私は弱くて。 私は臆病で。 私は卑怯だった。 誰にも必要とされなかった私は、誰かに必要とされたくて仕方なかった。 1人になりたくなかった。 誰かに、傍にいてほしかった。 私を、欲しがってもらいたかった。 愛して、もらいたかった。 暗闇の中にいた意識が、急速に覚醒する。 目を開くと、赤い光。 眩しくてもう一度、目を閉じた。 「起きた?」 その声は、耳に優しく響く。 いたわるような、気遣いに満ちている。 その声と、緩く握られた右手に、温かさを感じた。 肌に触れる滑らかなシーツの感触。 私は、ベッドに横になっている。 こんなシチュエーション、ついこの間あった気がする。 私はもう一度、今度は左手で光を遮りながらゆっくりと目を開いた。 強い夕日に眩暈がしながら、それでも今度はしっかりと開く事ができた。 光に目が慣れたところで、左手をベッドに戻す。 慣れた、柔らかい感触の毛布。 右手を握っている人間に視線を向ける。 そこには、想像通りの人間の姿。 柔らかく微笑む、整った顔。 「ちひろ………」 私のたった一人の弟の姿。 「大丈夫、真衣ちゃん?」 枕に沈んだ頭をわずかに動かし、周りをぐるりと見回す。 モノトーンを基調に、シックに纏められた綺麗な部屋。 無駄なもののない、どこか無機質な印象の部屋。千尋の、部屋だ。 横に座っていた千尋が、手を放し、静かにベッドに腰掛ける。 穏やかに顔を覗き込んで、私の頬を撫でる。 その仕草は、弟が変わる前の。 いや、弟がすべてを隠していたあの頃を思い出す。 そう遠くないことなのに、随分と懐かしく感じる。 「どこか、痛かったりしない?」 問われていることがよく分からないが、咄嗟に首を横に振る。 体を少し動かしてみる。 腕や足が鈍く痛んだけれど、気にするほどではない。 「大丈夫」 「そうよかった」 そう言って本当に安心したように、息をついた。 ぼんやりとその様子を眺めていると、なぜ今ここにいるのかが思い出されてくる。 根木と2人で旧校舎に入って。 階段で千尋と伊藤ゆりに会った。 少し話して。 そして、伊藤ゆりが。 華奢な腕が、私の胸を押す。 「思い、出した。私、階段から落ちたんだっけ」 「そうだね。でも、俺が抱き込んで途中で止めたけど」 言われて、もう一度体を動かす。 ああ、だから手足が痛いのか。 けれど、階段から落ちたにしては確かにダメージが少ない。 頭や、他の場所が痛んだりしない。 「千尋が、助けてくれたの?」 「うん、勿論」 弟は、頬を撫でていた手を、額に移し髪を掻き揚げた。 私の目を、真っ直ぐに覗き込む。 千尋の手は温かくて、けれどなぜか、冷たいものが背筋を走る。 目を、そらしたかった。 けれど額に置かれた手は、それを許さない。 「だって、真衣ちゃん、俺に手を伸ばしたでしょう?」 二重の整った形をした目が、私を見つめる。 そして、本当に、綺麗に綺麗に微笑んだ。 千尋が言った言葉が、認識できない。 「千尋……?」 「あの時、真衣ちゃんは、俺に手を伸ばした」 まだどこか少年の線を残す腕が、私の背を支える。 そのまま、ゆっくりと体を起こされ、弟の胸に抱きこまれた。 優しく柔らかく絡めとられる。 温かく穏やかな場所。それなのに、息が詰まる。 よみがえってくる記憶を、必死に見ないようにする。 「やめて……」 声は小さくかすれていて、静止する能力を持たない。 「俺の名前を呼んでね」 首を緩く振って、弟の言葉を否定する。 けれど千尋は許さない。 優しく、残酷に、現実を突きつける。 耳元に囁かれる声は、懐かしく落ち着くものなのに。 「やめて…、千尋、いや…」 「あの時、真衣ちゃんは」 「やだっ!」 声はすでに悲鳴に近い。 けれど弟の、柔らかく私を拘束する手は緩まない。 穏やかな声も止まる事はない。 私は、目の前が、真っ暗になるような気がした。 「俺を選んだんだ」 あの時。 手を伸ばす、2人の男。 大切な、2人。 私は。 千尋に手を伸ばしたのだ。 知らずに、目頭が熱くなって、そのまま頬に零れ落ちた。 体を放した千尋が、私の頬を繊細な指でぬぐいさる。 その指が優しくて、温かで、余計に涙が出てくる。 けれど、弟はとてもとても嬉しそうに笑った。 「そうだよね、真衣ちゃんが俺以外を選べるはずなんて、なかったんだ」 無邪気にくすくすと笑う。 それは子供のようにあどけなくて、そして残酷だった。 その綺麗に整った顔を、呆然と見ていた。 「俺としたことが、ちょっと焦っちゃったよ」 本当につられてしまいそうなほど、幸せそうな笑み。 なのに、なぜ、私は涙が止まらないのだろう。 なぜ、こんなにも胸が痛いのだろうか。 「そんなことあるわけないのにね。ずっとずっと、そうしてきたんだから。 真衣ちゃんが、俺だけを見るように。俺だけを頼るように」 「ち、ひろ……」 「俺しか、選べないように」 頬を撫でていた指が、唇を辿る。 薄く開き、涙で濡れた唇を何度もなぞる。 「あんな男に触らせたのは、すごい腹立つけどね。まあ、少しくらいなら許してあげる。結局真衣ちゃんは、俺を選んだんだから」 あんな男。 私の唇に、何度も触れた男の顔が浮かぶ。 優しくて、明るくて、朗らかで、愛おしかった。 根木の、人間臭さに惹かれた。 「ちが、う……」 私の震える否定は、綺麗に聞き流される。 「でもよかった。真衣ちゃんが気付くのが遅かったら、俺もっと真衣ちゃんを追い詰めなければならなかった。俺だって、ひどいことはしたくないんだよ?」 唇を離れ、耳を辿り、首筋を撫でる。 柔らかな、優しい仕草。 落ちていきそうな恐怖と共に、ぞくりとするような不思議な感覚が走る。 「ちがう、千尋……」 「あんたは目を離すとすぐに誰かにすがりつこうとするから、引き止めておくのは本当に大変」 薄暗い校舎裏のベンチ。 くるくると感情を映す細い目。 私を落ち着かせてくれる不思議な言葉。 「違うっ……違う、千尋!」 「あんたに近づく人間を排除して、俺しかいなくなるようにして」 千尋はうたうように続ける。 なんでこんなに絶望的になるのだろう。 どうして、こんなに不安になるのだろう。 「違う!千尋!私が、私が選んだのはっ!」 私が好きなのは、根木だ。 あの眼鏡で、少し猫背な男が好きなのだ。 根木の優しさが好きなのだ。 何より、あの明るさに、憧れたのだ。 泣き叫ぶ私を、けれど千尋は認めない。 柔らかい視線で、そしてどこか馬鹿にしたように笑った。 「俺、だよ。真衣ちゃんは、俺を選んだんだよ」 「違う」 私は馬鹿のように、同じ言葉を返す事しかできない。 「真衣ちゃんは知ってるんだよ。俺の他には、誰もあんたの傍にいないってね」 「違う……」 「あの男が、本当にずっと傍にいてくれると思う?他人のあいつが」 「違う……」 根木は、優しかった。 私を癒してくれた。 守ってくれた。 傍にいてくれると、言ってくれた。 「真衣ちゃんは耐えられなかったんでしょ。いつか1人にされることが」 「ちが……」 優しい男。 私を傷つけることなんて絶対にしない。 「俺が一番、真衣ちゃんを欲しがってる」 息が出来ない。 穏やかな視線で私を見つめる男から、目を離せない。 私は、自分の中にある感情が、見えてしまった。 「真衣ちゃんは、比べたんだ。俺とあいつを」 ずっと蓋をして、隠してきたものが、どろりと腐臭をはなって流れだしてくる。 「打算的だね。あんたは結局、自分のことしか考えてない。あの男も、可哀想に」 切りつけられた。 突きつけられた。 涙が、止まらない。 その通りだ。 私は、天秤にかけたのだ。 そして、より自分に得になるほうを、選んだ。 根木は優しくて、私の嫌がることは絶対にしない。 根木は私の意志を優先させる。 恐いくらいに、私を求めたりしない。 根木はきっと、私でなくてもいいのだ。 他の誰であろうと、彼は温かく、愛せるだろう。 根木は、いつか、こんな不出来な私なんていらなくなってしまうかもしれない。 いなくなって、しまうかもしれない。 それは、ずっとあった不安。 自分でいなくなってもいいと言っておきながら、それでも恐くて仕方なかった。 1人に、されたくなかった。 けれど、千尋は。 右腕の、包帯をなぞる。 まだ、少し痛む。そこには、赤い、激しい感情の名残が残っている。 私と同じように、どこか壊れたようなこの弟は。 きっと、ずっと、私を欲しがってくれるから。 傍に、いて、くれるだろうから。 私は私の醜さを、認めたくなかった。 だから、ずっと見ないふりをしていた。 自分勝手な都合で、あの男を振り回した。 優しい男を、利用した。 けれど、ここで私があの男を選ばなくても、根木はきっとすぐに別の人を見つける。 そんな確信が、どこかにあった。 もう一度、弟が私を柔らかく腕に絡めとる。 どこまでも優しく、力のこもらないこの腕から、けれど逃げることが出来ない。 「それでいいんだよ。真衣ちゃん」 耳元に穏やかで通りのいい少し高めの声が響く。 熱い息に、体が震えた。 「俺が傍にいる。あんたの傍には、ずっとずっと、俺がいるから」 私は、止まらない涙で弟のシャツを濡らしながら、力を抜いた。 その体を、弟が抱きとめる。 「俺だけが、いるから」 根木の明るさが愛おしかった。 あの薄暗い校舎裏のベンチが、どこより落ち着いた。 力強い腕に、抱きしめられたかった。 私が今いる、暗い場所から逃げたかった。 息が詰まるような、弟の腕から抜け出したかった。 それなのに、私は、喜びを感じてしまった。 この赤くなった右腕に体が震えるほど嬉しかった。 全身で、私を求めて止まない弟が、愛おしかった。 ずっと、千尋に置いていかれそうで恐かった。 一緒にいると、何度約束されても、恐くて、仕方なかった。 誰からも好かれるこの男が、私の傍にいてくれると信じられなかった。 だが、こんなにも、弟は私を欲している。 私の意志なんて関係なく、無理矢理にでも私をねじ伏せる。 この、完璧な男に縛られている。 そして、この完璧な男を、縛っている。 優越感と、恐怖と、そして何よりも喜びが、私を満たす。 涙で湿った肩に、顔を押し付ける。 ずっとずっと、傍にあった匂い。 傍にあった体。 「……千尋は、ずっと、傍にいて、くれる?」 声は、自分でも笑ってしまうほど、頼りなかった。 子供のように、どこか甘えた口調。 どこまでも打算的で卑怯な自分に吐き気がして、大嫌いだった。 「私を、好きで、いてくれる?」 それでも、私は、1人は、嫌だ。 傍に、ずっと、いて欲しかった。 柔らかく抱きしめる弟の腕に、守られていると思っていた。 けれど、この腕は、私を囚えるためにあったのだろうか。 弟をずっと、縛ってきた。 弟をずっと、支配してきた。 けれど、本当に囚われていたのはどちらなのだろう。 もう、分からない。 もう、どうでもいい。 分かる事は、私はもう、戻れないと言う事。 根木の明るい笑い声が、浮かんで、消えた。 弟が、笑みを深める。 「当たり前でしょ。俺は、真衣ちゃんの弟なんだから」 千尋の大きな手が、私の肩を掴みなおす。 どこまでも凪いだ、穏やかな目が、私のぐちゃぐちゃになった顔をまっすぐに見る。 嬉しそうに、無邪気に笑う、たった一人の弟。 ゆっくりと整った顔が近づき、唇に吐息が触れる。 「ずっと傍にいるよ。真衣ちゃんが、大好きだよ」 それなら、もう、いい。 その優しい目を焼き付けて、目を閉じた。 私はこの、柔らかな檻の中で、囚われていくのだ。 |