「うん」 椅子に座ったままこちらを興味深そうに見る根木に、私は頷く。 心は決めた。 今度こそ、私が、決めた。 もう誰のせいにもできない。 「それで、答えは?」 震えそうになる唇を叱咤して、強く声を出す。 今にも逃げ出したい。 でも、逃げるな。 胸のあたりとぎゅっと握って、痛みを誤魔化す。 「AとBでどちらを捨てるか」 ぽつりと、つぶやいた私に根木が不思議そうに瞬きする。 私は、そのまま続けた。 「私は、Aが捨てられないと思った」 「………その心は?」 「私は、Bを捨てられても、Aは捨てられない」 あの時、私は咄嗟に、Aは捨てられないと思った。 捨てろと言われて、でも、と反論しようとした。 それが答えの、とっかかり。 「捨てる、というか、見捨てることが、出来ない」 結局、そこに行きつくのだ。 たとえBを選んでも、私はAを捨てられない。 「私に何が出来るか、考えた。私がしてもらう、じゃなくて。私がしてあげるって考えた」 そしてAを選んでBを失っても、私は納得出来てしまう。 失いたくないと願っても、仕方がないと諦められる。 そう、私は、結局それしか、選べない。 「根木にしてあげられること、私にはない。根木からはもらうだけ。根木には、何もあげられない」 私は千尋を捨てられない。 道隆さんに言われて考えて、あの冷たく暗い家を改めて見て、思い知った。 あの家に一人でいる千尋から、目をそらすことなんて、できない。 「………傍にいてくれるだけで、心の栄養にはなるよ?」 「でも、いなくても根木はきっと、平気」 「あら、失恋したらさすがに傷つくわよ」 そう言って笑ってしまえる根木は、大人だ。 どんなに冷たいことを言おうとしても、私に負担をかけまいとする。 そして、根木にはそれぐらいの余裕がある。 「本当に?」 聞き返すと、眼鏡の男は困ったように視線を彷徨わせた。 根木は大人で、優しくて、そして冷静だ。 「いや、まあさすがに寂しいよ?マジで」 「寂しいで、終わるね。それで後は普通になれる」 「それで?」 真剣な顔で、私の反応を窺うようにじっと見つめられる。 一度目を伏せ、大きく深呼吸する。 喉がひきつれてしゃくりあげそうになった。 だめだ、泣くな。 一度ぎゅっと強くつむって涙を止めて、それからしっかり目を開けた。 「………千尋は、出来ないから。あの子はきっと、終われない。冷静になんて、なれない。何をするか、分からない」 「まあ、あいつはマジで清水を殺して俺も死ぬぐらいやりそうだけどね」 ため息をついて肩をすくめる。 私もそれに、ちょっと笑う。 「根木は大人で、優しくて、人の気持ちが分かる、人。あの子は人の気持ちなんて分からない。子供。幼い。我儘。勝手」 どんなに優しそうに見えても、どんなに大人びて見えても、あの子の根っこは駄々をこねる子供。 それがようやく、分かった。 千尋は全然完璧なんかじゃない。 「それに、私も、勝手」 そして、あの子にそこまで無理を強いていたのは私。 幼くいなきゃいけなかった頃に、私を守る大人としたのは、私。 それに気づかず、甘え続けた、勝手な私。 「自分勝手で我儘。だからこそ、あの子なら、私にもしてあげられることある」 それなら、千尋の我儘を、今度は私が聞こう。 あの子が望むなら、傍にいよう。 あの子は、それを望むのだから。 千尋が壊れないように傍にいてあげる。 それは、私でも、出来ること。 「自分を犠牲にしてでも、あの子のためになる?」 根木が馬鹿にしたように鼻で笑う。 ちくりと痛む胸に気付きながら、私も笑いながら頷く。 「そうだね。それもある」 「すごい自己犠牲精神。そんな心の美しい自分に酔う?」 私は居場所が欲しかった。 私を欲しがってくれる人が欲しかった。 そして、ここに居場所が出来た。 「そう。私にもできることがある。私を必要のしてくれる存在がいる。それはとても落ち着く。嬉しい」 根木が眉をひそめて不機嫌そうに続ける。 「安っぽいヒロイズムだね。悲劇のヒロイン気どり?」 「そう。私が主人公。とても気持ちがいい。千尋が私に縋りつく。頼む。それは、とても、気分がいい」 根木がついに降参というように手をあげて、ため息をつく。 机に肘をつき頬杖を突く。 「また突っ走ってない?まだ四日しか考えてない。結論を出すには早すぎない?」 「あんたがくれたこの四日間で、落ち着いて考えられた。違う景色が見れた。色々なことが知れた。多分、これ以上時間かけても、同じことを考え続けるだけ。あっちがいいかも、こっちがいいかもってずっと悩み続ける」 ぐるぐるぐるつ同じところを迷い続ける。 結局いつまでも迷うのだろう、私は。 誰かが答えを出してくれるまで。 誰かが手をとって引っ張ってくれるまで。 そして今度は引っ張った人を、勝手にするなと恨んで怒る。 どこまでも、勝手な人間だ。 だから、今度はそれは出来ない。 それなら、一度出した結論を、一つしかないと思い込むだけ。 それ以外の答えはなかったと、嘘でも信じるだけ。 自分で決めたことだから、自分で責任を持つ。 「それに、これ以上はきっと千尋が持たない」 「………まあな」 苦笑して、根木が一度視線を床に移す。 そして顔をあげ、またまっすぐに私を見る。 「またきっと清水は清水千尋を妬んで、恨むよ?」 「恨む、と思う。また私はきっと千尋のせいにする」 私は迷ってばっかりだから。 これからもきっと迷うだろう。 自分で決めた道だと思っても、千尋がいなければと思うだろう。 根木の手をとればよかったと思うだろう。 「あいつも、清水を信じることなんてないよ。ますます拘束する。自由がなくなる」 「それは、嫌だな。でも、そうなるかも、しれない」 千尋は何度も裏切った私を、信じられない。 私を縛りつけ、囚えようとするだろう。 それでもまだ、飢え続けるだろう。 満たされることは、ないだろう。 「誰も認めない。一生日陰者。人並みの幸せ、なんて望めない」 「…………」 未来なんて、見る暇もなかった。 思い描く余裕なんてなかった。 それでもぼんやりと思っていた将来像は、優しい旦那様にかわいい子供。 そんなものがいつか出来るかもしれない、なんて思っていた。 「傷つけあう。憎み合う。それでも?」 私の選択は、間違っているのだろう。 お互いのために、私たちは手を離すべきなのだ。 もしかしたら千尋も時が経てば、一時の気の迷いだったと思うかもしれない。 けれど、思わないかもしれない。 壊れてしまう、かもしれない。 そんなのは、見たくない。 「………それでも、千尋が私を必要とするなら」 「またきっと悩んで苦しむよ」 根木の顔をじっと見る。 眼鏡の奥の好奇心に満ちた目は、どこか突き放されているようで、でも、落ち着いた。 いつだって軽い口調は、私の心も軽くしてくれた。 「根木は、私に明るいところを見せてくれた。連れて行ってくれた」 「うん?」 「私はあんたが欲しかった。あんたの持つ、温かいものが欲しかった。一緒にいて、明るい所に引っ張って行って欲しかった」 「君が望むなら、どこまでも」 そう言ってふざけて言うあんたに、どれだけ癒されたか分からない。 軽く見せた言葉の裏に、どれだけ優しさが含まれていたか、分からない。 「ありがとう。でも、それだと今までと一緒。私は千尋にもあんたにも甘え続ける」 「前に言ったように、別にいいのに。彼氏に甘えるのは普通だよ?」 「私がいや」 そして私はそんなあんたに依存する。 これまで千尋に依存したように、私は自分の全てをあんたに委ねる。 私はまた、自分で何も決められなくなる。 もらうだけの、存在。 「私は、あんたが欲しかった。根木が、欲しかった」 根木が、眩しかった。 根木の持つものが、欲しかった。 根木が好きだ。 こんなにも、胸が締め付けられる。 だからこそ。 私は、なんとか表情を動かし、笑う。 うまく、笑えているか、分からないけれど。 「だからね、今度は私が根木になる」 「へ?」 根木が珍しく本当に驚いたように、口をぱかっと開ける。 それが面白くて、頬がかすかに緩んだ。 「私が、千尋を明るい所に、連れて行ってあげる。千尋に温かいものをあげる。無理かもしれないけど、私があんたみたいに優しい存在になりたい」 私が、できること。 私が、ほしいもの。 私が、したいこと。 私も与えられる、人間になりたい。 「私は、根木になりたい」 根木といると温かい気持ちになれる。 根木といると、落ち着ける。 根木が、大好きだ。 千尋を選んだ今だって、こんなにも胸が締め付けられる。 根木は開けたままの口を、ロボットのようにたどたどしく動かす。 小さな声は、かすれていた。 「………は、んそくだな」 「ごめんね。こんなにあんたに世話になって、振り回して、美穂さんにも道隆さんにも迷惑をかけた。それなのに、こんなに恩知らず」 例え根木の感情が同情だろうと、好奇心だろうと、千尋よりも私が必要じゃなかっとしても。 好意を裏切る。 優しさを捨てる。 それは、私だったら、辛い。 苦しい。 でも、それをするのは、私。 優しい男の手を振り払うのは、私。 「ふられちゃった」 先ほどの呆けた表情はすっかり消して、根木はいつものようにおどけて見せる。 私に負担がないように、そんな風におどけて見せる。 優しい人。 愛しい人。 「うん。私は、あんたを、ふる。でも、あんたが好き。私はきっとずっと、あんたが好き。きっとこれが恋なんだと、思う。よく分からないけど。あんたに嫌われても、私はきっとあんたが好きだし、憧れ続ける」 千尋に向けるものよりも、この感情が恋は近いだろう。 私は馬鹿だから、自分の感情もよく分からないけれど。 それでも根木とキスをしても抱きしめられても、私はきっとそれを嬉しいと感じるだろう。 千尋よりもずっと、喜びを感じるだろう。 「ふる人間にそういうこと言っちゃ駄目だよ。いつまでも付きまとわれるよ。ふる時はきっぱり行かなきゃ」 根木は、やっぱりいつものように胡散臭く笑ってみせる。 優しい、大人な人。 やっぱり、これでいい。 この人は私にはもったいない。 だから私も笑ってみせる。 「じゃあ、あんたなんて嫌い」 「うわ、きっつい」 傷ついた、と言って胸を抑える。 笑いながら、泣きそうだった。 胸いっぱいの感情の、名前は一体なんなのだろう。 苦しくて温かくて、冷たくて、悲しい。 「まあ、この前はあんな意地悪言ったけど、俺はこれからも清水の傍にいるよ」 「………」 「友達としてね」 「………どうして?」 「見ていたいから」 「何を?」 「清水姉と、清水弟を」 根木の言いたいことが分からず、私はただ立ちすくむ。 眼鏡の男は、好奇心を湛えたまま意地悪そうに笑う。 「何度も言ったよね。俺は永遠なんて信じていない。ガキの恋愛なんて、あっという間に現実に押しつぶされる。清水姉弟も、きっとそのうち現実にぶち当たって、壊れる」 未来なんて、分からない。 どう考えても、私が行こうとしている道は、真っ暗。 きっと、根木の言うとおり。 「俺はそれを期待して、第三者として見物したい」 「………悪趣味」 「あれ、知らなかった?」 驚いたように言われて、吹き出してしまう。 そして頷く。 「知ってた」 わざわざ、私たちに関わるくらいだ。 これほど悪趣味な男もいない。 「ごめんね」 「謝られるとへこむからやめて」 軽い根木の言葉に、熱い感情が胸を突く。 もう、我慢できなかった。 熱いものが、目にこみあげ、そのまま頬を伝っていく。 「………ありがとう、ありが、とう」 「うん」 「ありがとう、ありがとうありがとう、ありが、と………っ」 一度溢れだしたものは、もう止まらない。 泣く権利なんてないのに。 泣いて同情を買おうとするつもりか。 どこまでも、卑怯。 私は全く成長しない。 涙が止まらなくて、しゃくりあげながら何度も何度もお礼を言う。 根木はきっと音をたてて椅子から滑り降り、私の前まで来た。 そして、頭に大きな手がおかれる。 大きくて、優しい手。 私は抱きしめてもらうことを、期待した。 この胸で慰められることを、望んだ。 けれどもうそれは、出来ないのだ。 その気持ちよさを享受することは、もうないのだ。 分かってはいたけれど、改めて思い知る。 すでに後悔している。 根木の腕を欲しいと心が叫ぶ。 この人を失いたくないと、抱きつきたいと訴える。 けれど、なんとかそれを押しとどめる。 一歩後ろに下がって、そっと根木の胸を押して遠ざける。 「………」 根木は最後にもう一度ぽんと頭を叩いて、自分の部屋から出て行った。 パタンと音を立てて閉まるドアが、酷く寂しく、切なくて、悲しかった。 ああ、これで、とうとう。 私は、根木を失った。 |