日が落ち、辺りが真っ暗になって馬車の中があまり見えなくなったところで、ようやく馬車は止まった。
マリカが窓を開けて外の人間と何かを話す。
そして笑顔でこちらに振り返った。

「今日はここで宿泊だそうですよ!」
「へー」

あー、もうなんでもいいわ。
とにかくお尻が痛い。
ここから解放されるならなんでもいい。
温泉って言葉に目がくらんだけど、そりゃ伊豆の踊子で1時間半という訳にはいかないわよね。
あー、駅弁が欲しい。
ふかふかの椅子が欲しい。

「………ここから、どれくらい?」

隣に座るティモに聞くと、まったく疲労を感じさせない涼しい顔で答える。

「この調子でいけば明後日には到着します」
「………」

この苦行が、明日も明後日も続くのか。
もう無理。
私の肉厚のお尻ですら限界を迎えようとしている。
最近肉を蓄えてよりクッション効果があるはずなのに。
会話もろくにできず、クロスワードパズルもなく暇だし。

「大丈夫ですか?」
「………今日、お酒飲んでいい?」
「私からはなんとも。マリカ」

ティモは向かいにいたマリカに尋ねる。
マリカは途端に顔を曇らせて悲しそうに私を見る。
だからやめて、その顔は。
ノーラみたいに頭ごなしに叱られるより胸に来る。
ここはこっちも泣き落としだ。

「疲れたの。ね、ちょっとだけ。ちょっとだから」
「………」

哀れっぽく手を合わせてお願いすると、マリカは困ったように眉を寄せる。
よし、後一息だ。
つーかいい年してなんで酒飲むのにこんな年下の子の許可を取ってるんだろう。
いいじゃん、好きに飲めば。
でも、この子に嫌われるのも嫌なのよね。

「もう大丈夫、ネストリ言ってた。ね」

マリカは困ったようにきゅっと唇を噛む。
それからぱっと顔を輝かせた。

「あ、ここも、温泉あるそうですよ。ゆっくりできますよ!」
「え、温泉!」
「はい、疲れてとれます。お休みになってください」
「そっかあ」

温泉と聞いて、俄然元気が出てきた。
温泉、それは日本人のDNAに刻み込まれた楽園。
お尻の痛みも少しは楽になるだろう。

「うん。ゆっくり、お風呂、入る」
「はい!」
『で、出てから飲もう』

風呂上がりの一杯なんて最高。
本当はキンキンに冷えたビールっていきたいところだけどね。
あー、ビール飲みたいなあ。
帰りたいなあ。

「セツコ様?」
「ううん、なんでもない」

ちょっとしんみりしちゃった。
あー、ビール飲みたいなあ。
発泡酒でもいいんだけどなあ。
ていうか、糖質カットの発泡酒の方がいいよね、私の体重的には。
あれに慣れるとビールが濃く感じるんだよなあ。

ティモとマリカに手伝ってもらって馬車を降りて、今日の宿とやらに向かう。
それは二階建ての石だか漆喰だかなんかでできてる赤茶けた建物だった。
いつもの城に比べればこじんまりしてるが、日本の住宅街の建売住宅に比べれば倍はある。
木で出来た扉を開くと、キンキンとした耳障りな声が聞こえてきた。

「なんだこの***な宿は」
「今日はいつもの**は手配できなかったので」
「またあいつのせいか!」

そこにはいつもなんだかカリカリしているカルシウムの足りない美少年。
美少年は怒った顔してても美形だからいいわよねえ。

「どうしたの?えーと、あの、アルベルト」

あの思春期小僧っていう単語は出てこなかった。

「えっと」
「この宿が、えーと、安い、貧乏くさいと言っています。分かりますか?」

マリカは困った顔をする。
ティモは親切に教えてくれた。
本当に面白いなこの男。

「あー、うん、分かった」

日本の猫の額のごとき家を知らないお坊ちゃんは、宿が不満だとだだをこねてるらしい。
まあ、日本の綺麗な旅館に比べれば埃っぽいし古ぼけてるけど、この世界では結構上等だろに。
まったく、これだから金持ちはいけない。
我儘でこらえ性がないんだから。
貧乏人の僻みじゃない。
決してない。

「お前!」

アルベルトは私の姿を見つけると、つかつかとこちらに寄ってきた。
そして指をつきつけ、目を吊り上げる。

「まったく、お前のために遅くなったせいで、こんな粗末な宿に泊まることになったんだぞ!」

えーと、なんだ、早口だからすぐに理解できないけど、私が悪いって言ってるのか。
うるせー、しらねーよ。
とは言わないでおこう。

「それはごめんなさい」

殊勝に頭をさげて謝ってみせる。
素直に謝ったのが意外だったのか、アルベルトはなんだかちょっと怯んでいるように見える。
頭をあげて、じっと目を見つめて、名前を呼ぶ。

「えっと、アルベルト?」
「****名前を呼ぶな!」
「えっとじゃあ、王子様」

で、いいんだっけ。
ま、いっか。

「あなたのお父さん、ミカ王、は戦う人よね?」
「なんだ!?」

確か、ミカは最下層から自力で這い上がってきた人だと聞いた。
あれだ、豊臣秀吉。
その立身出世っぷりが、サラリーマンのおっさんに大人気。
そう考えるとミカってすごいな。

「お兄さんもお姉さんも、強い、えっと、戦う人なんでしょ?」
「それが、どうした!」
「あの人たち、宿が粗末とか、そういうこと、気にするの?」

アレクシスは分からないが、ミカもカタリナもそういうタイプじゃないっぽかった。
ていうか少なくともミカはお忍びでちょくちょく外に出てたし、私と安宿に泊まったりしてるしね。
少なくとも軍人さんなら、ベッドの質なんて気にしないんじゃないだろうか。
気にしてるのは、この神経質そうな綺麗なお坊ちゃんだけっぽい。
下のちびっちゃいのは知らないけど。

「王子様は高いベッドと違う、眠れない?」

これは嫌味になってるんだかなってないんだかどっちだろう。
もっと嫌味ったらしく、お坊ちゃんは苦労知らずだから何もしないくせに国民の血税で出来た高級品のベッドしか眠れないのよねーとか言ってやりたいんだが。
言葉の壁って難しい。

「………っ」

鼻で笑われるか、何か言い返されるかどっちかだろうと思った。
しかしアルベルトはその手を振りかぶった。

『え!?』

気が短すぎるだろう!
とっさに目を瞑って身を竦める。

「………?」

しかし、衝撃はやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、ティモがアルベルトの手を抑えてる。

「アルベルト殿下、落ち着いてください」

そしていつもの無表情で、ぼそぼそと話す。
やるじゃん、ティモ。
今ちょっときゅんと来た。

「お前、俺を誰だと思ってる!」
「殿下です。******私はセツコ様を守るよう、陛下から******」
「くっ」

アルベルトは手を思いきり振り払うと、悔しそうに歯ぎしりする。
なんか、私そんな怒るようなこと言ったかな。
ちょっと怒るかなって思ったぐらいなんだけど。
なんか申し訳ない気になってきた。

「アルベルト、いい加減になさい」

そこで、奥で何かをしていたらしい、ヘルマンがやってきて、たしなめる。
軽くため息をつくと、アルベルトの肩を軽く引く。

「アルベルト、ほら行きますよ」
「この******が!」

アルベルトは最後に私に指をつきつけ、何か言う。
さっぱり分からなかったが、まあ、なんか悪口だろう。

「なんて言ったの?」
「えっと」
「身分が低いとか、貧しい人間とか、そういった意味ですね」

マリカが口ごもり戸惑う。
ティモが素直に答えてくれる。

「なるほど」

時代劇風に言うと、この下郎が!みたいな感じかしら。
ちょっと悪いことしたかと反省しかけたけど、反省しなくていいや。
まあ、何を言われようと言葉分からないからいいけど。
悪魔に打ちのめされ続けたこの数か月。
あんな子供に何も言われても今更どうとも思わない。
この世界に来てから、私の心も強くなったもんだわ。

「怒らないんですか?」
「別に。分からないし。本当のこと。いや、貧乏、違うけど」
「そうですか」

日本では贅沢はしてないけど、そこそこ普通の生活はしてたと思う。
ただ身分もへったくれもないし、この世界で貧しいかそうじゃないかって言われれば固有財産は一つもない。

「それにしても、アルベルト、本当に、すごい、怒る。怒りっぽい」
「セツコ様がああいうこと言わなければ、もう少し怒らないんじゃないでしょうか」
「私、疑問、聞いただけ」
「まあ、そうですね」

ティモはどうでもよさそうに頷く。
本当にどうでもよさそうだなあ。
そういや、この人はあんな風に王子様に歯向かって大丈夫なんだろうか。

「ティモ、えっと、大丈夫?後で、怒られない?」
「まあ、大丈夫じゃないですかね」
「じゃ、いっか」
「はい」

本人がそういうならまあ、いいか。
一応帰ってからミカとネストリに言っておこう。
私のせいで懲罰とか減俸とかはさすがに心が痛い。
後、責任もとれない。

「………あんまり、よくないと思うんですけど」

ぼそりと言ったマリカの声はあんまりよく聞こえなかった。



***




夕飯のスープは獣臭いけどなかなかおいしかった。
こっちの獣臭い料理にもだんだん慣れてきてしまった。
こうやってどんどん、こっちの世界に慣れて、あっちのこと忘れたらどうしよう。

「セツコ様、お風呂入りますか?」

食事を終えると、甲斐甲斐しく給仕をしてくれていたマリカが笑顔で聞いてくる。
考えるな。
暗いことは、考えるな。

「あ、うん」
「お体洗いますね」
「え、いや」

そこまでのサービスは別に期待してないんだけど。
まあ、城で他のメイドさんたちにはやられてるけどさ。
こんなあんまスタイルよくない体、同性に見せたいもんでもない。
まあ、風呂で断ればいいや。

「外なの?」
「はい、あちらだそうです」

風呂は宿の外にあるらしい。
城で聞いた話では、庶民の風呂はよくて公衆浴場が普通らしい。
個人宅に風呂を持ってるなんて、本当に金持ちだけだそうだ。
この宿は宿専用の風呂があるってことだけど、結構高級宿なんじゃないだろうか。
マリカが持つランプを頼りにたどり着いた建物は、同じように石だか漆喰だかで出来ていて、思ったよりも大きかった。
入り口は二つに分かれている。

「こちらが女性用ですよ」
『へえ、分かれてるんだ』
「はい?」
「男、女、別、なのね」
「はい、そうですよ。え、セツコ様の世界では一緒なんですか?」
「ううん」

いや、なんか混浴な気がしてたんだよね、こういうところ。
別に混浴がいいってわけじゃないけど。
ていうか混浴は嫌だけど。

「えーと、たまに一緒に男と女、入る、お風呂、ある」
「ええ!?」

マリカは大きな目をますます大きくして驚きを表現する。
顔を赤らめて目をそらす。

「す、すごいですね」

混浴って、普通じゃないのか。
つーかこっちの貞操観念がよくわからない。
周りにいるのがあのバカ王とか悪魔とかだしな。
しかし日本を誤解されたままでも困るな。

「えっと、女の人、服、着てる。お風呂、入る」
「あ、なるほど。男の人の体洗ったりするんですか?」
「えーと、違う。うーん」

そんなサービス、特殊な泡のお店だけだ。
どうやって言えばいいんだろう。
基本男女別だけど、たまに女湯を作れない立地条件があるからその時は混浴で、って言葉を作るのが面倒臭い。

「………」
「あ、すいません、困らせてしまって」
「ううん。後で、説明する」
「はい、さ、入りましょう!」

多分。
忘れなければ。
マリカが空気の読める子でよかった。

「どうぞ、入ってください。お体洗いますね」

脱衣所で服をさっさと脱ぐと、マリカは自分は服を着たまま、浴場へ案内する。

「あ、いい。自分、洗える」
「でも」
「自分で、やりたい」
「………そうですか」

なぜかがっかりするマリカ。
そんなに私の体が洗いたいのか。
そういう趣味じゃないよな。
いや、違うだろうけど。

「えっと、マリカも、服脱ぐ。一緒に、入る」
「え」
「一緒に入る。楽しい」

せっかくだから、誰かいた方が楽しいだろう。
ご奉仕されるより、一緒に楽しく入りたい。

「で、でも」
「マリカ、女。私も女。恥ずかしい、ない」
「えっと、その」

マリカは困ったように視線を彷徨わせる。
人の体は洗うくせに、自分が脱ぐのは恥ずかしいのか。
私なんて今も真っ裸なのに。
もうこっちきてメイドさんたちに体洗われることも多くて恥じらいもなくなってきたなあ。
まずいなあ。

「ほら、入ろう」
「………はい」
「先、入ってる」

マリカを促し、とっとと風呂場に突入する。
脱衣所にいる時からむしむししていたが、浴場に続く皮の布を広げると、むわっとした熱気が顔を襲った。
そして湯気の中に見えるのは、石造りの大きな浴槽。

『おお、温泉だ!』

城の風呂も広いけど、ちょっと白く濁りかかったお湯はまさしく温泉だ。
見た目は完全ヨーロッパだけど、顔を覆う湯気とお湯は、日本を思い出させる。

『温泉だあああ』

思わず興奮してお湯にとっこんでしまう。
かけ湯をするのも忘れて、ややぬるめのお湯にざぶりと入る。
じんわりと、手足を緩める温かいお湯。
怪我したところが沁みるような気がするが、それも気にならない。

「ああああ」

思わずおっさんくさい声が漏れ出る。
これだ。
これを求めていたんだ。

『気持ちいいいい』

お湯を救って顔を洗う。
気持ちいい。
肩までつかって、体を弛緩させる。

『うう、懐かしい、懐かしいよ』

昔は温泉よくいったなあ。
近所のスパとかさあ。
出た後はキンキンに冷えたビール。
ちょっと枝豆とかつまんじゃってさ。
あー、幸せだったなー。
幸せだった。
あー、よかったなあ、あの頃。

『………帰りたいなあ』

温泉入りたい。
ビール飲みたい。
やばい、涙出てきた。
いつもは忘れるようにしてるけど、たまに襲い掛かってくる郷愁。
帰りたい、帰りたいなあ。

「セツコ様?どうしましたか?声が聞こえましたけど?」
「あ、なんでもない」

出てきた涙を拭って、マリカの方を振り向く。
はー、泣いてもどうにもなんないんだけどさ。
あー、でも思いきり泣きたいなあ。

「………」

そして湯気の中のマリカの白く細い体を見て、言葉を失った。

『ひどい怪我!大丈夫!?この前の!?』
「え、な、なんですか?」

思わずお湯から立ち上がると、マリカが戸惑ったように目を瞬かせた。
あ、しまった、日本語だった。

「それ、この前、怪我?」

マリカの体は傷だらけで、見ているだけで痛々しかった。
私の体も傷がだいぶ増えたが、ここまでじゃない。
この子はこんなに怪我をしていたのだろうか。

「ああ」

マリカはちょっと困ったように笑って、腕を持ち上げ傷を指さす。

「これは、ほとんど古い傷です。お父さんとお母さんにつけられたんです」
「………」

やばい、重い。
どうしよう。
そういえばこの子、親からなんか酷い扱いうけてたとかなんとか。
可哀そうって思うけど、可哀そうって言っていいんだろか。
同情していいものか。
なんか人の不幸に同情するとかって、偽善者くさくないか。
そんなことないのだろうか。
でも、笑って流すとかも失礼なような。
こういうディープな事情を持った人間周りにいなかったから、どういう対応するのが正解か分からない。
傷つけたくないし、酷い人間って思われたくないし、冷たい人間って思われたくないし。
この考え方がすでに偽善者くさいつーかなんつーか。
じゃあ、どうしろっていうのよ。
あー、こういう時に気の利いたことなんて言えないのよ、そういう出来た人間じゃないのよ。
あー、どうしよう。
どうしようもできない。

よし。
見なかったことにしよう。

「じゃあ、マリカも入ろ」

私は笑って、マリカを湯船に手招きする。
うん、下手なことは言わない。
それがきっと正解。

「はい」

マリカはにっこりと笑ってとことこと湯船に駆けてくる。
お湯の様子を手で確かめると、恐る恐る湯船に浸かる。

「わ、変な感じです。温泉、初めてです」
「そう?気持ちいいよ」
「う、うーん」

マリカは初めてのお風呂に戸惑っているようだった。
落ち着かないようにもぞもぞとしているのが、なんだか可愛い。

「セツコ様、気にしないでくださいね」

隣に座ったマリカはそっと囁くように、言う。
いやあ、気にするなつっても気になるけど、どうしたらいいものか。
正直に言うしかないか。
言葉がもっと分かるのなら、誤魔化したりすることもできたんだろうけど、私のつたない語学力じゃどうしようもない。

「………私、いい言葉、出てこない。ごめん、優しい、人間違う」
「セツコ様は、十分優しいですよ」

マリカはくすくすと笑いながら、そう言ってくれる。
本当にこの子はこの年にして人間出来てるなあ。
よほど苦労してきたんだろう。
可哀そうだなあ。
って思うのってどうなんだろう。
ああああ。

「セツコ様は、それでいいんですよ」

言葉に詰まっている私に、マリカは優しくにっこりと笑った。






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