「真衣ちゃん、どうしたの?ご飯、食べないの?」

柔らかく通りのいい声が聞こえて、ベッドが軋んだ。
ベッドに潜り込んではいたけれど、眠ってはいない。
だから千尋が帰宅したのを気づいてはいたけれど、下に降りる気がしなかった。

母と顔を合わせたくなかった。
母と、弟と一緒にいる自分を、見られたくなかった。

「……お母さんは?」
「下にいるよ。本当にいるし、あの人。帰ってこなくていいのにね」

それは、どこか刺のある声色。
今はもう、私の前で両親への毒を隠そうとはしない。
もしかして、以前から隠してはいなかったのだろうか。
私が、気付いていなかったのだろうか。

私は、千尋のことなんて、何もわかっていなかったんだから。

「……真衣ちゃん、あの人に何か言われたの?」

毛布に顔を伏せたままの私の背をなでながら、平坦な声で問う。
その言葉に、先ほどの母の言葉が脳裏に鮮やかに蘇る。

『弟なんて、ずっと一緒にいられないんだからね』

だから、一瞬、体が震えてしまった。

「…………」
「……本当に、邪魔な人だな」

そんな私の反応に千尋は何を感じたのか、苦々しくつぶやく。
その声が怖くて、私は咄嗟に顔を伏せたまま首を横にふる。

「違う…、何も言われてない」
「真衣ちゃん、別に隠さなくてもいいよ」
「違う、本当に何も言われてない」

千尋は、困ったように溜息をつくと私の頭をなでた。
ベッドが軋む音がして、毛布から出ていた耳に、吐息がかかる。
柔らかい声が直接吹き込まれ、背筋にぞくりと寒気に似たものが走った。

「じゃあ、どうして出てこないの?」
「……」
「真衣ちゃん、顔を見せて」
「……やだ」

絡みつくような千尋の声から逃れるため、さらに毛布にもぐりこむ。
もう夏に近づきつつあるけれど、クーラーの効いた室内は寒い。
寒くて、寒くて、たまらない。

『清水、不安でしょう。あんな出来杉君なモテ男で、しかも弟。何がどうあっても、幸せになれないと思わない?』

眼鏡の男の、常にない意地悪そうな言葉が聞こえる。
いつも優しい男の、生々しい傷をえぐりだすような、言葉。

いやだいやだいやだ。
寒い寒い寒い。

聞きたくない。
見たくない。
知りたくない。

私は千尋を選んだ。
千尋以外、いらない。
千尋といられれば、いい。

千尋が、ずっと一緒にいてくれればいい。
それ以外のことなんて、どうでもいい。

「真衣ちゃん、どうしたの?寒い?クーラー消そうか」

震えているのが伝わってしまったのか、気遣わしげな弟の声。
泣きたくなるくらい、懐かしくて優しい声。

「……千尋」

出る声は、笑ってしまうほど弱弱しくてすがっていた。
2つも下の人間に、しかも弟に、私はいつだってすがっている。
だって、私にはそれしかない。
この頭を撫でる手以外、何もない。

「何?」
「千尋は、ずっと、私の傍に、いてくれるよね?」
「当たり前でしょ。俺は、ずっと真衣ちゃんの傍にいるよ」

なんの躊躇いもなく、すぐに欲しい言葉は返ってきた。
どうして、こんなにこの弟は、言い切れるのだろう。
なぜ、そんなに、まっすぐなんだろう。

「千尋は…」

千尋は怖くないのだろうか。
不安にならないのだろうか。
迷わないのだろうか。

こんな暗い暗い、場所。
閉ざされた、先の見えない、道。
息のつまりそうな、空気の重い場所。

私は。
私は、この場所が。

「何?」

優しい優しい声。
子供に言い聞かせるような、穏やかで労りに満ちた声。
そこには本当に私へ対する想いがあって、私はそれ以上何も言えなくなってしまう。

「…………」
「やっぱり、あの人が何か言ったの?」
「………違う、そうじゃない、そうじゃないの…」

私は欲しいものを手に入れた。
私は、満たされている。
私は、ようやく、安心できるところにいる。

千尋を信じている。
千尋が好きだ。
千尋が愛しいと思う。

それなのに、なんで、泣きたいんだろう。

「あの人の言うことなんて気にしなくていいよ。あんな奴の言葉で、真衣ちゃんが傷つくことはない」
「…………」
「他人なんて気にしないで、俺の言葉だけ聞いて、俺の言葉だけ信じて」

毛布の上から、寄り添うように抱きしめられる。
慰めは的外れだけれど、隔てても伝わる体温に冷えた体が温まっていく。
柔らかく抱きしめる腕に、不安がゆるゆると溶けていく。

そう、こうして抱きしめられて、千尋のことだけ考えて、千尋と一緒にいれればいい。
そうしたら、何も考えなくても、すむ。
怖いことは何もない。

だから大丈夫。
大丈夫なんだ。

指先に熱が戻っていく。
震えが、止まる。

「真衣ちゃんが、俺以外の誰かのせいで傷ついたり、煩わしい思いをするのは嫌だ」
「……………」
「真衣ちゃんは、俺のことだけ考えて、俺のことだけ見て」

子供のような駄々をこねる優秀な男。
いままでわがままなんて、言わなかったのに。
私よりもずっと頭がよくて、性格がよくて、いつも人が周りにいて。
それなのに、今はまるで小さい子供のようだ。
けれどその強い想いが、心地いい。

「千尋、放して」
「やだ、逃がさない」
「…そうじゃなくて」

放さないようにと力を込めた腕を無理やり毛布ごとはがす。
それでも揺るがない手に、もう一度だけ強く放せと告げる。
本気を出せば私の抵抗なんてなんてことはないのだろうけど、千尋はしぶしぶ腕をどけて起き上がってくれた。

ようやく布団からはい出すと、そこには誰よりもずっと一緒にいた弟の秀麗な顔。
唇を尖らす拗ねたような表情は、見慣れないものだったけれど。
なんだか少しおかしくなって頬が緩んだ。
本当に、なんでこんなに幼くなってしまったのだろう。

少しだけ軽くなった心をそのまま、その首に腕を回す。
ベッドに腰かけていた千尋の膝に乗り上げ、思いきり力を込めた。

「……え」

驚いたように、見た目よりもしっかりとした骨格を持つ体が固くなる。
私は少し笑いながら、その頭を抱え込む。

千尋の匂い。
千尋の声。
千尋の体。

その何もかもが、私を安心させる、親しく懐かしいもの。
ずっとずっと、私の傍にあったもの。
これからも、ずっと傍にあるもの。

固まっていた千尋が、いつもとは違ってためらうように私の背中に手を回す。
そして、徐々に力を込める。

「……嬉しいな、真衣ちゃんから抱きしめてもらえるなんて」

千尋が本当にはしゃいだ声をあげる。
それが、とてもとても嬉しそうで。
この弟が、本当に私を好きなのだと、わかる。

千尋は、私を求めてる。
それは、なんて嬉しんだろう。
こんなにも、気持ちいい。

「千尋」
「うん、大丈夫だよ真衣ちゃん。俺がいるから。ずっとずっと、一緒にいるから」
「うん」

そのまま、千尋の心地よい腕の中に収まる。
眠たくなるような、安心感。
ずっとずっと、こうしていたい。
温かい時間。
何も考えなくても済む。
千尋だけを、感じていられる。

千尋は優しく背をなでてくれている。
猫のように、私の首元に顔を埋め、頬を寄せる。

そこで、背をなでる手が止まった。
肩に顔を埋めたまま、静かな声で問う。

「……ねえ、真衣ちゃん、今日どこかに行った?」
「どこかって?」
「人が沢山集まるようなところ」
「行ってない。学校終わったらすぐ家に帰った」
「………そう」

一体どうしたのか、表情が見えないから、わからない。
千尋は、私を隙間なく抱き込んだまま、動かない。
そして、黙り込んでしまった。
沈黙に耐えられなくて、私が弟の名を呼ぼうとしたその時、ようやく顔を上げ、視線が合う。

「そう、そうだよね」
「何?」
「ううん、なんでもないよ」

先ほどの柔らかい笑顔は消え去り、静かな眼をしていた。
少し怖くて身を引きそうになるが、背に回った手はそれを許してくれなかった。
まっすぐに私を覗き込んで、問いかける。

「真衣ちゃんは、俺を選んだんだよね?俺のものだよね?」
「………うん。私は、千尋を選んだ」
「そう、あんたは俺のものだ」

そうして何事もなかったように、笑顔を見せた。
いつもの柔らかい笑顔。
だから、私も感じた疑問がすぐさま消え去ってしまう。

温かい体が離れて、代りに大きく固い手が私の手を取る。

「大丈夫?だったら一緒に御飯食べよう」
「……うん」

もうちょっと千尋の腕の中にいたかったけれど、大分気持も落ち着いた。
正直、千尋と一緒に母の前に行くのは嫌だ。
比べられるのは嫌。
一緒にいて劣等感を感じのはすごく嫌い。

母と顔を合わせるのはとても嫌だけれど、こうしていて、変に思われたらいけない。
手に伝わるぬくもりを、しっかりと刻みつける。

この手を放さない。
この手はずっと、一緒にいる。
千尋は守ってくれる。
千尋は傍にいてくれる。
だから、私は何も考えなくていい。
何も、怖がらなくていい。





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