家に帰ると、母親がいた。
なんだか、久しぶりに見た気がする。
フラワーアレンジメントだかなんだかをしていて成功しているらしい母親は、自分の仕事場に篭もったまま家に帰ってこないことなんてしょっちゅうだ。
出張が多い父親は、もっと家に帰ってこない。
家族全員が顔を合わせることはほとんどない。
二人の話がどこまで本当かは知らないけれど。
もう私が中学生に上がったぐらいの頃から、二人の不在は当然のもので、逆に家にいる方が違和感を感じた。

昨日まで、千尋と二人でいた家だ。
二人だけで、二人の世界だった家だ。

わずかな、異物感。
不快感。
いっそ、ずっと帰ってこなければいいのに。

「……ただいま」
「あら、おかえり。ご飯食べる?」
「…千尋が帰って来てから、食べる」
「そう」

リビングの絨毯の上に座っていた母親が、テレビから一度目を離し、問う。
本当に珍しく食事の用意なんかもしているらしい。
ダイニングには、ラップがかかったお皿が見える。
いつもは帰っていても、料理なんてしないくせに。
だから、つい、その背中に話しかけてしまった。

「どうしたの?」
「何が?」
「今日は、早いね」
「仕事が早く終わったから。荷物も取りにこなきゃいけなかったし」
「今日はこっちにいるの?」
「そうね、今日はこっちに泊まるわ」

それきり、会話は終わり。
テレビに向けられた視線はこっちに向くことはない。
私はこの人に何を話したらいいのか、分からない。
どう、接したらいいのか分からない。
あの時から、ずっとずっと分からないままだ。

義務だけで、私に接している人。
私に、興味のない人。

千尋は普通に会話ができるのに。
本当は、千尋も父も母も、好きではないようだけれど。
それでも、笑って会話ができる。
それを、私はずっと遠くから見ていた。

口の中が苦くなってくる。
もやもやとした、言葉にできない思いが胸にわだかまる。
これ以上考えたくなくて、頭をふると思考を散らす。

自室にいよう。
千尋が帰ってくるまで、部屋の中に閉じこもって勉強でもしよう。
今年は受験なんだから、勉強をしなければ。

ああ、そうだ、申し込んでいた予備校にお金を払わなければいけないのだった。
その話を、母親にしなければいけない。
特に何も言わないだろうけど、説明はしなければいけない。
でも、話をするのは、嫌だ。
おざなりに、どこを受験するのか、なんて聞かれるのは嫌だ。
興味がないのに、頑張って、なんていわれるのも嫌だ。
千尋が帰ってからにしようか。

ああ、でも、千尋と比べられるのは、何よりも嫌だ。
あの出来のいい弟比べられるのは、いやだ。

どちらがより嫌かを考えて、比較されるよりは興味なく流されるほうを選んだ。
千尋の前で馬鹿にされるのは、耐え難い。
弟が帰ってこないうちに、済ませてしまおう。
私は深く息をつくと、その細い背中に話しかけた。
この人に話しかけるのは、緊張する。

「…お母さん」
「なに?」

こちらを向く、家の中でも綺麗な洋服を着て、化粧をしている母。
いつまでも若々しくて綺麗な人。
潔癖症で、完璧主義で、どこか冷たい。
千尋は、この人に似ている。

「受験のために、夏期講習から予備校に行きたいの。お金、ちょうだい」
「ああ、そういえばあんた3年生だったっけ」

忘れていた、となんでもないように言う母。
分かっていたはずなのに、黒いものが広がっていく。
分かっていたのに、どうしてこんなことで失望するのだろう。
まだ、希望を持っているのか、私は。
なんて、本当に馬鹿なんだろう。

この人が私をなんとも思ってないなんて、知っていたじゃないか。

「分かったわ、いくら?」

私は入学費、授業料、夏期講習代を合わせたお金をつげる。
共働きで収入は人並み以上にあるうちは、お金に関しては割と無頓着だ。
私と千尋が特に無駄遣いをすることもないせいだろう。
母親は何も疑問を挟まず頷いて、用意をするといった。

「どこうけるの?」

2.5流ぐらいの、短大の名前を3つほど告げる。
母親は聞き覚えがなかったのか頭を傾げるが、それ以上はやっぱり聞かなかった。

「そう、頑張ってね」
「……うん」
「あんた、千尋と違って勉強できないんだし、仕事も特にないだろうし、女子大でいい男でも見つけなさいよ」

きっとそれは冗談なんだろう。
だって母は笑っている。
それはきっと、冗談。
いつも全然しゃべらない母と、珍しく続いた会話。
母は、笑ってる。

「そう、だね」
「いつまでも、弟にべったりじゃだめよ」
「え………」
「弟なんて、ずっと一緒にいられないんだからね」

頭が熱くなった。

私と千尋のことなんて、何も知らないくせに。
ずっと見ていなかったくせに。
これまで、ずっとずっと、何も言わなかったくせに。

その綺麗な顔を押さえつけて、黙らせたかった。
これ以上、この人の言葉を聞きたくなかった。
いつもは放っておいてるくせに、いきなり親のような態度をするな。
私と千尋の中に入ってくるな。
分かったような口を聞くな。
千尋は、ずっと私の傍にいてくれるんだ。

そう言いたかった。
そう言って、ひっぱたきたかった。

でも、何も言えない。
喉が引き攣れて、言葉が出てこない。
綺麗な母が笑っている。
千尋によく似た二重の目が、機嫌よさそうに細められている。

「小さい頃から、あんた、千尋にしか懐かないし、千尋もあんたの世話見てばっかりだし。私や父さんより、二人でいたほうが多かったわね」

くすくすと笑っている。
ああ、その柔らかい笑い方も、千尋とそっくりだ。
目元も、口も、そっくりだ。
血がつながっている。
この人と、千尋は紛れもなく親子だ。
そして、私も同じ血が流れている。

弟。
千尋は弟。
そう、弟だ。

そうだ、姉弟は、ずっと一緒にいられない。
弟なんて、ずっと一緒にいられない。
いたら、おかしい。
千尋とは、一緒にいられない。
千尋とは、いつか別れなければ、いけない。

でも、千尋は、ずっと一緒にいてくれると、言った。
その言葉を、信じたじゃないか。
だから、私は。

母はやっぱり笑っている。
久々の娘との会話を、楽しいと思ってくれているのだろうか。
じゃあ、私も、笑わなきゃいけないだろうか。
ここは笑うところなんだろうか。

「あ、はは」
「小さい頃から、あんたたちべったりだったからね」
「……うん」
「本当にブラコンなんだから」

ブラコン。
いつか、根木にも言われた。
そんな言葉にしてしまうと、ひどく簡単に感じる。
この弟に対する、歪んだ執着をその言葉で片付けていい訳がない。

母に他意はない。
そのはずだ。
そのことに気付くほど、この人は私に興味はない。
でも、胸をえぐられて、逃げたしたくなる。

私達は家族なんだ。
弟なんだ。
血がつながっているんだ。

忘れようとしていた不安が、一気に身を覆う。
押さえ込んでいた恐怖で、その場に座り込みそうになる。

千尋と二人きりでいれたらよかったのに。
他の人間なんて、入ってこなければよかったのに。
ずっと世界に二人きりったらよかったのに。
千尋だけを見て、千尋の言葉だけを聞いて、千尋だけを信じていられるのに。

もう、ここにはいられなかった。
私は平静を装って、なんとか笑顔を作る。

「あ、わ、私、部屋で、勉強してくる」
「うん、頑張ってね」

本当にいつになく、母は機嫌がよくて、にっこりと笑って手を振る。
だから、私は思ってしまった。
それが、少しだけ嬉しいと思ってしまった。
私に、向けられた笑顔が、嬉しいと、少しだけ思ってしまった。

リビングから逃げるように、早足で綺麗な人に背を向ける。
もう何も聞きたくない。
もう何も見たくない。

私を守ってくれる、ただ1人を呼び続ける。

千尋。
千尋。
千尋。

千尋。





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