「なんか、機嫌いいね。真衣ちゃん」 家に帰って、夕飯を食べている時のことだった。 今日もやはり両親はいない。 千尋と、2人きり。 安心するけど、どこか不安で、苛立つ時間。 「そう?」 「うん、なんか楽しそう。なんかあった?」 自分では気付かなかったが、そんなに楽しそうだっただろうか。 心当たりは一つある。 お昼休みにあった、変な男。 「ほら、笑ってる」 千尋が、じっと見ていた。 柔らかな表情。まだ少し少年の線を残す2つ年下の弟。 「え、笑ってた?」 私は頬に手をやった。 無意識のうちに、笑っていたようだ。 「笑ってる。今日、いいことあったの?」 「いいこと……、いいこと、なのかな」 根木は、予想通りの楽しい人間だった。 さばさばしてて、べたべたしていない。 距離のとり方がうまく、私もわずらわしさを感じなかった。 珍しく、本当に人と会話をするのが楽しく感じた。 あいつなら私に飽きたらすぐどっか行ってくれる、という安心感もあったかもしれない。 今、目の前にいる人間のように、責任感で付き合ったりはしない、という。 「また」 その声に、顔をあげる。 「よっぽど楽しかったみたいだね」 無表情な顔、意識しなければ気付かないような、わずかな険のある声。 「ち、ひろ……?」 なぜか少し、優しい弟が怖くなる。 けれど、それも一瞬。 弟はすぐにいつもの柔和な笑顔を見せた。 「よかった。近頃真衣ちゃん、すごく不機嫌だったから」 「そ、う……?」 気のせい、だったのだろうか。 すでに、千尋はいつもの様子に戻っている。 知らずに肩に入っていた力が抜ける。 「うん、ちょっと怖かったよ」 そう言って、おどけてみせる出来のいい優秀な弟。 おどけた顔をみせても、整った顔は崩れない。 「しつれーなやつ」 私もその明るい雰囲気にのることにする。 ごめん、と千尋が笑った。 二重の大きな目は、けれどどこか笑っていない。 「それで、何があったの、真衣ちゃん?」 いつもとは違う息苦しさを感じた。 おかしな、雰囲気。 「別に、何も」 そう、答えた。 もう、この話は打ち切りたかった。 なぜだろう。 弟がもう一度、口を開こうとした時、ドアがガチャリと開く音がした。 誰かが帰って来たのだ。 「あ、たぶん母さんだ」 千尋がそう言って、母の分の夕飯を用意するために席をたつ。 両親が家にいるのは嫌いだが、今は助かったように感じた。 私も同じように席を立ち、食器を片付けると、何も言わずに足早にダイニングを後にする。 なぜか、早くこの場を離れたかった。 「もっしもーし、清水さんパンツ見えるよー」 翌日、いつものように、私は校舎裏のベンチにいた。 7月の陽気、けれど今日はさらりと風が涼しくて、気持ちよかった。 昼食後の倦怠感は心地よく、私はベンチに横になっていた。 とろりとろりと眠気を楽しんでいると、そんな声が上からかかる。 「別にいいよ。減るもんじゃないし」 起き上がるのも面倒くさく、目を閉じたまま私は億劫に返答した。 「マジですか!?あ、でもそんな風に見せ付けられると逆に萎えるかなあ、あー、でも据え膳食わぬは男の恥!?」 なにやら1人で自問している男を黙らせるため、私は寝転んだまま、スカートを捲り上げた。 「うおおおお!!!!!」 叫び声があがる。 「おおおおぉぉぉ………?」 けれどその叫び声はだんだんフェードアウトしていった。 直後に悲痛な声が聞こえる。 「ジャージかよおおおぉぉぉぉぉ!」 「悪いね」 「せめてブルマー!!!」 「もうそんなもん存在しないよ」 「男の浪漫がぁぁ!!」 その叫びが本当に悔しそうで私は笑い声が漏れてしまった。 目を開けて、ゆっくりと起き上がる。 「おはよう」 「ちくしょう」 目の前の男は地面にうなだれている。 哀愁漂うその様子に、ますます笑いが漏れる。 「元気出してよ、鴨」 「根木です」 「そうだっけ、ごめん」 「どんな連想だよ!」 根木も笑って、ゆっくりと立ち上がった。 スペースの空いたベンチに座り込む。 「今日はもうメシ食い終わったんだ」 「根木も?」 「うん」 少し沈黙。私は何気なく上を向ける。 夏のきつい陽射しが木の隙間からこぼれて、綺麗だった。 「根木」 上を向いたまま、根木に話しかける。 「んー?」 どこか眠たげな声。 「私といて、楽しい?」 「さあ、二日目だからよく分からないけど、まだ結構楽しい」 「そっか」 根木に正直な答えは、安心した。 楽しいから一緒にいてくれる。 楽しくなくなったら去る。 それは、分かりやすかった。 「清水は女の友達とかはいないのー?」 「見て分かるでしょ」 「まあ、見る分にはいないね」 「近寄ってくる女の子はいるけどね」 顔を、元に戻す。 眉間に皺がよっているのが分かった。 ああ、そういえば、昨日根木に言われたっけ。 根木は、細いフレームの眼鏡の下から、こちらをまっすぐ見ていた。 「いるの?」 「弟目当てにね」 肩をすくめる。 近寄ってくる女の子は、みんなそんなのばかりだった。 根木は納得したように声をあげる。 「あー、かの有名な清水弟ね」 「そ、眉目秀麗文武両道、優しく正しく麗しい千尋君の姉だから」 「優秀な弟に出来の悪い姉ねー。そりゃひねくれるわけだ」 本当に、根木は率直だ。 その言葉に、同情や、揶揄の響きはない。 だから私も素直に答えられた。 「そ、それでこんなにひねくれちゃったの」 そう、それだけの事なのだ。 たった、それだけの事。 また、少しの沈黙。 涼しい風が、気持ちよかった。 いつも千尋の事を考えると沸き立つ苛立ちが、今はない。 隣の男の、植物的な空気のせいかもしれなかった。 「清水弟が、女フるのって、清水姉が原因って本当?」 「え?」 急に投げかけられた言葉。 それは、前からまことしやかに囁かれている噂だった。 「………本当。私が別れろって言うの」 「超ブラコンだね、清水」 ブラコン。 それは、初めて言われた言葉だった。 どこか違和感を感じた。 そして、なんだか私の悩みがものすごい軽いものなようにも感じた。 根木の言葉は、不思議だ。 「ブラコン、か」 「そう、弟君大好きね」 「嫌い」 「え」 「千尋は嫌い。だから邪魔するんだ」 目線を隣の男に戻すと、根木は興味深げにこちらを見ていた。 純粋な好奇心。 本当に、率直だ。 「千尋は嫌い。大嫌い。千尋1人がもっと幸せになるのも許せない。千尋はただでさえ、恵まれてて、幸せなんだから、少しくらい不幸になればいい」 沈黙。震える唇を押さえつけて、大きく息を吐いた。 その後を続けようか、一瞬迷う。 隣の男は何も言わない。それに促されるように、口をひらいた。 「………それに、千尋がいなくなったら、私どうしようもなくる。置いていかれるなんて、耐えられない。」 最後の方は、どんどん小さくなっていってしまった。 情けない、さもしい、惨めだ。 一番嫌いで、一番妬ましい人間に、頼ってすがって縛りつけて。 私はなんて、醜いんだろう。 自分の中の汚いものが出てきてそうで、上を向いて顔を手で覆った。 「やっぱブラコンじゃん」 けれど、隣の男は声はやはり変わらなかった。 表情は見えない、けれどあの眼鏡の下から好奇心をたたえてこちらを見えてるのが分かった。 「ブラコン、なのかな」 「バリバリ。ヤバイね。そろそろ卒業したら」 軽い口調。まったく親身に思えない態度。 けれど、心が軽くなる。 いや、だから、だろうか。 なんだか、私が悩んでいることが、本当にくだらないことに思えてくる。 千尋へのゆがんだ想いとか、両親との仲とか、どうでもいい事に思える。 「そっか。そろそろ、卒業しなくちゃね」 「そうそう、それにさ」 隣の男が立ち上がった気配がした。 上を向いて、目を覆っていた手がゆっくりと取り払われる。 眼鏡の男が、静かに優しい笑顔でこちらを見ていた。 「人間って、結構、1人にはなれないものだよ?どんなに望んでもね」 大きな手は、千尋のものよりもでこぼこしていた。 堅く、力強い。 わずかに汗をかいた手が、心地よかった。 「そっかな」 「そうそう。それに面白そうだし、俺はお話聞くよ?野次馬根性だけど」 俺がいる、とかは言わない。 出会って2日でそんなのは嘘臭い。 だから、根木の言葉は耳に自然と入ってきた。 レンズ越しの目は、笑っていた。 |