「うおら!いい男がこんな昼間からウジウジ寝てるんじゃないわよ!」 「な、何!?な、何が!?か、かかな、かな!?」 「何ヒグラシみたいな鳴きかたしてるのよ」 いきなり大きな音をたててドアを蹴破って入ってきた闖入者に、ベッドで寝ていた有川は文字通り飛び起きた。 「ていうか一緒に住んでるってどういうことよ」 「あら、兄妹で一緒に住んでいて何かおかしいですか?」 「兄妹とかじゃなくてあんたと一緒なのがむかつくのよ!」 「それはすいません。でも響、私と一緒じゃないと駄目だから。」 麻生に案内されて訪れたマンションで、まず加奈はそのことに不満を唱えた。 理不尽なことで弾劾されているのに、麻生は相変わらず飄々として意に介さない。 そしてさらりと火に油を注ぐような台詞を吐く。 「きー!!!!ほんっとにムカつくわわ、この女!!」 「はいはいはいはい、加奈ちゃんストーップ!」 「まあ、ごめんなさい」 即座に頭に血が上って麻生につかみかかろうとする加奈を、寸前で神崎が抱え込んで止めた。 麻生は謝罪を口にしつつも、全く反省の色なくそんな加奈の様子を楽しげに笑って見ている。 「お前達、二人で住んでるのか?」 場をとりなすように、ちょっと離れてたっていた吉川が誰が見ても一目で高いとわかるシンプルだが瀟洒なマンションを顎で指す。 麻生は小さな少年に振り返ると、頷く。 「ええ、本家…実家からじゃ学校は遠いので」 「ふーん、何も実家から離れてうちみたいな微妙な学校入らなくても」 「家から離れるのも、都合がよかったんです」 「え?」 意味深な言葉に聞き返す吉川に、麻生は先を続ける。 「まあ、私は月の何日かは顔見せに本家に帰りますけど」 「有川は?」 「響はほとんどあちらには帰りません」 「あらら、それはやっぱり愛人の子っていうアレ?」 「そうですね、それもありますけど」 そしていつも笑顔を崩さない麻生は口を歪めて笑う。 それは穏やかだった。 優しいとさえ言える笑顔で、しかしその声は心の底からの毒と侮蔑を含んでいた。 「あんなところに響を置いておくなんて冗談じゃないわ」 「…………」 「さ、早く行きましょう。鉄は熱いうちに打つんでしょう」 思わず黙り込んだ3人に、常に変わらない穏やかな笑みで促す。 先ほどまでのぞっとするような声はまるでなかったように。 その言葉に加奈がここに来た目的をようやく思い出し、真っ先に我に返った。 「は!そうだ!こんなところであんたの相手なんてしてられなかったわ!見てなさいよ、有川!目のもの見せてやるわ!」 「加奈ちゃん、それじゃまるで討ち入りだよ」 「気合十分!いくわよ!」 神崎のつっこみを聞きもせず、加奈は仁王立ちでビシッとマンションを指差す。 そして猛然と1人エントランスへと駆け出していった。 「オートロックだから、私いないと開かないんですけどね」 「…あいつが切れないうちに、いきましょう」 「そだね」 「まー、学生二人暮らしには分不相応なマンションだこと。俺の部屋と交換したい、ていうかここに居候させてほしい」 「結構ですよ。部屋は余ってるますから」 「セレブ発言だねー」 最上階の角部屋の並びの二室が、二人の居住だった。 二つの部屋を改装して、中でつないで使っているらしい。 主に生活スペースに使っているという方の部屋に入ると、無駄に広い廊下が伸びていた。 高い天井と白い壁が、余計にその広さを強調する。 狭くはないが、古びたマンションに住んでいる神崎は羨ましそうにため息をつく。 しかし加奈はそんなことはどうでもよさそうに、廊下にいくつか並ぶドアを顎でさす。 「で、有川の部屋はどこよ!」 「廊下の突き当たって右の扉です」 その言葉を聞くと同時に、靴を脱ぎ散らかしてドタバタと廊下を駆け抜ける。 神崎と吉川が止める間もなく、ドアを蹴破り部屋に突入した。 「……いいのか?」 「まあ、すぐ追いつきますし」 恐る恐る問う吉川に、麻生は肩をすくめた。 遮光性のレースのカーテンのせいか、日が暮れかけている今はちょっと薄暗い広い室内。 ベージュの柔らかい印象の壁紙と、同じく柔らかい色合いのブラウンの広いベッドだけの部屋。 そこに横になっていた有川は、突然布団をはぎとられて文字通り飛び起きた。 「うおら!いい男がこんな昼間からウジウジ寝てるんじゃないわよ!」 「な、何!?な、何が!?か、かかな、かな!?」 「何ヒグラシみたいな鳴きかたしてるのよ」 仁王立ちで自分を見下ろしているのは確かに加奈で、有川は突然の出来事に対応できずに目を白黒させる。 顎を持ち上げ腕を組み、目を座らせて仁王立ち。 小さな体からは想像できないほどの威圧感を持った少女が、ベッドの傍らにたっていた。 白い髪をぼさぼさにしたまま、有川はここが自分の部屋かを確かめるためにキョロキョロと辺りを見渡す。 「な、なんでここに…」 「あんたにぎゃふんと言わせるために決まってるでしょ!」 「ぎゃふんは死語だろ」 「うるっさい、外野!」 「だあっ!」 振り返りざま鞄を吉川に投げつける加奈。 重いはずなのにものすごい勢いで宙を舞うそれを、吉川はすんでのところでかわした。 その隙に加奈はベッドに乗りあがり、半身を起こした有川の首根っこを掴み上げる。 「さあ、有川、観念しなさい、諦めなさい。もう逃がさないわよ」 「な、何が、一体…」 いまだ現実が認識できない有川は、熱も手伝って混乱しきっていた。 かといって乱暴に加奈を振り払うこともできず、どこか泣きそうな無表情で辺りを見回す。 そして、誰よりも頼りにしている姿を見つけ出すと、情けない声で助けを求めた。 「……ショウっ」 「そんな顔で見られると、つい手を差し伸べたくなるわね。困ったわ」 無表情だかわずかに眉を下げ困りきっている兄を、どこかおかしげに見つめる妹。 しかし加奈はそちらを振り返ると、強い視線で牽制する。 「あんたは手を出さないでよ」 「だ、そうよ、響。ごめんなさい。ここで口を出すと私が加奈さんに成敗されてしまいそう。響がどうにかしてちょうだい」 いつも有川を庇い守る妹が、あっさり自分を見捨てたことで、更に有川は情けない顔になる。 「ショウ!」 常にない泣きそうな声でもう一度声をあげると、麻生はたまらないといったようにくすくすと笑った。 それでも一度ベッドのそばまで来ると、有川の柔らかい髪に指を通す。 そしていたわるように一度撫でた。 どこまでお女らしい優しく、やわらかい声で、兄を諭す。 「大丈夫よ響。怖いことなんてないわ。ちゃんと加奈さんを見て、加奈さんの話を聞いて」 「………あ……」 「大丈夫よ、安心して。何があっても、どうなっても私は変わらない。響の傍にいる」 有川が助けを求めるように、その大きな手を伸ばす。 けれど、その手が麻生に触れる前に少女は一歩後ろに下がる。 有川につかみかかったまま、今にも嫉妬で暴れだしそうな加奈に一つ笑顔を残して、麻生はベッドから離れた。 そして、視線をいまだにすがるように自分を見ている兄から、後ろに立っていた少年二人を促した。 「私達は少し席を外しましょうか。響、加奈さんに襲われそうになったら呼んで頂戴」 いたずらぽくそう言うと、率先して部屋を後にした。 二人きりになった薄暗い室内のベッドの上で、向かい合って座る。 至近距離にある加奈の据わった目が自分を睨みつけていて、有川の声は大きな体から似合わないほど小さくなる。 「……か、な……」 「………」 沈黙に耐えきれず、視線を下にさまよわせる。 けれど、襟首をつかんだ加奈がそれを許さずにもう一度顔を上げさせられた。 「……その……」 「…………」 「お、怒ってるのか?」 逃げ出したいが、自分の体をまたぐように座っている少女を放り出すこともできない。 恐る恐る問うと、加奈は更に眉を吊り上げた。 くっきりとした顔立ちが、激しい感情で余計に生き生きとして感じた。 「怒ってる。そりゃもう怒ってる。めちゃめちゃ怒ってる。これ以上ないほど怒ってる」 「なんで…」 「前にも聞いたけど、有川、私を避けてるよね」 襟首をつかんだままだったので、有川の体が小さく震えたのが加奈にはよく分かった。 唇をかみしめて、吹き出しそうな怒りをやり過ごす。 「いきなり避けられるのは、傷つく。私は有川が大好きだから、悲しい」 「……ご、めん……」 今にも泣き出しそうに、有川の顔がゆがむ。 その顔が苦しそうで悲しそうで、自分がいじめているよう思えて、加奈はちょっと熱を冷ます。 なんと言おうか考えるように辺りを一回見回すと、考えるのに飽きてそのものズバリで行くことにした。 「……あの女から事情を聞いた」 「あの、女、ショウ…?」 「そうよ、あの世界一ムカツクツンケン冷血陰険女よ!」 「……ショウを、悪く言わないでくれ」 泣きそうだったくせに、その時だけはしっかりした声で話すから加奈は片眉をはね上げて不機嫌をあらわにした。 軽く力を入れた拳で、頭をはたく。 「このシスコン!」 「って」 「まあ、それはいいわ。その妹大好き根性は後で叩き直させてもらうわ」 怒りをやり過ごすために小さくため息をつき、震える拳を納めた。 妹、という言葉を聞いて有川の体が再度大きく震える。 「………ショウが、妹ってことも…?」 その言葉に加奈が顎を上げて鼻を鳴らす。 お互い座ったままだと、有川の方が目線は高いのになぜか加奈のほうが見下ろしているように感じる。 「ええ、聞いたわよ。あんたが愛人の子で、あいつが本妻の子。小さい頃ひどい目あってそれがトラウマって人のものとかとるの苦手でそのせいで私のことを避けてったのものね。全部全部聞いた」 髪と同じように白くなった顔が、こわばる。 血の気の引いた唇が震える。 そこにはない助けを求めるように、視線がさまよう。 「あ………」 「目をそらすな」 「加奈……」 それを許さず、加奈は有川の頬を両手で包み、視線を合わせる。 強い口調に強い力。 けれど、その声は加奈にふさわしくなく、どこか怯えて、震えていた。 「私は有川が好き。有川は?」 「加奈、駄目だ…駄目…だって、加奈には…」 「婚約者がいる?あんな親が酒の勢いで決めたようなもんなんでもないわよ。ううん、違う」 いったん言葉を切って、泣きそうな顔で有川を見上げる。 その表情に、有川も息ができないかのように、あえぐ。 苦しそうに、体が震える。 「私の気持ちは?私は、有川が好きなのに。それも無視しちゃうの?」 「でも、駄目なんだ…それで、お母さんは…」 「変になっちゃった?」 「どんどんどんどん、お母さんは、怖くなって、変になって…」 そこまで言って、有川は目を瞑る。 体の震えは止まらない。 大きく逞しい体が子供のように頼りなく見える。 加奈は必死だった。 有川に、閉じこもってほしくなかった。 こんな薄暗い、狭い空間に、縮こまって小さくなって欲しくなかった。 有川は強くて、優しい。 決して長いとは言えない付き合い。 でも、それは知ってる。 だから、こんな風にすべてを、加奈を拒絶するように、眼を閉じてほしくない。 見てほしい、自分を、外を、うまく言葉にできない、何かを。 なんて言ったらいいのか、わからない。 何を話したら有川が見てくれるのか、わからない。 でも、だから、加奈は精一杯言葉を紡ぐ。 「ね、有川。私があんたのお母さんみたいになると思う?」 いつになく優しく、穏やかな声が加奈の口から自然とこぼれる。 自分自身、こんな声が出せるとは、意外に思った。 震える有川に優しくしたい。 そして、手を引っ張ってあげたい。 そんな風に思ったのも、初めてだった。 有川の頬を包んでいた手が離れ、頭を抱え込むように腕が回される。 目を瞑っている有川に、加奈の表情は見えない。 けれど、その声はとても、優しい。 わずかに乱れた鼓動が、伝わってくる。 「今、有川に触ってるよ。今一緒にいるよ。何か怖いことある?なんか起きた?」 「でも……」 「そもそも、何か起きても、私がそんなのにどうこうされると思う?」 自信を含んだ、偉そうな加奈の声。 小さくて華奢で、けれど強くていつでも堂々としている加奈。 有川の瞼に、いつも生命力にあふれている加奈の姿を鮮やかに浮かぶ。 「親のいいつけを素直に私が聞くわけないし、私がどうこうなるような怖いものなんて、この世にあると思うの?私が?この私が?」 ふん、と鼻で笑う。 それがとても偉そうで、根拠のない自身にあふれていて、思わず有川の強張った頬がわずかに緩む。 「有川が心配するようなことは何にも起きないわよ。だって、私が何かに負けるわけないじゃない!」 有川にも、本当は分かっている。 加奈と、母は違う。 怖いことなんて、ないはず。 ないはずだ。 それでも、自然に体が震える。 刻み込まれた恐怖が、加奈に手を伸ばすことを、拒む。 もうおぼろげにしか覚えていないけれど、毎日怖くて、苦しくて、そして悲しかったあの頃。 優しかった母が、壊れていった。 毎日、泣いていた。 暴力をふるわれ、罵られた。 そして、母はそんな自分自身を責めてまた半狂乱になる。 自分の心も、言葉も、手も、何も届かない。 泣いても、叫んでも、抱きしめても、何も届かない。 そして。 そして、母は。 吐き気を覚えて、有川の体が大きく震えた。 思考が、真黒に塗りつぶされる。 それに気づいたのか、加奈の手が有川の頭をなでる。 力強く抱きしめる。 自分の知っている妹の手とは違う、小さなけれど力強い手。 頼もしくて温かくて優しくて、心が、眼が熱くなっていく。 初めて、自分に好意を示してくれた、奇麗でかわいい、真っ直ぐな強い強い少女。 傍にいたい。 話したい。 笑いたい。 でも、壊したくない。 「………でも、苦しい、怖い」 「苦しいなら、一緒に苦しくなくなる方法を考えよう。怖いものからは、私が守ってあげる」 加奈の細い腕に、力がこもる。 ベッドに放りだされていた有川の腕が、恐る恐る加奈の背にまわる。 それはすがるようで、けれど弱弱しかった。 「私が嫌いだっていうなら、納得できる。私が好きじゃないって言うなら、1億光年譲って諦めるかもしれない」 「違う、加奈は、嫌いじゃ、ない」 「でしょ、だから私は納得できない。私と一緒にいたくないなら、私を殴り倒してでも拒絶しなさい。それなら考えを変えてあげてもいい」 「……………」 「さあ、有川。あんたは私のことをどう思ってる?」 「…………」 沈黙が、落ちる。 せっかちな加奈も、今度は急かさなかった。 じっと有川の頭を抱えながら、その温かさを感じながら、待った。 しばらくして、小さく震える声が、聞こえてくる。 わずかに震動を、腕に感じた。 |