私は弱くて。
私は臆病で。
私は卑怯だった。

誰にも必要とされなかった私は、誰かに必要とされたくて仕方なかった。
1人になりたくなかった。
誰かに、傍にいてほしかった。

私を、欲しがってもらいたかった。

愛して、もらいたかった。



***




暗闇の中にいた意識が、急速に覚醒する。
目を開くと、赤い光。
眩しくてもう一度、目を閉じた。

「起きた?」

その声は、耳に優しく響く。
いたわるような、気遣いに満ちている。
その声と、緩く握られた右手に、温かさを感じた。
肌に触れる滑らかなシーツの感触。
私は、ベッドに横になっている。

こんなシチュエーション、ついこの間あった気がする。

私はもう一度、今度は左手で光を遮りながらゆっくりと目を開いた。
強い夕日に眩暈がしながら、それでも今度はしっかりと開く事ができた。
光に目が慣れたところで、左手をベッドに戻す。
慣れた、柔らかい感触の毛布。
右手を握っている人間に視線を向ける。
そこには、想像通りの人間の姿。



柔らかく微笑む、整った顔。



「ちひろ………」



私のたった一人の弟の姿。



「大丈夫、真衣ちゃん?」
枕に沈んだ頭をわずかに動かし、周りをぐるりと見回す。
モノトーンを基調に、シックに纏められた綺麗な部屋。
無駄なもののない、どこか無機質な印象の部屋。千尋の、部屋だ。
横に座っていた千尋が、手を放し、静かにベッドに腰掛ける。
穏やかに顔を覗き込んで、私の頬を撫でる。

その仕草は、弟が変わる前の。
いや、弟がすべてを隠していたあの頃を思い出す。
そう遠くないことなのに、随分と懐かしく感じる。

「どこか、痛かったりしない?」
問われていることがよく分からないが、咄嗟に首を横に振る。
体を少し動かしてみる。
腕や足が鈍く痛んだけれど、気にするほどではない。
「大丈夫」
「そうよかった」

そう言って本当に安心したように、息をついた。
ぼんやりとその様子を眺めていると、なぜ今ここにいるのかが思い出されてくる。

根木と2人で旧校舎に入って。
階段で千尋と伊藤ゆりに会った。
少し話して。

そして、伊藤ゆりが。
華奢な腕が、私の胸を押す。

「思い、出した。私、階段から落ちたんだっけ」
「そうだね。でも、俺が抱き込んで途中で止めたけど」
言われて、もう一度体を動かす。
ああ、だから手足が痛いのか。
けれど、階段から落ちたにしては確かにダメージが少ない。
頭や、他の場所が痛んだりしない。

「千尋が、助けてくれたの?」
「うん、勿論」
弟は、頬を撫でていた手を、額に移し髪を掻き揚げた。
私の目を、真っ直ぐに覗き込む。
千尋の手は温かくて、けれどなぜか、冷たいものが背筋を走る。
目を、そらしたかった。
けれど額に置かれた手は、それを許さない。

「だって、真衣ちゃん、俺に手を伸ばしたでしょう?」

二重の整った形をした目が、私を見つめる。
そして、本当に、綺麗に綺麗に微笑んだ。
千尋が言った言葉が、認識できない。

「千尋……?」

「あの時、真衣ちゃんは、俺に手を伸ばした」

まだどこか少年の線を残す腕が、私の背を支える。
そのまま、ゆっくりと体を起こされ、弟の胸に抱きこまれた。
優しく柔らかく絡めとられる。
温かく穏やかな場所。それなのに、息が詰まる。
よみがえってくる記憶を、必死に見ないようにする。

「やめて……」

声は小さくかすれていて、静止する能力を持たない。

「俺の名前を呼んでね」

首を緩く振って、弟の言葉を否定する。
けれど千尋は許さない。
優しく、残酷に、現実を突きつける。
耳元に囁かれる声は、懐かしく落ち着くものなのに。

「やめて…、千尋、いや…」

「あの時、真衣ちゃんは」

「やだっ!」

声はすでに悲鳴に近い。
けれど弟の、柔らかく私を拘束する手は緩まない。
穏やかな声も止まる事はない。

私は、目の前が、真っ暗になるような気がした。


「俺を選んだんだ」

あの時。

手を伸ばす、2人の男。

大切な、2人。

私は。


千尋に手を伸ばしたのだ。


知らずに、目頭が熱くなって、そのまま頬に零れ落ちた。

体を放した千尋が、私の頬を繊細な指でぬぐいさる。
その指が優しくて、温かで、余計に涙が出てくる。
けれど、弟はとてもとても嬉しそうに笑った。
「そうだよね、真衣ちゃんが俺以外を選べるはずなんて、なかったんだ」
無邪気にくすくすと笑う。
それは子供のようにあどけなくて、そして残酷だった。
その綺麗に整った顔を、呆然と見ていた。
「俺としたことが、ちょっと焦っちゃったよ」
本当につられてしまいそうなほど、幸せそうな笑み。
なのに、なぜ、私は涙が止まらないのだろう。
なぜ、こんなにも胸が痛いのだろうか。
「そんなことあるわけないのにね。ずっとずっと、そうしてきたんだから。
真衣ちゃんが、俺だけを見るように。俺だけを頼るように」
「ち、ひろ……」

「俺しか、選べないように」

頬を撫でていた指が、唇を辿る。
薄く開き、涙で濡れた唇を何度もなぞる。
「あんな男に触らせたのは、すごい腹立つけどね。まあ、少しくらいなら許してあげる。結局真衣ちゃんは、俺を選んだんだから」

あんな男。
私の唇に、何度も触れた男の顔が浮かぶ。
優しくて、明るくて、朗らかで、愛おしかった。
根木の、人間臭さに惹かれた。

「ちが、う……」
私の震える否定は、綺麗に聞き流される。
「でもよかった。真衣ちゃんが気付くのが遅かったら、俺もっと真衣ちゃんを追い詰めなければならなかった。俺だって、ひどいことはしたくないんだよ?」
唇を離れ、耳を辿り、首筋を撫でる。
柔らかな、優しい仕草。
落ちていきそうな恐怖と共に、ぞくりとするような不思議な感覚が走る。
「ちがう、千尋……」
「あんたは目を離すとすぐに誰かにすがりつこうとするから、引き止めておくのは本当に大変」

薄暗い校舎裏のベンチ。
くるくると感情を映す細い目。
私を落ち着かせてくれる不思議な言葉。

「違うっ……違う、千尋!」
「あんたに近づく人間を排除して、俺しかいなくなるようにして」
千尋はうたうように続ける。
なんでこんなに絶望的になるのだろう。
どうして、こんなに不安になるのだろう。

「違う!千尋!私が、私が選んだのはっ!」

私が好きなのは、根木だ。
あの眼鏡で、少し猫背な男が好きなのだ。
根木の優しさが好きなのだ。

何より、あの明るさに、憧れたのだ。


泣き叫ぶ私を、けれど千尋は認めない。
柔らかい視線で、そしてどこか馬鹿にしたように笑った。

「俺、だよ。真衣ちゃんは、俺を選んだんだよ」

「違う」
私は馬鹿のように、同じ言葉を返す事しかできない。
「真衣ちゃんは知ってるんだよ。俺の他には、誰もあんたの傍にいないってね」
「違う……」
「あの男が、本当にずっと傍にいてくれると思う?他人のあいつが」
「違う……」
根木は、優しかった。
私を癒してくれた。
守ってくれた。
傍にいてくれると、言ってくれた。
「真衣ちゃんは耐えられなかったんでしょ。いつか1人にされることが」
「ちが……」
優しい男。
私を傷つけることなんて絶対にしない。
「俺が一番、真衣ちゃんを欲しがってる」

息が出来ない。
穏やかな視線で私を見つめる男から、目を離せない。
私は、自分の中にある感情が、見えてしまった。

「真衣ちゃんは、比べたんだ。俺とあいつを」

ずっと蓋をして、隠してきたものが、どろりと腐臭をはなって流れだしてくる。

「打算的だね。あんたは結局、自分のことしか考えてない。あの男も、可哀想に」

切りつけられた。
突きつけられた。

涙が、止まらない。

その通りだ。
私は、天秤にかけたのだ。

そして、より自分に得になるほうを、選んだ。

根木は優しくて、私の嫌がることは絶対にしない。
根木は私の意志を優先させる。
恐いくらいに、私を求めたりしない。
根木はきっと、私でなくてもいいのだ。
他の誰であろうと、彼は温かく、愛せるだろう。
根木は、いつか、こんな不出来な私なんていらなくなってしまうかもしれない。
いなくなって、しまうかもしれない。

それは、ずっとあった不安。
自分でいなくなってもいいと言っておきながら、それでも恐くて仕方なかった。
1人に、されたくなかった。

けれど、千尋は。

右腕の、包帯をなぞる。
まだ、少し痛む。そこには、赤い、激しい感情の名残が残っている。

私と同じように、どこか壊れたようなこの弟は。

きっと、ずっと、私を欲しがってくれるから。
傍に、いて、くれるだろうから。


私は私の醜さを、認めたくなかった。
だから、ずっと見ないふりをしていた。
自分勝手な都合で、あの男を振り回した。
優しい男を、利用した。
けれど、ここで私があの男を選ばなくても、根木はきっとすぐに別の人を見つける。
そんな確信が、どこかにあった。


もう一度、弟が私を柔らかく腕に絡めとる。
どこまでも優しく、力のこもらないこの腕から、けれど逃げることが出来ない。

「それでいいんだよ。真衣ちゃん」

耳元に穏やかで通りのいい少し高めの声が響く。
熱い息に、体が震えた。

「俺が傍にいる。あんたの傍には、ずっとずっと、俺がいるから」

私は、止まらない涙で弟のシャツを濡らしながら、力を抜いた。
その体を、弟が抱きとめる。

「俺だけが、いるから」

根木の明るさが愛おしかった。
あの薄暗い校舎裏のベンチが、どこより落ち着いた。
力強い腕に、抱きしめられたかった。

私が今いる、暗い場所から逃げたかった。
息が詰まるような、弟の腕から抜け出したかった。


それなのに、私は、喜びを感じてしまった。
この赤くなった右腕に体が震えるほど嬉しかった。
全身で、私を求めて止まない弟が、愛おしかった。

ずっと、千尋に置いていかれそうで恐かった。
一緒にいると、何度約束されても、恐くて、仕方なかった。
誰からも好かれるこの男が、私の傍にいてくれると信じられなかった。

だが、こんなにも、弟は私を欲している。
私の意志なんて関係なく、無理矢理にでも私をねじ伏せる。
この、完璧な男に縛られている。
そして、この完璧な男を、縛っている。

優越感と、恐怖と、そして何よりも喜びが、私を満たす。


涙で湿った肩に、顔を押し付ける。
ずっとずっと、傍にあった匂い。
傍にあった体。

「……千尋は、ずっと、傍にいて、くれる?」

声は、自分でも笑ってしまうほど、頼りなかった。
子供のように、どこか甘えた口調。
どこまでも打算的で卑怯な自分に吐き気がして、大嫌いだった。

「私を、好きで、いてくれる?」

それでも、私は、1人は、嫌だ。
傍に、ずっと、いて欲しかった。

柔らかく抱きしめる弟の腕に、守られていると思っていた。
けれど、この腕は、私を囚えるためにあったのだろうか。

弟をずっと、縛ってきた。
弟をずっと、支配してきた。

けれど、本当に囚われていたのはどちらなのだろう。

もう、分からない。
もう、どうでもいい。

分かる事は、私はもう、戻れないと言う事。

根木の明るい笑い声が、浮かんで、消えた。


弟が、笑みを深める。

「当たり前でしょ。俺は、真衣ちゃんの弟なんだから」

千尋の大きな手が、私の肩を掴みなおす。
どこまでも凪いだ、穏やかな目が、私のぐちゃぐちゃになった顔をまっすぐに見る。
嬉しそうに、無邪気に笑う、たった一人の弟。
ゆっくりと整った顔が近づき、唇に吐息が触れる。


「ずっと傍にいるよ。真衣ちゃんが、大好きだよ」


それなら、もう、いい。


その優しい目を焼き付けて、目を閉じた。




私はこの、柔らかな檻の中で、囚われていくのだ。





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