「どういう、こと…?」 私の問いかけに、根木は相変わらず笑うばかり。 いつもは安心するその腕が、途端に不安なものに感じる。 「根木…?」 「ねね、清水」 根木は私の問いには答えず、私を抱く腕に力をこめた。 柔らかい千尋の抱擁とは違う、変わらない力強い腕。 「清水は、俺にこうされるの嫌い?」 「え?」 「こんな風に触られるの、やめてよして触らないで垢がつくから!とか思っちゃう?」 突然の問いに、何を言っているか分からず咄嗟に言葉が出てこない。 根木に触れられるのは、嫌いではない。 この人の温かく力強い腕は、いつだって私を安心させてくれた。 この人が私を好きだというのが、心地よかった。 薄暗いこの裏庭で二人でいることが、何よりも落ち着いた。 ようやくできた、大切なものだった。 私は千尋を選んだのに、それでもこんなにもこの男を惜しむ。 この温もりを離したくなくなってしまう。 最低な女。 どうしようもない女。 だから、根木の問いかけに答えは返せない。 返せるはずが無い。 きっと根木も、私を軽蔑しているはずだ。 「……」 「嫌い?お前なんてあっちいけ!触るな、顔も見たくないって思う?」 「………あ……」 そんなはずがない。 そんなことがあるはずがない。 私を好きだと言ってくれた人。 一時でも、ずっと一緒にいたいと願った人。 たとえこの男が私を嫌っても、私がこの男を嫌うはずがない。 「別にそこまで考え込まなくていいよ。思ったとおりに言って。何を言っても、俺は驚かないし、清水を嫌いになったりもしない」 「…………でも」 「そんな構えなくてもいいって。ほらほら、素直に吐いたほうが楽になれるぜー」 相変わらず男の言葉はふざけていて、軽い。 でも促す言葉と私を拘束する腕は執拗だ。 胸が詰まって、息ができない。 苦しい。 「……嫌い、じゃ、ない…」 だから、私はそう言ってしまった。 それはきっと、言ってはいけないことだったのに。 この男の腕にも、温もりにも、嘘をつくことができない。 私は、弱い。 「でっしょー。そうだと思った!清水は俺のこと好きだもんねー」 けれど、根木はその言葉を聞いて細い目がなくなってしまいそうなほどに笑った。 その笑顔に、心臓が何かが刺さったように痛くなる。 「でも………私は………」 「清水千尋を選んだ?弟との、泥沼道をね。分かってるってば、それくらい」 後ろから、わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でられる。 あまりにも変わらない態度に、分かってないんじゃないかと思った。 私は、千尋を選んだ。 このどこまでも優しい男を裏切って、違う手を取った。 逃げろと言われていたのに、逃げ切れなかった。 そう、この聡い男が知らないわけがないのに。 根木の行動が、分からない。 「なら、なんで…」 「でも、ね、清水、不安でしょう。あんな出来杉君なモテ男で、しかも弟。何がどうあっても、幸せになれないと思わない?」 背筋に冷水をかけられたように、ゾクリとする。 そんな話は聞きたくない。 そんなものは見たくない。 「…………根木……」 幸いなことに、根木はそれ以上言葉を続けなかった。 一旦拘束していた手を放し、向かいに座りなおす。 私の前にしゃがみこむと、その大きな手で私を両手を包み込んだ。 フレームのない眼鏡の奥の目は、相変わらず子供のように好奇心に満ちている。 「ねね、清水。俺のことキープしとかない?保険保険、もしもの時でも大丈夫!安心生涯設計!」 「何を、言ってるの…?」 「いやね、ちょっと自分の人のよさに将来が心配になってきたから、ここらで一発アグレッシブに攻めてみて、キャラ設定変えようかと思ってさ」 「……根木?」 「こっちの話こっちの話。要は、清水を諦めたくないってこと」 「……意味が、分からない」 混乱する私と、根木は真っ直ぐに視線を合わせる。 笑っているけれど、思いのほか真剣な低い声。 「清水が好きってことだよ」 「…でも、根木、違う、それは…、それは違う…」 そんなことは、許されない。 これ以上、この男に寄りかかるわけにはいかない。 何を思ってこんなことを言うのか、根木の考えていることがさっぱり分からない。 私が千尋を選んだことを、知っているはずなのに。 「君が誰が好きでも、俺は君のことが好きだよ。ってなんかドラマぽくね?今の俺ちょっとキュンとこなかった?」 「……ストーカーぽい」 「ぐは!」 あくまで茶化す根木に、つい私も素直に返してしまう。 私の言葉に、根木は胸を押さえてオーバーなリアクションをとる。 「ひどいなあ……」 「………」 んー、と考え込むように少し首を傾げる。 本当に変わらないふざけた仕草。 握られている手は、少し汗ばんできた。 なんだか怖くて、逃げ出してしまいたい。 「ねえ、清水、俺とキスしたの嫌だった?」 「え…」 「俺と、えっちするのとか、嫌じゃなくない?たぶん」 そんな生々しい想像なんて、したことはない。 ただ、キスするのは、嫌ではなかった。 心地よくて、ドキドキして、安心した。 「嫌じゃないと思うんだよね。清水俺のこと好きだし」 少しだけ声をひそめ、笑いを消す。 そして、私の挙動の一つも見逃さないよう鋭く見据える。 それに気圧され、私は少しだけ身を引くが、次の言葉に頭が真っ白になった。 「でさ、それを、清水千尋とするのはどうなの?」 「根木!!」 それを突きつけられたくない。 あの薄暗く閉ざされた空間ではない、陽の当たる場所で。 しかも、この男に。 歪で醜い、私が浮き彫りにされそうな恐怖。 「そんな泣きそうな顔をしないで、清水。ごめんね、いじめすぎた、ごめん」 声を上げた私をなだめるように、背中を優しく撫でる。 寒くも無いのに体が震える。 それを押さえ込むように、強く抱きしめられた。 「ねえ清水、清水が弟君を選らんだのは、なぜ?」 千尋が私を欲しがってくれたから。 ずっと一緒にいてくれると言ったから。 1人には、なりたくなかったから。 「清水は、清水千尋が好きなの?」 千尋は、好き。 愛おしい。 ずっと傍にいてほしい。 いつまでも、一緒にいたい。 私は、千尋を選んだのだ。 「真衣ちゃん」 「千尋……」 帰りに、教室から出ようとすると誰よりも見慣れた姿があった。 その姿を見て、安心すると共に脳裏に根木の言葉が蘇る。 『清水は、清水千尋が好きなの?』 呼吸がうまくできなくなって、しゃっくりのように喉が引き攣れた。 それに気付いたのか、千尋が不思議そうに首を傾げる。 「どうかした?なんか顔色が悪いよ」 「あ……大丈夫、何もない」 動揺を押し隠そうとして、緩く頭を振った。 弟が近づいてきて、顔を覗き込まれる。 「そう?」 「うん、平気」 それでもまだ納得していなかったようだけれど、肩をすくめて引き下がった。 長く繊細な指で私の頬を撫でる。 ざわざわとして、落ち着かない。 「ならいいけど。何かあったら言ってね」 「うん、それでどうしたの、千尋」 早く会話を終わらせたくて、ここに来た目的を聞く。 私が嫌がっていたから千尋が私の教室に来ることなんて、今までなかった。 千尋が来たことによって、教室内の注目を集めるのが嫌だった。 何よりも今は。 教室にいる人の視線が気になって、弟の腕を引っ張って教室から離れた。 「どうしたの、突然」 「あ、今日俺部活で遅くなるから」 「そんなの、いつものことじゃない、なんでわざわざ」 「だって、真衣ちゃんの顔が見たかったから」 臆面も無くにこにこと笑ってそんなことを言い放つ。 余りにもどうでもいい理由過ぎて、言葉が出てこなかった。 千尋が遅いなんていつものことで、私は気にもしていなかった。 「ご飯、待ってて。一緒に食べよう。今日は母さん達帰ってるかもしれないけど」 「……先に食べてて、じゃないの?」 「だって一緒に食べたいし」 こんなことも、今までの千尋は言わなかった。 いつだって、私の意志を優先させ、私の行動に指示なんて出さなかった。 まるで甘えるような、子供っぽいワガママ。 完璧な優秀な弟の、知らなかった姿。 「千尋……」 「何?」 それでも無邪気に私の呼びかけに笑うから、私は何も言えなくなってしまう。 だから私もぎこちなく微笑み返す。 「……なんでもない。ご飯、待ってる」 「うん」 千尋は愛おしい。 ずっと一緒にいてほしい。 傍にいて欲しい。 私は千尋が好きなのだ。 |