弱々しく崩れ落ちる弟に、私はまた一歩近づいた。
もう、すぐそこに、千尋がいる。

「馬鹿な千尋。それなら、一緒にいてあげる」

苦い感情と共に笑いながら、諦めと共に告げる。
千尋は目を見開いて、私を見上げる。

「………は?」

その呆けた声が情けなくて、笑ってしまった。
その柔らかい私によく似た質の髪に、手を這わす。
びくりと千尋の体が小さく震える。

「私は、一生、あんたをあんたと同じようには好きになれないかもしれない」

この感情は、きっと恋ではない。
千尋が私を求めるほどの熱さも強さもない。

泣いて私に縋る、千尋。
弱々しく頼りない姿を見せる、完璧な弟。
それを見た時、全身が粟立つほどの感情を覚えた。
それは、紛れもなく優越感。
誰もが欲しがる千尋が私を欲しがる。
完璧な弟が、出来そこないの私に縋る。
そんな打算と優越感。

「姉弟としてしか、愛せないかもしれない」

違和感と罪悪感は、変わらずそこにある。
きっと陽の光がずっと眩しく感じる。
外に出るたび、自分が汚く感じるだろう。

「私はきっとあんたを妬む。恨む。憎む。何度でも何度でも」

両親に構われるあんたを見て、妬む。
私を暗い道に引きずり込んだあんたを憎む。
それは何度打ち消しても、きっとまた蘇る。

「あんたも、私を疑う。恨む。憎む。きっと、何度も」

そして千尋は私を何度も疑う。
人と話す私を見て、いつまでもあんただけ見れない私を見て。
苦しくて、辛くて、憎むだろう。

「苦しいと思う。誰にも言えない。ただ暗い」

相談できる人もいない。
祝福してくれる人なんてもちろんいない。
私たちは人の目に怯える。

「それでも、いいの?」
「………そんなの、とっくに、覚悟が出来てる」

思った通りの言葉。
あまりにも迷いのないそれに、口の中の苦みが増す。

「そう」

私は、千尋の前にしゃがみこんだ。
二重の大きな瞳は、小さなころから変わらない。
私を守ってくれていた、弟だ。

「じゃあ、私も、覚悟する」

だから笑った。
苦さと共に、温かさが溢れていく。
幼くみっともない弟が、愛しい。

「私は、あんたに優しくしてあげたいって思った。愛しいって思った。私は、千尋と、そして根木に」

根木の名前を出した時、千尋は眉をわずかに顰めた。
それに気にせず、私は自分の胸に手を置く。
そこには温かく、確かなものが、ある。

「温かいもの、もらった。優しくしてもらった。だから今度は私が優しくする」
「………真衣ちゃん」
「電気をつけて、ご飯を作るよ。一緒にご飯を食べよう。一緒に出かけよう。楽しい会話、しよう」

千尋が今まで私に与えてくれていたもの。
根木が私に教えてくれていたこと。
それを今度は、私がしよう。

「私、受験だし、元々性格悪いからうまく出来ないかもしれない。でも、あんたに優しくしたい。あんたに温かいものあげたい」

冷たく凍えるこの家で、一人震えるあんたを、温めよう。
あんたが私を守ってくれたように、今度は私があんたを守ろう。

「千尋に、笑っていてほしい」

千尋は、途方にくれたような顔をしていた。
頭を撫でると、くしゃりと顔を歪める。

「だからね、あげる。私をあげる。あんたが望むなら私は一緒にいるよ」

何度後悔しても、傍にいよう。
そう、決めたのだから。
離れたら、きっともっと後悔することは、分かるから。

「でも一度決めたら、今度は私がまたあんたを手放せなくなるかもしれない。あんたが離れたいって思っても、今度は離れられないかもしれない。暴れて縋りつくかもしれない。大丈夫?」
「………う、ん………うん」
「それと、私は友達が欲しい。根木とだってこれからも話したい。外の世界を見たい」
「………」
「きっと千尋は、苦しむと思う。それでもそれは譲れない」

私たちはお互いだけを見すぎている。
千尋はそれでいいと言い切るだろう。
幼い頑なな強さ。
けれど、それは力を入れたら。折れてしまいそう。
私は、たとえ乱暴に扱われても壊れない、柔軟なしなやかさが欲しい。

「私たちは、一つのものじゃない。一緒にはなれない。いつだって現実がそこにある。二人だけの世界になんて、いけない。私たちは世間と折り合いをつけて、生きていかなきゃいけない。ずっと一緒にいたいなら、余計に」

私は弱いから、現実にすぐに負けそうになる。
陽の光を浴びて、暗い闇を捨ててしまいたくなる。
だから、もう少しだけ、強くなりたい。
あんたからもう、逃げ出さないように。

「私の考えがあって、千尋の考えがある。だから、すれ違う」

恨み合う、憎み合う、傷つけあう。
でも、それでも。

「でもね、だからこそ、こうやって、隣にいれる。抱きしめられる」

頭を抱くと、千尋は私の肩に顔を押し付けた。
恐る恐る、私の背中に手を回す。
小さいころから、ずっと傍にいた。
懐かしい匂い、懐かしい柔らかい腕。
薄い布地ごしに、熱い吐息を感じる。
弱々しく私の背中を掴む手に、愛おしさが溢れそうで、その頭を背中を強く抱いた。

「ね、千尋」

名を呼ぶと、千尋はぎゅっと手に力を込める。

「私たちは、二人で、少しづつ、明るいところへ行こう。一緒に行こう。何度憎んでも恨んでも、また許して、好きになろう」

たとえそれが不可能だとしても。
そんな未来がないのだとしても。
それでも、語ることは許されるだろう。

「ずっと一緒にいるから。千尋と一緒にいるから」
「うん、うん、真衣ちゃん。ずっと一緒にいる。ずっとずっと、離れない。あんたがいない世界なんて考えられない。永遠に、あんたと一緒にいる」

千尋の言葉に、思わず笑ってしまった。
顔は見られていないから、気付かれていないだろう。

永遠を頑なに信じる千尋。

私は、永遠なんて信じていない。
だから、千尋の言葉は滑稽に感じる。
優秀な弟は、なんて馬鹿なことを言っているのだろう。
なんて幼くて、なんて愚か。
その若さゆえの熱情のようなものを、恥ずかしいとすら感じる。

「大好きよ、千尋」
「好き、好きだよ、真衣ちゃん、ずっとずっと、好きだった」

けれど、しがみつく千尋の手が、愛しい。
その滑稽な一途さが愛しい。
一途と言うよりも狭窄的な考えの稚拙さ。

「ずっと、一緒にいる」

それでも、千尋のその感情を信じたいと、思うのだ。



***




ねえ、千尋。

私は馬鹿だから、いつか幸せになれると信じていた。
けれど馬鹿だから、愚かな選択しか選べなかった。

これは恋じゃない。
これは愛じゃない。
私たちはいつだって、終わりを目の前にしている。

私の感情は、打算と同情と優越感。
千尋の感情は、幼い盲目の執着。
どんなに取り繕っても、私たちは自分勝手。
壊れた感情を、綺麗なもので覆ってしまう。
目を逸らしては、甘く酔う。

安いヒロイズム、その通りだね根木。

それでも、馬鹿な姉に、馬鹿な弟。
二人でいれば、いつかどこかへ辿りつけるだろうか。

私は馬鹿だから、まだ夢を見る。
いつか二人で、明るく温かい所で。



一緒に笑う夢を見る。


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