泣いている私を慰めるのも。 癇癪を起こす私をなだめるのも。 眠れない夜に抱きしめてくれるのも。 私の生活のすべては、千尋によって成り立っていた。 「真衣ちゃんは、僕が守るよ。僕が傍にいるよ」 「本当に?本当に千尋は、傍にいてくれる?」 「うん、当たり前でしょ。僕は真衣ちゃんの弟なんだから。ずっと一緒にいるよ」 幼い頃から、何度も繰り返された言葉。 何度聞いても、千尋は優しい言葉を返してくれた。 穏やかに柔らかく笑う千尋。 それは幼かった弟の手足が、すっかり伸びきっても変わることはなかった。 昔よりずっと声も低くなって、背丈が私をすっかり追い越した後も。 置いていかれる不安を抱え、千尋を人から引き離そうとしても、弟は怒らない。 私を柔らかく抱きしめ、温かな言葉を耳元に囁く。 「俺だけは、真衣ちゃんを大好きだよ。傍にいて、守るよ」 何度も何度も繰り返される言葉。 それを疑ったことなど、なかった。 結局そのまま授業にでることなく、私は根木と穏やかな時間を過ごした。 明るい猫背な男は、付き合って授業をサボった。 サボりたかったのか、付き合いがいいのか。 おそらく両方だろうけど。 根木の作り出す優しい空気は、ささくれ立って不安な心を潤してくれる。 木に囲まれてうっそうとした校舎裏は、今では一番落ち着く場所。 けれど日は暮れ、その場所を追い出される時は必ずくる。 「清水、今日はうちに泊まる?」 冗談なのか本気なのか。 言葉の調子は軽かった。 けれどいつだって真剣にふざけているこの男のことだから、本気なのかもしれない。 その言葉に、心が引かれた。 根木と一緒にいたら、傷つく事はないから。 この男は、どこまでも優しいから。 でも、そうやって、逃げていても仕方がないのだ。 あの家には、絶対に帰らなければならないのだから。 私は思わず頷きかけた頭を、ゆっくりと横に振る。 「そっか」 根木は片眉をあげて、ため息をついた。 どこか心配そうな、表情。 「うん、ありがと」 「いいけど、さっき、俺が言ったこと、忘れないでね」 千尋に、捕まるな。 根木が、珍しく真剣に言った言葉。 男が何を心配しているのか、よく分からない。 けれど、その言葉は胸に突き刺さるトゲのようにどこかに残っている。 トゲを直視してはいけない気がして、無理矢理に目を逸らした。 「……分かった」 「本当に、本当だからね」 根木らしくなく、しつこく真剣に繰り返す。 私は曖昧に頷くことしかできない。 男の言葉の意味は、分からなかった。 でも、千尋に近づいてはいけないことは、確かだったから。 最後まで心配そうだった男は、額に優しいキスをすると、交差点で別れた。 何度も何度も振り返って手を振る男に、頬が緩んだ。 根木の残した温かい気持ちと、どこかぼんやりとした思考と共に、私は家に向かう。 すっかり暗くなった夕闇の街は、何か懐かしいものを思い出させる。 幼い頃、千尋と手をつないで歩いた。 暗くなるまで、泥だらけになって遊んだ。 どちらかが泣いた時は、どちらかが慰めた。 いつも一緒だった。 そう、いつだって一緒だった。 成長すると共に思いは捻じ曲がり、千尋をつなぎとめて、無理矢理縛り付けた。 弟を捕まえていたのは私。 けれど眼鏡の奥に真剣な目をたたえた男は言う。 千尋に捕まるな、と。 私にはずっと千尋がいた。 千尋だけがいた。 千尋だけしか、いなかった。 それは、なぜだったのだろう。 家に着く頃には、すっかり暗くなった路地には街灯が灯っていた。 街灯に照らされた家の前に、誰かがいるのが見える。 重なる男女の、長い影。 長身のすらりとした影は、見慣れた私の弟。 その弟に親しげに寄り添うもう一つの影。 伸び上がり、長身に顔を寄せている小柄な少女。 どこかで、見たことが、ある。 ああ、伊藤ゆり、だ。 別れて、いなかったのか。 そうゆっくりと認識した。 その後に、浮かんできたのは、怒りにも似た強い感情。 目の前が真っ赤になるような、激しい想い。 触らないで。 それは、私のもの。 そう、叫んで、二人を引き離したかった。 弟の所有を見せ付けるかのように、首に回された細い腕を振り払いたかった。 こぼれそうになった感情を、けれど唇を噛んで押し込める。 口の中に、血の味が広がった。 子供っぽい独占欲。 いまだに心に根強く残る、千尋に見捨てられるという不安感。 それらと決別しようと、誓ったばかりなのだから。 2人が寄り添っていたのはきっと、短い時間。 でも、私には気が遠くなるほど長く感じた。 ようやく離れ、別れを交わす2人。 そして、伊藤ゆりが、こちらに来る。 小柄で、華奢な手足を持つかわいらしい少女。 千尋の隣に立っていても、なんの違和感もないだろう。 いや、むしろこれ以上ないほど似合っているだろう。 私と違って。 こちらに気付いた伊藤ゆりが、頬を染めて軽く頭を下げる。 微笑んだ顔は、愛らしかった。 けれど、私には、それが勝ち誇った笑顔のように感じた。 私の醜さが、そう感じさせるのだろうけど。 しばらく、そうして立ち尽くしていた。 そんな私に、よく通る耳障りのいい声が聞こえる。 「入らないの?」 穏やかな柔らかな声。 気がつくと、千尋はすでに玄関の扉を開いていた。 聡い弟は、私がいたことくらいとっくに気付いているだろう。 それなのに、相変わらず、嫌になるほど落ち着いている。 そういえば、弟が自分の彼女を家に連れてくるのは初めてかもしれない。 今まで、たとえ押しかけられても、追い返していた。 私の感情を逆撫でしないためか、家には、絶対に近寄らせなかった。 けれど、今日はあんなにも自然に寄り添っていた。 もう、終わりなのか。 そうか、もう終わりなのだ。 本当に、私達のゆがんだ関係は、終わりなのだ。 逃げ出したくなるほどの不安と共に、その答えが心に染み込んだ。 弟も、終わりにしようとしているのだ。 それならば、私も、やらなくてはいけない。 私は、大きく息を吸って、吐いた。 嫌がる足を奮い立たせ、一歩足を踏み出す。 一歩踏み出したその後は、震えることなく歩く事ができた。 弟が立つ、玄関先まで近寄る。 千尋は優しく微笑んで立っている。 けれど、今までのように、それを素直に受けとめることはできない。 弟の柔和な笑顔の下に隠された、驚くほど鋭い牙を知ってしまったから。 「た、だいま」 声は震えていたけど、それでもちゃんと出す事が出来た。 千尋は、小首をかしげて、変わらない様子で答える。 「お帰り。そしてただいま」 どこか茶目っ気のある態度は、ずっとずっと慣れ親しんできたものだ。 開けられた扉から私が先に入り、弟が続いて入って扉を閉める。 そのさりげない優しさも、今はどこか遠いものに感じる。 「……伊藤ゆりと、別れて、なかったんだ……」 聞いたのは、なぜだか分からない。 否定して欲しかったのか、それとも、はっきりと弟はもう自分のものではないと確信したかったのか。 分からない。けれど、気付くと、口から出ていた。 弟は、何度か目を瞬かせると、近頃よく見せるようになった、柔和な、そしてどこか残酷さが浮かぶ笑顔を浮かべる。 完璧な、隙のない。 「真衣ちゃんには、関係ないでしょ」 そんなわけないのに、実際に鋭い刃で傷つけられた気がした。 血が噴出した気がした。 それでも、その痛みに後押しされて、ようやく、決心する事ができた。 ずっとずっと決めていた。 弟が、一度でも自分の意思を優先したら、そうしたら解放しようと。 今が、きっと、その時なのだろう。 「うん、そうだよね」 声は、もう震えてなかった。 ぎこちなくて、泣きそうだったけど、私は笑えていたと思う。 喪失感と、不安感と、空虚感。 その全てに座り込みそうだった。 「関係、ないよね。姉弟、だもんね」 それでも前を向いて、千尋を見上げて、そう告げることができた。 どこか解放感を感じた。 そう言えた、自分が、誇らしかった。 ようやく、千尋を手放せるのだ。 普通の、姉弟になるのだ。 けれど、返ってきたのは、またも、予想外な、言葉。 「何、それ」 近頃ずっと、弟の見たことのないところばかり見てきた。 冷たい言葉。表情のない、仮面のような顔。笑顔で私をなぶる残酷な一面。 そして、今また、見たことのない、表情。 圧倒されるほどの、怒り。 千尋が、怒っている。 「なんだよ、それ。何言ってんの」 低く押し殺した声。けれど、そこには押さえきれない怒りが混じっている。 突然の豹変に理解できなくて、私はただ千尋を見上げる。 弟は、でぐの坊ように立ちつくした私の腕を取った。 「い、痛っ」 「笑わせないでよ。今更姉弟だ?本気でそう思ってんの?」 「い、痛い、千尋。痛い!」 強く握り締められた腕に、悲鳴に近い声を上げる。 けれど弟の力は緩まない。 痛みと、恐怖で涙がにじむ。 「あんたは、いつでもそうだ。何度捕まえても、すぐに逃げ出そうとする」 「…千尋……?千尋、放して!」 「まだ、追い詰めたりなかった?もっと縛っておけばよかった?」 弟の言っている意味が分からない。 いつでも穏やかな弟の激情が、怖くて仕方がない。 こんなに感情をあらわにする千尋は、初めてだった。 小さい頃から、この優等生の弟は強い感情を見せることはなかった。 ずっと、押さえていた…? この強い心を、弟はずっと抱えていたのだろうか。 「あの男のせい?学校の裏で何度もキスするほど仲いいもんね」 あの男。 眼鏡の明るい、朗らかな男が脳裏に浮かぶ。 「っ!」 腕の力が更に増す。 許容量いっぱいの頭は、何かを考えることができない。 腕が痛い。怒りをあらわにする目から、視線をそらすことができない。 「どんなに1人にしても、あんたはすぐに代わりの誰かを見つけるんだな。本当に質が悪いよ」 「……ちひ、ろ?何、言ってるの、ちひろ……?」 「いっそ閉じ込めておけばよかったかな。誰も見ないように。誰にも見られないように」 「ねえ、千尋……、どう、したの……?」 「まだ、1人で逃げるの?1人で気付かないふりするの?」 弟の顔が、くしゃりとゆがんだ。 それは、悔しそうで。 そして……どこか、哀しそうな、顔。 「千尋……」 「どうして、俺だけ見ないんだよ!どうしてずっと傍にいてくれないんだ!」 千尋の荒げた、声。 叫ぶような、激しい言葉。 子供が癇癪を起こすような。 初めて、聞いた。 千尋の、まだ少年の線を残す腕が私を絡めとる。 それは、優しく柔らかいくせに、息がつまるようだった。 背中に回された腕が、耳元にかかる息が、熱かった。 「真衣ちゃん、俺はね」 さっきまでの激情はすでに消え去り、声は落ち着いている。 どこまでも、硬質な声。 「真衣ちゃんが、誰より大切で、誰より嫌いだよ」 それは、ずっと私が思っていたこと。 私は千尋が、大好きで、そして大嫌いだった。 感情の整理が出来ないまま、自然と、弟の背に手を回そうとした。 しかし、その前に、千尋が私を突き放す。 突然の衝撃に、対応できずに2,3歩後ろによろめいた。 千尋は表情をなくしていた。 笑顔も、怒りも、そして哀しみも浮かべていない。 「それでも、俺は……」 一瞬目を伏せ、何かをつぶやく。 語尾はかすれて、よく聞こえなかった。 そして、私を見ないまま踵を返す。 一度も振り向かないまま、2階へといってしまった。 私は、ただそれを黙って見送った。 完璧な弟が崩れる様を、初めて見た。 強い感情に初めて触れた。 右腕には、痛みと赤く鬱血した跡が残っている。 私は、今まで、千尋の何を、見ていたのだろうか。 |