泣いている私を慰めるのも。
癇癪を起こす私をなだめるのも。
眠れない夜に抱きしめてくれるのも。

私の生活のすべては、千尋によって成り立っていた。

「真衣ちゃんは、僕が守るよ。僕が傍にいるよ」
「本当に?本当に千尋は、傍にいてくれる?」
「うん、当たり前でしょ。僕は真衣ちゃんの弟なんだから。ずっと一緒にいるよ」
幼い頃から、何度も繰り返された言葉。
何度聞いても、千尋は優しい言葉を返してくれた。

穏やかに柔らかく笑う千尋。
それは幼かった弟の手足が、すっかり伸びきっても変わることはなかった。
昔よりずっと声も低くなって、背丈が私をすっかり追い越した後も。
置いていかれる不安を抱え、千尋を人から引き離そうとしても、弟は怒らない。
私を柔らかく抱きしめ、温かな言葉を耳元に囁く。
「俺だけは、真衣ちゃんを大好きだよ。傍にいて、守るよ」
何度も何度も繰り返される言葉。

それを疑ったことなど、なかった。



***




結局そのまま授業にでることなく、私は根木と穏やかな時間を過ごした。
明るい猫背な男は、付き合って授業をサボった。
サボりたかったのか、付き合いがいいのか。
おそらく両方だろうけど。

根木の作り出す優しい空気は、ささくれ立って不安な心を潤してくれる。
木に囲まれてうっそうとした校舎裏は、今では一番落ち着く場所。

けれど日は暮れ、その場所を追い出される時は必ずくる。

「清水、今日はうちに泊まる?」
冗談なのか本気なのか。
言葉の調子は軽かった。
けれどいつだって真剣にふざけているこの男のことだから、本気なのかもしれない。
その言葉に、心が引かれた。
根木と一緒にいたら、傷つく事はないから。
この男は、どこまでも優しいから。

でも、そうやって、逃げていても仕方がないのだ。

あの家には、絶対に帰らなければならないのだから。
私は思わず頷きかけた頭を、ゆっくりと横に振る。
「そっか」
根木は片眉をあげて、ため息をついた。
どこか心配そうな、表情。
「うん、ありがと」
「いいけど、さっき、俺が言ったこと、忘れないでね」

千尋に、捕まるな。

根木が、珍しく真剣に言った言葉。
男が何を心配しているのか、よく分からない。
けれど、その言葉は胸に突き刺さるトゲのようにどこかに残っている。
トゲを直視してはいけない気がして、無理矢理に目を逸らした。

「……分かった」
「本当に、本当だからね」

根木らしくなく、しつこく真剣に繰り返す。
私は曖昧に頷くことしかできない。
男の言葉の意味は、分からなかった。
でも、千尋に近づいてはいけないことは、確かだったから。

最後まで心配そうだった男は、額に優しいキスをすると、交差点で別れた。
何度も何度も振り返って手を振る男に、頬が緩んだ。



根木の残した温かい気持ちと、どこかぼんやりとした思考と共に、私は家に向かう。



すっかり暗くなった夕闇の街は、何か懐かしいものを思い出させる。

幼い頃、千尋と手をつないで歩いた。
暗くなるまで、泥だらけになって遊んだ。
どちらかが泣いた時は、どちらかが慰めた。

いつも一緒だった。

そう、いつだって一緒だった。

成長すると共に思いは捻じ曲がり、千尋をつなぎとめて、無理矢理縛り付けた。
弟を捕まえていたのは私。

けれど眼鏡の奥に真剣な目をたたえた男は言う。


千尋に捕まるな、と。


私にはずっと千尋がいた。
千尋だけがいた。
千尋だけしか、いなかった。

それは、なぜだったのだろう。



***




家に着く頃には、すっかり暗くなった路地には街灯が灯っていた。
街灯に照らされた家の前に、誰かがいるのが見える。

重なる男女の、長い影。

長身のすらりとした影は、見慣れた私の弟。
その弟に親しげに寄り添うもう一つの影。
伸び上がり、長身に顔を寄せている小柄な少女。
どこかで、見たことが、ある。

ああ、伊藤ゆり、だ。

別れて、いなかったのか。

そうゆっくりと認識した。
その後に、浮かんできたのは、怒りにも似た強い感情。
目の前が真っ赤になるような、激しい想い。

触らないで。
それは、私のもの。

そう、叫んで、二人を引き離したかった。
弟の所有を見せ付けるかのように、首に回された細い腕を振り払いたかった。

こぼれそうになった感情を、けれど唇を噛んで押し込める。
口の中に、血の味が広がった。

子供っぽい独占欲。
いまだに心に根強く残る、千尋に見捨てられるという不安感。
それらと決別しようと、誓ったばかりなのだから。

2人が寄り添っていたのはきっと、短い時間。
でも、私には気が遠くなるほど長く感じた。

ようやく離れ、別れを交わす2人。
そして、伊藤ゆりが、こちらに来る。
小柄で、華奢な手足を持つかわいらしい少女。
千尋の隣に立っていても、なんの違和感もないだろう。
いや、むしろこれ以上ないほど似合っているだろう。
私と違って。

こちらに気付いた伊藤ゆりが、頬を染めて軽く頭を下げる。
微笑んだ顔は、愛らしかった。
けれど、私には、それが勝ち誇った笑顔のように感じた。

私の醜さが、そう感じさせるのだろうけど。

しばらく、そうして立ち尽くしていた。
そんな私に、よく通る耳障りのいい声が聞こえる。

「入らないの?」

穏やかな柔らかな声。
気がつくと、千尋はすでに玄関の扉を開いていた。
聡い弟は、私がいたことくらいとっくに気付いているだろう。
それなのに、相変わらず、嫌になるほど落ち着いている。

そういえば、弟が自分の彼女を家に連れてくるのは初めてかもしれない。
今まで、たとえ押しかけられても、追い返していた。
私の感情を逆撫でしないためか、家には、絶対に近寄らせなかった。

けれど、今日はあんなにも自然に寄り添っていた。

もう、終わりなのか。
そうか、もう終わりなのだ。
本当に、私達のゆがんだ関係は、終わりなのだ。

逃げ出したくなるほどの不安と共に、その答えが心に染み込んだ。
弟も、終わりにしようとしているのだ。
それならば、私も、やらなくてはいけない。

私は、大きく息を吸って、吐いた。
嫌がる足を奮い立たせ、一歩足を踏み出す。
一歩踏み出したその後は、震えることなく歩く事ができた。

弟が立つ、玄関先まで近寄る。
千尋は優しく微笑んで立っている。
けれど、今までのように、それを素直に受けとめることはできない。

弟の柔和な笑顔の下に隠された、驚くほど鋭い牙を知ってしまったから。

「た、だいま」
声は震えていたけど、それでもちゃんと出す事が出来た。
千尋は、小首をかしげて、変わらない様子で答える。
「お帰り。そしてただいま」
どこか茶目っ気のある態度は、ずっとずっと慣れ親しんできたものだ。
開けられた扉から私が先に入り、弟が続いて入って扉を閉める。
そのさりげない優しさも、今はどこか遠いものに感じる。
「……伊藤ゆりと、別れて、なかったんだ……」
聞いたのは、なぜだか分からない。
否定して欲しかったのか、それとも、はっきりと弟はもう自分のものではないと確信したかったのか。
分からない。けれど、気付くと、口から出ていた。

弟は、何度か目を瞬かせると、近頃よく見せるようになった、柔和な、そしてどこか残酷さが浮かぶ笑顔を浮かべる。
完璧な、隙のない。

「真衣ちゃんには、関係ないでしょ」

そんなわけないのに、実際に鋭い刃で傷つけられた気がした。
血が噴出した気がした。

それでも、その痛みに後押しされて、ようやく、決心する事ができた。
ずっとずっと決めていた。
弟が、一度でも自分の意思を優先したら、そうしたら解放しようと。
今が、きっと、その時なのだろう。

「うん、そうだよね」

声は、もう震えてなかった。
ぎこちなくて、泣きそうだったけど、私は笑えていたと思う。
喪失感と、不安感と、空虚感。
その全てに座り込みそうだった。

「関係、ないよね。姉弟、だもんね」

それでも前を向いて、千尋を見上げて、そう告げることができた。
どこか解放感を感じた。
そう言えた、自分が、誇らしかった。
ようやく、千尋を手放せるのだ。
普通の、姉弟になるのだ。

けれど、返ってきたのは、またも、予想外な、言葉。

「何、それ」

近頃ずっと、弟の見たことのないところばかり見てきた。
冷たい言葉。表情のない、仮面のような顔。笑顔で私をなぶる残酷な一面。

そして、今また、見たことのない、表情。
圧倒されるほどの、怒り。

千尋が、怒っている。

「なんだよ、それ。何言ってんの」
低く押し殺した声。けれど、そこには押さえきれない怒りが混じっている。
突然の豹変に理解できなくて、私はただ千尋を見上げる。
弟は、でぐの坊ように立ちつくした私の腕を取った。
「い、痛っ」
「笑わせないでよ。今更姉弟だ?本気でそう思ってんの?」
「い、痛い、千尋。痛い!」
強く握り締められた腕に、悲鳴に近い声を上げる。
けれど弟の力は緩まない。
痛みと、恐怖で涙がにじむ。
「あんたは、いつでもそうだ。何度捕まえても、すぐに逃げ出そうとする」
「…千尋……?千尋、放して!」
「まだ、追い詰めたりなかった?もっと縛っておけばよかった?」
弟の言っている意味が分からない。
いつでも穏やかな弟の激情が、怖くて仕方がない。
こんなに感情をあらわにする千尋は、初めてだった。
小さい頃から、この優等生の弟は強い感情を見せることはなかった。

ずっと、押さえていた…?
この強い心を、弟はずっと抱えていたのだろうか。

「あの男のせい?学校の裏で何度もキスするほど仲いいもんね」
あの男。
眼鏡の明るい、朗らかな男が脳裏に浮かぶ。
「っ!」
腕の力が更に増す。
許容量いっぱいの頭は、何かを考えることができない。
腕が痛い。怒りをあらわにする目から、視線をそらすことができない。
「どんなに1人にしても、あんたはすぐに代わりの誰かを見つけるんだな。本当に質が悪いよ」
「……ちひ、ろ?何、言ってるの、ちひろ……?」
「いっそ閉じ込めておけばよかったかな。誰も見ないように。誰にも見られないように」
「ねえ、千尋……、どう、したの……?」
「まだ、1人で逃げるの?1人で気付かないふりするの?」
弟の顔が、くしゃりとゆがんだ。
それは、悔しそうで。
そして……どこか、哀しそうな、顔。

「千尋……」
「どうして、俺だけ見ないんだよ!どうしてずっと傍にいてくれないんだ!」

千尋の荒げた、声。
叫ぶような、激しい言葉。
子供が癇癪を起こすような。
初めて、聞いた。

千尋の、まだ少年の線を残す腕が私を絡めとる。
それは、優しく柔らかいくせに、息がつまるようだった。
背中に回された腕が、耳元にかかる息が、熱かった。

「真衣ちゃん、俺はね」

さっきまでの激情はすでに消え去り、声は落ち着いている。
どこまでも、硬質な声。

「真衣ちゃんが、誰より大切で、誰より嫌いだよ」

それは、ずっと私が思っていたこと。
私は千尋が、大好きで、そして大嫌いだった。

感情の整理が出来ないまま、自然と、弟の背に手を回そうとした。
しかし、その前に、千尋が私を突き放す。
突然の衝撃に、対応できずに2,3歩後ろによろめいた。

千尋は表情をなくしていた。
笑顔も、怒りも、そして哀しみも浮かべていない。

「それでも、俺は……」

一瞬目を伏せ、何かをつぶやく。
語尾はかすれて、よく聞こえなかった。
そして、私を見ないまま踵を返す。
一度も振り向かないまま、2階へといってしまった。

私は、ただそれを黙って見送った。

完璧な弟が崩れる様を、初めて見た。
強い感情に初めて触れた。



右腕には、痛みと赤く鬱血した跡が残っている。
私は、今まで、千尋の何を、見ていたのだろうか。






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