目覚めは唐突だった。 急に、意識が現実に引き戻される。 目を開けて、一瞬どこにいるのか分からなかった。 見知らぬ天井。 見知らぬ畳の和室。 馴染んだベッドではない、真新しい綺麗なシーツの布団。 混乱する頭を抱えて、周りを見渡し考える。 そして、徐々に昨日のことを思い出す。 「………根木の、家か」 客間を借りたんだった。 布団に横になって、すぐに引き込まれるように眠ってしまった。 色々考えようと思っていたのに、結局何も考えられなかった。 今は、何時だろう。 窓からは障子越しに、光がこぼれている。 部屋の中はすっかり明るい。 朝になっているのは間違いないけれど、時間が分からない。 他人の家で寝過ごすのは、まずいだろう。 根木は起きているだろうか。 しばらく迷って、こうしていても仕方ないから起きることにした。 布団を一応畳んで隅に置いておく。 適当に突っ込んでおいた服からズボンとシャツを取りだして着る。 パジャマは忘れたから、根木のシャツをパジャマ代わりに借りた。 結構ひょろく見えていたが、やっぱり大きい。 和室から顔を出すと、そこはすぐにリビングだ。 テーブルでは美穂さんがテレビを見ながら朝食を取っていた。 薄い化粧をして髪を整えて、出かける用意が整っている。 テレビをちらりと見ると、まだ七時前だった。 よかった。 今日は土曜日なのに、美穂さんはもう出かけるのだろうか。 「あら、おはよう」 気配に気づいたのか、美穂さんがこちらを見てにこりと笑う。 私は慌てて頭を下げる。 「おはよう、ございます」 「よく眠れた?」 「は、はい」 疲れていたからか、ぐっすり眠った。 夢も見なかった気がする。 「朝食簡単なものしかないけど」 「あ、ご、ごめんなさい。そのえっと」 自分でやると言った方がいいのだろうか。 それともそっちの方が失礼だろうか。 こういう時、どうしたらいいのか分からない。 「そんなに緊張しないでいいわよ。自分のうちだと思ってくつろいで。無理かもしれないけど」 「あ、ありがとう、ございます」 何を言ったらいいか分からず言葉にならない声を出していた私に、美穂さんは面白そうに笑う。 ゆっくりと立ち上がって、キッチンに向かった。 私は無意味にその後ろをついていく。 座っていた方がいいのだろうか。 何か手伝えることがあるだろうか。 どうしたらいいか分からず、キッチンの入り口でうろうろとパンをトースターに放り込んでフライパンを取りだした美穂さんの姿をじっと見る。 食器出したらいいのかな。 でもどの食器を出したらいいのか分からない。 「コーヒー入れて。カップはそこの棚の好きなの使って。あ、コーヒーで平気?」 「は、はい!」 「ご両親には連絡した?」 「あ、は、はい!」 慌てる私に呆れるでも気にすることもなく美穂さんは指示をする。 そしてその間にもてきぱきと玉子を焼いて、トマトとレタスを皿に添える。 「なんて?」 「分かった、とだけ」 昨日の夜、根木から携帯を借りて、一応母には連絡した。 知らない携帯番号からだったから最初怪訝そうだったが、私だと知って少し面倒くさそうに早口で問われた。 『どうしたの?』 『あ、しばらく友達の家に、泊まる』 『え?あ、そう?分かったわ。問題なんか起こさないでね』 『うん』 『それじゃあ、今ちょっと手が離せないの。何かあったら電話して』 『分かった』 慌ただしく電話は切れた。 どこにとも、いつまでとも、なんでとも聞かれなかった。 一分も話していなかったかもしれない。 予想通りの反応に思わず笑ってしまった。 それはそうだ。 千尋が中学生の頃に無断外泊していても、何も言わなかったのだ。 今更私が外泊すると言っても、特に興味もないだろう。 ある意味、信用されているのかもしれないけれど。 「そう」 美穂さんはフライパンから目を離さずにただ頷いた。 私は小さく頭を下げる。 「すいません、ご迷惑、おかけします」 「いいわよ。でも、いつまでもここにいても、解決にはならないと思うから、そこは考えておいてね」 「はい、すぐに、帰るので」 「無理に帰っても仕方ないわよ。答えを出してから帰りなさい。私で力になれることがあったら言ってちょうだい。まあ、他人の私が力になれることなんて、そうはないけどね」 「………はい」 その温かいけれどどこか突き放した言い方は、根木に似ていた。 親子なんだな、と思う。 「はい、出来た。運んでちょうだい」 「はい」 リビングに作ってもらったトーストとスクランブルエッグとコーヒーを運ぶ。 美穂さんは自分のコーヒーカップを持ってきて自分の分も淹れる。 しまった、美穂さんの分のコーヒーぐらい淹れればよかった。 私は、本当に気が利かないんだなと、思う。 恥ずかしい。 「宏隆は、学校でうまくやってるかしら?」 二人向かい合わせに座って、朝食を取る。 美穂さんは朝食は終わっていて、コーヒーを飲んで付き合っていてくれた。 宏隆、と言われて一瞬誰だか分からなかった。 それがあの眼鏡の男の名前だと気づいて、慌てて答える。 「あ、はい。根木、くんは、とても明るくて優しくて、いつもクラスの中心にいます」 「あら、嘘でも嬉しいわ」 「嘘じゃ、ないです。根木君は、とても優しい、です」 「ありがとう」 にっこりと笑うが、どこかその笑い方は胡散臭い。 コーヒーを啜ると、ふっと美穂さんはため息をつく。 「私も家にあんまりいないし、男親いないしで目が行き届かないんだけど、まあ人様に迷惑かけてないならいいわ。こう、もうちょっと男らしくなってくれるといいんだけどね。お調子者でふらふらしてて困っちゃうわ」 根木の父親は根木が小学生の頃に亡くなったと聞いた。 だからあまり覚えてないと言っていた。 朗らかに言う根木からはあまり悲しさは感じなかったが、お父さんがいないというのは寂しいことなんじゃないだろうか。 私には、よく分からないけれど。 「あいつの兄貴がこれまた馬鹿でねー。気が付いたらいなくなってて。そのうちどっかでのたれ死ぬ気がするわ」 からからと笑う美穂さんは、朗らかでさっぱりとしている。 少しだけ怖いけど、でも温かい。 緊張するけれど、話すのが嫌だとは思わない。 「真衣ちゃんは、弟さんがいるんだっけ?」 「………はい、二つ下の……」 「高校一年生か。男の子って馬鹿で大変じゃない?」 「あ、千尋、弟は、優等生で、おとなしいっていうか、大人、だから」 「そう、いいわね。仲いいの?」 一瞬、言葉に詰まる。 仲がいい。 言葉の意味を考えて、一呼吸置いてから、頷く。 「悪くないと、思います」 悪くはない。 私は千尋が、大事だった。 千尋も私に、優しくしてくれた。 「ずっと、二人でいたから」 そう、ずっとずっと、二人でいたのだ。 ずっと二人で、あの暗い家で、一緒にいた。 最初のほうはなんとか取りつくろっていた家庭も、子供が大きくなるにつれ、父も母も興味を失った。 親としての最低限の勤めは果たしてくれていた。 授業参観や三者面談なんかも、言えば来てくれた。 言わなきゃ気付かないだけ。 私が嫌いな訳じゃない。 ただ、純粋に興味がなかっただけ。 それでも、千尋のことは可愛がっていたと思う。 でも、千尋に言わせれば、あの人たちは自分達しか興味がない。 そういえばそうかもしれない。 確かに千尋にはよく話しかけていた。 千尋を褒めていた。 千尋の行動は気にしていた。 私よりはずっと興味はあっただろう。 でも、思い返せばあの家はいつも二人だった。 父と母が放棄した家で、私たちはずっと一緒にいたのだ。 「昨日も言ったけど、弟は出来がいいから、料理とか洗濯とかしてくれて、私は何もできなくなって、しまいました」 「なんでもやる人がいると、やらなくなるのよねえ。まあ、これから覚えなさい」 「はい」 そうだ、ずっと一緒にいた。 千尋はずっと一緒にいた。 そして、私が寂しくないように何もかもを与えてくれていたのだ。 |