「ちょっとどいうことよ!そんな理由でこの世界に呼ばれたって!なんか理由があるならちょっとぐらいは付き合ってやろうと思ったけど、そんなどうでもいい理由ならさっさと家に帰してよ!私だって暇じゃないんだから!」

そりゃ、ちょっとはなんか、選ばれた存在ってことにときめかなかったと言えば嘘になる。
十代で捨てたと思っていた、私は周りの人間とは違うっていう妄想をかなえられた気がした。
捨て去ったと思ってたけど、女子はいつまでたっても夢見がちなもの。
やっぱりあなたは他の人間とは違うって言われたら、嬉しいじゃない。
だからこんな環境でも我慢してやっていたのに。

トイレは水洗でもお尻水洗いの東南アジア系だし、紙が欲しいっていったらなんか葉っぱぽいのが出てきたし。
ごわごわしているし痛いのよ。
綺麗になってる気もしないし。
お風呂は入れないし。
清潔感溢れる日本で育った私には、毎回ストレスのたまるのよ。

しかもそのトイレ事情は、目の前の悪魔に知られてるし、お腹の調子は大丈夫ですか、とか言われるし。
スケベネタ振られるより辛いセクハラ。
ああ、本当に死ね、この悪魔。
私の人権はどこへいった。
人権団体に訴えてやるわよ。

『セツコ、落ち着いてください』
「落ち着いてられっかてのよ!この悪魔!帰してよ!家に!」

こんな酒のノリで呼ばれたとかありえない。
大学生のサークル飲みかっての。
だったら河にでも飛びこんどけ。
人に迷惑かけてんじゃないわよ。
ああ、もう1か月もたってる。
今頃失踪届けも出されてるのかしら。
帰ったら仕事もクビ?
この不景気に再就職。
ああ、前よりいい条件のところなんて無理なんだろうな。

違う、これは夢。
きっと夢オチ。
目覚めたらすべて元通り。
こんな滑稽な話、ある訳ない。

本当に私の想像力って貧困だわ。
こんな設定しかできないなんて。
いや、ある意味想像力豊かなのかしら。
こんなリアリティのある夢が見れるぐらいなんだから。

『セツコ、落ち着いてください。ですから、これは夢ではありません』
『夢、これは夢よ。夢じゃなきゃ許さない。夢としか認めない』
『えーと、困ったな』
『いいからさっさと帰してよ!違う、目覚めさせて!』
『うーん』

悪魔は困ったように首を傾げる。
こっちに呼んだのはこの人でなしなんだから、帰せるのもこいつだろう。
ああ、なんでもっと早くそうしなかったんだろう。
変な環境に巻き込まれて混乱して、年甲斐もなく特別って言葉に酔ったせいか。
馬鹿馬鹿しい。
全く自分にも腹が立つ。

『あのですね、セツコ』
『何よ』
『マッラスクーの術は完全に理解して、やろうと思えば次も絶対にできるんですけど』
『そりゃよかったわね、天才さん!じゃあ、さっさと帰して頂戴!』
『実行するには、次のマッラスクーを待たなきゃいけないんですよ』
『は?』

えーと、どういういこと。
こいつさっきなんて言った。
マッラスクーは3つの月が重なる日。
公転周期のてんで違う3つの月が重なる日。
一生のうちに見れない人も多い、希少な日。

『セツコ、300年待ってくれますか?誰かに伝授しておきますから』

300年に一度しか、訪れない、奇跡の日。

『…ちょっと…、待った……』
『はい』
『ちょっと理解できないんだけど』
『いえ、あなたは理解してますね。その通りですよ。残念ながら、すいませんねえ』

頭の中が丸見えな悪魔は、私がその言葉を理解していることを知っている。
だから混乱に逃げ込むことも許されない。
現実を、直視させられる。
違う、これは夢。
いつか覚める夢。

『だから、夢じゃありませんよ。あなたが思っている通りです』
『………嘘』
『残念ながら、あなたを家に帰すこと出来なくなっちゃったんですよ。いやー、本当にごめんなさい。やっぱり酒は駄目ですね』

ネストリはいつものように、穏やかに笑っている。
そこに反省の色とかそういったものは全く見られない。
まさしく、こいつは悪魔だ。

『いえいえ、反省してますよ。だから、私がつきっきりで言葉を教えたんじゃないですか。こちらでもやっていけるように。職業も斡旋して』
『………誰が……』
『はい?』

悪魔が金髪を輝かせて首を傾げる。
本当にどっからどう見ても、綺麗な男で、それがまたこいつが人外の存在であるように見せる。
ああ、本当にろくでもない。

『誰がそんなこと頼んだってのよ!!!!』

私は悪魔につめよって、その襟首をつかんだ。
いつもは電撃で反撃されて、軽く叩くこともできないけれど、突然の行動に悪魔も対処できなかったらしい。
目を丸くして、それを許した。
いつもの笑顔が崩れて、それが少しだけ小気味いい。

「いい加減にしてよ、このクソファンタジー!誰が転職活動支援望んだのよ!そりゃ仕事辞めたいって思ったけど、こんな条件悪化は望んでない!3Kどころの話じゃないわよ!ていうか給料ももらってないし!休暇もない!福利厚生体勢をまず整えなさい!軟禁されて強制労働って、それどこの奴隷よ!日本に奴隷制度はありません!」

力任せに揺さぶると、悪魔はされるがまま。
私がこんなにキレるとは思っていなかったようだ。

「ちょっとの間なら我慢しようと思ってたわよ!ファンタジーは苦手だけど、それでもちょっと憧れたわよ!私は特別な力を持った人間で、不思議な力を持っている、とか!この世界に呼ばれたのはなんかすごい役目があって、それを果たして英雄と呼ばれるとかさ!馬鹿馬鹿しい、ありえないとか思いながら、それでも嬉しかったわよ!三十代になっても浮かれたわよ!悪かったわね!痛いわよ!」

それがなんだ、この結末は。
酒のノリで呼ばれて。
何の力もなくて。
誰でもよくって。
持て余したからとりあえず仕事あてがってみて。

「これが罰!?逃げ出したい、って思った罰!?仕事なんてもういや、結婚して専業主婦したーい、もう誰でもいいわよ、金持ってる奴なら、とか人生舐めてた罰!?いいじゃない!それくらい、誰だって夢見ることでしょ!疲れたら誰だって思うでしょ!」

遠いところへ行きたい、とか。
周りの人間みんないなくなっちゃえばいいのに、とか。
幸せな人間、みんな不幸になれ、とか。
結婚して勝ち組って顔している女全員離婚しちゃえ、とか思ったわよ。
確かに思ったわよ。

「そりゃ、私はしがない一般職お局よ。どうせ、あの世界でいてもいなくてもどうだっていいわよ!でも、だからって、こんなのない!!」

ネストリは相変わらずどうしたらいいのかわからないようにされるがままになっている。
ずっと待ち望んでいた状況なのに、心は全く晴れない。
この悪魔を好きなように殴れるチャンスなのに。
それなのに、手からどんどん力が抜けていく。

「帰れないって、そんなの、ない」

悪魔が驚いたように私の顔を見る。
周りのミカとエリアスも息を呑む。

「どうしてよ…、私が何をしたってのよ…、そんなに悪いことした?こんな目にあうぐらい、悪いことしたっけ?」

自分なりに必死に生きてきた。
そりゃ、気に入らない後輩ちょっといじめたり、おつり誤魔化したりとかはしたけど。
そこまで悪いことはしていないはずだ。

「……結婚サイト見まくって、登録しようとしていたところだったのに。これで将来不安になることもないかなって、思ってたのよ…。まだ、補正下着のローンだって残ってる…。あれって、親に請求がいくの?またお母さんに怒られる…。でも、お父さんにもお母さんにも、会えないって…、そういうこと?もう、怒られないの?弟が結婚して義妹がいるから、もう家では邪魔ものだったけどさ、帰ってくるなとか言われたけどさ…、」

襟首をつかんでいる手から、完全に力が抜けた。
おかしい、もっと揺さぶってやりたいのに。
このお綺麗なツラを、殴ってめちゃめちゃにしてやりたいのに。
声も上ずって、ちゃんと話せない。

「セツコ……」

ミカが、私の頬にそっと触れる。
堅くて豆だらけのごつごつとした、手。
その感触がとてつもなく、リアル。
この世界の、現実感をいやおうにも増してくる。
夢だと信じたい。
これは夢だと、思っていたいのに。

ミカが何かを拭う仕草をする。
いつのまにか、頬が濡れていた。

「あれ…、泣いてる?あ、れ……」

私はいつのまにか、ボロボロと泣いていた。
やだ、いい歳してみっともない。
だんだん、涙もろくなってきて、困る。
なんで、こんな泣いているの。

私はそんなに、あの世界が好きだったのか。
帰れないと思って、こんなに泣いてしまうくらい。
もうこんな世界いやだって思ってたのに。
逃げたいって。
明日世界が破滅すればいい、とか思ったこともあるのに。
それでも、大事だった?

分からない。
でも、もう力が入らない。

大っきらいな部長の顔が浮かぶ。
出来の悪い後輩の顔が浮かぶ。
口うるさい母親と、無口な父の顔が浮かぶ。
生意気な弟と、出来のいいかわいい義妹の顔が浮かぶ。

涙が、溢れてくる。
おかしい。
なんとも思ってなかったのに。

そりゃ、親孝行しなきゃ、とか思ってたけど。
いつも心配して、電話かけてきて、うるさかった。
でも、だから一人でも寂しくなかった。
部長も、たまにはいいとこあったけど。
ケーキとか買ってきてくれたりさ。
私たちが喜ぶと上機嫌でにこにこしちゃってさ。
あんなセクハラ親父の癖に。
たまに妙にかわいくて、大っきらいだったけど、それでも憎めなかった。
出来の悪い後輩も、バレンタインにはチョコくれて、いつものお礼とかいっちゃって。
イライラすることも多かったけど、それでもかわいかったのよ。

私は冷たい床に、座りこむ。
膝に力が、入らない。
床にぽたぽたと水滴が落ちる。

「やだ…、帰りたい…。帰りたいよお。やだ……やだよ、こんなの、帰りたい……」

もう、帰れないのだろうか。
あの煩わしくてうざったくて、でも確かに私の居場所だったところ。
今更帰っても、私の居場所はないかもしれない。

私がいなくちゃ、ダメかもしれない、なんて言ったけどさ。
海外旅行とかに行く度に、思い知ってきた。
私がいなくても、会社も世界も回る。
どんなにできない後輩も、無茶ぶりする部長も、私がいなかったら、それはそれでどうにかなるのだ。
1か月もいなかったら、もう、本当に私の居場所はないかもしれない。

「……う…」

これまで10年近く、頑張って築いた私の居場所がこんな簡単に奪われるのか。
そしてたった1か月で奪われてしまう、私の人生の薄っぺらさが、またむなしい。
こんな現実、つきつけられたくなかった。
この悪魔ども。
人でなし。

「帰りたい…、私の人生かえしてよ…。そろそろ見合いして結婚して、高齢出産になる前に子供生んで、余裕あったら2人ぐらい作って、パートとかで家計支えて、25年ローンぐらいで郊外に家買って、リタイアしたら旦那様と年に1回は海外旅行とかして暮らせたらなあ、とか夢見てたのよ。それが、台無し……」

涙が止まらない。
私はみっともなくボロボロと泣きながら、恨み事を吐き出す。
泣いてる顔ってとんでもなくブスなのよね。
鼻水出てきちゃったし。
泣き顔と寝顔がかわいいやつって、本当の美人よ。
私は、そこまで器量はよくない。
悪くもないけどよくはない、決して。

ああ、ミカもネストリもエリアスもドン引きしている。
困ったように、私を見下ろしている。
慰める甲斐性もないのか、このウスラボケ共。
ああ、こんな最低な男共に囲まれて余生を過ごすのか。
最低、本当に最低。
不細工でも、穏やかで金勘定しっかりした働き者がよかった。

「セツコ………」

ミカがしゃがみこんで、視線を合わせようとする。
しかし、その時、新たな人物がそこに現れた。

『何をしている』

穏やかで少ししゃがれた、低い声。
少し厳しい感じで、部屋の中を見渡す。

ミカよりもさらに10歳は年上と思われる、50代半ばぐらい。
線はそれほど太くなく、まるで学者か何かのような思慮を含んだ眼差しの男性。
白髪混じりの髪を撫でつけて、賢そうな顔をしている。
ロマンスグレーと言うのは、こういうことをいうのかっていう典型的な美形中年。
と老年の間ぐらい。

その人は部屋の中に入り込むと、ミカを押しのけて私の目の前に座り込んだ。
そして、そっと頭を撫でる。

『大丈夫ですか?お嬢さん』

落ち着かせるように、ゆっくりと視線を合わせて話す。
少し困ったように、慈しむように優しく頭を撫でる。

ああ、常識人だ。
この人は、常識が通じる人だ。

昔、大学の頃大好きだった教授を思い出して、私の涙は更に溢れた。





BACK   TOP   NEXT