清水は俺の言葉に、分かったような分からないような曖昧な顔で頷いた。



***




「まーた、なんか沈んでるね」

今日もまた、清水は教室に現れなかった。
期待が60%ぐらいで訪れた裏庭、やっぱりそこには小さな少女の姿。
いつかの時のように、猫みたいにベンチに懐いて横たわっている。
それはとても最近のことなのに、随分前のようにも感じる。

俺を待っていてくれるのはとても光栄。
それぐらいは、俺も価値があるんだろうから。
今日も清水真衣の顔色は悪い。
右腕には、なぜか不器用に巻かれた包帯が白く光っている。
頼りない清水が、ますます華奢で弱弱しい。

けれど俺の胸に苦いものがこみ上げる。
思わず、唇が歪んだ。
いけないいけない。

清水は弱っていたけど、それでもその表情は落ち着いていた。
昨日までの憔悴しきった、疲れきって誰にでもすがりそうな、追い詰められた痛々しさはない。

あーあ。

「ねえ、根木」
「はい?」
「なんでここに来たの?」
「は?」

清水は目を静かに伏せたまま、どこか抑揚のない声で問う。
なんで、と言われてもそこに清水がいるから、としか言えないけど。
今一番興味のあることは、清水真衣だから。
清水がいる可能性があるならば、ここに来る。
その感情に、とても興味があるから。

「だって、昨日もだけど、学校休んでるし、あんたとここで会うなんて約束してない」
「あれ、イヤだった?」
「ううん。嬉しい。すっごい、嬉しい」

それは本当のことだろうね。
嬉しいよ、清水真衣。
たとえ、俺が精神安定剤役割だとしても、嬉しいよ。
頼られるのは、嬉しいよ。
それでもその目は、もう不安げに揺れていない。

「なーんか清水。近頃殺し文句バリバリで困っちゃう。俺のなけなしの理性の限界にチャレンジ?」

ベンチに寝転んでいる清水を上から覗き込む。
清水は穏やかな表情で俺に手を伸ばした。
その手をとって引っ張り起こすと、清水はその勢いで俺の胸に倒れこむ。
甘えた仕草、穏やかな表情。
そのつまらなそうな顔が、穏やかに変わるその瞬間が好き。
好きなんだけどね。
そんなもので満たしたかったよ。
君を、笑わせてあげたかった。

「とか言いながら、あんたってものすごい紳士だよね」
「そう?俺結構下心ありありで虎視眈々とチャンス狙ってますけど」

隙があったら、押し倒すぐらいの甲斐性は持ってるつもりだけどね。
清水は無防備すぎて、逆に隙がなくて困る。
無理矢理でもヤッちゃったら、少しは俺が入り込むことができたかな。

「それで、なんでここにきてくれたの?」
「ん?まあ、日課だし。それにもしかして清水がいて、会えたらラッキーじゃん」

清水真衣に、興味があるからね。
会えたら、楽しいなと思っただけ。それだけ。
俺の腹に埋まる、柔らかなくたくたの髪に指を通す。
へにゃへにゃで腰のない髪は、触りごこちはいい。
俺はそっとシャツを握り締める小さな手を外す。
その腕には、白く輝く不器用に巻かれた包帯。

「それよりさ、清水」
「これ、どうしたの?」
「それは、千尋が……」

腕の包帯。
なんて意味深。
押さえつけられちゃったりした?
もしかしてベッドにとか。
まだそこまでじゃないかな。
そしたら清水はこんな平気な顔をして俺に会うことは出来ないだろうしね。

「なるほどね」
「私、千尋のこと、何にも分かってなかった」
「そうだね」
「千尋は、ずっと、責任感と義務感で、私に付き合ってくれてるんだと思ってた」
「…………」
「千尋は………」

清水はぼんやりと、清水弟の残した痕をなぞる。
どこかうっとりとしたように。
気付いてないのかな、唇を醜く歪めて。
苦しげに、けれどそれは、確かに笑っている。

思ったよりも衝撃を受けた。
なんだ、結構ショックだな。
実はね、こんなにショックを受けるとは思ってなかった。
清水を好きだけど、もっと近づきたかったけど、それでも清水がどこかへ行こうとそれはそれで仕方ないと、考えていたんだ。
幸せにして、明るいところへ連れて行きたかった。
それでも、どこかで連れて行けないとも、思っていたんだ。

俺もたいがい最低だよ、清水真衣。
お前らと、同じぐらいね。

「根木は、知っていた?」
「何が?」

隣に座る俺の肩に、軽く頭を預ける。
その重みが、心地いい。
君に笑って欲しかった。
君に優しくしたかった。
この温もりを、感じたかった。

「千尋が、何を望んでいたのか」

知ってたよ、知らざるを得なかったよ。
あんなに強い感情をむき出しにされて。
ゾクゾクして、ワクワクした。

「そりゃあね。弟君が俺を見る目、本気で殺されるかと思ったし」
「千尋は、なんで、ずっと……」

君の傍にいたか?
そんなのは、分かりきってるだろ。
もう、知っているんだろう。
そして、清水はもう、決めてしまっているんだろう。

「答えが、知りたい?」

けれど、清水は大きく息を吐くと、ゆるゆると頭を振った。

「ううん、知りたくないや」
「そっか。俺的にも、それがいいと思うよ」
「そう。あんたがそう言うなら、そうなんだろうね」

この場合では、それが一番正解だとは思うよ。
最善の道は他にもっとあるかもしれないけど、とりあえず今ある選択肢の中ではそれが正解。
だけど君達は、あえて不正解な道を行くんだよね。
どうしてなんだろう、ねえ、お姉さん。
それを俺は、ずっと知りたいよ。

まだ迷ってるのかな。
それとも、まだこちらに来る気はあるのかな。
もしかして、俺に背を押してもらおうと考えてる?
俺は、そこまでお人よしじゃないよ。
そこまで大人にも子供にもなれないよ。
お前達が、どう考えても幸せになれないのは分かってるしね。
だから、まだ迷っているのなら、俺は軽くて甘い言葉を吐き続けるよ。

「ねえ、根木。飽きるまででいいから、傍にいてね」
「だからその、微妙に後ろ向きな発言やめようよ。俺、そんなに薄情な男に見えるかしら」
「ううん、あんたは、すっげーいい奴だと思う」
「でしょ。俺もそう思う。だから少しは信用してくださいな」
「うん。ありがと」

清水は猫のように俺の肩に顔を摺り寄せる。
いつもは嬉しいその言葉も、その仕草も、今はもうどこか空々しい。
だって、清水の目はもう、すがっていないから。

あーあ。



***



午後の授業はからは出ようと清水が言うから、俺達は手をつないで教室に向かう。
授業に出れてしまう精神的余裕。
それがもう、清水に出来てしまっている。

あーあ。

つないだ手は温かいけど、俺の心は冷たい風が吹き荒れている。
なんて、ちょっとポエマー。
勝敗の分かってる勝負は、心が萎えるね。

俺は上履きで直接下りてきてしまっているから、怒られないように人気のない旧校舎の渡り廊下から入ることにする。
昼休も終わりに近づいている校舎は、人気がない。

けれど、微かに声が聞こえてきた。
実際に聞いたのは、一回だけ。
でも印象に残る、通りのいい少しだけ高い声。
もう1人は、かわいらしく甘く高い声。
男と女。
あんまり穏やかでない雰囲気は伝わってくる。
修羅場真っ最中って感じ。

「……ど……なんでっ……」
「…必要……………」

清水はまだ心の整理ができてないのか、足を止めた。
手が震えているから、強く握り締めると、握り返される。
そんな風に、頼りにされるのは本当に好き。

そのまま馬鹿みたいに立ち止まっていた俺達の前に、2人の男女が姿を現した。
電波な弟君と、それのとりすがる可愛らしい子。
可愛らしい顔を涙で濡らして、顔を真っ赤にしている。
えーと、確か1年で、かわいいって騒いでる奴がいた。
なんだっけな。名前でてここない。

なんだよ、弟君のカノジョかよ。
つーかそんなかわいらしいカノジョふって、地雷地帯を突き進むのか。
全くムカつく贅沢もの。
そのカノジョのどこか不満だよ。

まあ、しいていえばお姉ちゃんじゃないのが不満なんだろうけどさ。
本当に、電波だな、弟君。

どうせだから、最後の嫌がらせ。
お前が大嫌いだよ、清水千尋。

「おー、こんにちは、弟君。美女に追っかけられるなんてうらやましー」

カノジョを腕に取りすがらせた清水千尋の、殺気じみた目が俺を睨みつける。
取り繕うなんて、すでに努力もしてない。
潔く俺が嫌いだと、俺が敵だと、姉に触るものすべてが許せないと訴えている。
本当に、ゾクゾクする。

「あんたたちも、相変わらず仲がいいんですね」

苛立ちと怒りの混じった声に、清水真衣が急いで手を放す。
急に温もりのなくなった手が、冷たかった。

「そりゃー、俺達らぶらぶだもーん」

そう言って自分でも分かるぐらい性格悪そうに笑うと、隣の華奢な肩を抱き寄せる。
ここまで来たら、これぐらいは許してよね。
つーか、これ自分がダメージうけるな。
しょっぱい。
まあ、まだちょっとは、ほんのちょっとぐらいは、ミクロぐらいは、可能性あるかなー、とか思ってたりもするんだけどね。

「そうですか。そんな暗くて何にもできない女のどこがいいんですか?」
「どこもかしこもー。このちょっとひねてるとこがかわいんだって」

そう、素直でかわいいところも、辺に無防備なところも、ちょっと口が悪いところも、ツンデレなところも、全部好き。
その人間臭い計算高くてずるいところも、好き。

俺の言葉に、弟君が口をゆがめる。
それは笑ってるけど、目が笑ってない。
怖。

「本当に質が悪いね、あんたは。すぐにそうやって依存する人間を捕まえようとする」
「どうしたの、弟君?なんか色々はみ出てるよ?余裕ないね?」

逃げるように、後ろに下がる清水の肩をそっと支える。
今更逃げてもしょうがないでしょ。
そろそろ、決着つけようよ、清水。
君のその弱さは、十分ずるいよ。
弟君の気持ちも、分からないでもない。
まあ、そんなところも気に入っているんだけどね。

「ええ、どっかの物好きが、目を離した隙に人のものを盗ろうとしているので。どうせ、すぐに飽きるくせに」

清水千尋の言葉には、本当に余裕がない。
それほど、俺を敵視してくれるのは嬉しいな。
少なくとも、姉よりはずっと俺を重要視してくれてる。
光栄だね。
だから俺も、乗ってあげる。

「誰だろうね?『人のもの』を盗ろうとするのはよくないよねー。俺は一度手に入れたものは大事にする派だけど」
「口ではなんとでも言えますね。途中で放り出すほど、残酷なことはないですよ?」

あ、いたたた。
うん、俺はずっと清水真衣の傍にいられるとはいえないよ。
そんな嘘は、つけない。
それは、正しいよ、清水千尋。
でも、清水真衣を幸せにしたいと思ったのは、本当だよ。
それは本当。
とても嘘っぽい、けれど真実。

「ねえ、清水!なんで、いきなり別れようって言うの!?」

そこで突然、横で完全部外者になっていたかわいい子が、清水千尋に取りすがる。
かわいそうな子だな。
俺はまだ自分から頭つっこんだけど、君は完全騙されたんだろうしなあ。
この男の顔と頭とスタイルと人当たりのよさに目がくらんじゃったんだな。
いや、騙されるだろ、それは。

小さな顔を涙でくしゃくしゃにしているのが、同情心を煽る。
抱きしめて、慰めてあげたくなる。
それでも清水千尋は冷たく切り捨てる。
それは入り込む余地がないぐらい。
最低だな、弟君。
いっそ褒めたくなるぐらいの、最低男だ。

「言ってるだろ。もう、あんたは別に必要ないから」
「そんな、ひどい!」
「うるさいな。あんたじゃ、役者不足なんだよ」

胸の中のちりちりとしたものが、熱を持つ。
そこで泣いてる君もなんで、そんな強くなれるんだろう。
知りたいな。
知りたいよ。

「い、っ!」

清水千尋が俺の腕から大事な大事なお姉ちゃんを引き離す。
わざわざ包帯で巻かれている場所を握るのが、お前の性格現してるな。
壊れきった弟君は、清水の耳に何か囁くとその体を付き離した。
よろめく華奢な体を受け止める。

「大丈夫、清水?」

俺から逃げるように体を離して、俺を見上げる。
それは怖がるような、戸惑うような、答えを求めるような。
または、俺に対する、罪悪感。

「あんたがっ!」

その感情の正体を知る前に、甲高くヒステリックな声が踊り場に響いた。
細い腕が、階段を背にした清水の胸を押す。
華奢な体が戸惑った顔のまま、宙に浮く。

「清水!」

俺が手を伸ばすと同時に、清水千尋も手を伸ばす。
清水真衣は、俺の手とその手を、一瞬だけ見比べた気がする。

しかし、すぐに迷いを消した。

自分が欲している人間に手を伸ばす。
あんなに寂しがって、あんなに苦しんで、あんなに自由になりたがって。
嫌って、憎んで、縛り付けられて。

それでも、執着してやまない、ただ1人の男に。


「……千尋っ」



***




清水姉弟を見るたびに、ちりちりとしたものが熱を持つ。
それは、ずっと俺の中にあったもの。

幸せそうに笑うお姉さん。
そしてお姉さんを独占する強い腕。

それを見たときから、ずっとずっと燻っていた。

不幸なはずなのに。
どう考えても、幸せなはずないのに。
お互いをずっと見ていられるわけなんて、ないのに。

理解できない。
俺にはわからない。
その感情が理解できない。
とても馬鹿で、とても可哀想だと思う。

それでもその熱がちりちりと俺を苛む。

お姉さん。
清水真衣。
清水千尋。



俺はずっと、あんたたちが羨ましかった。





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