母さんからの電話の後、しばらく考えてから、携帯の手帳を探る。
目当ての人はすぐに見つかった。
少しだけまた躊躇って、なんとか通話ボタンを押す。
4コールほど待っていると、プツリとコール音が途切れる。

『守か?』

即座に聞いてきたのは、懐かしい深みのある声。
なんだか懐かしくて嬉しくて、胸がいっぱいになって泣いてしまいそうだ。
正月に会ったばかりなのに、ひどく懐かしい。

『守?』

怪訝そうに聞いてくる声に、慌てて俺は震えそうになる喉を抑える。
忙しい頼れる弁護士さんの時間を取る訳にはいかない。

「あ、新堂さん、お忙しいところすいません。今平気ですか?」
『ああ、大丈夫だ。どうしたんだ?おっさんは元気だぞ』
「それならよかったです」

耕介さんの声と顔が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
すると途端に耕介さんに会いたくてたまらなくなった。
耕介さん、会いたい。
声が聞きたい。
私の大切な守君と言ってほしい。
頭を撫でて欲しい。

「耕介さんの、怪我は大丈夫ですか?」
『ああ、もうぴんぴんしてる。年の割には回復が早いな』
「あはは。耕介さんはまだまだ若いです」
『お前がそんなこと言ってるから調子に乗って怪我すんだよ。少しは大人しくさせとけ』
「俺は耕介さんがいつでも若々しくしてるのが好きなんです」

いつだって好奇心に満ちて飛びまわり、笑顔でうんちくを語ってくれる子供のような無邪気さを持つ大人の耕介さんが大好きだ。
ずっとずっと、耕介さんにはあのままでいて欲しい。
大切な大切な耕介さん。
俺を救って慈しみ守ってくれた、優しい人。

「あ、の」

大切な人を失わないために、俺は現実に向き合わないといけない。
もう二度と、迷わないように。

『ん?』
「俺の実家………、黒幡の家から、何かそちらに連絡なんか、ありました?」
『ない。どうした?』

簡潔な答えに、安心する。
少なくともあちらに迷惑をかけていることはないのだ。
だったら俺がなんとかすれば、それでいい。

「いえ、ちょっと気になっただけです」
『会いたいのか?』
「いえ、会いたくないです。絶対に会いたくないです」

もう完全に切り捨てたとは言え、顔を見たらまた迷ってしまうかもしれない。
愛を見たら揺れてしまうかもしれない。
母親譲りの弱くて脆い心を持つ俺は、自分を信用できない。
迷って大切な人に迷惑をかけるのは、もうごめんだ。
完全にあの人達を、切り捨てなきゃいけない。

「耕介さんに引き取られてからの7年間、あの人達から俺について何か言われたこととか、ありましたか?」
『どういう意味だ?』
「会いたいと言ってきたことはありましたか?」

新堂さんが、一呼吸するのが、受話器越しに分かる。
その間で、答えは十分分かった。

『………ない』

重い声で答えた新堂さんには感謝するが、特になんの感慨もない。
もう想像はついていたことだったから。
あの人達が会いたいと言ったのなら、きっと耕介さんと新堂さんはそのことを告げてくれていただろう。
今まで何も言わなかったということは、あの人達は完全に俺のことを忘れていたのだ。
ということは、やっぱり突然現れたのか。

「………新堂さん、耕介さんが俺を引き取ってくれる時、どういう取り決めがあったんですか?俺に接触しないようにしているってのは、聞きました。それ以外は、どういう条件があったんですか」
『守秘義務だな』
「俺のことなのにですか?」

俺を引き取る時、俺への仕打ちを盾に取ったとは言え、あの人達は何も言わなかったのだろうか。
今まで思いつきもしなかったが、あの世間体を気にする人達が何か言わなかったとは思わない。
新堂さんが感情のこもらないで淡々と答える。

『俺の依頼主は柏崎耕介だ。お前じゃない』
「何か、向こう側に譲歩したりしましたか?」
『さあな』
「………ケチ」
『悪いな、俺も仕事だ。おっさんに直接聞いてくれ』

それは、それ以上一切話すことはないということだった。
軽い調子だが、新堂さんが口を滑らすことはないだろう。
ふざけているように見えて、きっちり線引きはする人だ。
それなら、諦めて耕介さんに聞くしかない。

「………分かりました」
『一つ言うなら、おっさんの意志だ、お前が気にすることじゃない』
「………はい」

俺は本当に、どれだけ耕介さんに迷惑をかけているのだろう。
俺が受けた恩は、あの人に返すことが出来るのだろうか。
一生をかけても、あの人に対する感謝は、伝えきれないのではないのだろうか。

『何か、あったのか?』

聞かれて、ほんの少しだけ迷う。

「いえ」

しかしすぐに不自然じゃないぐらいの早さで返した。
今はまだ、言うべきじゃないだろう。
何もかもがカタがついてから、ちゃんと話そう。
鋭い新堂さんは何か気付いているかもしれないが、それ以上聞かないでおいてくれるようだ。

『………そうか』
「はい、近いうちに、そちらに帰ります。その時は遊んでください」
『分かった。楽しみにしてる。おっさんにはお前から連絡するまで内緒にしておく。はしゃいでうるさいからな』

その言葉に胸がくすぐったくなって、笑ってしまった。
耕介さんと新堂さんと千代さんと、また一緒に話したい。
何もかもを片付けて、感謝の言葉を告げて謝って、もう一度大好きだと伝えたい。

「はい、直接連絡します。すいません、ありがとうございました」
『ああ、何かあったら絶対に言えよ』
「はい」

通話が切れて携帯を握りしめ、俺はもう一度自分に言い聞かせる。
俺の大切な人は、揺るがない。
あの人達を失わないために、俺はもっと強くならなきゃいけない。



***




「じゃあ、俺がレンタカー借りるな」
「二台でいけるか?」
「大丈夫だろ」
「いっそマイクロバスとかは!」
「修学旅行だ!」
「修学旅行ってどこいった?」

いつのまにか四国旅行は随分な大所帯になっていた。
鍋パーティーの時に話題になって俺も俺もと気付けば8人。
また斎藤の家に集まって旅行計画を立てているが、大人数での相談に話は脱線するばかりで、中々先に進まない。
けれどそうやってまとまらない話をするのも、また楽しい。

「黒幡、四国初めて?」

少し疲れて隅っこでお茶を飲んでいると、工藤がやってきて隣に座った。
穏やかな顔立ちの男は、笑うととても優しく見える。

「うん。だからかなり楽しみ。工藤は?」
「俺も初めて」

楽しみだな笑う工藤に、俺も笑って頷く。
それからちょうどいいので、気になっていたことを聞く。

「あ、工藤、亜紀さんって最近暇かな?」
「亜紀?最近連絡とってないから分からないけど」
「そっか」

まあ、自分で連絡してみればいいか。
この前のが社交辞令とかじゃなきゃいいんだけど。
工藤が不思議そうに首を傾げる。

「何、どうしたの?」
「亜紀さんに相手してもらいたいなと思って」

オナニーだけじゃ物足りなくて、体の熱が冷めない。
こんなこと、今までなかったのに、本当にどこかおかしくなってしまったようだ。
正直に答えると、工藤は小さく首を傾げる。

「池さんは?」
「最近忙しくて相手してもらえなくて、どうも欲求不満みたいだ。こんなことなかったからよく分からないんだけど」

今までこんな風に悩むことなんてなかった。
それほど欲求は強くなかったのに。
これが、欲求不満ということだろうか。

「俺ならいつでも相手するのに」
「先輩から男とは寝るなって言われてるから無理」

女は許可をとれば許すけど男と寝るのは許さないと言われた。
他の男と穴を共有する気はない、と。
工藤はくすくすと楽しそうに笑う。

「お前、池さんに愛されてるな」
「うん。多分、かなり気に入られてるんだろうな」
「へえ」
「ん?」

感心したような声に友人の方を向くと、工藤は興味深そうにこちらを見ていた。

「どうした?」
「そういう反応が帰ってくるとは思わなかったから。池さんに気にいられてるってことは認めるんだ」
「うん、先輩の弟と最近友達になったんだけど、そいつと話していると、やっぱり俺って先輩に気にいられてるのかな、って思い始めた」

あの人が俺に執着しているのは分かっていた。
あの人があんなに気にするのは、俺だけ。
あの人が嫉妬し、束縛するのは、俺だけ。
あの人は、俺に惚れている。
それは、分かっていた。
けれど、もしかしたら気に入られて、少なくとも大切な玩具程度には大事にされてるのかなって思い始めた。、

「そうか、妬けるな」
「まだ、恋ってよく分からないけどね」
「難しいな」

座りこんで立てた膝に、顎を埋めて足先を見つめる。
きっとこの感情は恋なのだろう。
あの人に執着し、束縛し、依存し、頼る。

温かい感情は、耕介さんや友人達に。
激しい感情は、先輩に。
それぞれ教わった。

「そういえば実家はどうしたの?」

工藤が、何気なく聞いてくる。
そういえば工藤には、少しだけ相談したのだった。
それならば俺は答える義務がある。

「ああ、帰らない」
「そっか。よかった」

その答えが、少しだけ意外で工藤の方にもう一度視線を戻す。
工藤は投げ出した足を、じっと穏やかな顔で見ていた。

「よかったのか?」
「個人的にはね」

工藤も家族とあまりうまくいってなかったのだったっけ。
こいつになら、俺の疑問は分かるだろうか。
適度に距離をとってくれる工藤なので、鷹矢の時よりは迷わずに口を開く。

「独り言みたいなものだから聞きながしてもらって構わないんだけどさ」
「うん」
「俺、多分一般的に見て虐待に近い扱い受けてたんだ」
「うん」

人によっては同情したり慰めようとしたり好奇心を浮かべたりする告白に、工藤は特に変わることなく頷く。
それを横目でちらりと見て安心する。
こいつは、下手に俺に入れこんだりはしない。

「義理の弟にものすごい嫌われてて、殴られるわ、殺されかけるわで散々だった。義父も母も義理の弟の完全に味方で、一緒になって俺を責めることはあっても、庇うことはなかった」
「うん」
「で、いい人に引き取ってもらって10年近く家族と会ってなかったんだけど、あの人達、今更近づいてきていい顔してきた。なんであの人達、俺があの人達に会うことを望んでるって思ってるんだろう」

それが、ずっと疑問だった。
最初はその違和感がなんなのか、分からなかった。
和樹と話している時に感じた、もやもやとした居心地の悪さ。

「どうして、俺が、あの人達を受け入れるって、疑ってもいないんだろう」

あいつらは俺にひどいことをした。
俺に悪いところがあったとしても、客観的に見てそれは確実だ。
普通なら許すはずがないだろう。
それなのに、あの人達は俺が悪いと思いこんでるし、向こうが取りいれば俺も受け入れると信じているのだ。

「普通に考えて、俺が拒絶することなんて分かりそうだろう。馬鹿なのかな」

なんで、あの人達は何一つ悪気も罪悪感もないのだろう。
それが、俺がずっと感じていた違和感。
この前ようやく、形にすることが出来た。
俺の言葉に、けれど工藤はくすくすと楽しそうに笑う。

「でも黒幡、一回受け入れそうになってただろ?」
「………うん」

頷くしかなかった。
受け入れるはずなんて、ない。
心も体も壊れそうなぐらい、追い詰められた。
一生会いたくないって思っていた。
それなのに、確かに俺は少し和樹が親しげにして、妹や母の存在を出されただけで、あっさり許そうとしていた。
受け入れようとしていた。
考えてみれば、俺も馬鹿だ。
ていうか俺の方が馬鹿だ。
工藤は、投げ出した足を、右だけ引き寄せ腕の中に抱きこむ。

「一回染みついた奴隷根性って、中々抜けないんだよな。何をされてもそれが当然、自分が悪い、虐げられるのが当然って思いこむ。きっと感覚が麻痺してるんだろうな。もう、何が正しくて何が悪いのかなんて、分からない。自分が踏み潰されているのに気付かない。ていうか、気付いていても、それが普通だと思っている。虐げる方もそれが当然だと信じてる。どんなに虐げても奴隷は自分に従うと疑ってもない。何をしても自分に盲目的に尽くすと分かっている。対等な人間じゃない。下手したら人間扱いですらない」

工藤が淡々と話す言葉は、一々納得できるものだった。
俺は奴隷。
俺はあの人達に虐げられて当然のもの。
あの人達も俺を虐げるのが当然のこと。
だから俺はあの人達の言うことならなんでも聞きそうになったし、あの人達も俺に対して罪悪感なんて抱かない。
だって、俺は苛められて当然の存在なのだから。

「………そう、か」

工藤がこちらに顔を向けて、首を傾げて上目遣いに見てくる。
綺麗な顔は、そんな風にするとどきりとするほど色っぽかった。

「心当たりある?」
「うん。完全に当たりかも。この前、奴隷に逆戻りにしそうになった」
「しなくてよかった」
「うん」

踏みとどまれて、よかった。
今度引きずり戻されたら、俺はこの色彩に溢れた綺麗な世界に戻れなかったかもしれない。
本当に、よかった。
それにしても、工藤はやっぱり頭がいい。

「工藤も奴隷だったの?」
「ううん、奴隷がいた。俺がお前の義理の弟の立場」

あまりに実感のこもった言葉に、実体験なのかと問うと、工藤は緩く首を振った。
それから変わらず穏やかな顔で笑って、こちらを見る。

「お前の場合もちょっと違うけど似たようなもんなのかな。お前の場合は、お前が搾取用で、義理の弟が愛玩用だろ?」
「搾取用と、愛玩用」

なんだか、しっくりとした。
俺は搾取される奴隷。
和樹は愛玩される愛する息子。
それなら、あの扱いは当然だ。

「そう。俺は4つ上の姉がいるんだけどさ、姉が搾取用で、俺が愛玩用」

それから工藤は顔を戻して立てた右足に顎を預けた。

「これは独り言みたいなものだから聞きながしてくれていいよ」
「うん」
「父も母も俺のことを舐めるように可愛がってさ、なんでもさせてくれたしなんでも買ってくれた。我儘放題やりたい放題。怒られることなんてほとんどなかった」

ああ、確かにまるで和樹のようだ。
欲しいものを与えられ、我儘をとがめられず、褒められて愛され育った子供。

「俺と違って、姉は何をしても文句を言われて、ずっとブスだの陰気だの役立たずだの言われてた。おもちゃを買ってもらうこともないし、親に遊びに連れて行ってもらうこともない。別に余裕がないわけでもないのに、大学に行くことも許されなかった。頭のいい人だったのに。高校卒業と同時に家からも追い出された」

淡々と話す工藤の顔には、特に感情は浮かんでいない。
まるで他人事のように、いっそ冷たいぐらいだ。
部屋の真ん中では、一休止に入った皆がビールを飲み始めている。
ああ、これじゃ、今日中には決まらないかもしれない、なんてことをぼんやり思った。

「それでも必死にバイトしてお金貯めて、看護学校行って資格取って働き始めた。ようやく家を出たのに、今度は家に金を巻き上げられてる。育ててやった恩を返せって言われて、家にに大分仕送りしてる。父も母もまだ現役で収入あるのに、それで旅行行ったり欲しいもの買ったり贅沢三昧。もうやめろって散々言ってるのに、あの人はそれでも親に搾取され続ける。奴隷から抜け出そうとしない」
「………」
「愛玩された俺は簡単に親を捨てられるのに、搾取され続けるあの人は親を捨てられない。不思議だよな」

ああ、確かに、搾取用の奴隷の俺は、親を中々捨てられなかった。
それでも、信じていたかった。

「………愛されてないと、愛されたいって、思う。尽くせば愛してくれるんじゃないか、いい子にしてないから悪いんじゃないか、もっと頑張ればいつか愛してくれるんじゃないか。親を捨てるなんて、そんなひどいことをしたら人でなしになってしまう。ここまで育ててくれた親なのに」

自分の中にあった言葉を、まとめないまま口に出して、気付く。
ああ、そうか、俺は愛されたかったのか。
我慢して、言うことを聞いていれば、いつかあの人達が俺を振り向いてくれるんじゃないかって、信じたかった。
工藤は俺の言葉に、こくりと頷く。

「姉も、そう思ってるんだろうな」
「工藤は、それが嫌なんだ」

家族との不仲は、そのせいなのだろうか。
工藤は自嘲気味に、苦く笑った。

「俺もお前の義理の弟と一緒だよ。当然だと思ってた。姉さんが俺に小遣いくれるのも、俺の部屋を片付けるのも当然。両親に罵られるのも、バイト代を全部巻き上げられるのも、疲れてるのに家事をやらされるのも当然。全部全部愚図で陰気なあの女が悪いって思ってた」
「今は、思ってないのか?」

思ってたということは、過去形だ。
聞くと、ますます恥ずかしそうに、唇と眉を歪めて複雑な顔を作る。

「高校の頃の彼女を家に呼んだ時、家族全員で姉をこき使ってるのを見られた。それで頭おかしい、変、狂ってる、最低、あり得ないとか、散々罵られた。あの時はものすごい腹立ってその子殴ったりした。マジ最低。すごいいい子だったな。今も感謝してる」

そこで気づける工藤は、きっと頭のいい奴なのだろう。
周りにもいい人に恵まれたのだろう。

「少しは頭冷えて、家族と距離を置くようになって、姉の見方も変えたんだけど、やっぱり変わらない。俺は親のすね齧ってこんな金のかかる大学に来ている我儘なお坊ちゃんのままで、両親は姉を奴隷としか見なくて、姉も自分を奴隷としかみなさない。人は簡単に変わらない」

感情を込めずに馬鹿にしたように言う工藤が、痛々しかった。
だから俺はそっと、その肩に頭を載せる。
信頼をこれで示せるといいのだけれど。

「工藤は、優しい。俺はお前にいつだって助けられた」
「………」
「俺は工藤が好き。すごい好き」

しばらくの間、工藤は無言だった。
俺も黙って工藤の肩に頭を乗せていた。

「ありがとう。じゃあ、俺と付き合わない?」

数瞬後に言った言葉はすっかり明るくて、いつもの工藤。
本心を見せようとはしない、器用な友人が、痛々しく感じた。
けれど、俺はこいつの全てを受け入れるキャパシティはない。
自分のことで精いっぱいだ。

「ごめん、俺先輩に惚れてるから」
「残念」

くすくすと笑う工藤にほっと安心しもするけれど、なんとかしてあげたいとも思う。
俺には、出来ないのだけれど。

「俺は、黒幡が抜け出してくれて、本当に嬉しい」
「………うん。ありがとう」

ようやくだけれど、俺はやっと家族を切り捨てることが出来そうだ。
胸の痛みは消えない。
嫌悪や憎悪だけではなく、まだあの人達に情は残っている。
けれど、あの人達が俺を奴隷と思うなら、俺は先輩のものだから拒絶しなければならない。
俺は先輩だけの奴隷でいい。

「俺は、母も義父も義弟も、いらないって思い切れた。いるだけ俺には害になるだけだって、ようやく納得できた。他に大切な人がいるって、気づけたから、出来た」

耕介さんが10年かけて教えてくれた。
友人達が分からない内に植え付けてくれた。
先輩がそれを思い出させてくれた。

「自分を人と見てくれない人達に認めてもらおうと努力し続けるのは、疲れる」

実らない努力をし続けるのは、酷く疲れる。
先が見えないまま苦しみ続けるのは、心を消耗する。

「いつか、工藤とお姉さんも、楽になれるといいな」
「うん」

工藤のお姉さんが弟の痛みを知って、世界は色彩に溢れて美しく、果てがないくらい広いのだと気付けますように。
俺が気づけたように、世界は狭くないのだと、きっといつかは気付けると、信じたい。


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