壁を伝ってなんとか上体を起こし、背中を預ける。 体と頭を少しでも休めておこう。 助けはきっと来る。 きっと来るはずだ。 今までどんな最低な事態でも、結局はどうにかなった。 だから今回もどうにかなる。 きっとエリアス辺りがまた助けに来て、どにかしてくれる。 きっとそう。 とりあえず一旦はピンチから抜けられた。 後は隣の部屋のあいつらがこのまま来なくて、助けが来ればいい。 それだけだ。 単純なことだ。 戻ったら今度こそ絶対日本に帰ることを検討しよう。 あっちに帰ったら立場がないとか言ってる場合じゃない。 金とか立場とか、命あってのモノダネだ。 少なくとも日本にいれば、こんなに生命の危機を感じることはない。 病気とか事故とかだけとりあえず気にしときゃいいんだ。 憲法第9条万歳、銃社会反対、平和ボケ大国日本素晴らしい。 殴られて打ちつけた頬は痛いし、腕も痛いし、ていうか体中痛し、もう散々だ。 こんなの真面目にやってるOLに降りかかる事態じゃない。 こんな国大嫌いだ。 あ、でもやっぱりあっちで肩身の狭い思いするのも辛いなあ。 実家帰らないといけないだろうしなあ。 でも死にたくない。 絶対に死にたくない。 「お姉さんは、名前なんて言うの」 色々決意を固めていると、子供が澄んだ声で聞いてきた。 なんだか不思議と落ち着いてくる、歌うような綺麗な声だ。 「私はセツコ」 「セツコ。不思議な名前だね」 「まあね、この国の人間じゃない」 むしろ日本名がいたらびびるわ。 佐藤とか山田とか、懐かしいわ。 会いたいわ。 でもミカって日本名ぽいよな。 女の子の名前だけど。 「あなた、名前は?」 「私はマリカ」 子供は腫れた頬をわずかに緩めて微笑んでくれる。 マリカって、女の子の名前だよな。 いや、でもミカの例もあるしな。 女の子なのかって聞くのは失礼かな。 まあ、いいか。 どっちでもいいや。 子供は子供だ。 「マリカ。私の国、同じ名前、あった」 「そうなの?素敵な偶然だね」 マリカは嬉しそうに、目を細めて笑う。 その弾んだ声に、こっちまでなんだか嬉しくなってきてしまう。 エミリアのように、優しい空気を持った子だ。 こんな状況で会うんじゃなければ、すごく嬉しかったんだけど。 さすがにこの子は結婚してないだろうし。 「マリカって花の名前なの。セツコの国ではどういう意味なの?」 「えっと」 マリカってどういう意味って言われても困るな。 漢字を当てればどんな名前にでもなるし。 真理香とかが一番多いのかしら。 真実の香り? 漢字ってものがあって、一つ一つの文字には意味があって、そして一番ポピュラーな字は、真実の香りって意味で。 って、そんな面倒な説明できるか。 そんな会話能力はない。 「えっとね、私の国も、花の名前。他にも意味ある。でも、花の名前も、ある」 茉莉花って書いてマリカって読む漫画が昔あったわ。 うん、嘘はついてない。 「本当!?」 「うん。白い、小さくて、かわいい花。お茶にもされる」 「素敵だね!この国のマリカは、黄色くてね、大きな花なの****で、綺麗なんだ」 「そう。素敵ね」 「うん」 マリカはやっぱり嬉しそうに笑ってくれる。 うん、いいことした。 この選択であっていた。 「セツコは、どうして連れてこられたの?」 そんなの私が聞きたい。 一体私が何をした。 「分からない。道、迷った。一緒にいた、女、えっと、いない、いなくなった」 「*****だったんだね」 「それは、どういう意味?」 「あ」 私が言葉が不得手だと分かって、マリカは少し考え込むようにして首を傾げる。 そしてゆっくりと平易な単語に直してくれる。 「えっと、迷ってる人。迷った子供」 「………うん、分かったわ」 迷子ってことか。 そしてわざわざ迷った子供ってつけるところを見ると、子供用の単語なのね、そうなのね。 ここは知らない土地だから迷うのよ。 私だって別に、東京の中じゃ迷ったりしないのよ。 まあ、池袋駅とか新宿駅とか東京駅とかは、出口探して迷ったりするけど。 「ここら辺は、*****、えっと、危険なところ。セツコ、*****がいいから、狙われたのかも」 「*****?」 また分からない単語が出てきたぞ。 オウム返しに聞くと、またマリカは一生懸命考えてくれる。 細くて頬がこけてるけれど、目鼻立ちは随分整った顔の子だ。 「セツコ、服が高そうなの。いい服。見た目がお金持ってそう」 「ええ!?」 身なりがいいってことか。 これ身なりがよかったのか。 周りの人間はもっとよさげな服を着てるから気付かなかった。 「そ、そうだったの」 「うん。この辺りは、危ない人、多い。運が悪かった」 まあ、確かに立派なスラム街って感じだった。 人は全然いなかったけど。 それにしても、その危険なところにマリカは住んでいるのか。 確かに服は質素で、随分痛んでいるようだ。 そういう層の子、ということだろうか。 ああ、こんないい子にそんなこと考えちゃうって、やだやだ。 やめやめ。 「えっと、マリカは、ここにいたら、あいつら、きた?」 「うん………、私は、家にいたら、あいつらが入ってきて、急に家使うっていって、****たら、叩かれて、縛られた」 「………酷い。痛そう」 「ううん」 マリカは健気に笑って首を横に振る。 「叩かれるのは、慣れてるから平気」 う、重い。 重い重い。 誰に、なんで。 つっこんでいいのだろうか。 いや、つっこむのはやめておこう。 なんて言ったらいいか分からない。 「でも、あいつら、ただの泥棒とかじゃない。マーリス、えっと、王様の敵って分かる?」 「あ、分かった、分かった!」 思い出した。 そう言えばこの前の時も、そのマーリスとかいう奴だったっけ。 反政府組織だったっけ。 あいつら本当にロクなことしねえ。 無能テロ集団はさっさと滅びろ。 一般市民を巻き込むんじゃねーよ、クソ。 この国が嫌ならさっさと出てけ。 「誰か、仲間を待ってるみたいだけど」 マリカはあいつらがいる部屋を繋ぐ扉をじっと見ている。 それから、ふっとため息をついて俯いた。 「王様、大丈夫かな」 マリカの言葉には、素直な心配の響きがあった。 王様ってことは、あいつだよな。 あの下半身暴走馬鹿王。 「………マリカは、王様が好きなの?」 「うん」 「へ、へえ」 マリカの迷いのない首肯に、咄嗟に返事が出てこなかった。 そうか、あいつも一応、国民にはそれなりに愛されてなくもないのか。 ネストリが前にそんなこと言ってたっけ。 本当だったのか。 話盛ってるのかと思ってた。 「これまでの***より、ずっと賢い人。ずっと***。えっと、ずっと、いい 「***って」 「えっと、偉い人。お金だけ取って、酷いことする人達。ミカ王はあの人達よりずっと、国をよくしようとしてくれている」 貴族ってことかな。 そういえば貴族社会が腐敗しまくってて大変だったって、ネストリが言ってたっけ。 まあ確かに金を持ってる権力層ってロクなことしないわよね。 自分で稼いだ金じゃないからってじゃぶじゃぶ使いやがって。 私の金を返せ。 そいつらを見ていたら、確かにミカは有能なのかもしれない。 「だから、王様が死んだらいやだな」 また思考が脱線しそうになっていると、マリカは俯いたまま言った。 私は不安を打ち消すことが出来るように、明るい声で言う。 「王様はきっと、平気。だって、強い人、いっぱいいる。周りに」 「………うん、そうだね」 あいつの周りには確かに強い奴が沢山いた。 その一人でも私によこせ。 つーかこういう時に役に立たないなら、本当に無駄。 何が守ってやるだ。 あの役立たず。 でも助けにきたら許してやってもいい。 「………助けは、来る。待つしかない?」 「あいつらを怒らせるのはよくないと思う」 「………うん」 そうね、確かに刺激しても、いいことはない。 じっとして助けを待つのが一番いいだろう。 「そうね。大丈夫。助けは、くる。きっと来る」 「うん」 マリカはこくりと頷いた。 それから少しだけ考えて、小さな声で囁く。 「でも、逃げられるようにしておいた方がいいかな。用意はしておこうか。セツコ動ける?」 「え」 「そこの戸棚にナイフがあるの」 「え、っと」 私はマリカと違って足は縛られていない。 後ろ手でとても不便だけど、壁を伝ってなんとか立ち上がる。 そしてマリカが指さした戸棚の方にゆっくりと歩く。 あいつらが気付いて入ってこないか、心臓がドキドキしてきた。 嫌な汗を掻いている。 「そう、3つ目の引き出し」 3つ目とか、ちょうど手が届かなくて不便なんだが。 体を捻って後ろを見て、なんとか場所を確認して、縛られた手で開けようとする。 くそ、建てつけが悪い。 「よっと、よ、くっ、わ」 ガタガタと大きな音を立てるのが怖くて、何度か休止を挟みながらなんとか開ける。 幸い、気付かれることはなかった。 気付かれたらどうしたらどう言い訳すればよかったんだ、これ。 あれ、もしかして、私マリカにいけにえにされた? 違うわよね違うわよね。 「あ、あった!」 「し!」 「ご、ごめん」 嫌なことを考えながら、ナイフをなんとか見つけ出す。 それは小ぶりで、私が元々持っていたナイフよりもずっと質素で頼りなかった。 そういやあのナイフ、なんの役にも立ってないな。 逆になんかあのナイフのせいで責められてたし。 やっぱりあの女は疫病神だ。 「セツコ、ナイフ使うのは、得意?」 慌てて首を横に振る。 そんな物騒な特技をもった覚えはない。 リンゴの皮むきすら、20センチもいかない女だ。 ピーラーとフードプロセッサがあればそれでいいじゃない。 悪くないじゃない。 「じゃあ、貸して。とりあえず隠し持っておく」 頷いて、マリカの横に座り、そっと後ろ手に渡す。 マリカは小さな手でしっかりとナイフを握った。 「ありがとう。これで手と足の縄切れるけど、ちょっと、様子見しておこうか」 「う、うん」 なんて頼りがいのある子なんだろう。 この子が一緒にいてよかった。 あのアルノを覗いた男どもとは大違いだ。 ていうか私こんな子供にナイフ持たせていいのか。 いくら苦手でも、子供に危険なことさせようとする大人ってどうなの。 いやいや、でも、私ナイフ持って何かできるとは思わないし。 いや、この前は刺したり切ったりしてたけど。 う、嫌な感触思い出した。 溢れる血、漂う鉄の匂い、マグロを切るような感触。 「………う」 吐きそう。 やっぱ無理。 大人とか子供とか関係ない。 私は何も出来ないです。 「大丈夫、セツコ?具合悪いの?」 マリカは心配そうにこちらを見上げている。 細い手足、あどけない顔。 でもやっぱりこんな子になんかさせるって、私鬼畜過ぎかしら。 「………あ、えっと」 でも私がナイフを持って何か出来るかしら。 この子を守ったり出来るのかしら。 そっちの方が危険かしら。 バタン! 「ひっ」 その時いきなり、隣の部屋と繋がっている扉が開いた。 グレイの髪の男が、そこに立っている。 「おい、女、出ろ」 「え」 グレイの髪の男は、私をじっと見ている。 私、なのか。 |