結局その日はそのまま、千尋と顔を合わせることはなかった。 穏やかな弟の、怒って、癇癪を起こしたような姿が目に焼きついて離れない。 弟はいつだって、落ち着いて、冷静だった。 いつだって柔らかに、私を守ってくれた。 あんな、激しい感情は知らない。 あんな、激しい視線は知らない。 右腕の鬱血をなぞると、鈍い痛みが走る。 私は本当に、千尋のことを、何も、知らなかったのだ。 「まーた、なんか沈んでるね」 今日もまた、学校へ来たくせに教室へは行かなかった。 もう、どこよりも落ち着くこの少し薄暗い場所で、昼休みが訪れるのを待っていた。 やがて現れた男は、相変わらずの少し軽い調子で、そんな風に声をかけてくる。 「ねえ、根木」 「はい?」 「なんでここに来たの?」 「は?」 ベンチに横たわったまま放った私の唐突な質問に、根木は間抜けな声を上げる。 「だって、昨日もだけど、学校休んでるし、あんたとここで会うなんて約束してない」 そう。ここに私が来るなんて一言も言っていない。 それなのに、この男は当然のようにここに来る。 なんの気負いも感じさせない笑顔のままで。 「あれ、イヤだった?」 「ううん」 嫌なはずはない。 現に今も、この男の顔を見ただけで重苦しいものがすべて取り払われていくような気がする。 「嬉しい。すっごい、嬉しい」 根木が、自分のことを気にかけてくれているのが、嬉しい。 優しくしてくれるが、嬉しい。 「なーんか清水。近頃殺し文句バリバリで困っちゃう。俺のなけなしの理性の限界にチャレンジ?」 そう言って、笑いながら私を上から覗き込む。 その笑顔の向こうの細い、けれど感情をよく映す目に安堵する。 私が両手を伸ばすと、根木はその手を掴み引っ張り起こしてくれた。 その勢いのまま、倒れこむように根木の胸に抱きつく。 男の汗の匂いに、少しの不快感と大きな安心感を覚えた。 「とか言いながら、あんたってものすごい紳士だよね」 「そう?俺結構下心ありありで虎視眈々とチャンス狙ってますけど」 そう言いながらいつだって、私の心が優先で、自分を押し付けることはない。 このおちゃらけた男は、本当に、どこまでも優しい。 「それで、なんでここにきてくれたの?」 「ん?まあ、日課だし。それにもしかして清水がいて、会えたらラッキーじゃん」 そう言って、根木のお腹に埋めた私の頭を撫でてくれる。 軽い調子。ふざけた言葉。 なのに自然に心に入ってきて、温かくしてくれる不思議な男。 この朗らかな男が好きだ。 その明るさが愛おしい。 「それよりさ、清水」 根木のシャツを掴んでいた腕がそっととられる。 その腕には、不器用に巻かれた包帯が白く自己主張している。 「これ、どうしたの?」 「それは、千尋が……」 千尋がつけた、跡。 弟の、押し殺してきた感情の表れ。 その言葉で、目の前の男はすべてを悟ったようだった。 優しく腕を放し、軽くため息をつく。 「なるほどね」 「私、千尋のこと、何にも分かってなかった」 「そうだね」 「千尋は、ずっと、責任感と義務感で、私に付き合ってくれてるんだと思ってた」 「…………」 「千尋は………」 千尋の、吐き出すような叫び声が甦る。 『どうして、俺だけ見ないんだよ!どうしてずっと傍にいてくれないんだ!』 「根木は、知っていた?」 「何が?」 男は、体を放すと隣のベンチに座った。 その肩に頭を乗せる。 「千尋が、何を望んでいたのか」 「そりゃあね。弟君が俺を見る目、本気で殺されるかと思ったし」 分からない。 私の前では、いつでも穏やかだった弟。 私には、見せなかった姿。 「千尋は、なんで、ずっと……」 一緒にいてくれたのだろう。 優しくしてくれたのだろう。 守ってくれていたのだろう。 そして、なぜ私を傷つけるのだろう。 答えはもう、分かっている気がする。 最近ずっと、浮かんでは無理矢理押し殺してきたものがよみがえる。 けれどやはり、それは直視してはいけないもの。 私は大きく息を吸う。 それと共に、感情を飲み込んだ。 「答えが、知りたい?」 肩に乗せた頭に、根木の低めの声が響く。 声は温かく、どこか気遣うような色がある。 「ううん、知りたくないや」 「そっか。俺的にも、それがいいと思うよ」 「そう。あんたがそう言うなら、そうなんだろうね」 根木の言う事は、いつだって正しいから。 この男は優しいから。 私を傷つける事は、絶対にないから。 この男がいてくれる。 それならば、いい。 感情には、蓋をする。 それは見なくても、いいものだ。 私は千尋を解放し、どこにでもいる姉弟になろうと決めたのだから。 そう、決めたのだ。 「ねえ、根木。飽きるまででいいから、傍にいてね」 「だからその、微妙に後ろ向きな発言やめようよ。俺、そんなに薄情な男に見えるかしら」 「ううん、あんたは、すっげーいい奴だと思う」 「でしょ。俺もそう思う。だから少しは信用してくださいな」 「うん。ありがと」 肩に乗せた頭を、更に摺り寄せた。 男の匂いに、心が落ち着く。 根木の明るさが、愛おしい。 この朗らかな男が、好きだ。 そう、好きなのだ。 午後の授業からは出ようかと、2人で手をつないで教室に向かう。 手の温もりが心強くて、嬉しかった。 玄関まで回るのが面倒臭かったので、旧校舎の渡り廊下から入る。 来年度の取り壊しが決まっているこの校舎は、すでにいくつかの特別教室しか使われていなかった。 昼休みも終わりに近づいて、人気がない。 そんな、静かな校舎の中、どこからか声が聞こえてくる。 静まり返った場所にふさわしくない、どこか険悪な雰囲気。 階段を昇ると共に、大きくなるところをみると、この声の持ち主は上にいるようだ。 声の持ち主は2人。 そのうちの一つは聞き覚えのある声。 誰よりも、よく知っている声。 今はまだ、会いたくない声。 「……ど……なんでっ……」 「…必要……………」 私は足を止めた。 根木もそれに伴い足を止める。 手を強く握られ、不安が少し静まった。 私達は止まっているのに、声はだんだんと近づいてくる。 あちらが、下に降りてきているのだ。 逃げる事も進む事も出来ずにいると、見慣れた姿勢のいい男が姿を現した。 隣で、すがるように腕を掴んでいるのは、伊藤、ゆり。 ちょうど階段の踊り場で顔を合わした私達は、お互い動きを止めてしまった。 最初に声を出したのは、やはり私の隣にいる男。 「おー、こんにちは、弟君。美女に追っかけられるなんてうらやましー」 いつものふざけた言葉。 軽い調子。 けれど少し、その声には緊張があった。 「あんたたちも、相変わらず仲がいいんですね」 千尋が冷たい視線で根木と私の、つながれた手を見る。 咄嗟に、手を放してしまった。 何も、悪い事などしていないのに。 「そりゃー、俺達らぶらぶだもーん」 けれど根木は、そんな私の肩を抱いて引き寄せた。 千尋の眉が釣りあがり、怒りをあらわにする。 弟が、人前で、こんなにも感情をあらわにするなんて。 「そうですか。そんな暗くて何にもできない女のどこがいいんですか?」 冷たい、切り裂くような言葉に、胸が引き絞られるように痛みが走る。 唇が、震えた。 「どこもかしこもー。このちょっとひねてるとこがかわいんだって」 それでも隣の男は変わらない。 相変わらず明るく、朗らかで、頼もしい。 私は何も言えず、冷たい、けれど強い感情を表す目を見つめ返す事しかできない。 今までずっと誰よりも近くにいたはずの男が、口をゆがませる。 完璧で隙のない柔らかな笑みではない。 獲物をいたぶるような、残酷な、微笑み。 「本当に質が悪いね、あんたは。すぐにそうやって依存する人間を捕まえようとする」 圧倒されて、後ろに下がろうとする足を、肩を抱く温かい腕が引き止める。 「どうしたの、弟君?なんか色々はみ出てるよ?余裕ないね?」 千尋の目が私の隣に向かう。 「ええ、どっかの物好きが、目を離した隙に人のものを盗ろうとしているので。どうせ、すぐに飽きるくせに」 「誰だろうね?『人のもの』を盗ろうとするのはよくないよねー。俺は一度手に入れたものは大事にする派だけど」 弟が顎を上げて、鼻で笑う。 整った顔に浮かぶ笑顔は残酷で、けれど見惚れてしまう。 「口ではなんとでも言えますね。途中で放り出すほど、残酷なことはないですよ?」 痛い。 痛くて、眩暈がする。 それは、駄目だ。直視しては、いけない。 「ねえ、清水!」 そこで、私と同じように蚊帳の外にいた少女が、口を挟んだ。 小柄でかわいらしい少女は、顔を不安と怒りで赤くしている。 伊藤ゆり。 弟の、彼女。 千尋は面倒くさそうに自分の腕を取っている少女を振り返る。 「なんで、いきなり別れようって言うの!?」 少女は、私達なんか目に入らないように、弟にとりすがる。 なりふり構わないその姿は、いつもの美少女然とした彼女らしくない。 「言ってるだろ。もう、あんたは別に必要ないから」 「そんな、ひどい!」 「うるさいな。あんたじゃ、役者不足なんだよ」 返す千尋の声は冷たい。 弟は人に好かれて、人に優しくて、柔らかな態度を崩すことはなかったのに。 穏やかな優等生だった弟。 いつだって、人の中心にいた千尋。 その姿からは想像ができない、冷たい男が目の前にいる。 うっとしおげに腕を振り払うと、弟はこちらに足を進める。 根木の腕の中にいる私の、包帯の巻かれた右腕を取り、引き寄せる。 「い、っ!」 「俺は、今更諦める気はないから」 耳に吐息が触れるほど、顔を寄せる。 熱い、懐かしい吐息が吹き込まれる。 私にしか聞こえない小さな、けれどしっかりとした声で。 「真衣ちゃんの傍には、俺がいる。俺『だけ』がいれば、いいんだよ」 そう言って、手を放した。 右腕の痛みが解放される。 けれど私は未だに、拘束されているような気がして腕をそっとさすった。 「大丈夫、清水?」 後ろの男を振り返る。 その眼鏡の奥の好奇心に満ちた目。 愛おしい明るい男。 どうしようもない焦燥感が、体を支配する。 その時、弟にすげなく振り払われた少女が動いた。 「あんたがっ!」 それは、女の勘というものだろうか。 それとも、今まで千尋を縛ってきた私の噂を耳にしていたのだろうか。 理由は分からない。 けれど、伊藤ゆりは私に敵意の目を向けていた。 きらきらと輝く大きな目。 それは、覚えのある感情。そして見たことのある目。 敵意と嫉妬。 少女のその顔は、醜く、哀れで、ちっぽけで。 どこか親近感を覚えた。 伊藤ゆりの細い腕が、私の胸を押す。 それほど強い力ではなかった。 でも、近頃ろくに食事をとっていなかった私の体は、簡単によろめく。 彼女は、それをしようと明確な意思を持っていたわけではないと思う。 その時、確かに驚いた表情を浮かべていたから。 よろめいた私の後ろには、階段。 力の入らない体を浮遊感を包む。 「真衣ちゃん!」 「清水!」 2人の近しい男が、私に手を伸ばす。 私は。 ……わたしは。 |