長い長い沈黙の後、有川は絞るように言葉を吐きだした。
加奈は眼を逸らさない。
有川の一挙一動も見逃さないように、強い視線で有川をとらえる。

「……俺は、加奈が俺のこと好きなように、加奈のことを好きなのかは、分からない」
「………ふん」
「でも、加奈と一緒にいると、楽しい。わくわくする。加奈を見ていると、嬉しい」

そこまで言って、苦しげに顔を歪める。
眉を寄せて、息ができないように。

「こう思っても、何も悪いことは起きないだろうか。お母さんみたいに、なったりしないかな…」

不安そうに瞳を揺らす有川に、加奈は有川の頬に添えた手に、少し力を込める。
そして少しの躊躇いもなく自信をこめた力強い声で諭すように話す。

「言ってるでしょ、私があんたのお母さんみたいになるわけないし、悪いことなんて起きても私がどうにかしてやるわよ!私があんたを守ってあげる」

こつん、と熱をもった有川の額に自分の額をくっつける。
少し汗ばんだ有川の額が、加奈に確かな熱を伝える。

「そんでもって、何か起きたら有川が私を守ってくれればいい」
「でも、俺はお母さんを守れなかった……」
「………あんたのお母さんには、あんた以外、誰にもいなかったけど」

顔がぼやけて見えないぐらいの至近距離で、加奈は笑う。
それは、知っている人間が見れば驚くほどの穏やかな笑顔だった。
そしてどこか切ないような、泣きそうな笑顔。
近すぎて、有川にはその表情は見えなかったけれど、額から加奈の温かさを感じていた。

「私とあんたの周りには、あの陰険女とか叶とか慎二とか幹とかいるでしょう。私が暴走してもおかしくなっても、あんたが怖い目にあったとしても」

その穏やかな微笑みは一瞬。
すぐに加奈は額を離すと、いつもどおり不敵に笑う。
敵なんていないというような、すべての不安を吹き飛ばす力強い笑顔。

「あいつらが止めてくれるし、力になってくれる」

有川が迷子の子供のような頼りなげな不安な視線を加奈に向ける。
すがるように、加奈の華奢な背中に手をまわす。
恐る恐る弱い力で、加奈の制服をつかむ。

「私は私を信じてるし、あいつらを、その、まあ、頼りにしてやってるわ」

そんな有川を心から愛しいと思いながら、加奈はその不安をぬぐいたい一心で言葉を紡ぐ。
自分の素直な、飾らない心を。
自分の中の温かいものが、その万分の一でも、届けばいいと祈るように。
そして有川の中の暗くて冷たいものを、吹き飛ばしてしまえばいいと願う。

「何より、私は有川が好きよ。有川と一緒にいたい。有川に触れたい」
「…………」

有川が自分の前に座り込んだ加奈の肩に、自分の頭を載せる。
少しの間の沈黙。
それから、つぶやくように小さな声が加奈の耳元に届いた。

「……俺も、加奈…」

ぎゅっと、加奈の背中をつかむ大きな手に、力がこもる。
加奈も、その広い背中に手をまわす。

「…………俺も、許されるんだったら、加奈と一緒にいたい」

その言葉に、加奈は熱いものがこみ上げてきた。
湿った吐息を、肩に感じる。
手に感じる硬い筋肉が、愛しい。
胸が熱くて、痛くて、そのまま、目に直結してしまう。
止める暇もなく、その熱はこぼれてきた。

「うーっ」
「か、加奈!?」
「う、ひっく、うー」

しゃくりあげながら、有川の胸に顔をこすりつける加奈。
突然泣き出したしまった加奈に、有川は驚きの声を上げる。

「か、加奈、なんで泣いて…」
「嬉し泣きよこんちくしょうー」
「な、なんで?」
「う、く、わ、わかんない、鼻水もでてきた、うー」
「あ、ティッシュ…」

離れようとする体を押さえつけて、加奈はより強く有川に抱きつく。
有川がは戸惑ったように体を揺らすが、すぐに諦めたように力を抜いた。
そのまま泣き続ける加奈の髪を、不器用に撫でる。
加奈は有川の胸に顔をますますこすりつける。
胸が痛くなる、緊張するような、でも安心するような、不思議な感覚。
穏やかな心音と、少し上ずった呼吸をお互い感じている。
静かな薄暗い部屋で、二人きりで、ゆるんでいく心で。

どれだけそうしていただろうか。
涙がようやくおさまってきた加奈は、自分の目の前の胸を見つめる。
加奈の馬鹿力でしがみついていたせいで、すっかりパジャマははだけて、むき出しの肌が見えている。
そこには、無数の小さな、そして大きな傷跡が残されていた。
その中でもひと際大きな脇腹の傷に、指を添わす。

「…これは、痛かった…?」
「…分からない、あんまり覚えてない。ただ、怖かった。悲しかった」

ぽつりぽつりと、有川は無表情に語る。
それが痛ましくて、加奈はその傷を労わるようになぞる。
そうしたら、この傷がなくならないかと、そんな馬鹿なことを思いながら。

「……ひどい…」
「大丈夫だ」

有川は気にした様子はない。
それでも、加奈は悲しくてしかたなかった。
有川のこんなに綺麗な体に残された、過去の証が。
そう、有川の綺麗な加奈好みの体に残された傷が。

「有川のこんな綺麗な体に…、もったいない」
「…もったいない?」
「こんな、綺麗な筋肉、無駄が無くて、張りがあって…」
「…加奈…?」

不穏な気配を感じ、有川は少しだけ加奈から体を離した。
そういったことに鈍感な有川だが、身の危険を感じたのか顔を少しだけ体を固くする。

「この大胸筋、腹筋、三角筋…」
「か、加奈加奈加奈っ」

ぶつぶつと何事かつぶやきながら、有川の体に手を這わしていく。
有川は更に距離をとろうとして、後ずさる。

「これは全部私のもんー!!」
「う、うわあああああ!!!!」

しかし時はすでに遅く、辛うじて着ていた服をはぎとられ、有川はベッドに押し倒された。



***




なんとなくダイニングに腰を落ち着けた麻生と神崎と吉川。
麻生がカウンターの向こうにあるキッチンに向かい、お茶の道具を持ち出してくる。

「さ、お茶でも入れましょうか。ただ、味は保障しませんけど」

にっこりと笑って、おぼつかない手つきで急須に茶葉を放り込む。
神経質そうな外見と違い、随分と大雑把な目分量だった。
そのお茶に少々不安を覚えながらも、吉川は麻生に恐る恐ると問いかけた。

「……なあ、あいつら、大丈夫なのか?」
「まあ、何かあったらどちらかが呼びにくるでしょう」

気にした様子もなく、麻生は適当にポットのお湯を注ぐ。
本当に味は期待できなさそうだ。
飄々とした麻生の様子に、吉川は眉を寄せる。

「……というか、あんたは、これでいいのか?」
「あら、何がかしら?」
「……あんたにとって、その、有川は大切じゃないのか?あんな奴に任せていいのか?」

いつも加奈に苦労させられている吉川の、半分以上真剣な問い。
見かけからは考えられないような繊細さを持ち、過去からのトラウマを抱えている有川に加奈のような無神経な女を近づけて平気なのか。
そして、他の女が近付くことに、麻生は平穏でいられるのか。

麻生の有川を見る目は、周りから見てもはっきり分かるくらいの愛情に満ちている。
そして有川もまた、麻生を信頼し依存している。
それなのに、そんな簡単に手放せるものなのか。
はっきりと言われたわけではないが、その問いの意味を正確に感じ取って麻生は柔らかく笑う。

「本当にいい人ですね、吉川さん」
「……それはあんまりほめ言葉じゃない」
「そうですか?私は好ましいと思いますが」
「いい人は、どうでもいい人だもんねえ、慎二君」
「会長は黙っていてください!」

過去の傷をえぐるような言葉を放つ神崎に、吉川は睨みつける
そしてそれていく会話を必死に、軌道修正する。

「そうじゃなくて、本当に加奈なんかでいいのか?」
「あら、加奈さんがいいんですよ。加奈さんだから、いいんです。明るくて前向きで、何より強い」
「有川を渡してもいいのか?」
「そうですね。響は私の何より大事なものです。響にずっと傍にいてほしいし、正直加奈さんには嫉妬します」
「じゃあ、なんで…」

麻生は不器用な手つきで、湯呑に茶を注ぐ。
作法もなにもないそれは、確かに慣れてはいなさそうだ。
少々濃そうな緑茶を、ダイニングテーブルに座っていた二人に差し出す。

「でも、私は響の幸せが大事なの。響が幸せなら、私にはそれが何よりの幸せだわ。今のままの響が、幸せだとは思わないもの。だから、加奈さんによって、何かが変わってくれば、とそう思ったんです。何もおかしくないでしょう?」

そう言った麻生には言葉通りなんの後悔も躊躇いも感じられない。
思わず黙り込む吉川に、神崎はお茶の礼を言うと悪戯ぽく痩せぎすで貧相な少女を見上げる。

「そう?なんか、余計にディープな愛だよね。麗しい兄妹愛っていうレベルじゃないよね。むしろそこまでの無償の愛って、胡散臭くてうそ臭くて、何かあるんじゃないかって思っちゃう」
「まあ、ひどい。私は純粋にただ兄を愛する健気な妹です」

傷ついたように大げさに怒ってみせる麻生は、やはりそれでも笑っている。
反応をうかがうように面白そうに上目遣いで見てくる神崎に諭すように話す。

「私達は、兄妹だもの。ずっと一緒にいられるではありません。だから、響には私がいなくても大丈夫なように強くなって、幸せになってほしいんです」

だから、と続ける。
それはとても楽しそうに。

「加奈さんの強さなら、響を鍛え上げてくれそうでしょう」

神崎が何か口を開こうとしたその時、廊下の向こう側から小さく叫び声が聞こえた。
防音の整っているこのマンションで声が聞こえてくるとは相当だ。
低くて焦りに満ちたあの声は、どう考えても有川だ。

「…本当に襲われちゃったのかしら」
「……可能性はあるな」
「さて、響ちゃんを救出にいきますか」

3人は顔を見合わせて苦笑すると、ダイニングを出て寝室へと向かった。
果たして寝室のドアの向こうには、予想通りの光景が広がっていた。

「しょ、ショウ、た、助けて、助けて」
「有川め、こんちくしょう!なんでこんないい筋肉してるのー!!」

泣きそうな顔でパジャマをはだけさせ、ベッドから逃れようとする長身の有川。
そしてそれを後ろからホールドして、胸やら腰やらを触りまくっている小柄な加奈。

それを見て、麻生と吉川と神崎は同時にため息をついた。



***




なんとか興奮状態の加奈を吉川と神崎が有川から引き剥がし、麻生が有川をなだめ場は事なきを得た。
それでも加奈と有川はどうやら仲直りは出来たらしく、以前のように穏やかに楽しそうに二人は話していた。
加奈が有川に纏わりついても、有川は振り払うことも、逃げることもない。
無表情ながらもリラックスした優しい表情で、頭1.5個分低い加奈を見つめていた。
すっかり元通りの、二人だ。

麻生がお茶を入れたというと、加奈が闘争心に燃えて有川の分は自分が入れるとダイニングに走っていった。
加奈が離れたところで、神崎がなにげなく有川に話しかける。

「あ、ねえ、響ちゃん」
「…何?」
「すごく無神経な質問で悪いんだけど」

一瞬だけ躊躇うように、言葉を濁す。
しかし首を傾げて先を待つ有川に優しく笑いかけ、続けた。

「響ちゃんのお母さんのご命日っていつ?」
「…なんで?」
「いやー、響ちゃんが加奈ちゃんのところに嫁にきたら、俺も親戚だろ?一回お母さんにはご挨拶に行かないとね!」
「よ、よよよよよ、嫁」

思ってもいない単語に、有川は無表情に動揺してみせる。
よく見ると、うっすら陽に焼けた肌が赤くなっているような気がした。
神崎はそんな有川を楽しそうににこにこと見ながら邪気無く問いを重ねる。

「で、いついつ?」
「…あ、えっと、12月の5日」

相変わらず、無表情のくせに最大限照れているのが分かる有川は素直にそれを口にした。
その答えを聞いて、神崎は一瞬だけ唇を歪めた。

「……なるほどね」
「どうかしたか?」
「あ、ううん。ごめんね、ありがとう。じゃあ今度皆で一緒にお墓参りにいかせてね」
「…ありがとう」

すぐにいつもの笑顔で、有川の白い髪をぽんぽんと叩く。
すると有川は俯き加減で、少しだけ笑って見せた。
その笑顔を見て、神崎は思わずその長身を抱き寄せ更に頭をくしゃくしゃとかき回す。

「もー、響ちゃんはかわいいなあ!」
「わ、あ、う…」

自分よりも少しだけ背の低い神崎に抱きこまれ、有川は少しだけ体制が苦しそうだがそれでも嬉しそうに大人しくしている。
しかしそこに高く可愛らしい声が割ってはいる。

「ちょっと、私の有川に触ってるんじゃないわよ、この節操なしが!」
「ひ、人聞きわるいなあ…」

いつの間に戻ってきたのか、大股でずかずかと近づくと、神崎の腕の中にいた有川をひっぺがし、そのまま自分がその胸に飛び込む。
有川は今度は誰の目にも分かるくらい赤くなった。

「かかかかかかか加奈」

それでも顔は無表情だ。
しかし心臓の音はかなり早くなっていて、同じくドキドキしている加奈は大変満足だった。

「あー、ムラムラしてきた。かわいいー!!有川かわいいー!!」
「いい加減にしろよ、有川が困ってるだろ!」
「あー、ほんとに慎二はうっさい!」

加奈を有川から引き剥がし、吉川は深い深いため息をつく。
有川を取り上げられた加奈は、吉川に殴りかかろうとしてそれを有川が慌てて止める。
じゃれあいながら、リビングへの短い道のりを行く3人。
その後に神崎と麻生が少し離れて続く。
前の3人の賑やかな様子を微笑ましげに見ていた麻生に、神崎が屈みこんで耳元に囁く。

「ね、俺の想像って、結構当たってたりするのかな?」

笑いを含んだ小さな声に、麻生は動じず笑顔で返す。

「いらない好奇心は、身を滅ぼすのが世の常ですよ」
「うわ、怖!でも、それだけ反応されちゃうと、やっぱり正しいのかなって思っちゃう」

一歩離れて、大げさに神崎は怖がって見せる。
一瞬だけ無表情になったやせっぽちで貧相な少女は、しかし、その笑顔を深める。
悪戯を思いついた子供のように楽しげに。

「まあ、でも、問題ないかしら」
「おや、余裕?」
「響に何かあったら、加奈さんも同時に傷つくわ」
「…………」
「加奈さんが泣いたら、大変ですね。かわいいかわいい従妹が」
「………そうだね、加奈ちゃんは大暴れして大変だろうし」
「だから、響が傷つくことはあなたはできませんよね?」
「………」

今度は神崎が苦虫でも噛み潰したような、なんともいえない顔になった。
その顔に、麻生はくすくすと笑う。
神崎は苦々しい顔のまま、麻生のレトロな三つ編みのお下げを持ち上げて、離す。

「そうだね、俺は響ちゃんも大好きだから、あの二人を傷つけるようなことはできないな」
「気が合いますね。私もなんです」
「でも、俺は君を傷つけることなら何とも思わないよ?」

自分よりも幾分背の低い少女を見下ろして、神崎は首をかしげる。
麻生は日本的な秀麗な顔を、まっすぐ見つめて無邪気に笑う。

「気があいますね。私もなんです。私はあなたを傷つけることにはなんの躊躇いも感じません」
「ほんっと、かわいいね、ショウちゃん」
「…………」
「ま、いいや。……て、どうしたの?」

笑顔すら消し、目を瞬かせて神崎を見上げている麻生。
その眼鏡の下の表情は、驚いているようだった。
思わず、神崎は素に戻って聞いてしまう。

「ショウちゃん?」
「…それ、私ですか?」
「あれ、嫌だった?韶子だから、ショウちゃん」

すると、麻生は少しだけ首をかしげた。
嫌がるとか喜ぶとか、そういう反応ではない。
しいていうなら、不可解といった表情だ。
冷蔵庫の中に靴が入っていて、なんでこんなところに、とでも考えているような。
しかし一瞬後、納得したように頷いた。

「……いいえ、聞きなれないから少し驚いたけれど、別に構いません。お好きなように」

そのよくわからない反応に、神崎のほうが戸惑う。
しかし、もういつもと変わらない落ち着きを取り戻した麻生を見て、少しだけ湧いた疑問を気にしないことにした。

「えーと、じゃ、これからもよろしくね、ショウちゃん」
「ええ、響ともどもよろしくお願いいたします」

そして二人は互いを見て、微笑みあった。





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