初めて知った。
それはとても綺麗なんだということを。



- 松戸 -




「ただいま」

すでに薄手のジャンパーでは防げなくなってきた寒気に身を震わせながらドアを開く。
中は程よく温まっていて、チーズの焼けるいい匂いが鼻孔をくすぐった。

「おかえりなさい」

わずかに顔を緩ませて迎えてくれたのは、長身の友人の姿。
狭い家の中、それでもガリガリだから窮屈そうには見えない。
ジャンパーを着こんで、これからバイトに行くところのようだ。

「グラタンとサラダとスープ作ってある。ご飯は炊いてあるからパンとどっちでも好きなもん食って」
「あ、うん」
「じゃあ、俺バイトだから」
「分かった。帰りは何時頃になりそうなんだ」
「多分、1時頃になると思う。起こしたら悪い」
「大丈夫、俺、一回寝たら起きないから」
「本当にな。マジ起きないから死んでんのかと思った」

一限目からの講義に起こそうとしてくれた時、無表情な友人が珍しくかなり焦っていたのを思い出す。
今では容赦なく布団をはがされ乱暴に揺すられるようになってしまった。
まあ、おかげで遅刻がなくなって助かっているのだが。

「それじゃ」
「いってらっしゃい。頑張って」
「ああ、ありがとう」

そう言うと黒幡は足早に部屋を出て行った。
俺は手を洗うより前に我慢が出来ずに、まだテーブルの上で湯気を立てているグラタンのラップを外しスプーンですくい上げて口の中に放り込む。

「うまい」

ホワイトソースから作ってあるらしいグラタンは、海老のしょっぱさとミルクの甘みが口の中でとろける。
このままがっつきたくなるが、サラダとスープがあることを思い出す。
いそいそと上着を脱いで手を洗いに玄関先の洗面所に戻った。
気が付けばいつの間にか汚かったユニットバスも廊下もピカピカになっている。
半月も経っていないのに、随分生活が変わった。
部屋は清潔になり、食生活は充実した。

「本当に黒幡、嫁として最高だな」

俺は素晴らしい友人に心の中で感謝の言葉を捧げた。



***




「私も今日松戸の家、行く!行くったら、行く!」

昨日のグラタンが絶品だったことを自慢すると、大川は頬を膨らませた。
長い髪をきっちりと結いあげていると、より大人びて見えるが、そんな仕草は大層子供っぽい。

「別にいいけど」
「黒幡のご飯、美味しいよねえ。この前のアラの煮付けとかマジお袋の味」
「それはあいつにとって褒め言葉なのか」

俺の家に黒幡が来てから大川も頻繁に訪れるようになった。
栄養満点の食事の数々は、外食が続いている身にはありがたい。
自炊はしない訳ではないが、一人暮らしだと結局買った方が安くつく場合が多いので面倒になる。
うまいことやりくりしてくれる黒幡の自炊テクニックは賞賛に値する。

「いいなあ、黒幡、私の家に来ないなあ」
「それはさすがにまずいだろ」
「黒幡は絶対に私に欲情しない自信がある」
「それもどうかと」

まあ、黒幡だったら欲情しないと思うけど。
大川は楽しそうに笑って、俺を見上げてくる。

「松戸は襲われたりしないの?」
「すると思うか?」
「松戸にも絶対に欲情しないという確信がある」
「確信かよ」

まあ、欲情されても困るんだが。
そういや、俺ってもしかして貞操の危機だったりしたのか。
男と寝る奴と二人暮らしって。

「だってさ、池センパイでしょ。あれの相手してたら松戸なんて目に入らないでしょ」

まあ、そうだよな。
その通りだ。
それは何よりだ。
けれどなんとなくそれはそれで悔しくなって、俺は言い返す。

「女の趣味は巨乳だもんな」
「よし、その挑戦受け取った」
「すいませんでした」

ファイティングポーズを取る大川に素直に謝った。
まあ、なんの変な感情もない友人だからこそ、急に転がりこんできても受け入れられるのだが。
俺も黒幡が来てくれてから随分助かってるし。

でも気になるのは、一体いつまでいるってことだ。
別に俺はいつまでだっていてくれて構わないが、黒幡が持ってきた荷物は最小限だ。
いずれ池さんの元へ帰るのだろう。
まだ帰るふんぎりがつかないってことだ。
悩んでいるのなら少しは役に立ちたいが、どうにもあの二人について俺がアドバイス出来ることなんてない。

「あ、池センパイだ」
「え!?」

ちょうど思いを巡らせているところで、その当人が目の前を歩いていたことに驚く。
今日も周りに人を侍らせて不機嫌そうに難しい顔をしている。
そんな顔ですら、魅力を失わない人だ。

「あのさ、黒幡さ、俺んちにいるって池さんに言ってないらしいんだけど」
「へえ、そうなんだ」
「言った方がいいかな」

さすがに半月近くなってるし、心配しているのではないだろうか。
しばらく家を空けるとは言い置いてきたらしいし、料理はありったけ作ってきたって話だったけど。
でも居場所が分からないって、心配だよな。
大川がうーんと唸る。

「黒幡が隠してるなら言わない方がいいんじゃないかね」
「やっぱ、そうかな。でも心配してたら悪いよな。どうしようかなあ」
「あんたって本当に善良な人だよねえ」
「それ、褒めてないよな」

やっぱり言わなくていいのかな。
必要なら黒幡が言うだろうし。
第三者があれこれ言うべきことじゃないよな。
そう、結論付けたところで、大川が明るく笑った。

「でも私、池センパイと話してみたい、行ってみよ!」
「は?」
「こんな機会なきゃ話せないし。行こう!」
「え、おい、大川!?」

俺の腕を引いて、大川は駆けだしてしまう。
カメラ機材を担いで歩きまわる大川は、細腕にも関わらず馬鹿力だ。
俺はされるがままにその人の後ろに辿りついてしまう。

「池センパイ!!」

大声で、池さんの名を呼ぶ大川。
その声に取り巻きを含め、振り返る。

気だるげに顰められた形のいい濃い眉。
彫刻家が丹念に削りあげたような彫りの深い整った顔。
何よりもそのきつく強い眼差し。

「………」
「………」

俺と大川は、予想以上のその人の迫力に、つい黙り込んでしまった。
近くで見ると更にかっこよく、そして威圧感がある。
一睨みで誰をも黙らせてしまいそうな、鋭く研ぎ澄まされた空気。

「何?」

雰囲気に飲み込まれていると池さんは不審げに顔をしかめた。
大川が俺の腕をひっぱって、自分の前に壁のように差し出す。

「あ、えっと、はい、どうぞ!」
「ええ、俺!?」

焦って大川を振り返るが、ぐいぐいと押し出されるばかり。
俺たちのそんな寸劇を池センパイが不機嫌そうに見ている。

「なんだよ。お前ら誰?」
「あ、あの、俺、黒幡の友人なんですけど、えっと、その黒幡、今、俺の家にいるんで」

その言葉を聞いて、池さんは寄せていた眉を少しだけ解く。
それだけでだいぶ場の重圧が減った。
ああ、本当に、なんだこの人のこの迫力。

「ふーん」

じろじろと検分するように俺を上から下まで眺める。
感じが悪いが、文句を言えるような度胸はない。

「お前、工藤?」
「え?いえ、俺は松戸です」

なんで池さんが工藤の名前を知っているんだろう、なんて疑問に思う暇はなかった。
池さんが一つ頷いて、つまらなそうに顎を少し上げた。

「そうか。それだけ?」
「あ、はい」

どうでもよさそうに鼻を鳴らして、髪を掻き上げる。
その態度に、俺のやったことはやっぱりおせっかいだったのかなと思う。
さっさと退散しようかと思ったところで、またまた大川が飛び出してきた。

「ちょっと、それだけなんですか?」
「大川!?」

俺の後ろに隠れていた女は、俺の前に飛び出すと大柄な男を挑むように睨みつける。
女にしては背が高いが、池さんは平均男子よりはるかに高い。
大型肉食獣に挑む、小型の肉食獣だ。

「黒幡のこと、心配じゃないんですか!」

食いかかる大川に、池さんが皮肉げに笑って、肩をすくめる。
その仕草はものすごく憎らしくて、けれど嫌になるほど様になっていた。

「俺が、なんで?」
「なんでって!黒幡はあなたのことであんなに悩んでいるのに!」

今にも噛みついてしまいそうな剣幕の大川をどうしようかと思っていると、池さんは更に挑発するように鼻で笑う。
ああ、なんでそういう人の神経をものすごい逆撫でするようなことが出来るかな。

「知ってるよ。だから、なんで、それで心配する必要があるんだ?」
「な、あ!!!」

顔を真っ赤にして拳を作る大川。
慌ててその体を後ろから羽交い締めにする。

「大川!大川、ストップ」

その姿を楽しそうににやにやと眺める人は、確かにムカつく。
が、歯向かったら何されるか分からなくて怖い。
池さんは大川をなんとか抑えている俺に視線を向けて、口を開いた。

「ああ、そうだ」



***




ドアを開けると、なにやら味噌の匂いがした。
今日は和食だろうか。
黒幡は洋食もうまいが、和食は感動ものだ。

「お帰り、松戸、大川」

狭いワンルームは、入ってすぐが小さなキッチンだ。
黒いエプロンをつけた黒幡が俺たちを見て、軽く頬を緩める。

「ただいま」
「ただいまー!」

ここはお前の家じゃないけどなとつっこもうとするが、家主である俺の前に大川は家の中に駆けこんでしまう。
犬だったら尻尾を大きく振っていただろうってぐらい喜びを露わにして鍋の中を覗き込んでいる。

「わあい!風呂吹き大根にきゅうりとタコの酢の物に鯖の味噌煮!」
「和食食いたいって言っただろ?」
「黒幡さいこー!!」

後ろから抱きついて背中に顔を擦りつける。
紛れもなく男女なんだが、友情以上のものが一切見えなくて哀しくも微笑ましい。

「味噌汁入れるな」
「お味噌汁の具は?」
「まいたけ」
「まいたけなんて入れるんだ!」
「結構うまいよ」

言いながらコンロの一つに火をかける。
俺は部屋の中に入って、テーブルの上にのった雑誌なんかを片付け始める。
コートを脱ぎながら入ってきた大川は、感心したように声をあげた。

「偉いなあ、黒幡。あんたもちょっとは働きなさいよ」
「いや、俺が勝手に居座ってるから、これくらいは。悪いな、もう少ししたら出て行くから」
「俺は全然いてくれて構わないんだけどさ。助かるし」
「むしろ私も黒幡欲しい!うちにきてー!」

食費もいれてくれてるし、家事全般やってくれるし、いたれりつくせりだ。
池さんが便利だから傍にいろって言った意味、分からないでもない。

「でもそろそろあっち行かないと、多分酷いことになってるだろうしな」

ふっと、ちょっと疲れたようにため息をつく。
まあ、あの人自分で掃除とかしなさそうだよな。

「あ、そうだ、聞いてよ、黒幡!」

黒幡の言葉に、大川が綺麗に手入れのされた眉を吊り上げる。
お玉で味噌汁を掬っていた黒幡が無表情に返す。

「どうした?」
「池センパイがさ!」

がしゃん!
大きな音をたてて、お玉が廊下に転がる。

「熱っ」

お玉で掬っていた味噌汁をまともにひっかぶったらしい黒幡が小さく声を上げる。
俺と大川は慌てて黒幡の元へ向かう。

「ちょ!」
「大丈夫か!?」

黒幡はいつもの無表情で、じっとエプロンと眺めていた。
結構量があったらしく、どうやら下のシャツまで染み込んでいるようだ。

「あ、ごめ、廊下、汚しちゃった」
「言ってる場合か、早く脱げ!大川タオル持ってきて」
「あ、分かった」

俺はぼうっとしている黒幡の服を半ば無理矢理引きはがす。
大川がバスルームからタオルを持ってきて、流しで冷やす。

「大丈夫、黒幡!?」
「大丈夫か、火傷とか!?」
「まだそんなに熱くなってなかったみたいだから、平気」

焦る俺達とは裏腹に、まったくいつもと様子が変わらない黒幡。
剥き出しになった腹はやっぱり薄い。
そしてそこに引き攣れたような小さな傷がいくつもあるのが目に入った。

「これは!?」
「あ、これは昔の」

慌てて顔を近づける。
冷やしたタオルで黒幡の体を拭っていた大川も声を上げる。

「背中にも!」
「ああ、えっと」

それはよく見ると、火傷の痕だった。
俺も小さい頃うっかり熱湯を少しだけ被ってしまった火傷がいまだに小さく残っている。
けれど一つだけではなく、腹にも背中にも執拗にいくつもつけられている黒幡のそれは、明らかに偶然つけられたものではないと分かる。

「………これって、事故とか不注意とかでついた、火傷じゃないよな」
「ああ、うん。煙草を」

そこまで聞いた途端、頭に血が上った。
繰り返されていただろう痛みにどす黒い悪意を感じて、吐き気がする。

「なんだよ、それ!ふざけんなよ、なんだよそれ!最低だ!」
「あ、え」
「誰だよ、そんなことした奴、っくしょ、マジムカつく!」

目の前が赤くなるぐらい腹が立って収まらず、思わず壁を叩いてしまう。
こんなふざけたことをする奴に、同じ傷をつけてやりたい。

「松戸、落ち着いて落ち着いて、かなり昔の傷だよ、これ」
「だってさ!」
「黒幡が困ってるでしょ」

慌てて俺の手を掴んだ大川の手の冷たさに、ようやく呆然としている黒幡が目に入る。
黒幡は目を丸くして、ぽかんとした顔で俺を見ていた。
それを見て、すっと冷水をかけられたように頭が冷える。

「………あ、えっと、ごめん」
「松戸いきなりキレるんだもん。怖いよ」

大川がふっと息をついて、ぽんと腕を叩いてくる。
その手はちょっと、震えていた。

「あー、ごめん。俺、無神経なんだよな。本当にごめん、気を悪くしたら悪い」
「いや、全然」

もしかして、触れられたくない傷だったかもしれない。
昔、いじめとかにあっていたのだろうか。
ちょっとずれたところはあるけれど、こんなにいい奴なのに。
こんな馬鹿馬鹿しいことした奴ら、今頃不幸になっていればいいのに。

「痛かったよね」
「もうよく、覚えてないかな」

大川が、その背中を撫でると、黒幡は本当になんも思っていないかのように首を傾げた。
無表情はいつもと全く変わらない。
それがまた、なんだか痛々しく感じた。
そう感じることすら、失礼なのかもしれないけれど。

「痛いの痛いのとんでけー」

なんて言ったらいいか分からなくなって黙り込んでいると、大川の能天気な声が聞こえた。
黒幡の背中を撫でて、子供のような呪文を唱える。
やられている本人も不思議そうに目を瞬かせる。

「もう、痛くないけど」
「いいの、昔の黒幡にね、痛いの痛いのとんでけー」

そしてもう一度呪文を唱えると、黒幡が小さく笑った。
その顔に、強張っていた肩から、力が抜ける。
触れていいのか、俺たちの行動があっているのかどうか、分からない。
こういう時どうすればいいのか、正解なんて、分からない。

「本当に、最低なことする奴って、いるな。ああ、もう、マジムカつく!」

でも、湿っぽくするのはなんとなく嫌だった。
同情は、なんか、違う気がした。
だから、俺は全く怒っていない黒幡の代わりに、怒ることにした。
黒幡が怒らないから、きっと余計にムカつくんだ。

「最低?」

黒幡が目をパチパチと瞬かせて、首を傾げる。
俺と大川は同時に頷いた。

「さいってい!」
「最低だ!」

声を荒げて言いきると、黒幡はまた目を忙しなく瞬かせる。
そしてしばらくしてから、頷いた。

「そっか」

納得したように、何度も何度も頷く。

「………そっか。最低だな。本当に最低だ。ああ、そうだな、最低な奴だった」

そして口を、不器用に歪ませた。
笑うとも怒るともつかない、不思議な表情。

「あいつは、最低な、ムカつく奴だった。うん、確かに」

そこで堪え切れなくなったように、肺から吐きだすように息を吐いた。
顔を片手で覆って、息を吸う。

「あっははははは、あはは、あははは!」

そして大声で笑い始めた。
初めて見る、黒幡の大笑いする姿。

「く、黒幡?」
「黒幡?」

俺と大川は、意味が分からなくて、一歩ひいてしまう。
黒幡は止まらないように顔を奇妙に歪めて笑い続ける。
忘れてしまった表情の動かし方を、無理矢理思い出しているような顔だった。

「あはははは!うん、すっきりした。そうだよな、最低だよ、最低!あいつって、最低!あっは、あはははは!」

まるで壊れてしまったおもちゃのように、涙すら浮かべて大ウケしている。
腹を抱えて、ずるずる座り込み、それでも痙攣するようにして笑っている。

「く、黒幡、大丈夫か?」
「こ、怖い」

若干ひいてしまった俺と大川が恐る恐る声をかけると、黒幡はピクピクと震えながら顔を上げた。
その顔はやっぱり無表情で、余計にちょっと怖い。

「あ、ああ、ごめん、あっは」

涙を拭いながら、俺たちをまっすぐに見る。
ゆっくりと立ち上がりながら、自分の腹を撫でる。
かつての痛みを思い出すように、目をそっと瞑る。

「ありがとう、二人とも。もう痛くないから、平気」

そして目をあけて、穏やかに笑った。
いつもの頬を僅かに緩めるだけの笑顔じゃない。
不器用にだが、唇を持ち上げて、目を細めた、優しい表情。
堅くなった表情筋を無理矢理動かした、不様な笑顔。

「………」
「………」
「どうしたんだ?」

けれど、初めて見た、黒幡の、本当の笑顔。
なんだか胸が熱くなってきて、言葉が出ない。

「いや」
「痛くないなら、いいの」

それは大川も同じだったのか、余計なことを言わずにそれだけ言った。
黒幡は一つ大きく頷く。

「うん、もう、痛くない」

それから落としたお玉を拾い上げ、自分の体を拭っていたタオルで床を拭き始める。
ぼうっとしていた俺たちを見上げて、最初の会話を思い出したのか、聞いてくる。

「ああ、それで先輩がどうしたんだ?」

それで、大川も我に返って、最初の勢いを取り戻す。
握りこぶしで憤慨したように声を荒げる。

「あ、そうだ、聞いてよ、酷いんだよ!今日池センパイに会ったから、黒幡は元気だよって言いにいったらさ、無反応なの!」
「お、大川」

二人の微妙な仲に、そういうことを言っていいのだろうか。
これがきっかけで破局とか、嫌なんだが。
けれど黒幡は気にした様子もなく雑巾になってしまったタオルを洗って、自分の手も洗う。

「まあ、そうだろうな。あの人が俺の安否とか気にすることないだろうし」
「でも、でもさ!」
「あの人は、分かってると思うから」

不貞腐れたように言う大川。
黒幡は小さく苦笑する。

「何が?」
「俺が結局、あの人に惚れてるってこと」

聞きようによっては、ものすごいノロケ。
けれどそこにはやっぱり甘さのようなものは一切感じない。

「惚れてるの?」
「恋なのかどうかは、分からないけど」

やっぱり、複雑らしい。
俺から見れば、それは恋なんじゃないかと思うんだけど。
難儀なもんだ。

「でも、よくあの人と一緒にいられるよな。俺無理。威圧感にビビる」
「確かに。すっごいなんか俺様オーラ出てるよね。やっぱイケメンだしさあ」

俺たちの言葉に、黒幡は手を拭きながら昔を思い出すように天井を見る。

「あの人と最初会った時、あの人死にかけてたしな。それ以上に俺がそれどころじゃなかったし。なんかそういうの感じてる暇なかった」

そういえば、初めて行った池さんの家で大泣きしたと言っていたっけ。
こいつが泣くところとか、想像つかない。
ていうかよくよく考えれば、池さんは死にかけてて、黒幡はその横で大泣きとかどんな状態なんだろう。
カオスだ。
そこから始まる恋。
やっぱり俺には理解できない。

「………あの人でいいの?あんな人でいいの?黒幡ならもっといい人、絶対いるのに」
「心配してくれるの?」
「当たり前でしょ!」

いきなり黒幡は上半身裸のままぎゅっと大川を抱きしめた。
そしてその頭をぐりぐりと撫でる。

「な、何?」
「いや、嬉しくて。大川ってすごい可愛いよな」
「か、かわ、かわいい!?」

クール系美人の大川は、可愛いと言われることはあまりないのだろう。
珍しく顔を真っ赤にして固まっている。

「あ、マジでかわいいな」
「うるさい!」
「なんで俺だけ怒るんだよ!」

思わず素直な感想を述べると、大川は黒幡の腕から逃げ出し俺に蹴りを入れてくる。
理不尽だ。

「ありがとう、大川。それでも、俺は、あの人がいいんだと思う。怖いんだけどね。これ以上あの人に惹かれるのも。あの家に行くのも」

ため息をついて、それでも表情を柔らかくしている黒幡。
苦いような、切ないような、嬉しいような、そんな色々な思いが込められている気がした。

「怖いの?」
「うん、怖い」

頷く無表情の黒幡に、俺は昼に池さんにあった時のことを思い出した。
危うく忘れるところだった。

「あ、池さんから、伝言を受け取ってるんだ」
「あの人が伝言?何?」

不思議そうに首を傾げる黒幡。
昼の池さんを思い出しながら、正確に伝えようと試みる。
多分きっと、それは、黒幡にとって、大事な言葉だろうから。

「あ、まずな。俺のところにいるって言ったら、『迷惑かけて悪いな』って、言われた」
「………」

黒幡は眉を顰めて黙り込む。
大川は納得いってないようだったけど、俺はこれを聞いて大丈夫だって思ったんだ。
あの人に、黒幡を任せても、大丈夫だって。
あそこに帰らせても、大丈夫だって。
だって、どうでもいい奴だったら、代わりに謝ったりしないだろう。
迷惑かけて悪いなんて、身内に対する言葉だ。

「それから」

俺には、よく分からない言葉。
けれど自信に満ち溢れた偉そうな笑みから放たれたそれは、きっと大事な言葉。

「『新作が出来たけど、売り飛ばせないから早くしろ』って」
「………」

息を飲む音が、小さく狭い部屋に響く。
友人がどんな表情をしているのかと確かめようとして、今度は俺が息をのむ。

「黒幡!?」
「あ………」

黒幡は、ボロボロと、涙を流していた。
俺の反応に泣いていることをようやく気付いたのか、自分でも驚いたように顔を抑えて涙を拭う。

「え、ひ、くっ………あ」

こんなに唐突に泣く人間を、初めて見た。
黒幡が泣くなんて、信じられなかった。
基本的に無表情で感情をあまり揺らさない男が、さっきから笑って泣いて忙しい。
まるで別の人間のようだ。

「黒幡、大丈夫?」
「だ、いじょう、ぶ」

心配そうな大川に、次から次から溢れてくる涙を拭いながら、黒幡はなんとか笑う。
それはさっき見た、不器用な笑顔だった。

「ああ、やだ、な、あの人、すぐに、俺を、泣かせる」

そしてひっくと一度大きく肺を振わせる。
愛おしげに、苦しげに、噛みしめるように、目を伏せる。

「そうだ、俺が見るまで、作品は、売れ、ないんだ」

目を伏せたまま、つぶやいて、笑う。
そして涙で真っ赤にした目で、俺たちを縋るように見つめる。

「なあ、松戸、大川」

いつも冷静で感情を揺らさない男が、子供のようだ。
頼りなくて、今にも倒れてしまいそうな、よちよち歩きの子供。

「俺、あの人が、怖い、よ」
「うん」

みっともなく泣きながら、黒幡は鼻を啜る。
震えた声。
赤くなった目と鼻。

「でも、帰り、たい」

情けない表情。
大の男とは思えない、無防備な泣き様。
鼻水をたらし、頬をぬらしながら、鼻声で訴える。
なんて汚くて、みすぼらしい、姿。

「あの人のところに、かえり、たい」

ああ、初めて知った。
誰かを想って泣く姿がこんなにも綺麗なんだということ。





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