『大丈夫ですか…?************』

初老の深く惹きこまれそうな緑の瞳の男性は、優しく私の頭を撫でる。
大きくて深い皺が刻まれた手は、どこまでも優しい。
私の涙はさらにボロボロと流れてくる。

初めて化粧してなくてよかったと思った。
こんな時に化粧していたら、マスカラだのアイライナーだの落ちて喜劇になってしまう。
ウォータープルーフはメイクオフしづらいから嫌い。
最近気合の入ったアイメイクしてると目尻の小皺が増えるし。
ああ、フェイスエステしたい。
マッサージ行きたい。
もうこんなところやだ。

『大丈夫』

ロマンスグレーはこれまた日本人には考えられない自然な仕草で、しゃがみこんだままそっと自分の胸に引き寄せる。
ミカなんかのケモノっぽい外人臭とは違う、老年齢の男性の匂いがかすかに混じる、けれど落ち着く匂い。
私はこの世界にきての、初めての安心を覚える。
どうしてだろう。
なんでこんなにこの人は安心できるんだろう。

ようやく出会えた常識人ぽい人だからか。
大学の頃、大好きだった教授に似ているからか。
それとも優しくゆっくり話す穏やかな声か。
優しく撫でる大きな手が、慰撫の意味しか持っていないからか。
どちらにせよ、私はその薄い胸に顔をこすりつけて泣いた。

学生時代に戻った気分で、年甲斐なく子供のように泣きわめく。
いいわよ、この人にしたら私なんて小娘でしょう。
どうせ言葉分かんないし。
ちょっとくらい子供っぽくてぶってててもいいでしょ。
冷静に考えるとちょっと自分で寒いけど、でももう、誰でもいいから甘えたい。

「もうやだあ、こんな世界いや。帰りたいよお。帰りたい。なんなのよ一体。駄目人間しかいないこんな世界やだ!いや!もうちょっとマシな世界なら考えたけど、もとより悪化してるし、やだ!こんなお先まっくらな世界いや!助けてよ!どうにかしてよお!いや、いやいやいや!」

泣きながらつっかえつっかえ、しがみついて訴える。
あ、鼻水ついちゃった。
まあ、いいや。
ロマンスグレーは私の頭を優しく撫でてくれる。

これまでなんとかごまかしていた自分の感情が制御できない。
たまっていたものが溢れだした感じだ。
よくここまで我慢できた。
自分で自分を褒めてあげたい。

だって帰れると思っていたから。
どこかで夢だと信じていたから。
いや、今でも信じている。
これは夢だって。
だって、帰れないなんて信じられない。

帰りたい。
あそこに、帰りたい。
嫌なことばかりな世の中だと思っていたけれど、ここよりはずっとマシ。
そりゃ婚期逃しつつあったし、将来性とかやりがいある仕事なんてしてなかったし、仕事場も居づらかったし、後輩うざいし、上司はムカつくし、両親もうるさいし、弟は生意気だし、友達とも疎遠になり気味だたっけれど。

それでも、私の築いてきた場所だ。
友達だって疎遠になってきた子もいたけれど、まだいっぱいいた。
出会いのチャンスだって、減ってきたとは言えまだあった。
これから婚活しようって決めていた所だった。
誰にでもできる仕事ではあるけれど、それなりに任されて信頼されていた、と思う。

三十年も頑張ってきたんだ。
頑張って生きてきた。
アグレッシブに人生生きてる人から見れば平凡以下の人生かもしれないけれど、それでも頑張ってきた。
健気に生きてきた。
それがこっからリセットって何。
ありえない。

人生やり直し?
もうそんな気力ない。
まだ十代や二十代ならいいわよ。
気力も体力もチャンスもあるでしょうよ。
この年になったらもう新しいことにチャレンジしようなんて思わない。
保守的にこれからの人生どう消化していこうか考え始める頃でしょうよ。
それが何これ。

新しい世界で1からチャレンジ!

笑えない。
何そのやっすいキャッチコピー。
転職サイトだって今時そんなのない。
本当に笑えない。
M-1最下位コンビより笑えない。
何もないところからまた居場所作るって、考えただけで人生投げたくなる。

『いいです。泣いて。大丈夫。大丈夫だから』

ロマンスグレーは私が言葉が分からないことを理解したのか、ゆっくりと丁寧に平易な言葉でしゃべる。
エリアスのようにゆったりとしたしゃべり方だけれど、ずっとずっと包容力がある。
その言葉を聞いているだけで、ゆるゆると心が解かれていく気がする。

『辛いね。泣いて。かわいそうに。大丈夫』

ああ、その言葉が欲しかった。
誰かに私を可哀そうだと認定してほしかった。
同情が欲しかった。
慰めてほしかった。
人でなしじゃなく、人と話したかった。

だって可哀そうでしょ、この境遇。
私、本当にかわいそう。
泣いていいと思う。
もういい、とりあえず全力で泣く。

「う、わあああああん。ひ、ひっく、う、ぐ、ひいっぐ」

ロマンスグレーの着ているゆったりとシャツを盛大に濡らして、私は泣き続ける。
もう何が悲しいのかわからない。
悔しいのか。
怒っているのか。
多分その全部。
これまでの人生が走馬灯のように浮かんできては泣けてくる。

『………セツコ』

困惑したように、後ろから声がかかる。
この世界で誰よりも聞きなれた、いけすかない美声。
その途端、感情が怒りで一色に染まる。

「この悪魔!鬼!鬼畜!ドS変態野郎!人の将来設計図勝手に塗り替えておいて、笑って誤魔化そうとしてるんじゃないわよ!」
『いや、誤魔化そうとはしていません、ただ、笑える結果になってしまっただけで……』
「本気で死ね!地獄で一辺人間の常識学んで来い!ていうか帰ってくんな!」
『あなたも、前の世界から逃げたいと、この世界も悪くないと、そう思っていたじゃないですか。だからあまり深刻に考えてなかったんですが…』

それは確かにそうだ。
認める。
嫌な仕事から、現実から逃げたいと思っていた。
別の世界でイケメンに囲まれるなんてちょっと特別な感じだ。
こんな環境も悪くないかも、とか血迷った。
それは認める。

でも、それは帰れるという大前提があったからだ。
いつかは帰れると思っていたから、逃げたい、なんて思っていたのだ。
実際帰れないなんて、冗談じゃない。
人の心なんて、移ろいやすくていい加減だ。
あっちもこっちもいいと思うし、次の瞬間の正反対のことを思うなんて日常茶飯事だ。
だから人間の心が分からないと言うんだ、この悪魔。
人でなし。
○○○○。
○○○○○○○○○。

『えーと』
「いいから黙ってろ。これ以上なんか話したら次こそその口縫いつける!」

私は一度だけ振り返って、困った顔をしている悪魔に怒鳴りつけた。
ああ、その困った顔すらむかつく。
無駄に整った顔しやがって。
美形ならなんでも許せると思っていたが、美形でも許せないことはあるということはこの世界にきて思い知った。
というか、美形なだけムカつく。
その無駄なツラよこしやがれ。
観賞用としてだけ黙って息してろ。

『ネストリ、お前が*******、彼女を***************』
『はい、陛下と***********、***************彼女は*********』

あやす様に優しく撫でていたロマンスグレーが、私に向けたものとは違う厳しい声で悪魔に話しかける。
悪魔は特に変わった様子もなく、いつものように聞いているだけで背筋に寒気が走るような綺麗な声で落ち着いて話している。
ああ、ムカつく。

『*********、*********************!?』
『****************』
『************************************!!』

ロマンスグレーの声が少しだけ荒げられる。
聞き取りも放棄しているので、何を言っているのかは分からない。
けれど、おそらく私のことで悪魔達を糾弾しているのだと思う。
いいぞ、もっとやれ。
頑張れロマンスグレー。

悪魔は変わらず飄々としているように聞こえる。
話が通じないと思いだしたのか、今度はさらに声をあげる。
しがみついていて分からないが、おそらく悪魔の後ろにいたミカに視線を向けたのだろう。

『陛下!』
『………なんだ、アルノ』
『******************、*************!』
『……*****、***************』

ミカの声が、いつもと違って弱々しい。
あの自信に満ちたエロ暴君が、どこか気まり悪げにボソボソと話しているのを意外に思う。
落ち着く広い胸から顔を放して、ちらりと再度振り返ってみる。
馬鹿王はそわそわとロマンスグレーから目をそらしている。
まるで怒られている悪ガキのよう。

いい歳したおっさんのそんな姿を見て、私は少しだけ気分がよくなる。
どうやら、この中ではロマンスグレーが最強らしい。

さすが私のロマンスグレー。
それいけ私のロマンスグレー。
この人でなしどもをやっつけて。

『エリアス!お前が*********!』
『すいません!』

ロマンスグレーのお叱りは、エリアスにも向く。
ていうかいたのかエリアス。
存在感なさすぎて分からなかった。

エリアスはちょっとかわいそうな気もする。
どうせあの鬼畜二人に巻き込まれただけだろうし。
でも止めなかったし、私に何も言わなかった時点で同罪。
巻き込まれたなんて知るもんか。
私の人生めちゃくちゃにした報いをうけろ。

しばらく一通り、馬鹿共を叱りつけていたロマンスグレーが大きく息をつく。
肺が大きく動くのが、ダイレクトに感じた。
ぎゅっと、背中を抱きしめられる。
ミカと違って、その手はどこまでも下心を感じず落ち着く。
ああ、この枯れた感じのするところがすっごいいい。

『お嬢さん』

呼ばれて、顔を上げる。
深い深い緑の瞳が、穏やかさを満たして私を見つめている。

不思議だ。
怒りが、哀しみが、悔しさが、溶けていく気がする。
ただ、安らいだ気持ちになっていく。
彼氏といたって、こんな落ち着いた気分になることはなかった。

『大丈夫。安心して。いつか、あなたは、私が、家に、帰す』

ゆっくりと簡単な単語を並べて、かさついた感じのする手が私の頬を覆う。
いつの間にか涙が止まっていて、私は大きく瞬きをした。
その拍子に目尻に溜まっていた水滴が一度落ちて、大きな手を濡らす。

目を細めて優しく笑って、ロマンスグレーはもう一度繰り返した。

『大丈夫』

ああ、やっぱりこの人は常識人だ。
真実の意味で、この人は言葉の通じる人だ。

この世界に来て私はようやく、安心という言葉を、思い出した。





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