろ!さっさと失せろ!」 「えーい、この馬鹿ちんがー!」 聞く耳を持たない千尋に業を煮やし、根木はとうとう千尋を押しのけるように足で蹴り上げる。 突然の反撃にバランスを崩すが、千尋はなんとかそれを避けた。 二人の間に距離が出来て、ようやく部屋が静まり返る。 「ったくもう、ちっとは頭冷やせ、この馬鹿」 「………」 肩で息をして、根木はずれた眼鏡を直す。 千尋はまたすぐにでも襲いかかりそうな顔をして、ただ根木を睨みつけていた。 「はあ」 そんな千尋を見て、根木は深い深いため息をつく。 そして腰に手をあてて、不満げに鼻を鳴らす。 「二人揃ってこれ見よがしにサボりやがって。思わず来ちゃったじゃん。もっとうまくやれよ」 「あんたには、関係ないだろ」 「関係あります。俺は清水姉が好きなんです。全力で関係があります。関係なくても関係していきます」 その言葉にまた千尋が拳を握る。 それに気づいて根木は一歩下がって距離をひらいた。 「だから落ち着け。お前な、清水真衣はただでさえ出席率悪いんだぞ。このまま続けば教師から家に連絡がいきます。一応受験生なんです、俺らは。お前と違って」 「…………」 千尋が眉を寄せ、唇を噛んで黙り込む。 私も、ずしりと重い鉛が胸に圧し掛かる。 そう、ずっとこのままでなんていられないのだ。 私は受験に向かって、将来に向かって、やらなければいけないことがある、のだ。 「そうしたら、どうなるか分かってんだろ。賢い賢い清水君」 「………うる、さいっ」 「お前らの親御さんがいくらお前たちに関心がないつっても、さすがに口出ししてくるぞ。世間体を気にするなら余計にな」 そうだ。 あの人たちは私になんて興味ないけれど、自分たちは、自分たちの地位なんかはとても大事。 私がいいことをしても悪いことをしても、反応はない。 でも、自分の立場脅かすほどの存在になるなら、私に目を向けるだろう。 「あいつら、なんて、関係ない!」 「だから関係なくないんだよ。はずみでお前らのことばれたらどうする。間違いなく引き離されるだろうな」 そしてあの人たちは、私を切り捨てることなんて簡単だろう。 出来のいい千尋を守って、私をあっさり捨てるだろう。 一度捨てたのだ。 二度目だってきっと、簡単だ。 「そんなことは、させない!」 「お前に何が出来るんだよ」 「真衣ちゃんは、俺のものなんだよ。俺がずっと守るんだ」 「で、だから何が出来るんだよ。高一のガキが」 千尋の余裕のない切羽詰まった声に、根木は更に深く詰め寄る。 トーンは優しく穏やかなのに、その言葉に容赦はない。 「所詮俺らは親の庇護下にいるガキなんだよ」 「………っ」 「手に手を取り合ってカケオチするか?少ない貯金で暮らすか?誰もいないところで適当な仕事について清水真衣を養う?できるか馬鹿。保証人もいない、高校中退、しかもお荷物付き。苦労をしらないガキに出来るわけねーだろ」 千尋が根木から床へと視線を移す。 そして苦しげに喘ぐように、かすれた声を絞り出す。 「うる、さい!うるさい!」 「そういうとこ、清水真衣にそっくりだなあ。現実を見ろ。眼をそらすな。お前なら分かってんだろ」 「うるさいうるさいうるさい!」 駄々っ子のように頭を振って、千尋は全身で拒絶する。 現実を見ることを、拒絶する。 そして私は言葉にされて思い知る。 今のままでは、この先には何もない。 ただ暗い、途中で途切れた道がそこにある。 「清水真衣にも働かせる?もっとできねーだろ。最終的には追い詰められて二人心中コースか、って洒落にならねーな。やだ、本当にやりそうで怖い。それは禁止よ禁止」 最後はちゃかすように、けれどどこか真剣にいいきかせる。 そしてふっと息を吐いて、疲れたように肩の力を抜いた。 すぐにまた顔をあげると、千尋にまっすぐに見つめる。 たいして、千尋はまだ俯いたままただ床に視線を落としていた。 「で、何が言いたいかというと」 「………」 「ちょっと頭冷やせ。落ち着いて考えろ」 冷静な、静かな声。 狭い部屋に響き渡る、静かな、けれど場を支配する声。 「清水真衣に、考える時間を与えろ。またうやむやのうちに誤魔化しても、同じことを繰り返すだけだ。分かってんだろ。そうしたら今度こそ離れ離れか心中コースだ」 「あんたに、何が分かるんだよ!」 「わかんねーよ、お前ら電波の考えることなんて」 肩をすくめて眉を器用に吊り上げる。 必死に声を荒げる千尋と、おどけた様子の静かな男。 笑ってしまいそうなほど、正反対。 いつもの余裕のある弟はどこにもいない。 冷静な根木が、頼もしくも映るし、どこか遠くも感じる。 「分かるのは、このままだと何かもぐっちゃぐちゃってことだけだよ。無理矢理従わせても駄目なんだよ。お前のほうがよく知ってるだろ。清水真衣は優柔不断で臆病で弱い。自分で選ばせないといつまでたっても人のせいにして、隣の芝生は青いんじゃないかと考え続けるだけだ。そしてまた繰り返す」 じくじくと、胸が痛んで血を流す。 いたたまれなさに叫び出しそう。 そうだ、根木の言うとおり。 私はずるくて卑怯で馬鹿な女。 状況を混乱させ、悪化させている。 「………でも、真衣ちゃんは俺のものだ。それ以外ない。そう決めたんだ」 「違う。それも分かってるだろ。選択権は清水真衣にある。お前じゃない」 「違う!」 「違くない」 千尋が、まるで、子供のようだ。 ないものねだりで、床に転がって手足をばたつかせる子供。 「結局清水真衣次第なんだよ。清水真衣がお前から全力で逃げようと思えば、いくらでも逃げられるんだ。親に言えばいい。別に事実を言わなくてもいい。一人暮らしがしたいといえばそれで平気だろ、お前の家なら。俺に頼っても、なんとかしてやるよ」 「…………その女は、俺のものだ」 それでも苦しげに繰り返す言葉に、胸が苦しくなる。 息ができない。 なぜか、謝りたくなった。 「清水真衣以上にいい女なんて、この世には腐るほどいるのにな」 根木は小さく、そうつぶやいた。 どこか哀れそうに悲しそうに、弟を見つめる。 そしてほんの少しの後、そっと目を伏せた。 ふ、と肺から一気に空気を吐き出すように強く息をつく。 顔をあげると、くるりと振り返り、私に微笑みかけた。 「てことで、清水姉。ちょっとあなたも頭を冷やしましょう」 「え」 「いい加減流されすぎ。ここらでよく考えて」 言葉はあくまで朗らかで、一瞬何を言われているのか分からない。 ただ根木を見上げていると、根木は苦笑して肩をすくめた。 「まあ、俺も偉そうなこと言って特に何もできないけどね。考える時間ぐらいあげる。弟のいない空間をあげる」 「千尋の、いない、空間」 「そう。うちおいで」 根木の家。 単語の意味を反芻して辿ろうとする前に、千尋が焦った様子で顔をあげた。 「ふざけんな、やめろ!」 「何もしない。うちは母さんも兄ちゃんもいる。その環境で手を出せるほど、お前と違って図太くない」 「信じられる訳ないだろ!」 「信じろ。ていうかお前に選択肢ない。ここで姉ちゃん引き止めてもどうにもならないぐらい、分かってるだろ。選ばせろ」 千尋は悔しそうに歯ぎしりして、拳をぎゅっと握り締める。 けれどもう一度、殴りかかる気はなさそうだ。 「それがお前にとって望む答えであろうと、望まぬ答えであろうと、受け入れろ。ていうか何がなんでも受けれてもらう」 「………」 眼鏡の男はもう一度こちらに視線を戻し、まっすぐに私を見つめてくる。 私はまるで神のお告げを待つように、ただただ根木を見上げている。 「清水真衣、玄関の鍵は開いてた。この部屋だって鍵はかかってない。窓だってある。清水千尋だってトイレとか行ってたんだろ?飯も食ってるだろ?その隙に逃げようと思えば、出られる」 ああ、そうだ。 確かに、そうだ。 隙はあった。 きっと、逃げようと思えば、逃げられた。 言われてようやく、思い至る。 なぜ、逃げられないと思っていたのか。 「檻なんてないんだよ。いつでも出られる。清水の望む、檻はない」 望む。 違う、望んでなんでない。 出たい。 ここから出たい。 そうだ、私は、明るい所に行きたい。 「分かった?じゃあ、行こうか」 そしてまたもう一度、根木が私に手を伸ばす。 |