週明け。梅雨には珍しく晴天で、澄み渡った青空をのぞかせていた。 有川が扉を開けると、いつもと違った雰囲気の生徒会室がそこにあった。 どことなく張り詰めていて、一瞬体を引きかける。 「あ、響ちゃんおはよー」 しかしいつも通りに穏やかすぎて胡散臭く見える笑みを浮かべる神埼に迎えられ、足を踏み入れた。 「……どうかしたのか?」 小首を傾げて神崎に問う。神崎は笑みを深めた。 「ん、何が?」 「なんか……様子が変だ」 そう言いながらあたりに視線を巡らせる。 寺西も普段と同じようににこにことしていたし、吉川も誰も気にしないが変わらず不機嫌顔だ。 加奈が1人、引き締まった真面目な顔をしていた。 とりあえず首を傾げつつも、有川は席をつこうと扉を閉めた。 そこで加奈が1人、席をたつ。 まだ入り口近くにいた有川に大股で近づいた。 有川の目の前に立つと長身の男に目線を合わせるために、思いっきり顎を上に上げた。 目の前の男は一歩後ろに下がり、ドアに背中がぶつかる。 スライド式のドアが、がたんと音をたてた。 「どうしたんだ?」 「あのね、話があるの」 加奈は目を瞑ると、胸に手をあてて大きく深呼吸をした。 有川は、そんな加奈を無表情で見ている。 「有川、私のこと避けてるでしょ」 もう一度目をあわせると、本題を切り出す。 声は思ったよりもしっかりとしていた。 小さくも、震えても、かといって怒鳴ってもいなかった。 「え?」 「避けてるでしょ。先週から」 有川は口を開きかけて、また閉じる。 それでもまだ、表情は浮かんでいない。 凍りついたように目も口も眉も動かない。 いつも無表情ながら感情を真っ直ぐに伝えてくる有川らしくない、本当の無表情だった。 「近づくと避けるし、抱きつくと振り払うし、触ると逃げるし…」 後ろで吉川が何か言いたげにしてたが、結局は口をつぐんだ。 神崎と寺西は興味深げに、悪く言えば好奇心満々で楽しげに動向を見守っている。 有川はまた一歩下がろうとして、後ろにドアがあることを気づいて動きを止める。 いつも目線をそらさない有川が、頭をドアに預けて上を向く。 「そんなことは、ない」 吐き出すようにもらした言葉に、加奈が唇をかみ締めた。 高い位置にある有川の頬を両手で挟みこみ、自分の方へ向ける。 「じゃあ、目をそらすな!こっち向いて!絶対避けてる!避けてるから!」 加奈の方を向くことしか出来ない有川は、加奈の黒い目を真っ直ぐに見つめる。 有川のいつも穏やかな目はゆれていて、顔色が少し悪かった。 「……避けてない」 「嘘こけ!私が嫌いになった?前に言ったよね、嫌なことがあったら言ってくれって!」 少し様子のおかしい有川に気づかず、更に畳み掛ける。 「嫌いじゃない」 「じゃ、なんで!」 怒っているように声を尖らせる加奈だが、その表情は泣きそうだった。 しくしくと、胸が痛む。 こんな感情も初めてだった。 「…………」 また口をつぐむ有川。 加奈は有川の頬を挟み込む手の力を知らず知らずの内に強めた。 逃がしてくれないと悟ったのか、有川はゆっくりと口をひらく。 「加奈は、婚約者がいる」 「それが何!」 「だったら他人に好きだとか言ったらいけない。くっついてもいけない」 やっぱりそれが理由だったのかと納得するとともに、今度は頭に血が上ってくる。目の前が赤くなった。 「それが?それが何?それは有川には関係ない!前にも言ったけど、あれは親が勝手に決めたことなの!私にも有川にも関係ない!」 「それでも、だめだ」 言い切る言葉は、しっかりとしていた。 加奈にあわす瞳ももう揺れていない。 何か、確かなものを含んでいた。 「だからなんでよ!私が好きなのは有川なの!あんな親も冗談で決めたような約束、なんの意味があるのよ!」 「だめだ!」 声を荒げる。 有川が声を荒げることは、ほとんど見ることはない。 優しく、いつでも穏やかな有川。 「だめなんだ、決まっている人がいるなら、その人を大事にしなきゃだめなんだ。そうしなきゃ……」 加奈から目を外さないまま、夏用のシャツの胸元をぎゅっと握る。 胸が苦しいのかとも思ったが、胸元のシャツの、その下にあるものを思い出す。 黄緑色の石がついた、小さな指輪。 「有川、でも私が好きなのは何度も言うように……」 「言うな!」 加奈の小さな体が後ろによろめく。 突然のことにふんばりがきかずに2,3歩後ろに下がると、部屋の真ん中においてあるテーブルにぶつかった。 「加奈!」 神崎の声が耳に入ったが、加奈はそちらに気が向かなかった。 有川に強く、押された。 後ろによろめいたのは、そのせいだ。 認識していても、信じられなかった。 たとえ避けられていても、いつでも有川は優しかった。 あくまでもその行動は柔らかだった。 その有川に粗雑に扱われる。 それは本当に初めてのこと。 しかしそのショックに加奈が打ちのめされることはなかった。 ヒュッと隙間風が吹くような音が聞こえた。 呆然としたまま、その方向を無意識に見る。 目の先のドアの前、膝をついて前のめりに倒れこんでいる有川の姿。 「有川!?」 さっきのことを忘れて、有川の元に近づく。 神崎と吉川も席を立ち、傍に寄る。 「はっ……、はあ……は、はあ」 有川はまるで呼吸が出来ないかのように、酸素が足りないかのように必死で喘いでいる。 苦しげに眉間に眉をよせ、激しく胸を上下させていた。 しっかりと胸元の、おそらく指輪を握っている。 その手も、顔も、血の気が引いて白くなっていた。 「有川?有川!?」 事態が把握できず混乱して何度も名前を呼び続ける。 「吉川、水上さん呼んできて」 「はい」 有川の傍らにひざまづいていた神崎が、背を撫でながら養護教諭を呼びに行かせる。 反対に座り込んでいた吉川が素早く立ち上がると同時、有川の長身がその場に崩れ落ちた。 「有川!?」 加奈が一際大きな声を上げた。 有川が重いまぶたを開くと、見知らぬ天井が目に入った。 白い天井に反射する西日が眩しくて、もう一度目を閉じる。 体をよじるとともに、ベッドがかたんと音をたてた。 「有川!?」 聞こえた声に顔を向けると、そこには小柄な少女の姿。 「……加奈?」 頭の中が飽和状態のまま、少女の名前を口にした。 「あ、起きた!起きたよ叶!有川起きた!」 加奈は後ろを振り向いて手招きをする。 すぐに有川と同じぐらいの長身の影が姿を現す。 いつもの穏やかな笑顔ではなく、心配げな表情で顔を曇らせている。 「響ちゃん、大丈夫?」 「………?」 有川は枕に身を任せたまま、首をかしげた。 綺麗な白い髪が枕に広がる。 「苦しいところとか、ない?」 上から覗き込むようにして尋ねる神崎に、有川は首をかしげながら頷く。 「別に、ない」 「そっか」 安堵の息をついて、顔をようやく緩める神崎。 「ここは…?」 辺りを見回す。ただし薄い黄色のカーテンに囲まれていて、様子が分からない。 開いているのは加奈と神崎がいる方向だけ。後は天井の様子しか伺うことができない。 加奈は不安げな顔をしていたが、有川に近づこうとしない。 「保健室。来たことないかな?」 「……なんで、こんなところに?」 「なんで、って…響ちゃん倒れちゃったから。保健室イヤだった?」 「………?」 努めて明るく笑顔を絶やさない神崎を不思議そうに見上げる。 その様子に神崎もまた首をかしげた。 「響ちゃん?」 有川は体をゆっくりと起こした。 白い壁に体をもたらせかけると、胸元を握って息をついた。 「倒れた?」 「……覚えてない?」 こくりと頷く。 その様子は子供のようだった。 嘘をついているようには思えない。 「今日、生徒会室来た事は?」 「…覚えてる」 またこくりと頷く。 先ほどあれほど荒げた感情が、今はすっかり影を潜めていた。 神崎は言葉を切り、手を口元にやり一瞬思案する。 しかしすぐに口を開いた。 「それからのことは?」 有川はちょっとの間考えるように視線を色々とさまよわせるが、すぐに神崎に戻す。 「覚えてない」 神崎と、後ろにいた加奈が息をのむ。 「そっか」 それでも神崎はすぐさま微笑むと、有川の頭をぽんぽんと軽く叩く。 「響ちゃん、生徒会室に来ると同時に滑って転んで頭打ってね。気絶しちゃうから叶びっくり」 「………うそ」 「ほんとー」 にやりと擬音がしそうないやらしい笑みを浮かべると、白い柔らかな髪をくしゃくしゃにしてしまう。 有川はほんのりと顔を赤らめた。 「恥ずかしい?」 「……恥ずかしい」 こくりと頷く。顔をうつむかせてシーツをぎゅっと握る。 「頭は痛くない?」 その言葉に有川は自分の頭に恐る恐る手をやる。 しばらくごそごそと探るが、ほっとしたように息をついた。 「大丈夫」 神崎は頷くと、カーテンを引いてベッドをさらけ出した。 白を基調とした清潔な部屋が姿を現す。 今は西日で赤く染まっている。 養護教諭の姿は見えず、3人以外には他に人間はいなかった。 「そっか。よかった。じゃあ、今日は帰ろうか」 「幹ちゃんと、慎二は?」 「あの二人は残ってお仕事ー。今日は響ちゃんは大事をとっておやすみー」 「いいのか?」 「おっけいおっけい。俺が送ったげる」 いつもの胡散臭い笑顔を浮かべると、らっきーと言ってテキパキと自分と有川の荷物をまとめる。 有川はしばらくその様子を見ていたが、傍らでずっと黙っていた加奈に目を移す。 「加奈?」 「え、は、何?」 突然声をかけられて、ぼけっとしていた加奈は驚いて飛びあがる。 「ついててくれたのか?」 「あ、うん。そう」 「そうか、ありがとう。でももう大丈夫だ」 そうして少し微笑んだ。 なんだか久しぶりに思える、柔らかな笑顔。 「でも」 そう言って有川に一歩近づくと有川が体を強張らせたのが分かった。 加奈の動きが止まる。 「加奈ちゃんはサボりだめー。今日は後の二人とお仕事してって。夏休みのグランド使用予定とかでそれなり忙しいんだから」 そこで有川のカバンを持った神崎が間に入った。 加奈は悔しいけれど、その言葉に安堵している自分がいるのが分かった。 さっきの有川は、間違いなく自分が原因であるのはわかっている。 また、苦しそうな有川は見たくなかった。 神崎もそれが分かっていて自分をとりあえず下がらせようとしているのだろう。 悲しいけれど、従兄弟のフォローが有難かった。 「……分かった」 頷いて、ベッドから離れる。 「そうそう、大人しくお仕事してちょうだい」 その後姿を軽口で送る神崎。 保健室の入り口まで来た時、加奈は後ろを振り返った。 そこにはベッドに座り込んだ、長身で綺麗な姿勢をした白髪の男がいる。 こちらを見ていた。 どこか頼りなげに見えた。 「有川、大丈夫?」 こくりと頷く。 「大丈夫。ありがとう」 「そっか。また明日」 「また明日」 頬をゆるめる有川。 その姿を見てから、保健室を後にした。 「なんなのよー!一体!!」 階段を登ったところで叫んだ加奈に、通りすがりの生徒達は奇異の目を向けた。 「じゃあ、有川はあの時の一連の会話を覚えてないんですか?」 「そうみたい」 有川の倒れた次の日の放課後。 今日もまた生徒会室に集まる面々。 有川は教師に呼ばれていて遅れることが分かっている。 「帰り際にそれとなくその辺探ってみたんだけど、まったく覚えてないみたい」 机について、珍しく沈うつな顔をしている生徒会メンバー。 吉川も全員分のお茶を入れながら、眉をひそめる。 「あの時の有川、ちょっとおかしかったですよね」 「なんか、本当に苦しそうだった〜。病気なのかな〜」 頬杖をついて心配そうな顔をしている寺西。 「そんなことはないみたい。持病もないって言ってたよ」 「でもじゃあ、あれは、なんなの?」 一番暗い顔をしているのは加奈。 神崎から話は聞いていたが、昨日から、今日学校で有川の姿を見るまで心配でたまらなかった。 眠れない夜と言うのを生まれて初めて体験した。 夜半過ぎには寝たが。 「うーん、俺にはちょっと分からないなあ。でも、記憶がないことも含めるとなんか精神的なものから来てるのかもなあ」 頭をくしゃくしゃとかき回しながら、困ったように言う。 「精神的なものって!?」 「いや、俺に聞かれても」 思わず掴みかかる加奈を、やんわりと制する二つ上の従兄弟。 「でも、原因はたぶん加奈ちゃんだよね」 「うっ」 その後に続けられたおっとりとした、けれど辛らつな言葉に動きを止める加奈。 それは自分でも考えていたことだ。 「で、でも私、そんなに変なことしたかな」 「まあ、お前はいつも変だけど……」 お茶を机に置きながら、口を挟む吉川。 いつもなら物が飛ぶか直接拳が飛ぶところだが、今の加奈にはそんな気力はない。 「昨日は、有川のほうがおかしかった」 そう続ける。 「確かにね」 「うん、加奈ちゃんは別にそこまでおかしなことは言ってなかったよ〜」 同意して頷く神崎と寺西。 どろどろもやもやとした胸のうちは晴れないが、少し心が軽くなった。 「キーワードは、婚約者、かな」 「ですね」 真面目な顔で考え込む神崎。 自分の席について、吉川はお茶をすすった。 婚約者のことを知って、有川はおかしくなった。 そして、婚約者がいるから加奈には近づきたくない、ということだった。 原因はその辺りにありそうだということは、4人とも分かった。 「でも、確かに有川は真面目ですけど、それだけであんなに過剰反応しますか?」 「うーん」 考え込む4人。答えはでない。 ますます沈んだ空気の中、その空気を切り裂いて入り口のドアがノックされた。 「はい」 答える神崎。 がらりと音をたてて、ドアがスライドされた。 「失礼します」 ドアを開けて入ってきたのは、見知らぬ姿。 腰まで届きそうな長い髪をお下げに結い、フレームのない眼鏡をかけたレトロな少女。 緑の校章からして1年生だということは分かる。 背は寺西よりは低いが、加奈よりは高い。 身長は平均的だが、体重は平均よりはるかに低そうだった。やせすぎて、貧相に見えるほど。 お世辞にも美人ともかわいいとも言いがたい少女だったが、浮かべる笑みは穏やかで、落ち着いて大人びた雰囲気を持っていた。 「お前……」 吉川が口を開く前に少女が丁寧にお辞儀をした。 「突然失礼します。1年4組の麻生と申します」 非の打ち所のない、綺麗な仕草だった。 頭を押さえて、なにやら考え込んでいた加奈が顔をぱっと上げる。 「あー!!思い出した!どっか聞いたような外見だと思ったら慎二と同じクラスのがり勉地味眼鏡成金女だ!」 嬉しそうに指を指して大声で。 3方向から頭をはたかれた。 「こら!」 「だめよ〜、加奈ちゃん失礼でしょ」 「お前は本当に……っ!」 とんでもなく失礼なことを本人を目の前に言い放つ加奈に、焦って黙らせようとする3人。 けれど指を指された本人は、一瞬驚いていたが、すぐに楽しそうに少し笑った。 「自己紹介の必要はなかったでしょうか?お見知りおき頂いて、光栄です」 気分を害した様子もなく、穏やかな微笑を崩さない。 同じく穏やかな笑みを常とする神崎とはまた違った、女性的な笑みだった。 「あ、いや、こちらこそ申し訳ない。突然この子が失礼して」 神崎が無理やり加奈の頭を下げさせる。 それでも穏やかに麻生は首を横に降る。 「いいえ、気をつかわないで頂いて結構ですよ。それで、失礼してよろしいでしょうか?」 「どーぞどーぞ」 立ち上がり手招いて椅子へ誘導する。 お客さんということで、向かい合わせではなく、全員と対面するようにドアの近くの席に座らせた。 椅子を引く神崎に、どうもと小さく会釈する。 エスコートしなれた仕草だった。そしてされる方も、されなれた仕草だった。 お客が座ったのを確認して神崎が向かい合わせになるように一番奥の席へと座った。 吉川がお茶を突然の客の前に置く。 微笑んで礼を告げる麻生。 お茶を一口飲んだところで、神崎が口を開いた。 「1年の学年トップの麻生さんだよね。すごいねー。お噂はかねがね」 「それはどうも」 褒められても謙遜はしない。 先ほどの加奈の発言もあり嫌味ともとれるかもしれないのに、微笑んで受け止める。 一応学校の中では有名人である面々に囲まれても、動揺する気配も気後れする気配もない。 特に神崎は女性人気が高くファンも多いのにも関わらず、微笑みかけられても気にする様子はない。 「それで、何か用事があるのかな」 一方、神崎も目の前の少女のそんな様子に興味深そうに片眉を上げる。 麻生はにっこりと笑うと、口を開いた。 「響のことで」 加奈が動揺して、机を揺らす。 お茶が少しこぼれた。 「あ、失礼」 麻生は失敗した、というように口元を押さえて首を傾げる。 「失礼しました。1年3組の有川君のことでお話があり、伺いました」 |