一目で、心奪われた。



- 黒幡 -





「黒幡さ、本当によくあの池さんと付き合えるよな」

学内では一番親しくしている松戸が少しため息交じりに言った。
今日は先輩に頼まれていた画材を買いに行くから、放課後は付き合えないと告げた後に出てきた、やや呆れたような声だった。

「ね、ね、本当に黒幡君って、池さんと暮らしてるの?」
「あの人、すごい変わった人なんだろ?」
「どういう人なの?」

一緒に昼食をとっていた友人達が、途端に興味津々な目で見てくる。
俺が先輩と暮らしていて、しかも肉体関係があるらしいという噂は結構有名なようだ。
先輩はよくも悪くも有名人なので、好奇の目で見られるのは珍しいことじゃない。
賢明な友人達は俺にそのことを直接聞いてきたりはしなかったが、やはり気になっていたのだろう、松戸の一言で、チャンスだとばかりに食いついてきた。

「思ったより分かりやすい人だと思うけど。芸術家としては」
「え、そうなの?」
「ああ」

別に隠してもないので、俺はカレーを食べながら答える。
というか隠すよりもある程度の情報は公開したほうが好奇心も抑えられるだろう。
何か言いたげに輝く目にずっと見られるのもそろそろうんざりしてきたところだ。

「へえ、そうなんだ。じゃあ、噂だけなのかな。どんな人なの?」
「すげー、気難しい人だって話だったのにな」

皆、わくわくとした顔で、俺の言葉を待っている。
あの人の存在は、自然と人を惹きつける。
その作品も、本人自身も、人の目を引いて止まない。
だから、皆の気持ちは分かる。

「大切なのは自分だけで、自分のやりたいことしかやらなくて、他人は利用するもので、人が嫌がることが大好きで、女好きで飽きっぽくて、創作活動とその周辺のこと以外には全てにおいていい加減な人」
「噂通りやないか!」

隣に座っていた大川がキレのいいつっこみと共に裏拳を食らわせてきた。
女子の細腕だが、カメラ機材を持って外を飛び回る大川の力は強く、痛い。

「いきなり奇行に走ることもないし、酷い人だって弁えておけば付き合いやすいと思う」

社会に溶け込めない芸術家なんて、ポストが赤いっていうぐらいデフォルトなんじゃないだろうか。
その中でも先輩は常識的だと思う。
少なくともフランスパンを頭に乗っけたり、耳を切ったり、精液で絵を描き始めたりはしない。
必要な時だけしか気にしないってだけで常識は知ってるし、単に自己中心的な酷い人ってだけだ。

「そう言えるのは黒幡君だけだと思う」
「そうかな」

大川が、どこか呆れたようにため息をつく。
松戸もラーメンをすすりながら同意するように頷く。

「よく、一緒に暮らしてられるな」
「メシとか生活にそこまで執着ないから基本的になんでも食べてくれるし、掃除は手抜き出来るし楽だよ。メリットがあるし、食費と家賃が浮くしな」

創作活動以外であの人が執着するのは、性欲だけだ。
それも女が処理してくれている時は俺には回ってこない。
少しは俺も入れているとはいえ、先輩は生活にかかる金などにも無頓着だ。
家賃と食費の分の金が浮くし、余ってる画材も好きに使っていいと言われてるし、生活は随分楽になった。
勉強する時間も、前よりずっと確保することができるようになった。

「うん。前よりバイト減らせたみたいだし、確かにそれはいいと思うんだけどな。前のお前、いつか倒れるんじゃないかと思ったし。だいぶ顔色もよくなった」

松戸の言葉に少しだけ驚く。
俺と先輩の生活に心配そうにしながらもあまり何も言わなかったのは、そういう理由もあったのか。

「心配しててくれたんだ」
「そりゃそうだろ」
「ありがとう」
「あ、ああ」

今度は松戸が面くらったように頷く。
何に礼をいっているのか分からないように首を傾げている。
俺の体調まで気にしていたくれたのが、嬉しかっただけだ。
本当に松戸は、善良でいい奴だ。

「でもまあ、すごいよなあ。あの人の絵。俺は好きじゃないけど、確かにすごいとは思う」
「絵だけじゃなくて、彫刻科の先生もこぞって注目してるし」

他の友人達も、先輩の話で盛り上がる。
絵画が中心だが、先輩は彫刻でも才能をあらわしている。
その外見が派手なこともあり、今かなり注目されている人だ。
大衆に媚を売りすぎた分かりやすい落書き、外見がうけているだけのアイドルアーティスト。
揶揄されることも多いが、それでもその才能はつぶされない。

「まあ、最低な人だけど」

それでも、あの人の作品だけは、誰にも侵せないんだ。



***




大学に入って間もなく、次々に出される課題と新しい土地での生活とバイトとで、右往左往していた頃だ。
ホールに、とある公募展で受賞した絵がいくつか飾られていた。
あまり好きな団体ではなかったが、興味本位にふらりと立ち寄った。
一際目立つ位置で、その100号の絵が鎮座していた。

「………っ」

その瞬間の衝撃は、今でも忘れることが出来ない。
頭を、ハンマーで横殴りにされたような痛みと動揺。
心臓がドクドクと急に早く鼓動をうち、体中に血液を送りこむ。
頭が熱くなって、眩暈がして、息が苦しくなる。
高熱が出て、ベッドにもぐりこんでいる時のような、症状。
ああ、確かにこれは病気だったかもしれない。
根絶することが出来ない、不治の病。

どれくらいその場で突っ立っていただろう。
ようやく衝撃が薄れてきたところで、ふとその下に飾られたネームプレートが目に入る。

『池 峰矢』

そこには、そう書かれていた。



***




「あいつ、最近見てないけどどうしてる?」

少しだけ開かれた研究室の扉から、そんな声が聞こえてきた。
低く響く、年齢を感じる渋い声。
中からは、複数の声が響いている。

「ついこの前彫刻科の方に出入りしてたみたいですけど」
「また死にかけてるんじゃねえだろな。誰か様子見てこい」
「嫌ですよ」
「俺も嫌です」
「無駄じゃないですか」

なんの話か分からないが、なんとなくノックするタイミングを逃してしまう。
渋い声は、呆れたようにため息をつく。

「お前ら友達がいねえなあ」
「そもそも友達じゃないです」
「まあ、違いねえな。最近は世話してる女とかいないのか?」
「知りませんけど、制作中のあいつの傍にいられる女なんているんですかね」
「さすがに、死人は出したくねえな。新聞沙汰になりそうだ」
「先生が行けばいいじゃないですか」
「なんで俺自らいかなきゃいけないんだよ」

その時、足音が中から近付いてきて、ドアが開かれた。
その前にぼさっと突っ立っていた俺は自然と、研究室の中にいる全員から見られる。

「………あ」

思わず固まってしまった俺に、中心にいた老年の男性が胡散臭そうに見てくる。
おそらくこれが小池教授だろう。

「なんだ、お前」

聞かれて慌てて居住まいを直す。
明らかに研究室の前にいたっていうのはバレているだろう。
ここで逃げても仕方ない。

「あ、その、芸術学科の一年の黒幡と言います」
「なんか用か?」
「あ、えっとこちらの研究室に池さんって方がいるって聞いたんですけど」

その瞬間、研究室の空気が変わった気がする。
固まったというか、ざわりと蠢いたというか。
なんだと戸惑っていると、小池教授がさっきの無愛想な表情から一転、にっこりと笑みを浮かべる。

「お前、あいつの知り合いか?」
「いえ、そう訳じゃないんですけど」
「あいつになんの用だ?」
「………えっと、ホールの絵を見て、その………」

その先をなんて言ったらいいのかわからなくなった。
絵を見て、名前を知って、勢いで事務員に誰のなのかを聞いて思わずここまで押しかけてしまったのだ。
考えてみれば、痛いだろうか。
ただ、いてもたっても、いられなかったのだ。
あの絵を作り出した人を見てみたい。
そう思ったら気が付いたらここまできていた。
自分でもよく分からない、衝動。

「なるほど」

言葉が出てこなくてまごついていたら、小池教授は心得たと言ったように頷いた。
何がなるほど、なのかさっぱり分からない。
けれど教授は俺の動揺も気にせず一人話し始める。

「お前、これから時間あるか?」
「は?はあ、夜のバイトの時間までは」
「よし、今、池の家の住所書いてやるから直接会ってこい。後、金やるからなんかメシ買って届けてやってくれ」
「え?は?あの?」

いきなりの依頼に、勿論ついていける訳がなく、俺は疑問符だらけの返答をする。
全く展開に付いていけない。

「いや、あの、本当に知り合いでもなんでもないんですが」
「気にするな」

いや、気になります。
俺の抗議は聞き届けられず、教授は俺の手に千円札二枚をねじりこみ、研究室にいた生徒がいつの間にか書いていた住所のメモを俺のポケットにねじりこむ。

「え、いや、あの、えっと」
「いいか、これは人の命がかかってるんだ。いいな。人が死んでたら連絡しろ」
「え、え?ええ!?ちょっと待ってください!」

なんだそのハリウッド映画の山場シーンのような重い願い事は。
人の生き死になんて、極力関わりたくない。
メモとお金を叩き返そうとすると、教授はにやりと笑う。

「あいつの家にはあいつの作ったもんがいっぱいあるから見せてもらってこい」
「………」

やっぱり長年癖のある人を束ね、教鞭を振ってきた人というものは食えないのだと、後になって思ったものだ。



***




大学からほど近い場所にあるその家は、昭和時代の名残を色濃く残す木造建築だった。
ブロック塀に囲まれた、まるで国民的アニメに出てくるような小さな二階建て。
玄関先の僅かな庭のような部分は、手入れなんて考えたことないんだろうってぐらい、雑草が生い茂っていた。

全く面識のない人の家に、食料を持って訪れる。
自分だったらドンビキしてしまうが、一応担当教授に言われことだし、仕方ないよな。
自分に言い聞かせて、玄関先の石柱につけられたチャイムをとりあえず押す。
スカっという感触がして、チャイムの音はならない。
もう一度押しても反応がないため、壊れているようだ。

仕方なく塀の中に入り込み、木枠で出来た扉をノックする。
はめ込まれた曇りガラスがガシャガシャと音を立てるが、中からは反応がない。
もう一度ガシャガシャと音を立てても、やはり中に人の気配はない。

出かけているのかと出直そうと考えるが、人が死んでたら連絡しろ、と言っていた老教授の声が浮かぶ。
冗談だと思っていたのだが、急に不安になってきた。
少しだけ躊躇ってから扉に手をかけると、それは簡単にカラカラと音を立てて開いてしまった。
人の家に勝手に入るというのは抵抗を覚えるが、もし本当に何かあったら問題だ。

「………お邪魔します」

意を決して、声をかけ足を踏み入れると、古い木造建築独特の匂いと、埃の匂い、そして油絵具の据えた匂いがした。
玄関先には履きつぶされた汚いスニーカーや、放ったらかしにしておいたらもったいないような綺麗な皮靴やらが散乱している。
これじゃいるのかいないのかも分からない。

「えーっと、いけ、さん?」

廊下の奥に声をかけても、やっぱり物音ひとつしない。
仕方ない。

「すいません、不法侵入します」

一応断って靴を脱ぎ、上がり框に踏み出す。
静かな室内にガサガサと差し入れが入ったコンビニ袋の音だけが響く。
ていうか随分汚い。
歩くたびにみしみしとなる廊下は、埃だらけだ。

「………いないの、かな」

廊下から一番手前は、居間のようだ。
その奥には昔ながらの台所が見える。
誰もいない。
更に廊下を奥に進むと、今度は軽い木材で出来た貧相なドアがある。
開け放たれたドアの先の床に、白いものが見えた気がした。

「………え」

近づきながらよく見ると、それは白いシャツを着た人だと分かった。
フローリングの床に横たわり、ぐったりとして動かない。

「ちょ!大丈夫ですか!?」

俺は慌てて、その人に駆け寄る。
部屋に入った途端強くなる、きつい油の匂い。

「…………っ」

どくりと、心臓が、大きく跳ねる。
息が、止まる。
その部屋はアトリエだったのだろう。
無造作に部屋中に絵や、彫刻が、置かれていた。

「あ………」

その時の心臓を包丁で滅多刺しにされたような感触を、なんと伝えたらいいのだろう。
圧倒的な、感情の奔流で、心臓がキリキリと痛む。
痛い、痛い痛い。
苦しい。

「はっ」

しばらくして眩暈がして足がもつれ、尻もちをつく。
それで、自分が呼吸をずっと止めていたことに気づいた。
息の吸い方が分からず、焦って咳き込んでしまう。
それでも、目は、その部屋から離せない。
どうしたら、いいのか分からない。
ただ、自分の中にこんなものがあったのかと驚くほど、湧き出てくる感情に翻弄される。
その感情に名前をつけることができない。

「うっ、く」

いきなり、大粒の涙がぼたぼたと溢れてきた。
なんだ、これ。
どうして、泣いているんだ。
哀しいのか、嬉しいのか、痛いのか。
ああ、そのどれでもない。
でも、そのどれでもあるかもしれない。

「あ、あ………、う、ああああああ」

こらえきれなくて、声をあげて、泣きわめく。
嗚咽を漏らす。
しゃくりあげる。
唇が震える。
鼻水が出てくる。
息がうまくできない。

「ひ、く、うぅ、あ、あああ」

分からない。
なんだ、これ。
なんだろう。
でも、分からない。
声を出していないと、中にある感情に、体が爆発してしまいそうだ。
だから、叫びながら、ただひたすら涙を流す。

「………誰だ、お前」

掠れた、けれど耳によく響く声が、聞こえる。
座りこんで泣きわめく俺を、隣で倒れていた人が、けだるげに見上げていた。



***




「お邪魔します」

すでに慣れてしまった借りの住まいに、声をかけて上がりこむ。
玄関先には履き古された汚いスニーカー。
どうやら先輩は帰ってきているらしい。
勿論、返事はない。
いつものことだ。

初めて来た時より、随分綺麗になった廊下を歩く。
自分の掃除の努力を思って、わずかな満足感を覚えた。
家主に感謝されることはないのだが。
まあ、自分が住むにあたってよりよい環境を作ろうと思っただけなので別にいい。

「先輩、いますか?」

二階の貸してもらってる部屋に荷物を置くついでに、先輩の部屋に声をかける。
バイトに行く前に夕食を作らなければいけない。
基本的に食の執着が薄いので、出されたものはなんでも食べる先輩だが、ごく稀に嫌がらせのようにリクエストをしたりする。
一応いる時には聞いてみることにする。
返事がないので、恐らく階下にいるのだろう。

みしみしと音がなる階段を下りて、アトリエに向かう。
この部屋に入る権利は、俺にだけ与えられたもの。
それに、とんでもない優越感を覚える。
この安っぽい扉を開くたびに、俺はまるで異世界に誘われるように鼓動が早まる。

「………」

中では先輩が鬼気迫る様子で、塑像に刀を入れていた。
これはこの前彫塑していた奴か。
俺が部屋に入ったことなんて気付きもせずに、ただひたすらに手を動かしている。

先輩は制作に入ると、他の何もかもをその世界からシャットダウンする。
絵の時は乾燥に入ればちゃんと生活もしたりするが、彫刻の場合はそれこそ寝食を全て忘れる。
絵の時だって、乾くまでアトリエでずっと素描を繰り返して待っていたりもする。
ぶっ倒れるまで、作品に向かい続ける。

「………先輩」

その寿命を削るような打ち込み方に、ゾクゾクと背筋に快感が駆け下りる。
たった今、あの人のあの手に抱かれたら、俺はすぐにもイってしまいそうだ。
けれど、今の先輩は、俺のことなんて、目に入らない。
それがひどくもどかしくて、けれど嬉しい。

「一目で、心奪われたんです、先輩」

ぼそりとつぶやいても、先輩には聞こえない。
今先輩はただひたすらに、自分の中の世界と向き合っている。
そこには、誰も、何も入っていけない。
どんな声も、目も、届かない。

先輩の周りは静かで、孤高。
出産をするかのようにもがき苦しみ、一人作品を生む。
俺には触れられない、絶対の時間。

先輩の手が動くたびに、それは、徐々に姿を現す。
ただの粘土の塊でしかなかったものが、命をもったものとして、生まれていく。
まるでそれは、温められた卵のように、殻を破っていく。
先輩の手に生み出されていくものが、羨ましくて妬ましい。
そして、心引き寄せられる。

「だから、俺は、あんたがどんな人だろうと、離れられないんです」

俺は、知ったのだ。
この部屋で、あんたを知った時に、この感情を、知ったのだ。
どんなに否定しようと、打ち消そうとしても、逃げようとしても、不可能な衝動。
あの時、初めて知ったのだ。

ああ、これが一目惚れなのだと。





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