何度も思ったよ。 お前なんて見捨てて切り捨てて、踏みにじってやりたいって。 - 鳴海 -「おい、生きてるか」 「あ?」 アトリエで転がっている後輩に蹴りを入れると、熊と化した男は呻き声を上げて目を開いた。 そしてだるそうに髪を掻きあげ、俺を見上げる。 髭が伸びきってだらしない上に、臭い。 また何日風呂に入ってないんだこいつは。 「………典秀か」 けれどその小汚さすら野性的な魅力を滲ませ、決してその美貌を損なわない。 全くこのまま踏んづけてやりたいぐらい、憎たらしい男だ。 「今日は大奥様への面会の日だろう」 「ああ、そういやそうか」 「さっさと髭を剃って着替えろ」 峰矢の祖母である池静子様は、うちの店の大事なお得意様でもある。 親父の元で修業を始めてから初めて掴んだ、大型顧客だ。 峰矢のコネで懇意にさせてもらってるからには、こいつを引きつれていくぐらいは安いもんだ。 「その前にメシ」 のそのそと起き上がり居間に向かう男の後ろを仕方なくついていく。 その姿は完全に冬眠前の熊だ。 辿りついた台所は洗いものが溜まり、薄汚れている。 「随分汚れてるな。黒幡君は?」 「出てった」 「はあ!?」 俺の驚きの声も気にせず、冷凍庫を開けて冷凍されていたタッパを取り出す。 中には胃に優しそうなトマトスープが入っている。 どうやら電子レンジで温めるだけですぐに食べれるようになっているようだ。 間違いなくそれは、この前までここにいた同居人のお手製だろう。 「お前何をしたんだ!」 「人聞き悪いな、おい」 「それ以外に理由があるのか?」 器に移し替え、電子レンジに放り込んだ峰矢は汚れた指をぺろりと舐める。 そんな粗野な仕草さえ絵になるのだから全く腹が立つ。 髭だらけの顔で、にやりと笑う。 「まあ、俺のせいってのはあってるか」 「一体何をしたんだ、あの子以上にお前に尽くす子なんていないだろうに」 どんな女もこいつのひどさに逃げ出して行った。 そりゃそうだ、人を家政婦兼性欲処理係としか思ってないような男だ。 しかも制作活動に入ると意志の疎通すら不可能。 ガラ・エリュアール並みの女じゃなきゃ、すぐに逃げ出す。 「もったいないことをしたな」 あんなこいつにぴったりな子、そうそうは現れないだろう。 けれど峰矢は行儀悪く立ったままトマトスープを食べながら全く動じない。 「俺に尽くしすぎて苦しいから逃げるってよ」 「は?」 「俺に心底惚れそうなのが、怖いんだって」 何を言っているんだこの馬鹿は、と思ったが峰矢は上機嫌に笑っている。 長い付き合いから分かるが、本当に機嫌がいいらしい。 惚れているかもしれないとまで言っていた人間に逃げられた男の態度ではない。 「どういうことだ?」 「だから言ってんだろ。俺が好きで好きでたまらないからケツまくって逃げたんだよ」 言っている意味がよく分からない。 黒幡君はこいつに執着していた。 けれどそれはこいつへの恋情ではなく、作品への執着だった。 確かに、最近二人の関係が変わりつつあったようだが。 峰矢がスプーンを口に運びながら笑う。 「あいつ考えなさすぎだからちょうどいいだろ。行動が本能剥き出し過ぎるんだよ。動物かっての。何も考えてなかったツケが今廻って来てんだ。自業自得だ。悩んで苦しめ」 そしてさっさと平らげて空いた皿をいっぱいになった流しに放り込むと、汚れたシャツを脱ぐ。 男臭い匂いと共に露わになる、均整のとれた体。 小さい頃から武道をやっていた男は、無駄に筋肉が付いている。 「………お前にだけは言われたくない台詞だな」 何も考えない。 本能を剥き出し。 それはまさしく目の前の熊のことだろう。 「俺はいつでも考えているぜ?俺の求めるものって奴をな?」 けれど、峰矢は挑発に乗ることなく笑い飛ばした。 ああ、分かってるよ。 知ってるよ。 お前は誰よりも考えている。 出会った時から何年も先を見据え、自分の思うままに振る舞ってきた。 一見傍若無人に見えるその行動は、実際は深い計算に基づくものが多い。 自分の才能を伸ばし認めさせるためなら、どんな労力も惜しまなかった。 こいつの才能。 こいつの努力。 こいつの傲慢さ。 いつだって、凡人がどんなに努力しても敵わない高みというものを思い知らされた。 天才というのは、最初から違うステージにいて、辿りつけるものではないのだということを刻み込まれた。 「………」 「典秀?」 風呂に向かおうとする男が、黙り込んだ俺を見て訝しげな顔をする。 俺は慌てて自分の考えを振り払った。 「しかし、どうするんだ?」 「あ」 「黒幡君が出て行って、家が荒れるだろう。また女を入れるのか?」 「ああ、入れない」 峰矢はあっさりと言って、廊下に向かう。 居間には服が脱ぎ散らかされ、本やビールの缶なんかが散乱している。 この調子ではここでこいつが遭難する日も近そうだ。 「あいつと、仕事の関係者以外いれないって約束したからな」 「………」 二つの意味で意外な気持ちになる。 それはあの子が帰ってくることを、疑ってもいない言葉。 そして、こいつがそんな約束をしたという事実。 こいつは約束なんて滅多にしない。 ただし、一度した約束は絶対に裏切らない。 「ま、そろそろ不便だな。どうにかするか」 辺りを見渡し、さすがに自分でも不快だったのだろう眉を顰める。 その背中を見ながら、問う。 「迎えに行くのか?」 「まさか」 峰矢は、軽く剥き出しの肩をすくめた。 そして野生味溢れる顔で笑う。 「あいつが帰ってくるんだよ。あいつは俺のもんだからな」 「黒幡君?」 「こんにちは」 恩師の元へ訪れると、そこには旧友の同居人がいた。 いや、元同居人か。 背の高い痩せぎすな、どことなく垢抜けない地味な男。 いつもの無表情でぺこりと頭を下げると、小池先生にも頭を下げる。 「それじゃ教授、ありがとうございます」 「ああ、頼んだぞ」 俺が入りこむとお茶をいれてくれるつもりか、ポットの元へ向かった。 彼は今峰矢の家にはいないはずだ。 学科の違う彼が、峰矢のこと以外でここにいる意味が分からなくて軽く首を傾げる。 「どうしたんだ?」 「バイト紹介してもらってたんです」 ああ、そういえば前にも美術館のバイトを紹介してもらっていたっけ。 峰矢とのつながりでそれなりに黒幡君を気にかけている先生に呼ばれたのだろう。 俺はその薄い背中に、一昨日の峰矢との会話を思い出す。 「なあ、峰矢なんだが」 ガシャガシャガシャガシャ。 取り落とされた湯呑茶碗が、研究室に騒がしい音を立てる。 黒幡君は無表情のまま、けれどどこか慌てた様子でそれを拾い上げる。 「おい、大丈夫か?」 「大丈夫です」 教授の問いかけに何事もなかったように頷いて新しい湯呑みを取りだして、急須からお茶を注ぐ。 そして俺の前に置くと、じっとそのビー玉のような目で見てくる。 「先輩がどうかしましたか?」 「いや、出て行ったって本当なのかい?」 問いかけると、わずかに眉を顰めた。 基本的に表情の動かない子なので、分かりづらいが困っているようだ。 「出て行った訳ではないんですが」 「なんだお前、池の家出たのか?とうとう我慢できなくなったのか?」 黒幡君の答えに被せるように聞いてきたのは、小池先生だった。 どうやら峰矢の家から出ていることを知らなかったようだ。 「いえ、出て行ったというか、我慢できなくなった、というか」 黒幡君が珍しくぼそぼそと俯き加減に何かを言っている。 それからしばらくして、顔をあげ、一つ頷く。 「そうですね、我慢できなくなりました」 「まあそりゃそうだ。あいつ相手に半年もよく持ったもんだ。お前はよくやった」 傍らに立つ黒幡君の背中をバンバンと叩く。 薄い男はその衝撃に耐えられなかったように一歩前にたたらを踏む。 それから先を続けた。 「これ以上、あの人に惹かれることに、耐えられなくなりました」 「は?」 「俺、どうも、あの人に想定以上にのめりこんでいるらしくて」 「………は?」 小池先生の間抜けな声にも気付かないように、黒幡君はぽつぽつとつぶやく。 それはどこか、自分に言い聞かせているかのようだった。 「本当は、あの人の作品があれば、それでよかったんです。あの人は、あの人の作品の付属品だったんです。作品とそれに関わること以外、どうだってよかった」 それは本当にそうだったのだろう。 峰矢の好みの食事や作品の数は把握していても、実家が裕福だってことすら知らなかった。 完全なる無関心。 峰矢の人格なんてどうでもいいと言い放っていた。 けれど、と黒幡君は続ける。 「あの人が笑うと嬉しくて、あの人に優しくされると哀しくて、あの人に飽きられると思うと、怖いんです」 「………」 そして顔をあげ、俺と小池先生を見て、疲れたようにため息をつく。 いつも生気のない青白い無表情は、どこか儚く見える。 「これは恋でしょうか?」 しばらく見ない内に、随分と関係性が崩れているらしい。 真っ直ぐで頑なだった黒幡君の執着が、脆くなって揺れている。 「小池先生、大丈夫ですか?」 「あ、ああ」 口を開けたまま放心状態だった恩師を小さく呼ぶ。 まあ、いきなり教え子達の不純同性交遊に巻きこまれて困るだろう。 俺はまだ混乱している小池先生の代わりに、会話を引き継ぐ。 「それで逃げ出したの?」 「はい。あの人の近くにいると有耶無耶になって流されそうなんで、距離を置きたくて」 「それで結論は出たの?」 黒幡君は小さく苦笑した。 そして、ゆるゆると首を横に振る。 「出ないんです」 ふ、とまたため息をついて、静かな目を僅かに伏せる。 「先輩の家に行くのが、怖いです」 真っ直ぐでシンプルで余計なものを寄せ付けなかった子が、怯えを露わにする。 その顔は以前より、随分と大人びて見えた。 変化は峰矢だけでなく、この子にも確かに現れているようだ。 「あいつは帰ってくるの、待ってるみたいだけどね」 「………帰る、ですか」 そこで放心していた先生が、小さく呻く。 皺の刻まれた手で顔を覆い、大仰に嘆く。 「柏崎さんになんて言ったらいいんだか」 柏崎さんとは、黒幡君の保護者だろう。 バイトを紹介した関係でお礼状が届いてから、なにかとやりとりをしているらしい。 古美術商のようなものをやっており、人脈が広いらしいので小池先生も色々頼みごとをしているようだ。 小池先生の嘆きに、黒幡君は不思議そうに首を傾げる。 「なんでですか?」 「まあ、お前らがそういう仲だってことは薄々気づいてたけど、そうストレートに言われるとな」 例え違う学科とは言え、生徒を預かる教育者として保護者に、あなたの養い子は男の恋人が出来ました、なんて言えないだろう。 沈痛な面持ちでため息をつく小池先生に、黒幡君は無表情に頷く。 「ああ、大丈夫です。先輩とセックスしてるのは耕介さん知っています」 「ええ!?」 「え!?」 さすがに俺も驚きの声を上げる。 保護者にそこまでオープンにしているのか。 一体どういう家庭なんだ。 「合意の上なら構わないって言ってました」 「………そりゃまた心の広い」 それしか言えなくなったのか、小池先生は表情の選択に困ったような中途半端な顔で黙った。 広いと言うか、そう言う問題なのか。 この子のどこかずれた人格形成は、家庭に問題があるんじゃないだろうか。 「あの、教授、鳴海さん」 「なんだ?」 「なんだい?」 返事をすると、黒幡君は少しだけ迷うように言葉を切って先を続けた。 「お二人の家は、一つですよね?」 「え?」 「は?」 意図の見えない質問に俺と小池先生は同時に間抜けな声を上げる。 黒幡君はまた少し考えるように言葉を切って、ぽつりぽつりと話す。 「俺の家は、耕介さんの家なんです。耕介さんが待つ場所が、俺の帰る場所なんです」 耕介さんとは、柏崎耕介さん。 彼の保護者。 そこが彼の家。 それは当然だ。 それがどうしたと問う前に、彼は先を続ける。 「それなのに、あの家に帰ると、ただいまって言いそうになるんです。あの家に行くのが怖いです」 あの家とは、言われなくても分かる。 峰矢の家。 そういえば、いまだにお邪魔しますと言って上がると峰矢が言っていたっけ。 峰矢が怖いという黒幡君。 峰矢の待つ家に行くのが怖い、黒幡君。 「でも、不思議です」 けれど、黒幡君は、苦しそうに眉を顰める。 「先輩の元へ、帰りたくなるんです」 本人が気づいているかどうか分からないが、彼の帰る場所は家ではなく、人を指している。 つまり、峰矢が帰るところだと認識し始めている。 峰矢にそこまで、侵蝕されてしまっている。 「でも、耕介さんの家もやっぱり、俺の家なんです」 どうやら彼は予想以上に複雑な思考回路を持っているらしい。 ズレた子は、どこまでもズレている。 わざわざ問題を複雑にして、悩むことに悩んでいる。 「別にいいじゃねえか」 「え?」 小池先生が呆れたようにため息をついて、ぞんざいに言い放つ。 初歩の問題につまづく生徒に、教育者は諭すように言う。 「俺の家は3つあるぞ。女房の待つ家、お袋の家、女房の親の家、だな。まあ、女房の待つ家が本宅だけどな。だけど実家に帰れば、それはそれで家は家だ」 そして、パタパタと手をふってどうでも良さそうに言う。 まあ、確かに問題ともならない問題だ。 「柏崎さんの家が実家で、池の家が婚家でいいじゃねえか」 「婚家、ですか?俺、先輩の嫁ですか?」 「似たようなもんだろ」 「そっか。そう、か。それでいいんでしょうか」 「いいんじゃないのか?」 どこまでもいい加減に返す先生に、けれど黒幡君は感銘を受けたように何度も頷いている。 そして質問を繰り返す。 「耕介さんは、俺に、失望しないでしょうか」 「俺が知る訳ねーだろ。本人に聞いてみろ」 「先輩は、いつ俺に飽きるでしょうか」 「だから知らねーって。色恋沙汰は当人同士でやってくれ」 俺は馬に蹴られて死にたくないと言って小池先生はお茶を啜った。 確かに、真面目に考えるのが馬鹿らしいようなノロケだ。 本人たちがどう思うと、それは間違いなくお互いへ対する執着。 結局黒幡君は、峰矢に囚われてしまっているのだ。 『見ろよ』 一昨日の峰矢を思い出す。 自信に満ち溢れた男はアトリエで新作を得意げに顎でしゃくった。 一目見て、峰矢の作品を見慣れているはずの俺は、それでも息を飲んだ。 『………』 『どうだ?』 俺の反応に気分を良くした峰矢が、偉そうに腕を組んでにやにやと笑う。 その笑い方は心底性格が悪そうなもので、こいつに一番似合う表情だった。 自信に満ち溢れた、自分が絶対だと信じて欠片も疑ってもいない、憎たらしい笑い方。 『………今までの絵と、違うな』 『だろ』 それは、峰矢の今までの絵とは、趣を変えていた。 今までのどこか不安を煽るような絵は、悪趣味さは残しながらも柔らかな色身が加わっている。 それはやっぱり落ち着かなくなるものの、温かさを備えているような気がした。 『影響って出るもんなんだな。面白い』 峰矢が上機嫌に喉で笑って、自分の絵をそっとなぞる。 そこには自分の絵が変わったことに対する不安や恐れなどどこにもない。 新たに現れた自分の絵の一面に対する興味と自信と達成感を滲ませていた。 『………随分変わったな。これまでの顧客がなんて言うか』 『大丈夫だ。前のもまだ、俺の中には残ってる』 『………だが』 あまりにも作風を変えれば、これまでのファンは逃げて行きかねないだろう。 こいつの商品価値が、どうなることか。 けれど峰矢は俺の飲みこんだ言葉を正確に受け取って、それでも笑う。 俺の肩に腕を置き、悪魔のように壮絶に嘲笑う。 戸惑いもせず、迷いもせず。 『なあ、典秀。これで俺の評価が落ちるか?』 『………』 『落ちる訳がないだろう。誰に影響を受けようと、作品が変わろうと、俺は俺だ。俺の生み出すものは、俺のものだ。誰にも文句は言わせない。誰であってもねじ伏せてやる。俺は本物だ』 そして、言葉を継げない俺の目を見据え、かつてのように言い放った。 自分の才能を、一筋たりとも疑わない、強い、野心を込めた目。 『なあ、鳴海先輩、約束しただろ?絶対に儲けさせてやるって』 あんた画商の息子なんだって?じゃあ俺に投資しろよ。 かつて、少し前まで中学生だったガキは二つ年上の先輩を見上げ挑戦的に言い放った。 『投資を回収して有り余るぐらい、儲けさせてやるぜ』 かつてと全く同じ言葉を耳元で囁く峰矢。 メフィストフェレスのように甘い毒を持って、俺を惑わせ、そして引きずり込む。 『鳴海先輩?俺はお前との約束を、違えたか?』 ああ、本当に、お前は最低だよ。 何度も思ったよ。 お前なんて見捨てて切り捨てて、踏みにじってやりたいって。 『………お前は最低な馬鹿で、正直縁を切りたいと思ったことは一度じゃない。けどな』 傲慢で不遜で冷徹で人を人とも思わないような最低な男。 どんなに追いつこうとしても追いつけない天賦の才というものがあるのだと、思い知らせた男。 お前のことは大嫌いだよ。 でもな。 「けれど、お前は本物だよ」 「え?」 黒幡君が俺の言葉に反応して、顔を上げる。 思わずつぶやいてしまった言葉に、苦い気持ちで笑う。 どんなに否定しようとしても、切り捨てようとしても、結局惹かれてのめり込んでしまう。 必死に目を瞑っても、それはもう、不可能なんだ。 あいつに魅せられた、その瞬間から。 「黒幡君、あんまり抵抗しても無駄だからとっとと降伏した方がいいと思うよ」 「え?」 不思議そうに首を傾げる黒幡君。 俺よりもあいつに惹かれ、魅せられ、のめり込んでいる可哀そうな子。 「多分、無駄だから」 そう、一度囚われたら、もう逃れることなんてできないのだから。 |