「あ……」

怖い。
怖い、怖い、怖い怖い怖い。

何が怖いのか分からない。
ただ、怖い。
心臓がきりきりと痛む。
指先から体温が失われていくような錯覚に陥る。
喉が引き攣れて声が出ない。

左右を見渡して逃げ場を探す。
けれど辺りは茂みに囲まれ、
目の前の校舎へと続く道は、恐怖の対象で塞がれている。

私は混乱した頭を抱えたまま、どこにもいけずに急いで男と反対方向に向かう。
座っていたベンチを乗り越え、スカートがまくれるのもかまわず駆け出す。
そこには茂みが広がるばかり。
茂みを越えたってフェンスしかないと理性は告げているのに、そんなのに構ってられない。
走り出そうとして、根っ子に捕まって前に転げる。
私は無様に四つんばいになったまま、茂みに頭をつっこむ。
とにかく、怖くて怖くて、ただ目の前の男から隠れたかった。

「ぶ」

そんな声が聞こえた気がしたけど、私は気付かないまま震えていた。
歯がかみ合わなくて、ガチガチと音をたてる。
避難訓練の時みたく、頭を抱え込んで小さくなる。

怖い、怖い、怖い。
この男が、怖い。
いつも明るく笑ってくれた、この男が怖い。
いつも優しい言葉を惜しみなくそそいでくれた、この男が怖い。
温かいものをいっぱいくれた、この男が怖い。

この男が、私を拒絶するのが、怖い。

「ぶはっ、パンツ見えちゃうよー、清水さーん。つーかその逃げ方やめてよ、シリアスなシーンなのに、笑っちゃうじゃん!」

いつもと変わらないように聞こえる声。
笑いを含んだ、軽い調子の声。
それなのに、こんな怖い。

はっきりと私を罵る言葉を聞きたくない。
軽蔑した目で見られたくない。
突き放されるのが怖い。

見たくない。
知りたくない。
だから、どこかへ行ってほしい。
どこかへ行きたい。
逃げたい。

「しーみずさーん?」

返事ができないまま、頭を抱えてもっと小さくなる。
そうすれば、嫌なことから逃げられるというように。
大きく息をつくのが聞こえた。
そんなかすかな声にも、体が大きく震える。

「どーんなに上手に隠れてもー、かわいいお尻が見えてるよ、だっけ」

その言葉とともに、腰がつかまれた。
振り払う隙もないまま、優しい手に力が篭もる。

「よっと」

掛け声をかけて、まるで畑から引っこ抜かれるようにズボッと効果音がしそうなほど簡単に茂みから引きずり出される。
その勢いのまま、私は後ろに倒れこんだ。
力強い腕に支えられ、後ろの男に抱え込まれるように座り込む。

恐怖が頂点に達する。
怖くてたまらない。
この優しくて、力強くて安心する腕が、いつ私を傷つけるものになるのだろう。
知りたくない知りたくない知りたくない。

「いや、やっ!はな、離してっ、や、いや!!」
「だ、ちょ、清水暴れないで、おい、ちょ、こら、痛い、普通に痛い」

手足を動かして、何とかその腕から逃れようとする。
暴れた手足が後ろの男に何度も当たる。

けれど男は怒ったりせずに、そっと、抱きしめられた。
何度も抱きしめられたことがある、力強い腕。
埃と、汗の匂い。
太陽の匂い。

その匂いを嗅いだ途端、恐怖の代わりに違う感情が溢れ出てくる。
胸が詰まって、涙が出てくる。
自然と力が抜けて、抵抗する手足もだらしなく投げ出される。

どれくらいそうしていただろうか。
耳元にそっと吐息に乗せて囁かれた。

「……落ち着いた?」
「……………」

走り出したいほどの焦燥と恐怖は過ぎ去っていた。
残っていたのは、ただ空虚感。
私は、本当に、この腕の主を失ってしまったんだという現実。

失いたくなかった。
大事だった。
だからこそ、手を取れなかった。
いつか、この手がなくなるのが、怖かった。

そして、千尋をとった。

ただ、涙が溢れてくる。
それ以外選べなかった。
それでも強欲な私は、この腕を惜しんで涙を流す。

ふっと、大きくため息をついてから、変わらない明るい声が鼓膜に響く。

「いやー、そんな全力で逃げられるとは、さすがにびっくり」
「………」
「でも清水、かくれんぼの才能ないよね、ていうかあれは隠れてないよね」
「………何しに、来たの」

いつものようにふざけた軽口を叩く男を遮る。
いつもと変わらない様子が余計に苦しかった。

「何って?」
「恩知らずな女を殴りにきたの?文句を言いに来たの?バカにしにきたの?」

言い切って身構える。
何をされても、傷つかないように。
私が裏切ったのだ。
私が傷つく権利はない。

後ろの男が一瞬、息を呑んだ。
その後に思わず耳が痛くなるほどの大音量が響く。
大きな笑い声が。

「あっはははははは!そうくるんだ!いやー、相変わらず根暗だなー!清水!」
「…………」

表情は見えない。
けれど、その笑い声に皮肉などなく、心からのものに聞こえる。
私の体を抱えたまま笑うから、私の体でゆすられる。
耳元で、耐えられないほどの声が響く。
たまらず私は声をあげる。

「根木!」
「あー、ごめんごめん、悪気はないのよ」
「………」
「………いっそ、それくらい出来たらよかったね」

それは、聞こえないほどの小さな声。
なんだか根木らしくない苦味を感じられて、つい聞き返してしまう。

「え?」
「なんでもないなんでもない、俺が来たのはね、清水」

けれど問いかけはあっさりと流された。
ぎゅっと体に回された手に力が篭もる。
トーンを落とした声は、思いのほか真剣みを帯びていた。
だから身構えたのに、次の瞬間帰って来たのは全く予想もしなかった言葉。

「勿論、清水真衣と仲良くなって、清水千尋に嫌がらせするためさ!」
「…………は?」
「一石二鳥なナイスプランだろ!さすが俺!」

そんなふざけた言葉。
相変わらず、どこから本気でどこまでふざけているのか分からない。
真意を読めない、けれどどこか納得してしまう説得力にあふれた、言葉。
くすくすと笑う声は、本当に楽しげで。

「俺はね、清水真衣、いつも言っていたように」

首を回してようやくあわせた視線。
男は眼鏡の奥の細い目に、いつものように好奇心をたたえて笑う。
どこか意地の悪さが滲む子供のような無邪気な顔で。

「一生一緒にいられるなんて、信じてないんだ」





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