平々凡々な家に生まれて、平々凡々な人生を過ごして。 顔も普通、成績も普通、運動神経も普通。 良くも悪くも無個性に生きてきて、それなりに笑ってそれなりに涙なんかも流して。 バブル期終わって短大入って、一昔前の派手な時代の恩恵に預かれない地味な大学生活。 まあ、それでもそれなりに楽しく青春して。 それから、貧乏くじ世代だの言われて、今の就職難なんて目じゃないぐらいの就職氷河期乗り越えて。 なんとか潜り込んだ会社で、特に楽しくもつまらなくもない仕事も、地味にこつこつ頑張ってきて。 いいことも少ないけど、悪いこともそうなかった。 それが幸せと、人によっては言うかもしれない。 確かに、不幸とも思わなかったからきっと幸せ。 ていうから今から覚えばとても幸せ。 私は頑張って地道に、ささやかに生きてきた。 それで。 その結果がこれ。 異世界拉致監禁ツアー。 ああ、本当に神様ってやつがいるなら言ってやりたい。 一辺這いつくばって地面に頭すりつけて謝れこの野郎。 まあ、いいの。 でもいいの。 私は今とても穏やかな気持ち。 少しくらいならこの世界だって我慢してやろうっていう寛大な気持ちになっている。 なんて心が広い大人な私。 向こう帰ってからの再就職やら親の追及だのは考えない。 とりあえず考えない。 スルースキルでやり過ごす。 きっとファンタジーな力が働いて、私が消えたその時間に戻ってるはず。 ジャージ着て、ビール飲んでるって寸法よ。 むしろ夢オチ。 起きたら、ああ、なんて長い夢だったのかしら、って思うのよ。 そう、そういうこと。 そうに違いない。 それ以外は認めない。 ここまで落ち着くことができたのは、私の懐が広いってことも勿論あるんだけれど、もう一つ大きな要因がある。 「アルノ、これは、これでいい?」 「はい、大丈夫。ありがとう」 私の見せた羊皮紙?を一読するとアルノはにっこりと笑った。 褒められて嬉しい、なんていつぶりかしら。 小学校の頃、苦手だった図工の時間に絵を褒められたときをなんだか思い出す。 アルノに褒められると、素直な気持ちで受け取ることができる。 そして、この世界では何もできない私が、アルノのためになにかできることが、純粋に嬉しい。 「ありがとう、セツコ。助かる。君は、とても、覚えがいい」 「うふふふ、ありがとう」 アルノは相変わらずゆったりと聞き取りやすいように話す。 大きく皺の入った手で頭を撫でられるとくすぐったい。 いい加減いい歳こいた女が頭撫でられるなんて痛いけど。 けれどアルノはまるで十やそこらの少女のように私を扱ってくれる。 ああ、いい気持ち。 とても簡単なことしかできないけれど、それこそ子供の遣い程度のことだけれど。 それでも、アルノの力になれるなら嬉しい。 このロクでもない最低な世界に突如現れたヒーロー、アルノ。 私の素敵なロマンスグレー。 これまで、私の人生でこんなにも信頼できる人がいただろうか。 上司に向けるものとも違う、恋人に向けるものとも違う。 なんだろう、この深い安心と、胸が浮き立つ感じは。 憧れ、だろうか。 その言葉が、一番この感情に近いかもしれない。 アルノの深い深い緑の瞳に見つめられると、年甲斐もなくそわそわしてしまう。 けれど、眠くなるような安心感にも包まれる。 最近は年下好みになっていたし、エリアスがかわいくて癒されていた。 けれど、なんだかまた年上好みになってしまいそう。 ていうか親父専になりそう。 アルノは全然違う。 もうなんていうか次元が違う。 エリアスと比べるなんて申し訳ないぐらい。 うん、申し訳ない。 アルノとエリアスを比べるなんて、狼に犬だって言うぐらい失礼。 月とすっぽん。 石炭とダイアモンド。 「どうした、セツコ?」 「あ、ううん、なんでもないの。じゃあ、次、やる」 「はい、ありがとう」 気がつけば、じっとアルノを見つめていたらしい。 私は慌てて、もう一枚の書類を手にとって、そろばんに向かった。 アルノ=サロ。 白髪混じりの濃い茶の髪と、深い緑のロマンスグレー。 54歳にしては少し老けているけれど、彫りが深く優しげな顔立ち。 正直60ぐらいにも見えるけど、日本より平均寿命も短いだろうし、こんなものだろうか。 深い皺がもっと深くなる優しい笑顔と、穏やかな声。 非の打ちどころのない美中年、老年? とりあえずロマンスグレー。 元々この国の一領地だったころから公務員をしていたらしい。 公務員でいいのかな。 まあ、それっぽい感じだから大丈夫よね。 とりあえず領主に仕えていた。 農民の多いこの国の中では珍しい、裕福な商家の次男坊。 長男の継ぐ家から自立するために城に奉公にあがっていたらしい。 私のアルノは昔から心優しく人間が出来ていた。 戦乱の世が続き、領主の横暴ぶりが酷くなるカレリアでは、土地を捨て逃げる農民が増えていた。 カレリアの中心、サーリセルカには無職の人間、捨てられた子供たちなどが集中してひどいことになっていたらしい。 アルノは、スラム化した路地街の子供たちに暇を見つけては勉強などを教えていた。 アルノと馬鹿王ミカの出会いはその頃。 スラム街のリーダー格で悪人人生まっしぐらだったミカに学と人の道を叩きこんだのがアルノ。 だから、今でもミカはアルノに頭が上がらないらしい。 数少ないミカの弱点のうちの一人。 それが、アルノだった。 ミカがカレリアを一回出て、また帰ってきて、国を興して。 そして、かつての恩師を自分の財務官として迎えた。 なんて美談。 とても美しい師弟関係。 テレビ番組で取り上げたら徳○さんが泣いちゃうぐらい。 でも、この国の財務一手に任されるって、それは拷問以外の何物でもないわね。 なにせ何一つ機能が整っていない。 アルノは何年も、一人でこの国を支え続け、必死で体制を整えようとしてきたらしい。 ああ、なんて可哀そうなアルノ。 だからきっとこんな老けちゃったのね。 馬鹿王にこき使われて、倒れるぐらい無理しちゃって。 あの鬼畜どもが補佐してほしいといったのは、アルノのことらしい。 長年の疲労で、ついに倒れたアルノの仕事を手伝ってほしいってことだった。 あの日初めてあった日に、アルノは私に約束してくれた。 必ず、私を帰してくれる、と。 残念ながらアルノ自身が帰すことはできないけれど、あの悪魔に必ず方法を見つけさせる、と。 あの悪魔もアルノには強く逆らうことはできないらしい。 アルノは、私に約束してくれた。 だから、私もここにいる間はアルノのために働こう。 少しでも、アルノの力になれるなら私は労働条件最悪なタダ働きでも甘受しよう。 この最低な世界で唯一の光。 アルノがいるなら、私はまだ頑張れる。 「セツコ、少し、*************」 「えっと」 計算に没頭していると、アルノが不意に話しかけてきた。 私が言葉が分からなかったのを理解して、アルノは少し考えるように首を傾げる。 しばらくして、もう一度口を開く。 「休憩、外へ、でる」 「え」 「気分を、かえる」 アルノはいつも私が持っている勉強用の木の切れっぱしに単語を書いて説明してくれる。 仕事の合間にも、アルノは私の言葉を教えてくれる。 静養していたせいできっと仕事がたまって大変なのに、私に言葉を教えて、私にできる仕事をまわし、そして自分の仕事を片づける。 本当に人間出来すぎでしょ。 そんなところにもときめいてしまう。 けれど、こんなだからミカなんかにいいようにこき使われるのだ。 アルノがリアルに過労死しないか心配でならない。 ここにいる間は、アルノの健康管理も私がしよう。 徹夜なんて絶対にさせない。 アルノの健康には、私の未来もかかっているし。 この人がいなくなったら、あの悪魔どもを止める人がいなくなる。 勿論それだけでなく、アルノのためでもある。 それぐらいはしないと、私にできる仕事は数少ない。 なにせ言葉が理解できないから、補佐なんてできるはずもない。 本当に子供のおつかい程度のものだ。 けれど、この国の人は計算があまり得意でないらしい。 九九とか暗算とかも苦手なようだ。 計算が結構速い私は重宝されている。 出来の悪いそろばんの使い方もすぐに覚えた。 ああ、珠算やっててよかった。 微分積分とか刺身の中に入ってる草っぽいプラスチックと同じぐらい使い道ないと思っていたけれど、こんなところで役立つとは。 芸は身をたすく。 ありがとう、お母さん。 サボって遊びに行こうとする私を無理やり教室に叩きこんでくれて。 字が分からなくてもできる計算とか、なんとか見分けのつく書類の整理とか、他の人にも手伝ってもらいながら、それなりに出来る仕事をしている。 しかし道理でトイレや台所といった単語以前に、決算だの未収金だの前払い金だのを教えられた訳だ。 なんでこんなレアな言葉ばっかり覚えなきゃいけないのかと思ったけれど、これが答えだったのか。 これがこっちの日常的な言葉なのかと思ったわよ。 つーか死ね悪魔。 とりあえず生活の基礎から教えろ。 悪魔は人の生活が理解できないからしょうがないのかもしれないけれど。 「セツコ?」 「あ、えっと、外、いく?」 「ええ、イキヌキ、しよう」 えっと、たぶん息抜き、とかそう言った意味でいいのかな。 多分そうだ。 にしても、外? 「外を、みよう」 「え」 私はいまだに外に出してもらっていない。 あの日約束したのに、まだ外は危険だとかなんとかでいまだ軟禁状態。 頼むからせめて太陽ぐらい見せてくれ。 最近自分の色が白くて怖い。 白いのはいいんだけど、なんていうか青い。 戦乱が続いているせいで治安が悪いって話だけど、本当なのかどうか。 ここまで来ると外を見るとなんか都合の悪いものでもあるんじゃないかと疑ってしまう。 まあ、アルノが危険だからというなら信じるけど。 「セツコ、いく?」 「あ、えっと、うん」 「そうか。ではこちらへ」 アルノは優しく微笑むと私の手をとる。 その大きくかさついた手に、やっぱり少しのときめきと大きな安心を覚える。 ほっとする。 くすぐったい気持でうきうきとしながら、私はアルノの半歩後ろをついていく。 アルノは城の中でもやっぱり強いのか、兵士ぽい人とかメイドぽい人とかが頭を下げては道を開ける。 そしてその後ろにいる私にちらちらと興味深げに視線を向ける。 だからなんなんだその視線は。 私は見世物か猛獣か珍獣か。 ああ、腹のたつ。 まとめて説教してやりたい。 客に対するマナーってもんを一回教えてやりたいわ。 エレベーターの開け方からお茶の出し方まで。 私の新人時代だったら先輩に殴り倒されていた。 上司が上司なら、部下も部下だ。 まあ、アルノの笑顔に免じて許してやるけど。 「どこへ、いくの?」 私がそう聞いても、アルノはちょっといたずらっぽく笑うだけ。 ああ、その笑顔もキュンキュンくる。 まるで中学生の頃、憧れの先輩と一緒に帰った時みたい。 いやあ、女はいつになっても心に乙女を飼ってるのね。 ロマンスグレーがこんなにいいものだとは思わなかった。 まあ、こんなイケてる親父が近くにいなかったんだけど。 54つったら、部長と同じぐらいよね。 何この差。 同じ生物とは思えないわ。 種からして違う。 遺伝子からやり直せって感じ。 やっぱり日本人なのがいけないのかしら。 あれね、日本に生まれた瞬間に負けてるんだわ。 勝ち組って、生まれて瞬間に決まってるのよね、やっぱ。 「セツコ、*****。気を付けて」 「あ、カイダン、かな」 物思いにふけっていると、いつのまにか目的地についていたらしい。 古い木の扉を開けると、そこは薄暗く細長い通路。 私が目の前に続く細長い階段を指さして単語を鸚鵡返しに繰り返すと、アルノはこっくりと頷いた。 螺旋状に続く階段と、それに沿うような両脇の壁。 塔、だろうか。 高い位置に明かり取りの窓があり、そこから差し込んでくる光がかろうじて階段を照らしている。 久しぶりの太陽の光に、ちょっと気分が向上する。 「上へ、いこう」 「はい」 アルノに続いて、人一人がちょうど余裕をもって動けるぐらいの階段を昇る。 こんなに歩いたのも久々だ。 本当に動いてないし、外出てないし。 リアル監禁。 …ていうか私、なんか生贄にされるとかそういうんじゃないわよね。 そんなことを考えながら、アルノの広くて薄い背中を眺めて階段を昇る。 しばし久々の運動を楽しむのも束の間、運動不足の体は悲鳴を上げ始める。 つ、辛い。 息が上がってきた。 私こんなに体力なかったっけ。 いや、最近の監禁生活のせいだ。 それ以外ない。 断じて歳のせいではない。 絶対違う。 にしても辛い。 足が上がらなくなってきて、階段にけつまづきそうになる。 もう1000段ぐらい上ったんじゃないかしら。 東京タワーぐらい上ったって。 「あ、アルノ、まだ…?」 「大丈夫?セツコ?」 なんでそんなに余裕なの、アルノ。 どうして息も上がってないの。 あなたの笑顔が眩しいわ。 少し憎たらしいくらい。 「だ、大丈夫」 さすがに還暦近い人には負けてられない。 まだ三十代。 まだ私は若い。 私は力ない愛想笑いを返すと、自分を叱咤して更に足を上げた。 |