制服や鞄、下着や洋服を簡単にバッグに放り込む。
色々足りないものはあるだろうけど、それは後で考えよう。
担ぐと肩に食い込んで、痛かった。
よろめきながら下に行くと、玄関先で根木が待っていた。

「大丈夫?」

眼鏡の奥の切れ長の目が、探るように私を見つめる。
一瞬だけ、目を伏せた。
最後に見た、千尋の頼りない背中が、目に焼き付いている。

「………平気。ごめん。行こう」
「はい、行きましょうか」

けれど、頭を振ってその映像を胸の奥底にしまいこんだ。
一人になって、考えなければ、いけない。

一日だけなのに、外がなんだか酷く懐かしい気がした。
空はまだ少し夕日のオレンジが残っている。
夏だから、夜が遅い。
どこかで子供の声がまだ響いている。

「根木の家に、いくの?」
「そ」

根木は私の肩からバッグを自然に取って、代わりに自分の鞄を私に渡す。
教科書が入っているはずの鞄はなぜか軽かった。

「………今更だけど、大丈夫なの?急にお邪魔して」
「どうだろう。まあ、なんとかなるでしょ。俺、信用あるし」
「………本当に大丈夫?」
「多分!」

とりあえず根木を頼って出てきたものの、返ってきたのはなんとも頼りない答え。
まあ、そうだ。
一般家庭にいきなり友人だろうと同年代の異性がやってきて泊めてと言っても急には許されないだろう。
でも、こうして千尋を置いてきて、夜には帰るって、考えてみるといたたまれない。

「………ここまでやって出てきて、やっぱり駄目でしたって戻るの、気まずいんだけど」
「その時は別の方法考えるよ。いざとなったら親戚の家とか友達の家とかあるし、少しぐらいならホテル暮らしでも。俺の貯金もあるし、最終手段としては、友達に金を借りる!」
「…………」

私がじっと見つめると、根木は目をそらした。
気まずそうに頬を掻く。

「いや、俺、そんな金なくて………」
「いや、いいけど。お金は、頼る気ないよ」

一応、通帳もお財布は持ってきた。
私はそんなお金も使わないから毎月お小遣いは余っている。
一週間くらいならなんとかなる。
と、思う。
それに、さすがに金銭面で頼るのは間違っている。
そんなために、根木についてきたんじゃない。
根木は荷物を抱え直すと、ふっとため息をついて空を仰ぐ。

「とりあえず頑張って後先考えずに行動してみたんだけど、やっぱ後先考えないって問題だよね」
「頑張って、後先考えないの?」
「俺はね」

言っている意味がよく分からなくて、根木を見上げる。
根木はちらりとこちらに視線を向けて、困ったように笑った。

「でも、今回は俺なりに超頑張ってみました。学校いったら君たち二人ともいないし、ここが頑張りどころかと。にしても、そっちは少しは後先考えようよ」
「………ごめん」
「まあ、いいけどね。でも、出席日数そろそろ気にした方がいいよ」
「そう、だね。現実、見なきゃ」
「うん、参考書とか持ってきた?」
「………少し、だけ」

必要最低限のものだけで、勉強用のものはあまり持ってこれなかった。
本当に私は、地に足がついていない。
現実感がないと、逃避ばっかりしていてもどうにもならない。
いくら逃げても、現実はそこにあるのだから。
受験に失敗したら、それこそ私はそれを千尋のせいにするだろう。

「清水、俺たち受験生」
「………はい」
「まあ、いいけどね。俺の貸すよ」

苦笑交じりに根木が私の頭を軽く叩く。
その仕草さえ、この男は優しい。
そういえば、この男も受験生なのだ。
とても迷惑をかけている。
大変な時期に、負担をかけている。

「ねえ、根木」
「はい、なあに?」
「ありがとう」

謝ろうかと、思った。
けれどそれはそぐわない気がした。
だから、ただそれだけを告げた。
根木はこちらを見て、小さく笑う。

「どういたしまして」

そしてそっと自然に私の手を取った。
根木の手は、大きくて温かい。



***



古いというほどではないけれど、新しくはない。
それくらいの築年数のマンションの五階が根木の家だった。
ドアの前でいったん根木は一旦立ち止った。
覚悟を決めるように、荷物を床に置いて深呼吸する。

「さて、行くぞ。清水は黙って聞いてていいから」

私は何が何だか分からず、ただ頷く。
そして、勢いよく扉を開いた。

「ただいまー。友達連れてきたー。しばらく泊めてあげてー」

そんな軽いノリでいいのか。
思わずつっこみそうになった。
促されるまま、私は靴を脱いで家の中に上がり込む。
廊下の先のリビングに辿りつくと、中年の女性がキッチンで食事の用意をしていた。
髪をポニーテールで結いあげて、どこかきつそうな人だ。
切れ長の目が、根木に、似ている。

「なんだって?」
「ただいま!」

根木は明るく朗らかに、手を挙げて挨拶をした。
女性はにこりともせずに、私を見る。
きつい視線が少し怖くて、根木の後ろに思わず隠れる。

「おかえり。で、こちらのお嬢さんは何?」
「えーと、お友達?」
「で、どうしたいって?」
「しばらく泊めてあげたいなあって」

りんごが飛んできた。
根木が私の前に出て、それを受け止める。

「あぶな!危ない!」
「扶養家族の分際で、女連れ込むとはいい度胸ね」
「いやいやいやいや、そういうんじゃなくて!えっと、なんていうの人助け?」
「私がいる間にヤったりしたら殺す」
「ヤりません!僕達清いお付き合いです!」

慌ててりんごを持ったまま手を大きくふって弁解する根木。
えっと、やっぱりこのケンカは私のせいだろうか。
一人にはなりたいが、こんな風に根木の迷惑になるのは、嫌だ。

「あ、あの、すいません、ご迷惑なら………」
「あ、いいのよ清水」
「あんたは黙ってな」
「はい」

根木のお母さんが、対面カウンターの向こうからエプロンで手を拭きながら出てくる。
そんな仕草がとてもお母さん、という感じがした。
そういえばうちの母は、エプロンなんてしていたっけ。
食事の用意をしている時、あの人はどうしていたのか、思い出せない。
あの人の料理は、基本的に買ってきたものが主だった。
ごく稀に気が向いた時、本に出てくるような綺麗な料理を作ってたっけ。

ぼやっと見ていると、お母さんが私の前に立つ。
背が高く感じたが、私とほぼ目線は変わらなかった。

「えーと」
「あ、清水、真衣と、言います」
「そう、真衣ちゃん」
「は、はい」

真衣ちゃんと言われて、どきっとする。
名前を呼ばれることは、少ない。
私の表情を探るように、じっと見つめてくる。

「家出?」
「そういう、訳じゃ………」
「ご両親には言ってあるの?」
「言ってないけど、言っても多分何も言わないと、思う」
「………」

怒ったように眉を寄せる。
迷惑、だろうか。
そりゃ、迷惑だろう。
いきなり食いぶちが一人増える訳だし。

「あ、その、食費とかなら、少しは………」
「そういう話してるんじゃないの」
「………すいません」

きっぱりと少し不機嫌そうに言われて、胸がきゅっと萎む。
大人の人に怒られるのは、怖い。
父も母も、私たちを怒ることはなかった。
視線を下に向けてフローリングの筋目を見ていると、前で小さなため息が聞こえた。

「まあ、いいわ。一週間ね。それ以上は駄目。それでも問題が解決しないようなら、言いなさい。考えましょう」
「………あ」
「後、絶対に両親には連絡して居場所を伝えておきなさい。帰ってこいって言われたら帰りなさい。それでも帰りたくないなら、私に代わりなさい。いいわね」
「は、はい」

きびきびと次から次へと決められて、私は曖昧に返事をすることしかできない。
私の母も、しっかりとした冷静な人だ。
根木のお母さんもしっかりして、冷静だ。
でも、どこか、違う。
何が違うんだろう。

「わー、ありがとう、お母様。素敵!」
「部屋は客間使わせなさい。連絡だけはちゃんとしておくのよ。荷物といたら、夕御飯よ」
「はい、あ、兄貴は?」
「三日前くらいから姿見てないわ」
「了解。ありがと」

根木が床に置いていた荷物を抱えて、廊下から出て行こうとする。
私は根木の鞄を抱えたまま、恐る恐るそれに続こうとする。
その前に、お母さんに呼びとめられた。
大げさなほど、驚いて跳ねてしまった。

「真衣ちゃん」
「は、はい」
「短い間だけどよろしくね」

振り返ると、お母さんはにっこりと笑ってそう言ってくれた。
笑い顔は、根木にそっくりだった。
どこか胡散臭い。
けれど、優しい顔。

「………はい、その、ご迷惑、おかけします。よろしくお願いします」

うまい挨拶なんて、分からない。
社会的な常識なんて、ない。
それが、恥ずかしかった。
けれど、お母さんは気にした様子なく笑って頷いてくれた。
そのままキッチンに戻っていく。
私はもう一度頭を下げて、根木の後を追った。

「素敵な、お母さんだね」
「そう?」
「うん、根木のお母さんって感じ」
「………嬉しくないなあ、それ」

本当に心底嫌そうに顔を歪める。
いつも朗らかの男のそんな顔を見たことなくて、なんだかかわいくて笑ってしまう。

「笑った。やっぱり笑ってる方がいいよ」

そんな私を見て、根木も笑った。
ああ、やっぱり笑い顔が、そっくりだ。



***




「………おいしい」

そう言うと、根木のお母さん、美穂さんは嬉しそうに笑った。
わかめのお味噌汁と、豚肉の冷しゃぶと、なすの煮びたし、お漬物。
温かくて、湯気の立っているご飯を、皆で囲む。

「そう?よかった」
「はい、おいしいです」

おいしい。
とても、温かい。
根木が隣で食べながら、せっせと箸を進める私に聞いてくる。

「普段ご飯はどうしてるの?」
「コンビニとかスーパーで買ってきたりするのが、多い。面倒だから食べなかったり。後は、千尋が作ってくれた」
「よく出来た弟さんだねえ」
「………うん」

そうだ。
千尋は部活もやっていて忙しかったのに、出来る限り作ってくれた。
お惣菜を買ってきても、それに野菜を加えたりしてくれていた。
私は、そんなこと、してあげてたっけ。

食事を終えると、根木が茶碗を片付ける。
私は慌ててそれにならう。
それは根木家の習慣らしく、美穂さんは動かずお茶を飲んでいる。
全部食器を片づけ終わると、根木はシャツを腕まくりした。

「さ、茶碗洗うよ。手伝って清水」
「あ、う、うん」

エプロンを渡されて、不器用にそれを身につける。
隣に並ぶと、布巾を放り投げられた。

「俺が洗うから拭いてそこにおいてね」
「うん」

二人で並んでお茶碗を洗う。
食器洗いは、家でもやっていたから戸惑うことはない。

「茶碗は洗ったりするの?」
「うん、千尋と食べ終わった後、一緒に、茶碗を片付けた。千尋がやってくれることが、多かったけど」
「洗濯は?」
「何日かに一度、私が気付いたらやるけど、その前に千尋がやることが………」
「掃除は?」
「………休日に、千尋が………て、手伝うけど」
「………」

根木が黙りこむ。
言いながら、自分でとても恥ずかしくなってきた。
いたたまれない。

「………清水」
「………反省する」
「うん」

気が付いたら、千尋が全てやってくれていた。
自分でもやっているつもりだったが、気が付いたら全て私の居心地がいいように、千尋が環境を整えていた。
私はそれを、当然のものとして享受していた。
弟は、どれほど自分の時間を、犠牲にしていたのだろう。

「………私、甘えすぎだね」
「うん」
「本当に、甘えすぎだ」

ずっとずっと、寄りかかっていた。
一方的に、圧し掛かっていた。
私は千尋に、何をしてあげられていただろう。
なぜ千尋は、こんな私を欲しいというのだろう。

今、千尋はどうしているのだろう。
ご飯を、食べているだろうか。

そういえば私は、千尋がご飯を食べているかなんて、今まで気にしたことなかった。





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