『いーい湯っだなっ、いーい湯っだなっ』 馬車から覗く田園風景はのどかで、風も温かく爽やかだ。 つい歌が出てきてしまう。 今回は馬車の質もいつもよりいいから、あまり体に障らず痛くない。 まあ、道は舗装されてないからガタガタしてるんだけど。 でも、気分はどんどん上昇していく。 「セツコ様の世界の歌ですか?」 向かいに座っていたマリカが大きな目をキラキラとさせて聞いてくる。 歌っていたことにちょっと恥ずかしくなったが、まあマリカならいい。 どうせ言葉分からないだろうし。 「そう。温泉の歌」 「そんなものがあるんですか!」 「そう。昔から、伝統のある、歌」 ああ、楽しみだ。 ゆっくりお風呂に使って足を延ばして、その後の一杯。 そろそろお酒飲んでもいいって言われたし、楽しみすぎる。 「ふふふー」 「セツコ様、ご機嫌ですね」 マリカが楽しそうにくすくすと笑う。 最近ちょっと頬に丸みが出て女の子らしくなってきた。 なんか剣の練習とかしてるみたいで、たくましくもなってきた気もするけど。 「ご機嫌よ。温泉ー、温泉ー」 「セツコ様は温泉が好きなんですか?」 「私の国は、みんな好き、温泉」 温泉は日本人の心。 温泉、こたつ、白いご飯。 日本人の心に刻みつけられている。 ああ、懐かしいなあ。 白いご飯食べたいなあ。 「そうなんですか。私も行ったことないんです。楽しみです」 「ね、楽しみ」 しんみりしてきた心は、マリカの弾んだ声で吹き飛ばした。 「う、ったたた」 椅子に座ろうとした途端、全身に軋むように痛みが走った。 テーブルに突っ伏して、痛みをこらえる。 『おばあちゃんみたい……』 自分の動きとうめきが、小さい頃近所に住んでいたおばあちゃんを彷彿とさせて切ない気持ちになる。 私、まだそこまで歳とってないのに。 「セツコ様、大丈夫ですか?」 マリカが心配そうにひざ掛けを持ってきてくれる。 冷えると痛いと言ったことを覚えていてくれたらしい。 ていうかこの子甲斐甲斐しすぎて、私もっとダメ人間になりそうだわ。 至れり尽くせりに慣れたら、もう終わりな気がする。 ああ、でも今は部屋の掃除もベッドメイクも、そもそも働きもしてない私は完全にダメ人間だった。 THEニート。 「辛い、酒飲みたい、もうやだ。何もかもやだ」 体が痛いし、ニートだし、未来はないし、過去すら消えた。 私を慰めてくれる酒も今はない。 ああ、もう本当になんで私生きてるんだろ。 「セツコ様………」 マリカが顔をくしゃりとゆがめて悲しそうな顔をする。 ああ、また、こういう顔をさせてしまった。 「ごめん、なんでもない………」 この子が来てから愚痴も言えなくて、ストレスたまるわ。 なんだろうなあ、ミカとかネストリなら好き勝手言えるけど、この子には言えない。 そういえばエミリアにも言えないわ。 ノーラにも言えない。 カテリナには言えるけど、怖いから言わない。 やっぱ同性の方が怖いよなあ。 後輩に嫌味とか、同僚と喧嘩とかはしたんだけど、友達にはそこまできついこと言えないしな。 そうか、嫌われたくないからか。 マリカにもエミリアにもノーラにも嫌われたくない。 アルノにも文句言えないしなあ。 「ああ、では、****に行ってはどうですか?」 「***?」 テーブルの向こうに座っていたネストリが、何かを提案する。 知らない単語が出てきたので、首を傾げる。 『自然に湧き出すお湯で、怪我に効きます。よく老人や怪我人が治療のために行きます』 自然に湧き出すお湯。 怪我に効く。 頭の中で整理して、かちりとパズルがぴったりはまる。 『温泉!それって温泉よね!』 つっぷしていたテーブルから顔を上げる。 体が少し痛んだが、今はどうでもよかった。 「あなたの国の言葉でなんていうかは分からないですが、あなたの想像した内容であってるようです」 私の頭の中の想像を見たのか、ネストリが頷く。 目の前がぱあっと明るくなった気がした。 「行く!行く行く!絶対行く!」 日本にいた時から温泉はよく行っていた。 近所のスーパー銭湯とか、スパとかも好きだった。 広いお風呂は、日本人のDNAに刻み込まれた楽園だ。 『温泉ー!温泉!行くー!』 たまにはネストリもいいこと言うじゃないか。 ていうかそんなものがあるなら、さっさと言え。 遅い。 「………あなたからそんな前向きな感情が伝わってきたのって初めてかもしれません」 うるさい、今までのこの世界で前向きになれる要素があったら教えてほしい。 ああ、でも今はいい。 とにかく温泉だ。 『行こう今行こうすぐ行こう』 ネストリはにっこりと笑う。 「そこまで喜ばれると邪魔したくなる気持ちが抑えられなくなりそうです」 「死ね」 ああ、本当にこいつは根性が腐りきってるなあ。 シロアリに住みつかれた築二十年の木造建築並みに土台が修復不可能。 納豆を更に夏の炎天下に1か月ぐらい放置したらこいつの性根みたいになるんだろうか。 「冗談ですよ。じゃあ、手配しましょう。ちょうどよかった」 ネストリが珍しくこれ以上嫌味を言わずに、そう言った。 なんで、こんなに素直なんだ。 なんだ、また何か企んでいるのか。 ちょっと怖くなってきた。 「俺も行くぞ!」 その時、風を通すために開いていたドアから、いきなり無精髭のおっさんが入ってきた。 そしてその後ろからはすがりつくような情けない声をした青年も入ってくる。 「陛下!」 なんだ、また追いかけっこをやっているのか。 なんかこういうアニメ、小さいころに見た気がする。 ていうかだから仕事しろよ、おっさん。 「ミカ?何してる?」 「勿論お前の顔を見にきたに決まってるだろう、愛しい人」 本当にこいつは口説き文句だけは、さらっと出てくるよなあ。 この前の建国記念日で、うっかりかっこいいと思ったのがもったいない気がしてくる。 あの時はうっかり惚れそうだったのに。 「陛下、まだ仕事が残ってます!」 「本当にうるさいなあ、お前は」 エリアスが泣きそうな声で、ミカに訴える。 相変わらずだなあ、エリアスも。 たまにちょっとかっこいいところがあるのに。 どうして私の周りにはアルノ以外、残念な男しかいないんだろう。 「仕事しろ、ちゃんと」 「お前までそんなつまらないことを。愛の元で、仕事なんて些細なことだろう」 「些細じゃありませんから!」 一国の仕事と愛なんて比べものにならないだろう。 仕事と私どっちが大事なの!なんてセリフ、私には言えそうにない。 仕事をきっちりして金を稼いできてくれ。 話はそれからだ。 仕事をしっかりしてくれるなら、それで十分だ。 そういや、私にかまってくれなきゃ泣いちゃうなんて言えてた可愛いころもあったっけ。 あったっけ? 「それより俺も行くぞ、セツコ」 「え、温泉に?」 「勿論だ」 過去の思い出を思い返していると、ミカは自信満々になんか寝言を言っている。 温泉がどこにあるのか知らないけど、別に仕事に支障がでないならいい。 温泉で国を傾けた王様とか、そんな歴史なら面白くてすぐに覚えられそうだけど。 「陛下、どちらにいらっしゃるんですか?」 そして更にドアから落ち着いた穏やかな声が入ってきた。 いつも穏やかなその人は、今は眉をしかめて、渋面を作っている。 「アルノ!」 「やあ、セツコ、急に悪いね。お邪魔するよ」 大好きな人の姿見えて、心が浮き立ってくる。 今日もアルノは完璧なロマンスグレーだ。 断りなしに部屋に入ってくるロクデナシどもとは雲泥の差だ。 アルノの後ろには、アルノの補佐をしているラウノの姿もあった。 薄い赤毛でがっしりとした体育会系で、外見はちょっと周りの人たちには見劣りするが割と性格がいい。 「………アルノ」 ミカが悪戯を見つかった子供のように、ぎくりとした表情になる。 いい年したおっさんが、何やってんだ。 「***を抜け出して消えたかと思えば、随分楽しそうな話をしてますね」 「ほら、温泉は遠いだろう。セツコ一人だと心配だ。誰かがついててやらねば」 「それは確かにそうですね。ティモ=ユハニとマリカをつけましょう。まあ、そもそも一人じゃありません」 アルノは穏やかに笑いながら、けれど声は低くしっかりとくぎを刺す。 ミカが情けなくすがるようにこちらを見る。 「セツコ」 「お仕事頑張ってねー」 ひらひらと手を振ると、あからさまにショックを受けた顔になった。 だからいい年したおっさんが何してるんだ。 まあ、イケメンがやると茶目っけがあってちょっとかわいいとか思えてしまうのが得だよな。 やっぱ人間外見は重要だ。 まあ、でもミカは七割仕事サボりたいだけだろうし、風呂でヤられそうだから嫌だ。 城でも何度か一緒に入ろうとしてきたし。 ミカと行くなら、アルノと行きたい。 「あ、アルノは、一緒にいけない?」 そうだ、温泉にアルノがつけば完璧じゃないか。 それにアルノは温泉に少し浸かった方がいい。 腰とか関節とかガタが来てるんじゃないだろうか。 もう歳なんだから、体を大事にしてほしい。 「すまないね。仕事があるんだ」 けれどアルノは、半ば想像したとおりすまなそうに首を横にふった。 まあ、分かってたけどね。 仕事を大事にするアルノは素敵。 ここで仕事を放り出すどっかのバカみたいだったらがっかりする。 でもちょっと寂しい。 「そう………」 「ありがとう。今度休暇が取れたら一緒に行こう」 「うん!」 でもそういって頭を撫でられると、寂しさなんてふっとんでしまう。 ああ、いいなあ、アルノと温泉。 正に極楽。 背中流すわ。 「セツコは、アルノにだけ優しくないか!?」 「当たり前。比べられない」 どうしてミカなんてセクハラ馬鹿王と比べなきゃいけないんだ。 比べるのすらアルノに失礼。 けれど自覚のない馬鹿王は、憤慨する。 「アルノなんてすでに******、男として******!俺ならお前を楽しませてやれる!」 よく分からない単語が出てきてるが、くだらない下ネタってことはよく分かった。 本当に仕方ねーな、こいつ。 「最低」 まあ、そこまでうまいって言うなら一度ぐらい試してみたい気がしないでもないが、どうしてもかって言われるとまったくそうではない。 こんな避妊道具すらない世界でそんな危険な冒険をする気はない。 「陛下」 にっこりと笑ったアルノが、ミカの肩をがっしりと掴む。 とても穏やかな笑顔だが、すごく迫力がある。 「それほど陛下がお元気でしたら、たまってる書類全部片付けられそうですね。さあ、来てください。エリアス。***になっているものを後で全部持って来なさい」 「は、はい!」 アルノの命令に、エリアスはこくこくと頷く。 珍しく怒っているアルノだが、怒るアルノも男らしくてかっこよくて素敵。 「セツコ、この王を王とも思わぬ****達になんとか言ってくれ」 ミカは往生際悪くまだわめいている。 時間を稼いで少しでも仕事から逃げ出したいんだろう。 『自業自得ってなんて言うの?』 隣にいるネストリに聞くと、ネストリはわざわざ木板に書いてスペルまで教えてくれた。 私はその言葉をそのまま告げる。 「自業自得」 「セツコ!お前がそんな冷たい女だとは!」 「はいはい、行きますよ。エリアス、ラウノ、引っ張ってきてくれ」 アルノの言葉に、エリアスとラウノが、ミカの両腕をがっしりと掴む。 「かしこまりました。失礼します、陛下」 「失礼します」 「お前ら!」 なんだっけ、これ、見たことあるな。 ああ、そうだ、連行される宇宙人だ。 「なあに?何か楽しそうね」 そしてまた人が入ってくる。 人の部屋をなんだと思ってるんだ。 ていうか本当にこの世界に来てから私のプライバシーというものは徹底的に侵害されている。 もしかしてプライバシーって概念すら、この国にはないのか。 「カテリナ」 しかも入ってきたのは、現在絶対に近づきたくない人間NO1の女だ。 人を人とも思わないネストリ以上の鬼畜。 こいつと比べたらネストリの方が、ほんのわずかにマシだ。 痴漢と下着泥棒どっちがマシかってレベルだけど。 「あら悲しい。そんな警戒しないで」 思わず顔をしかめると、カテリナが楽しそうに笑う。 近づいてこようとするので、アルノの後ろに隠れる。 「く、来るな」 こんな反応をすると、こいつはますます楽しがるだろう。 もっと無反応にしないと駄目だ。 案の定、カテリナは楽しそうに眼を細める。 「ひどいわ」 『うるさい、消えろ、疫病神』 ひどいのはどっちだ。 幸いエリアスとミカが私とカテリナの間に入ってくれた。 ミカが馬鹿娘を前にしてため息をつく。 「嫌われたな、カテリナ。女性は優しく扱うものだ」 「そうね。失敗したわ。セツコとは仲良くしたかったのに」 お前の行動のどの辺に友好的な要素があった。 あれか、人を囮にしてテロの巻き添えにするのがお前の愛情表現なのか。 孔雀の求愛ダンスより分かりづらいわ。 私には殴られて、この人は私がいなきゃダメなの!みたいに信じられる博愛ダメンズウォーカーな思想は持てそうにない。 「それにしても、温泉に行くんですって?それよりも私の***へいらっしゃいよ。楽しいわよ」 「いや」 「あら悲しい」 何言ってるんだか分からないけど、とりあえずこいつと一緒に行動はしたくない。 出来れば近寄りたくない。 話もしたくない。 見たくない。 同じ空気を吸いたくない。 存在を感じたくない。 「だって温泉っていうことはイマトラへ行くんでしょう?」 「あなたの***って、**じゃないですか」 ネストリが呆れたように肩をすくめる。 何を言ってるか分からないが、なんか碌でもないことなんだろう。 「だから楽しいのよ」 「皆が皆、あなたのような****じゃありませんし」 「ずるいわ、アルベルトばかり」 そこでいきなりまったく関係の名前が出てきた首を傾げる。 アルベルトってあの金髪生意気美少年よね。 あの子がどうしたんだろう。 すぐ前にいたアルノの袖を引っ張る。 「アルベルトがどうしたの?」 アルノは後ろを振り返ってちゃんと答えてくれた。 カテリナに怯える私を宥めるように頭を撫でてくれる。 「温泉は、アルベルトの***にあるんだ」 「***?」 ネストリに知らない単語の意味を聞く。 『治めている土地、支配している場所、でわかりますか?』 「ああ、うん」 領地ってことかな。 アルベルトの領地。 あれ、ってことは。 「え、じゃ、アルベルトと行くの?」 ネストリは綺麗に笑って頷いた。 |