「響ちゃん、今日お休みだって?」 「ええ、昨夜から熱を出してしまって」 昨日約束した通り、麻生は放課後、生徒会室に現れた。 ただし、1人で。 相変わらず穏やかな能面のように張り付いた笑顔で。 痩せぎすの体を包む丈の長い制服、眼鏡をかけたレトロで地味な姿。 しかしその優雅で洗練された仕草と、真っ直ぐな視線はどこか気圧される強さがある。 生徒会室には加奈と神崎と吉川が揃っていた。 寺西は私用により席を外している。 「……有川、大丈夫?」 不満気に、けれど不安を滲ませた複雑な表情で加奈はたったままの少女を見上げる。 麻生は表情を緩ませ、机に懐くようにだらしなく座っている加奈に微笑みかけた。 「大丈夫です。知恵熱のようなものですから」 「なんつーかあんたにそんな風に『有川のことはなんでも知ってるわ。聞いて』って感じで言われるのもむかつくのよね」 「仕方ないでしょう、分かってるんですから」 「くーそー!むかつく!」 それでも、意味も分からず親しげだった頃より、妹と分かった今のほうが苛立ちが少ない。 有川と麻生ほどベタベタはしていないが、加奈にも姉がいる。 確かに他人よりは、自分のほうが姉のことをわかっているだろう。 だからと言って腹が立つのは変わらないのだが。 「今日は座らせていただいてもよろしいですか?」 「はいはい、昨日は立ち話で悪かったね」 「ありがとうございます」 神崎が立ち上がり、麻生のためにドアに一番近い椅子を引く。 麻生は慣れた様子でためらいなくそのエスコートを受けた。 神崎は再度一番奥の席、麻生の向かい側に腰を下ろすと、芝居がかった仕草で一つ咳払いをする。 「さて、それじゃあ色々聞きたいことがあるんだけど」 「ええ、でもまず、あなた方の『切り札』をお聞きしたいです」 「まだもったいぶるの?」 「いいえ、そんな気はありません。ただ、知っていることを再度話すのは二度手間でしょう?それと、あなた方がどれだけ調べられたのか知りたいだけです」 「試しているわけかな?」 「そういうことでも結構です」 お互い胡散臭い笑顔で探るように視線を交し合う。 そんな2人に、机をバンバンと叩いて抗議したのは加奈。 気の短い加奈は一向に始まらない話に焦れ、今にも机を投げ飛ばしそうだ。 「いいからさっさと始めなさいよ!焦れったいわね!あんた達回りくどすぎなのよ!人生は短いのよ!こんな下らない話で浪費しないでよ!」 「はいはい、それじゃあいきましょうか」 「ええ、どうぞ」 そんな加奈に、神崎と麻生は示し合わせたように肩をすくめた。 不在の有川に代わり吉川がお茶を入れ、麻生の前に静かにおく。 麻生は小柄な少年を見上げて礼を告げた。 吉川は何かを言いかけ、結局口を閉ざした席に戻った。 「んーとね、まず君と響ちゃんは異母兄弟だよね。響ちゃんのお母さんが有川葵さん、いわゆるお妾さん。君のお父さん、麻生天音氏と葵さんの子が響ちゃんだ」 「ええ、麻生の不誠実によって振り回された女性と、その子供」 「響ちゃんがまだ小さい頃、葵さんは何年間か麻生家の本宅で暮らしていたらしいね。響ちゃんが男の子だったからかな?葵さんも体が弱かったらしいしね。しっかしえぐいね。本妻と愛人が同じ家って、軽くホラーだね」 「体を壊したなら、と葵さんと響を手元に呼び寄せたのは麻生天音。親戚達は後継者候補として、特に文句も言いませんでした。私はあいにく女でしたから」 特に気にしている様子もなく、淡々と神崎の言葉に補足を加えていく。 親戚の生臭い思惑も、父の女性関係にも心を揺らされる様子はない。 すでに慣れきっているのかもしれない。 「それで、響ちゃんが近頃おかしくなっていた理由はさ、その辺から来るものなのかな?」 そこで一回言葉を切って少々冷めたお茶を啜る。 有川の入れたものより渋く、少々苦味が勝っていた。 麻生は静かな目で神崎の次の言葉を待っている。 「響ちゃんの体の傷を前に見たけど、あれは虐待の痕、だよね」 誰かが息を呑む音が狭い生徒会室内に響いた。 しかし神崎と麻生は、表情を変えることはない。 「タバコを押し付けた痕、打撲や、切り傷。あれは、何らかの事故で付くような傷じゃない」 ただ、事実のみを告げるため、余計な感情を挟まず神崎は口を開く。 麻生は相変わらず静かにそれを受け止めていた。 加奈と吉川は口を挟むことが出来ず、ただ言葉を待つ。 「本妻と愛人が一緒に暮らす家。響ちゃんの体に残る人の手による傷。事故でなくなったお母さん。加奈ちゃんに婚約者がいるってことを知った時の響ちゃんの激しい拒絶反応」 一旦言葉を切り、再度冷めたお茶で唇を湿らせる。 促すように、麻生は首を軽く傾げた。 「これは俺がその欠片をかき集めて妄想しただけなんだけさ。響ちゃんとって、婚約者がいる人に近づくのは『とても怖いもの』なんだ。だから響ちゃんは加奈ちゃんを避けた。逃げた。それで君が出てくるんだけど…」 「どうぞ、続けて」 「君が正直どういう感情で動いているのか分からないんだよね。最初は昨日君が言ったとおり、響ちゃんが嫌いなのかな、って思ったんだけど、それにしては行動が訳わかんないし」 「それで?」 「多分、君は加奈ちゃんを応援してるんだ。加奈ちゃんの行動力で響ちゃんのトラウマを排除して、加奈ちゃんを好きになってもらいたいのかな、って思った」 神崎はそこまで滑らかに、つかえることもせず言い切った。 麻生は一瞬目を伏せると、唇を吊り上げて笑みを深くした。 そして顔をあげ、神崎の目を見つめて優雅に頷いた。 「ええ、正解です。神崎家はいい情報網をお持ちだわ」 「君の行動や、響ちゃんの行動にしても正解かな?」 「まあ、概ねは。別に加奈さんじゃなくても、響が誰かを大切に思うことが出来れば、それでよかったんです」 有川葵は、優しい人間だった。 控えめで穏やかで、野に咲く花と形容できるような、儚い人だった。 ただ弱かった。体も、心も。 愛した男が妻を持っていると知っていても、別れることは出来なかった。 庇護者を失うことに耐えられなかったし、1人で生活することも出来なかった。 そして、何より男を愛していた。 だから、先がないと分かっていても男と一緒にいた。 身ごもり、子供を産んだとき、わずかな期待もした。 男が、自分だけを見てくれるのではないかと。 けれど地位と名誉を持つ男は、妻と別れることは考えることもしなかった。 それでもまだよかった。 生まれてきた息子は可愛かった。 小さい手をつなぐと、温かい気持ちになれた。 その笑顔で強くなれる気がした。 自分を必要とする存在に、ようやく居場所を得られた気がした。 それに本妻に子供がいなかったことが、葵に優越感を抱かせた。 1年後、あてつけのように本妻が生んだ子供は女子だった。 それがまた、葵に自信と希望を持たせた。 自分の息子が、男の富と地位、名声を受け継ぐ可能性を得たのだから。 男も頻繁というわけではにが、親子に会いに訪れた。 おそらく、葵にとって何よりも幸せだった日々。 何年かして、元々体が弱かった葵は体を壊す。 男から親子2人で暮らしていくのに十分な金は与えられていた。 それでも頼れるもののいない生活に、不安を漏らした葵に男は告げた。 自分の家の離れに来るといい、と。 何も感じなかったといえば、嘘になる。 本妻のいる家など、行きたいはずがない。 見たこともない男の妻。 しかし嫉妬や羨望は溢れるほどに感じていた。 見えない敵に、憎しみすら持っていた。 けれど、息子は小さすぎて、自分は弱すぎた。 弱い自分を、葵は知っていた。 守ってくれるものが、欲しかった。 男の傍に、いたかった。 だから首を縦に振った。 それが、悪夢の始まり。 誰も味方のいない家。 外から切り離されたような広い、けれど閉鎖された空間。 本妻からの陰湿な嫌がらせ。 使用人からの嘲笑。 葵の不安定な心は、唯一の身近な存在に向けられる。 愛しい愛しい、ただ1人の息子へと。 麻生家は、憎しみと涙と恨みと嫉妬で埋め尽くされた。 その頃の麻生家に、誰も幸せな人間なんていなかった。 その悪夢は、事故によってもたらされた葵の死によってようやく終わる。 「響の不安定さはその頃から来ています。唯一絶対である、それもずっと優しかった母親が壊れていく様をずっと響は見てました。そしてその歪みをすべてぶつけられた。すべてが終わった時には、響は表情をなくしていた」 麻生は、相変わらず顔色を変えることはない。 穏やかな笑みすらうかべ、ただ淡々と言葉を紡ぐ。 向かいの神崎もまた顔色を変えず、それを聞いていた。 「響は人と関わるのを怖がっています。特に『人のもの』には過剰な反応を示します。近づくと、何か怖いことが起こると、心の奥底で信じ込んでしまっている。恋人がいる人、加奈さんのように婚約者がいる人、親友を持っている人、家族を大切にする人も含まれる。人とのつながりを怖がる。響は優しいです。誰でも受け入れる。けれど、誰とも深く関わることができない」 麻生はそこでようやく能面のように張り付いた笑顔を、少しだけゆがめた。 わずかに寄せた眉は、苦悩のようにも、哀しみのようにも見えた。 しかしすぐに、加奈に穏やかに微笑みかけた。 「だから、加奈さんが響に興味を持ってくださっていい機会だと思ったんです。加奈さんみたいな考えなしで行動力のある人が、しかも響の苦手な『人のもの』である人が、響を力づくで引っ張りだしてくれないかしら、と」 「…………」 「それ皆さんが信頼に足る人間なのか、お人柄が見たくて少々失礼なことをいたしました。申し訳ございません、不快な思いをさせたことを謝罪します」 言って、机に付きそうなほど深く頭を下げる。 一呼吸置いて、ゆっくりと顔をあげ、加奈にまっすぐに視線を送る。 「それで、響をまだ好きでいてくださるかしら」 その言葉に、加奈は一瞬黙り込んだ。 与えられた情報を、処理する能力が追いつかない。 神崎から前もって少し教えられていたとは言え、麻生の感情をこめない淡々とした説明とは言え、有川の過去が重くのしかかる。 腹がたった。 哀しかった。 形容できない、単純な加奈にはあまり感じることのない複雑でドロドロとした感情が胸を覆う。 気持ち悪い、ヘドロみたいに汚く、醜悪で、悪臭を放つような、何かが。 深呼吸して、全部吐き出してしまいたくても、こびりついたようにそれは離れなかった。 一回だけ、唇を強くかみ締めると、加奈は考えることをやめた。 「………あーもう考えるのやめた!馬鹿らしい!ばっかじゃないの!」 加奈は椅子を蹴り上げるように乱暴に立ちあがり、机を強く叩いた。 机においてあったお茶が、カタカタと音をたてて揺れる。 「何それ、そんなことで私避けられてたの!?あほらしい!」 興奮して顔を赤らめ、小作りの整った顔を怒りに染めている。 華奢な小さい体からは、周りのものを圧倒させるようなパワーに満ちていた。 「母親も父親もあんたも大馬鹿だけどね!いっぺんみんな根性叩きなおしてやるわよ!そんでもって有川も!くっだらないことにこだわって、過去のことをぐじぐじぐじぐじと!」 「そんな簡単なことじゃねーだろ」 呆れたように、けれど強張っていた顔を幾分やわらげて吉川が突っ込む。 即座に隣に座っていた加奈が吉川の頭を殴りつける。 「うるさい!そんなことで私を避けられるのって冗談じゃないわよ!有川が私が嫌いっていうのなら、100万歩譲ってあきらめることもあるかもしれないわよ!ただ、これって私のことなんて見てないじゃない!向き合ってもいないわよ!そんなの始まってもいないじゃない!私はそんなの認めないわよ!」 言い切って、腰に手をあてて挑むように麻生を見下ろす。 麻生は表情を緩めて、おかしそうに加奈を見上げていた。 それはプレゼントの箱を開ける子供のような好奇心に満ちていた。 「あんたの思惑なんてどうでもいいのよ!つーかその試すような態度が激しく腹立つわ!あんた何様よ!私が有川を好きなの!有川に好きになってもらいたいの!あんたの許可なんていらない!」 「それなら、どうします?」 そう問う声は、純粋な好奇心が見える。 麻生は楽しげに、その先の答えが分かっているように含み笑う。 「ムカツクけど、あんたの言うとおりにしてやるわよ!あの根性なしを引きずりだしてやる!もったいないのよ、あんないい男がそんな引きこもってたら、あの筋肉が宝の持ち腐れよ!?そんなのもったいないじゃない!あの筋肉は世界の財産よ!」 「ぷっ、ふふ、あはははは!」 こらえきれなくなったように、麻生は笑い出した。 いつも澄まして穏やかに笑っている少女が、歳相応に幼く見える。 神崎と吉川はその朗らかな笑い声に、唖然としたように目を丸くする。 加奈は相変わらずむっつりとその様子を眺めていた。 「いいですね、加奈さん。私あなたのそういうところが、大好きです」 「あんたに好かれても嬉しくないつーの!」 「あら、残念」 ちっとも残念に思ってないように軽く笑うと、麻生は眼鏡の位置を直す。 麻生の笑い声がやむと同時に、加奈は偉そうに顎でしゃくって命令した。 「じゃあ案内しなさい!」 「はい?」 麻生らしくなく、間の抜けた声をあげて首を傾げる。 「善は急げよ、有川の家に乗り込むわよ」 「……響は熱を出して寝ているんですけど」 「鉄は熱いうちに叩けよ!熱出してるほうが矯正しやすいんじゃないの」 そう加奈が仁王立ちで言い切ると、麻生は再度吹き出した。 くすくすと邪気なく笑うと、肩をすくめ一つ大きくため息をつく。 「分かりました。そうですね、それもいいかもしれません」 「いいのかよ!」 思わず突っ込んでしまった吉川に、麻生は軽く頷いた。 吉川は何かをいいたげに、眉を寄せる。 「まあ私がいれば、大事にはならないだろうし。ここは加奈さんにお任せします」 「だから一々一々あんたの言動は気に障る!」 「それは失礼しました」 口を尖らして不機嫌そうに鼻を一つ鳴らすと、加奈は隣に座っていた吉川を引っ張り立たす。 軽い吉川は馬鹿力に引きずられるまま素直に立ち上がってしまった。 「さあ、慎二行くわよ!」 「は、ちょ、待って」 「あんた達もさっさと来なさい!遅れたら千本ノックの刑だからね!」 そういい残し、加奈は慎二を引っ張ったまま慌しく生徒会室を後にした。 ぶちぶちと不平を訴える哀れな少年の声がと、乱暴な足音が徐々に遠ざかっていく。 残された神崎は呆れたようにため息をついた。 「加奈ちゃんだけ先行っても家分からないでしょうに」 「それじゃあ、さっさと行きましょうか。加奈さんの怒りが爆発しない前に」 麻生はさきほどからずっと、楽しそうにくすくすと笑い続けている。 そのまま静かに立ち上がり、ドアに手をかけたところで、後ろから声がかかった。 「それでさ、麻生さん」 「はい?」 問われた声に振り返ると、神崎が奥の席に座ったまま頬杖をついていた。 麻生が軽く首を傾げると、長い三つ編みが肩から零れ落ちた。 「8月12日」 「………」 「有川葵さんの命日。すべてが終わった日だ」 「……何をおっしゃってるんですか?」 「ああ、ようやく表情を出してくれたね。見たかったんだよね、君のそんな顔」 からかうように片眉を吊り上げて、神崎がにっこりと笑う。 麻生もまた、ふざけるように軽口で応酬する。 「あら、私に興味がおありですか?今日は忙しいから、口説くのなら日を改めてください」 「ああ、また今度ゆっくりね。とても、君に興味があるよ」 そう言って神崎は麻生を見上げたまま、ひらひらと手を振った。 麻生は何も言わず、踵を返して生徒会室を後にした。 |