母さんから借りた携帯を前に、俺は無言で座っていた。
明るいパールホワイトをしたその小さな機械が、今の俺にはなんとも恐ろしくうつる。
時代の最先端を行くこの機械は、簡単な動作によって目的を果たすことが出来る。
電話帳を検索して、発信する。
それだけだ。
ていうか電話帳を検索するまでもなく、電話番号を打ち込めたりもする。
何度も何度も携帯の中の情報を見る度に、インプットされてしまった、11桁の数字。
手をのばしかけては、止めて、ため息をついた。
だってそうだろ!?
別に用事とかないし、急にかけていいものかわかんねえし!
そうして逡巡したまま、すでに2ヶ月が経過してしまった。
本当はすぐに電話してしまえばよかったのだ。
勢いのある内に。
あれこれと言い訳をつけている内に月日は流れ、ますます連絡をしにくくなった。
天井を向いて大きくため息をつく。

冬に出会った時はここまで怖くなかった気がする。
それよりも忘れられてたことがむかついて、会えたことが嬉しくて、なんだかんだと勢いで行動できた気がする。
ドサクサにまぎれてとは言え、その、キスまでしちゃったし……。
それが、今では鈴鹿が怖くて仕方がない。
鈴鹿を知るたびに、もっと好きになる度に、嫌われるのが怖くなる。自分に自身がもてなくなる。
あー、くそ、女々しいな。俺。
せめてメールが出来たらよかったんだよな。
それだったらもっと気軽に出来たし。
でも母さんの携帯でメールして、万が一履歴とか見られても最悪だ。
電話って……結構重いよな。
もう何度目か数えるのもイヤになったため息をついた。

と、いきなり頭をはたかれた。
「って」
軽くだったが、突然の衝撃に後ろを振り返る。
そこには呆れた顔して立っている母さんがいた。
母さんは若いうちに俺を生んだせいか、まだ十分若々しい。本人も若作りをかかさないせいか、実年齢より若く見えるほどだ。
……最近ちょっと太ったけどな。
「何すんだよ」
ぼこすかと息子を平気でなぐるひどい母親に、抗議の視線をむけた。
「あー、もうじれったい!!さっさとかけるならかけなさいよ!!うじうじうじうじうっとおしい!!」
人の部屋に勝手に入ってきて、この言い草。
俺がグレずに育ったのは、奇跡かもしれない。
「うるさいな。母さんには関係ねーよ」
「あるわよ!それ、私の携帯。使わないのに何時間も拘束しないでちょうだい。もう2ヶ月も経つのに結局一回もかけてないし!この甲斐性なし!」
大変腹の立ついいようだが、言い返せない。
さすがに自分でも、情けないと思っていたところだ。
「……悪かったな。携帯返すよ」
今日はもう諦めることにして、目の前にあった携帯をつっかえす。
「かけないの?」
母さんは受け取りながらも、呆れた顔してこちらを見下ろしてくる。
「今日はいい」
明日、明日こそかける。
もうこれまた何回目になるか分からない決意を心の中でする。
母さんが大きくため息をついた。
「ほんっとにもう、いつもは偉そうなくせに変なところで勇気ないんだから」
そんなことをぶちぶち言っている。
………悪かったな。
と、母さんがなにやら携帯を操作し始めた。
「電話するなら自分の部屋でしろよ」
突然の行動に眉をひそめながらも、追い出そうとする。
「えーと、すずかちゃん、は、と。す、す、す。あ、あった」
「お、おい!ちょっと何してんだよ!」
俺は慌てて立ち上がり、母さんを止めようとする。
けれど母さんは一歩後ろに下がり、俺の手をかわして作業を終了させてしまった。
「よし、かかった。はい」
そうして無造作に俺に手渡された携帯からは、無機質な機械音が聞こえてくる。
どうしよう。いっそ切るか。
「言っておくけど、もう向こうにはうちの番号通知されてるんだからね。切るんじゃないわよ」
逃げ道もふさがれた。
「……分かってるよ」
しぶしぶと携帯を耳にあてる。
迷惑半分、感謝半分。
ここまで来たら、覚悟を決めるしかない。
それから3コールほどして、コール音が消える。
『もしもし?』
鈴鹿だ……っ。
急に心拍数が増加したのが分かった。
その少し高めの明るい声は、記憶の中のものそのものだ。
思わず思考が停止したまま携帯を握り締めていると、もう一度聞き返される。
『もしもーし?』
や、やば。なんか話さなければ。
「あ、俺」
声が上ずった。
みっともない、かすれて震えた声になった。
耳が熱くなってくる。
母さんはその様子をみて、声を抑えてくすくす笑っていた。
携帯を持っていないほうの手を振って、追い払う。
母さんは意地の悪さがにじみ出るようないやらしい笑いを残して、静かに部屋を去っていった。
くそ、後で何を言われるか分からない。
携帯の向こうからは返事がない。
携帯の番号を見て、分かると思うのだが…。
『どなた様ですか?』
そんな答えが返ってきた。
………。
まあ、そういう奴だよな。
警戒心のない奴。番号ぐらい見ろよ。
加えて俺の声聞いても分からないわけね。
いいけどよ。
そういう奴だよな。
自分に言い聞かせるように考え込んでいるうちに、思わず無言になってしまった。
けどこのままだと本当にいたずら電話だ。
仕方なく、自己紹介をする。
「……すいません、I県の崎上です」
我ながら少し険のある声になってしまった。
一発で気づかれなかったからって、大人気ない。
しかし次に返ってきた言葉で、そんな反省はふっとんだ。
『崎上さんですか?えーと、どちら様ですっけ?』
本当に不思議そうな、しかも少し疑りの入った声。
こいつ……いたずら電話だとか思ってるわけ。
ていうかまた忘れられてるのか、俺。
さっきまでの、不安と期待が入り混じっていた心が一気に急降下する。
怒りと、失望に。
息を吸い込む。
心の中のどろどろとした感情とともに、一気に吐き出した。
「崎上 駿だよ!!!!また忘れてんのか、お前は!!!2ヶ月前に会った人間の名前を覚えてらんないのかよ!!!」
母さんや純太のいる居間に聞こえるぐらいの大声で叫んだ。
でも、確かによく考えたら、あのボケなら俺の苗字なんて知らないのかもしれない。
叫んだことで少し収まった苛立ちを隠し、小さな声で付け加える。
「俺は、ずっとお前と話すの楽しみにしてたのにさ」
ちょっとすねた、ガキっぽい声。
くそ、情けねえ。
でも、素直にならないからいけないのかもしれない。
けれど、かなりの勇気を振り絞って加えた言葉は、通話の向こうの人間の大声でかき消された。
『うわわわわ!!!』
ガタガタガタ、バサッ、ドタドタ!
なにやら遠くなった声とともに、暴れるような音がしてくる。
「お、おい。何してんだ?」
返事は返ってこない。
しばらくまだ小さく物音がしていた。
ちょっとしてから、ようやく息を切らせた声が聞こえてくる。
『も、もしもし!?ごめん駿君!!』
慌てた声。
これは、別にさっきの言葉を聞いて動揺してるとかではなさそうだな、全く。
ていうかあのタイミングだったらこいつ自身の声で聞こえていないはずだ。
なんだかな、もう。
俺が黙っていることをどう思ったのか、鈴鹿が恐る恐ると小さな声で様子を伺ってくる。
『ご、ごめん、駿君、ごめんね!怒った?』
またこいつ、あの情けない犬面してるんだろうな。
「……すごい音したけど、どうかしたの?」
『え、えへへ、ちょっとベッドから転げ落ちたりしたりしなかったり…』
肺の中の息をすべて出してしまうぐらい、深い深いため息をついた。
なんかもう、本当に馬鹿らしくなってきた。
こんな奴にものすごい緊張していた自分にも、呆れてくる。
『……ごめんなさい』
それでもあの情けない犬面で謝っている鈴鹿を思い浮かべると、怒るに怒れない。
諦めとともに、受け入れる。
「もういいよ。お前が物覚え悪いのは重々承知してるし」
そう、過大な期待をした俺が悪かった。
『で、でもね。駿君なんか声違くない?』
「声?」
なにやら聞いてきた鈴鹿。
声というと、最初の上ずったみっともない声のこと言っているのだろうか。
こいつは本当にもう、余計なことばっかり気づきやがって。
緊張してくるくらい気づけよ、この馬鹿。
『そ、そう。なんか声が前と違って……』
「そんなことねえよ」
恥ずかしさから、声がぶっきらぼうになった。
そっとしておけよ!そこは!
『え、そ、そうかな?』
「ああ」
そこで会話を切り上げようとした。
ちょっと気まずい間。
先に口を開いたのは、向こうだった。
『あ、そ、それでなんか用?』
え、用?
用って言われても、その、単にお前と話がしたかったっていうか…てそんなこと言えるか!
「……いや、用事ってほどじゃないんだけど」
『あ、そうなの?』
不思議そうに聞き返す鈴鹿。
どうする、どうするんだ、俺。
早く考えつけ!用をひねり出せ!でっちあげろ!
あー、くそ!
『駿君?』
ちょっと待てよ!
て、あ、そうだ。
「……あ、いや、お前さ、夏休みこっち来るようなこと言ってただろう?マジで来んの?」
ようやく話題を見つけ出した。
ていうか素直に普通に話せばよかったんじゃねえのか、近況とか。
今更思いつくなよ。もっと早く思い出せよ。
『うん。今回はちょっと長くいたいな』
けれど鈴鹿は乗ってきてくれた。
少し、弾んだ声。
よ、よかった。
「そっか」
俺も嬉しくて、頬が緩む。
来るとは言っていたけど、ちょっと不安だった。
あいつも一応、高校生なわけだし。予定とか入ってるんじゃないか、とか。
あ、そうだ。
「せっかくの夏休みなのに一緒に過ごす奴とかいないの?」
いつものくせで、ちょっと嫌味っぽく、からかうように問う。
けれど実はかなり本気な質問だったりする。
『悪かったわね!いないわよ!』
予想通りの、怒った声。
予想通りだけど、思った以上にほっとする。
よかった。
「ふーん」
けれど、ポーズは崩さずに馬鹿にしたように返す。
嬉しくて、自分がにやけているのが分かる。
あー、分かりやすいな、俺。
「まあ、そういうことならお相手してあげましょう」
『でも、駿君ももう中学生だよね?部活とかは平気?』
偉そうに言った俺に、しかし鈴鹿は不安そうな声を出す。
そう言えば部活なんてもんがあった。
確かに夏休みは部活動がかなり増えるだろう。
けれど俺は、家庭の事情もあることでかなりその辺に関しては融通が利く。
部活は楽しいが、比べるまでもない。
『平気。そんなに厳しい部活でもないし。お前の予定にあわせるよ』
ホント?と言って、嬉しそうに笑う、小さな機械の向こうの声。
心があったかくなる。

それからは、2ヶ月ぶりだってのにすごく自然に話せた。
共通の話題から、お互いの近況まで。
不安だった気まずさなんて全くない。
こんなことなら、もっと早く電話すればよかった。
ものすごく不本意だが、母さんに感謝しなければいけないだろう。
本当に、不本意だが。
そんなこんなで、あっという間に時間が過ぎた。
名残惜しいが、さっさと切らなきゃいけない。
明日のこともそうだが、電話代も気にかかる。

『じゃあ、電話してきてくれてありがとうね』
「ああ」
切り上げる言葉は、鈴鹿から。
『うん、それじゃあまた』
「鈴鹿」
なんとなく、そのまま切られるのが寂しくてつい声をかけてしまった。
「え?」
呼び止めてしまったものの、言うことなんてない。
ちょっと考えた後、仕方なくありきたりな言葉を口にした。
とてもありきたりな、でもこの場にはふさわしい言葉。
「おやすみ」
鈴鹿と話すことで生まれた、温かな気持ちをこめた。
少しでも伝わるといい。
『あ、う、うん。おやすみ』
相変わらずの、明るい声。
けして綺麗な声、というわけではないが、耳にすとん、と入ってきた。
「うん、それじゃ」
穏やかな落ち着いた気分のまま、終了ボタンに指をかける。
『あ、駿君!』
「うん?」
切ろうとした直前に慌てて呼び止められた。
『あ、あのね。そっち行くのすごい楽しみ。おじいちゃん達にも会いたいし、おばさんや純君に会えるのも楽しみ』
「ああ」
なんだ、いきなり。
でも、その楽しみと続ける言い方が、鈴鹿らしくてちょっと笑った。
かわいいな、と思う。
『でもね』
そう続けられる。
『一番楽しみになのは、駿君に会えることなんだ。早く会いたいな。駿君と遊ぶのが、楽しみ。また一緒に遊んでね』
「は?」
早口でまくしたてられた言葉に、思わず呆けた声が出る。
な、なんだ、いきなり、なんなんだ。
今何言われた…?
『あ、うん、それだけ、じゃあね!』
「あ、ちょ、待て!」
呼び止める間もなく、一気に切られた。


壊れそうなほど携帯を握り締めたまま、どれくらいそうしていただろう。
からりとふすまが開いて、母さんが勝手に入ってくる。
「終わったー?で、で、どうなのよ?」
にやにや笑いながら座り込んだ俺の頭をつついてくる。
いつもなら文句を言う、その仕草も、今は頭に入らない。
「やられた……」
「は?」
俺はそのまま、横倒れに畳に寝っころがる。
「くっそー!!!!」
早口で照れたように言われた言葉が頭の中で永久リピートモードに入っている。

今夜は、眠れそうになかった。






TOP   鈴鹿side