『うん、それでね、そっち行きたいから、バイト始めたんだよ』 はしゃいだ声は、どこか得意げだ。 耳元に聞こえる高く甘い声が、心地いい。 何度聞いても飽きないし、何度聞いても、胸が高鳴る。 「へえ、お前に出来るバイトってなんかあるの?」 だから俺は少し照れくさくて、いつも憎まれ口を叩いてしまう。 本当は、もっと優しい言葉をかけたいのだけれど。 『ひど!ちゃ、ちゃんと仕事してるんだから!』 「へー、じゃあドジなんてしてないんだよね?」 『う……』 言葉に詰まる。 鈴鹿が浮かべている表情が手に取るように分かる。 眉をたれた、情けない犬のような顔。 自分の頬が揺るむのが分かる。 『で、でも、よくやってるって、店長にも言われたし!』 ちょっと舌をもつらせながら、必死に抗議する。 そんな、じゃれあうような会話が嬉しくて、くすぐったい。 いつだって、あのドジで間抜けで情けない犬のような顔をした年上の少女が、俺の心を温かくしてくれる。 電話越しの笑い声が嬉しくて、少し寂しい。 もっと近くであいつの声が聞きたい。 もっと近くであいつの顔が見たい。 もっと近くであいつに触れたい。 手をつないで、一緒に歩きたい。 あの温かくて、嬉しくて、弾むような、それでいて泣きたくなるような感情が胸をさす、あの空気を、感じたい。 距離がもどかしくて、自由に動けない自分がちょっと情けない。 バイトして金を稼ぐことができる鈴鹿に、見当違いな悔しさを感じる。 俺があちらへ行った時だって親の金だ。 どんなに俺がいばっても、あいつを守ると言っても、結局4年の差は縮まらない。 追いつけないまま、あいつの背中を見ていることしかできない。 『……駿君?』 「あ、ごめん、何?」 『ちゃんと聞いてる?』 「だからごめん、ちょっとぼっとしてた」 俺が少し意識をそらしていたことに、鈴鹿は軽く怒っているようだ。 頬を膨らませてる様子が思い浮かんで、少し胸にあったしこりが溶けていく。 『もう。だから、今度の連休、ちゃんと予定空けといてね?』 「分かってるって、俺が鈴鹿を放って置いたことあるか?」 『ぐ…く……』 急に鈴鹿は変な声をあげて言葉につまる。 「鈴鹿?」 『駿君……反則……』 どこか感情が高まったような声に、俺は自分が何を言ったか思い出す。 「あ………」 こっちも赤面してしまう。 自然に出た言葉だが、よくよく考えると、とても恥ずかしい。 『…………』 「…………」 お互い、言葉につまる微妙な時間。 なんていうか、すごい、背筋がむずむずする。 『あ、じゃ、えと、そろそろ遅いし、切るね』 慌てた様子で、話を切り上げようとする。 その言葉に寂しさがこみ上げるが、確かにもういい時間だ。 ずっとずっと話していたいけど、そんな訳にもいかない。 「そっか、だな。じゃあ、お前も早く寝ろよ」 『うん!』 元気のいい、高めの声。 このまま切ってしまうのが惜しくて、ちょっとでもその声が聞きたくて。 「あ、と」 『ん?』 「その、お前が来るの、楽しみにしてる」 すごい恥ずかしいけれど、それでも心からの素直な言葉。 鈴鹿は鈍感だから、ストレートに、沢山、言わなければ分からない。 だから恥ずかしくても、言葉にする。 『う………うん。私もね、すごい楽しみ』 それもまた、鈴鹿の素直な言葉。 けれど、もっと聞きたい。 それだけじゃ、俺だって不安だし、疑ってしまうから。 「何が?」 だから重ねて聞いてしまう。 それは意地悪じゃなくて、ただ聞きたいから。 『う、うー………』 「鈴鹿?」 促す言葉に、からかいは含まない。 だから電話越しの声も、躊躇いながらもたどたとしく口にする。 『私もね、駿君と、会えるのが………とても、楽しみ』 「うん」 胸が熱くなる。 顔に血が上るのが分かる。 嬉しくて、強くて、それでいて優しい気持ちがこみ上げる。 くそ、かわいい。 それから、しつこく名残惜しく2、3の言葉をかわしてようやく電話を切った。 思わず顔がにやける。 くそー、かわいいかわいいかわいい。 自分の部屋の畳に突っ伏してしまう。 ゴロゴロと転がりたい気分だ。 嬉しくて、飛び上がって喜びたい。 あふれる感情に我慢ができそうにない。 「何やってんの、あんた」 と、予想外の声が聞こえた。 「て、なんでいんだよ!」 「ノックしても返事ないんだもん」 慌てて後ろを振り返ると、全く悪気のないふてぶてしい女の姿。 まだまだ若々しい、俺の母親。 「いい加減、勝手に部屋に入ってくるのやめろよ」 「あんたがはしゃいでて返事しないのが悪いんじゃなーい」 「く………」 よりによって、一番見られたくない女に見られた。 罰が悪くて、八つ当たり気味に睨みつける。 が、相手は動じず性格の悪さがにじみ出るような、意地の悪い笑みを浮かべている。 「まー、いつもクソ生意気なあんたが鈴鹿ちゃんがくるってえとかわいらしいこと。ほっほっほ」 「うるさい」 「かわいいかわいい」 頭を撫でようとするムカつく手を、払いのける。 母親は気にした様子もなく、未だににやにやと笑っている。 くそ、油断した。 「で、なんか用かよ」 さっさと追い払いたくて、俺は不機嫌な声でそう切り出す。 こいつのことだから、もしかしたら俺をからかうためだけにきたのかも知れないけどな。 「あ、そうそう。そうだった、用があるのよ」 しかし母は、ぽんと手を叩くと、思い出したように声をあげた。 本当に、用があるらしい。 「なんだよ?」 「駿、ちょっとそこに座りなさい」 「は、座ってるだろ?」 急に顔をひきしめ、声まで堅くなる。 母がこんな態度をとることは、そうない。 「違う、正座。大事な話があるの」 「は?」 「ほら、さっさと座る」 もう一度いつになく厳しく告げると、自分自身も俺の前に正座する。 その真面目な様子に、気圧されるように座りなおした。 母は一度頷いて、俺に視線を真っ直ぐにあわせた。 その張り詰めた空気に、思わず背を伸ばしてつばを飲む。 「よろしい、今度、鈴鹿ちゃんがくるのよね?」 「へ?……うん」 予想外の問いかけに間抜けな声を上げながらも、それは事実なのでしっかりと頷く。 「あたしもね、鈴鹿ちゃん好きよ。かわいいしいいこだし、あんたのお嫁さんに来てくれたらこんなに嬉しいことはないわ」 「およ……っばっ、何言ってんだよ!!!」 「照れるのはいいからとりあえず聞きなさい」 落ち着いていた心臓が再びスピードをあげる。 ものすごい怒鳴り返したいが、真剣な表情の母に制される。 「それにね、あたし、あんたのことすごく信頼してるのよ。今まで言ったことないけど、すごく苦労かけた。それでも真っ直ぐと成長してくれたこと、とても嬉しいし、感謝してるのよ。あんた、とってもいいこに育ってくれた」 「な、何言ってんだよ!本当にさっきから!」 さっきから意外性のオンパレードな上に、座りどころが悪くなるようなむずむずが止まらない。 こんなこと、中1の男に言われても、素直に受け取れるはずもない。 けれど、母は真面目な顔を崩さない。 慌てる俺に、真摯な瞳を向けてくる。 その様子は、それが心からの言葉だと感じさせてくれる。 「母さん………」 くすぐったくて照れくさいけれど、なんとかその言葉をうけとめた。 母の素直な気持ちを、受け取りたかった。 母は息子が自分の言葉を受け取ったことを理解したのか、優しく笑った。 それは母に甘えていた遠い日を思い出す、懐かしくて温かい微笑み。 そして、その慈愛に満ちた微笑を浮かべたまま、母はエプロンから何かと取り出して、俺の前に置いた。 「……何?」 「母さんね、あんたのことしっかりした子だって信じてる。だから、ちゃんとこれ使うのよ」 そういって母は手をどけた。 そこには見慣れぬパッケージの小さな箱。 なんだか分からないが、俺に差し出されているのは確かなのでゆっくりと受け取る。 シンプルなデザインの箱は、お菓子のようにも見える。 「やっぱり責任がとれるようになるまでは男の義務よ。それに私、まだおばあちゃんになりたくないの」 「……………おい、これはなんだ」 俺の声が一段低くなったのが分かった。 そういえば、クラスの一際悪戯好きの奴が学校に持ってきていた。 結局は膨らませて遊んでいたりしたが、俺もわずかな好奇心を持って、その様子を眺めていた気がする。 パッケージの裏を見ると、予想通りの、けれど外れて欲しかった商品名が記されていた。 母は小首をかしげて、何を言っているのかという様子で口を開く。 「何ってコンド」 「あほかー!!!!!!!!」 立ち上がり、手に持った小さな箱を畳にたたきつける。 「何すんのよ、それ高かったんだから!」 「やかましい!中1の息子相手にあんたは何言ってやがる!」 「中1だから言ってんでしょ!あんたの息子の成長を誰よりしってる母親だからよ!」 「少しは口を慎め!!!!」 勢いに任せて頭をはたいた。 母親を殴るという行為に少し抵抗を感じたが、この場合は俺が正しい。 昔から母親としては少し息子への接し方が間違っているとは思っていたが、ここまでとは。 怒りなんだか情けないんだか恥ずかしいんだか分からない感情がこみ上げる。 涙が出てきそうだ。 母はそれでも口を尖らせて抗議してくる。 「何すんのよ!母の愛を!」 「あんたの愛は間違ってる!俺はまだ中1で鈴鹿は高2だ!そういう心配してる暇があったらもっと別なことに脳みそを回せ!」 「自慢じゃないけどね、母さん鈴鹿ちゃんの歳にはあんたがお腹にいたわよ!」 「それは確かに自慢じゃねえ!」 お互い肩で息をしながら、にらみ合う。 そのまま真ん中に小さな箱を挟んだまま、滑稽なにらみ合いを続ける。 先に引いたのは母だった。 これ見よがしに大きなため息をつく。 「ふう、仕方がないわね。あんたが照れる気持ちも分かるわ」 「そうじゃねえ。あんたは思春期の息子の扱いを一から学びなおせ」 しかし母は聞いていない。 「とりあえず置いていくわ、これ。備えあれば嬉しいな、よ」 「憂いなし、だ」 「そうとも言うかもしれないわね。じゃ私寝るから」 「じゃねえ、人の話を聞け!持って帰れ、これ!」 「じゃ、おやすみー」 「おいこら、待て!」 人の話を聞かない女は、後ろ手にひらひらと手を振ると来た時と同じように唐突に出て行った。 「この馬鹿母ー!!!!!!」 俺は届かないことを承知で、思い切り心から叫んだ。 部屋に残されたのは小さな箱と、俺。 俺は無造作に畳に置かれたその箱を見つめながら、先ほどとは違った感情に地に突っ伏した。 |