朝は天気がよかったのに、少し前からしとしと静かな雨が降り始めた。
ヒーターで程よく温まった室内から見る窓の外は、全てがグレイになっている。
洗濯物が乾かなかったり靴が汚れたりで嫌なことも多いけれど、室内から見る雨は嫌いじゃない。

今日は夕方頃には実家に行っていた先輩が鷹矢を連れて帰ってくる。
腕によりをかけておいしい夕ご飯を作ろう。
今日も鷹矢は泊まっていってくれるだろうか。
でも、鷹矢が泊まっていくとなると、先輩と寝ることは出来ない。
俺はものすごい声がでかいらしいから聞こえてしまうだろう。
鷹矢に嫌な思いをさせる訳にはいかない。

「うーん」

先輩と今日こそヤりたい。
けれど、鷹矢に泊まっていって欲しい。
二律背反、アンヴィバレンツ。

先輩のあの手に、どれだけ触れてないだろう。
触れられてないだろう。
あの綺麗に背筋のついた背中、堅い腹、筋が浮かぶたくましい腕。
名のある彫刻家が彫りあげたように、非の打ちどころのない端正な顔と美しいボディライン。
裸でいても、なんら恥ずかしくない力に満ちた肢体。
ああ、触れたいな。
あの体を、この手で確かめて、あの手で俺の体を抑えつけられて、あの野生の獣のようなしなやかな体を貪りたい。

部屋の片隅に置いてある、先輩の絵に視線を送る。
この前先輩がくれた、いつもとは趣の違う絵。
先輩らしくなく、けれどやっぱり先輩らしい、俺の心を鷲掴みにする、絵。
初めて見た時は衝撃が強すぎて、ずっと見ていることが出来なかった。
押し入れの中にしまいこんでいたのだが、ようやく出すことが出来た。
いつ見ても、心の中のものが全て引きずり出されてぐちゃぐちゃにされるような、恐怖と快感。
どうしてあの人の絵は、彫刻は、存在は、俺を惹きつけて放さないのだろう。

先輩の手。
先輩の作品。
先輩の顔。
先輩の体。

「………描きたい、な」

自然と、口から希望が出てきた。
言ってみると、それは確かなものとして、心の中で形になる。

「描きたい」

あの綺麗な体を。
あの手を。
あの存在を。
俺の手で、写し取りたい。
俺なんかに写し取れるはずはない。
でも、俺の手で、形にしたい。

突き上げてくる、欲求。
こんなに何かを描きたいと思ったのは、どれくらいぶりだろう。
元々人物を書くのはそれほど好きではない。
苦手ですらあった。

「先輩が、描きたい」

けれど、想像して手が震えてくるぐらい、今あの人を描きたい。
あの人が大人しくモデルになってくれるとは思えないけれど、でも描きたい。
描きたい描きたい描きたい。
筋の流れの一つ一つを、髪の一本も残らず、あの手を、あの指を、描きたい。

机の中から小刀と鉛筆を取り出す。
先輩も忙しいし、描かせてくれるかは分からない。
でも、それでも、俺の脳に刻み込まれたあの人を描くことは可能だ。
それでも、いい。
ただ、あの人が描きたい。



***




部屋にこもってどういう絵を描こうかと思案し初めてしばらくして、玄関が開く音がした。
先輩と鷹矢が帰ってきたのかと浮き立って下に向かって、テンションが急激に血の底を這ったのが分かった。

「よ、守」
「………」

玄関先で全身びしょ濡れになって立っていたのは、もう見たくもなかった義理の弟。
そのうち話をつけようとは思っていたが、まさか向こうからやってくるとは思わなかった。
親しげに笑う和樹に、誤魔化しようのない嫌悪感を感じる。

「何しに来たんだ?」
「なんだよ、冷たい態度だな。急に帰らないってどうしたんだ」
「俺は、帰る必要はないだろう」

努めて感情を込めないように言うと、和樹は驚いたように目を瞬かせる。
和樹は、実家に呼ばれれば俺がありがたがってひれ伏すって、本当に思っていたんだな。
仕方ない、俺は奴隷。
施しを涙を流して受け取って礼を言うのだと思っていたのだろう。
実際、そうなりそうだったっから洒落にならないけど。
奴隷根性は中々消えないか。
本当だな、工藤。

「なんか義母さんが言ったんだろ?照れてるだけだよ。義母さん、ずっとお前のこと心配してた。お前と会いたがってた」
「そう。でも、俺は会いたくない」

白々しすぎて、大笑いしてしまいそうだ。
最初の電話が、飾らない母さんの本心だろう。
いっそあのままだったら、まだすっきりしたのに。
黙りこんだ俺をどう思ったのか、和樹が機嫌を取るように笑う。
不快感に胸がムカついてくる。

「なあ、なんか誤解してるんだよ、お前。とにかく雨だし、入れてくれよ」
「ここは俺の家じゃない。勝手に人を上げる訳にはいかない」
「お前も住んでるんだろ?池さんはいないの?」
「いない。だからこそあげるわけにはいかない」
「………」

すげなく言い返すとさすがの和樹も鼻白む。
少しだけ苛立ったように眉を寄せたが、すぐに今度は弱々しい声で訴えた。

「少しでいいんだ。雨に大分濡れたしさ、めっちゃ冷えるしさ、ごめん、少しだけ雨宿りさせて」

殊勝に手を合わせて懇願する。
確かに和樹は雨に濡れて、寒そうだった。
こいつが風邪をひこうがなんだろうが全く構わないが、下手に逆恨みされても面倒だ。
それに、カタをつけようとも思っていた。
玄関先で居座られても迷惑だ。

「………分かった。俺もお前に話したいことがある」
「ありがとう」

しかたなく許可すると、和樹はにっこりと笑って玄関に上がりこんだ。
俺の部屋に向かおうと促すと、きょろきょろと周りを見渡しながら付いてくる。

「………本当にぼろっちいな。池さんって金持ちなんだろ?援助うけてないんだっけ?金持ちなのになんでそんなことするんだろ」

まあ、色々事情はあるが、和樹に説明する義理はない。

「あの人は援助を受けなくても一人で生きていける人だから」

まあ、パトロンだのパトロネスだかの援助は受けまくってるので一人とは言えないかもしれない。
でもその援助を受け取るための魅力と交渉術は紛れもなく先輩の力だ。
今の生活と立場を一から築きあげたのだから、一人で生きてると言ってもいいだろう。

「へえ。すごいんだな。お前を引き取った柏崎さんだっけ?あの人も金持ちなんだろ?」
「………母さんか義父さんに聞いたの?」
「ああ、義父さんが言ってた」
「そう」

二階に上がって、俺の部屋に押し込む。
廊下が随分濡れてしまったので、後で拭かないといけないだろう。

「この部屋から出ないでくれ。タオルとなんか飲み物持ってくる」
「サンキュ」

部屋を汚したことに対しての謝罪はないんだな。
まあ、礼を言うだけマシか。
そんなことを思って部屋を出ようとすると、和樹に呼び止められる。

「これ、池さんの絵?」

それは出しっぱなしにしてあった、先輩の絵。
和樹に先輩の絵を見られることが、とても不快だった。
こんな奴に見られたくもない。
俺の中の絶対を汚された気分だ。

「………ああ。絶対触るなよ」
「ケチくさいなあ」

その言葉に、すぐにでも叩きだしたくなってくる。
和樹なんかと、俺の何よりも大切なものが、同じ空間にいることだけでも気持ち悪い。

「池さんの絵って、結構高くで売れるんだろ?」
「………まあな」

けれど今事を荒立てても面倒なので、それだけ言ってさっさと階下に降りた。
もう飲み物なんか出すのはやめよう。
体を拭かせて、なんだったら着替えをあげてもいい。
さっさと追い出そう。

「………」

タオルを探していると、二階から移動する足音が聞こえてくる。
老朽化した家は、どこに誰がいてもすぐ分かるぐらい物音が響く。
俺は、急いで二階へ向かう。
案の定、和樹は最近先輩の絵を保管していた部屋の中にいた。
その姿を見て、心底落胆した。

「………先輩の作品は高くでは売れるけど、美術品は換金が容易じゃない」
「………」

声をかけると、和樹が驚いたように振り向いた。
そして呆れたように笑って肩をすくめる。

「何言ってんの、お前。見せてもらってただけだけど」
「この家に金目のものはない。俺も先輩も、あまり生活に金をかけない」

まあ、先輩の部屋には高価なものは沢山あるけど、それを言う必要はない。
ずっと、疑問だった。
和樹がなぜ今更俺に近付いてきたのか。
先輩と俺の写真を見て、懐かしくなって会いに来たと言った。
それを信じるほど、純粋でもない。
家族会いたさに目は眩んだが、その理由はずっと懐疑していた。

「先輩の作品は価値があるけど、それはちゃんとしたルートを通して画商が価値をつけて売らなきゃ売れない。お前が盗品を売買するルートも知ってる訳ないし、処分できるはずがない。盗品であってもほしいって人がいるほどレアじゃないし、先輩の名前が売れてる訳じゃない」

今は、まだ。
これからはきっと盗んででも欲しいって人が、溢れるほど現れるだろうけど。

「だから、お前が求めるものはここにはない」

先輩の家と耕介さんの家が裕福だと知っていた。
やたらとそれを気にしていた。
家のローンが大変だとか、苦労しているだとか言っていた。

「誤解してるって。単に芸術品って興味があっただけ」
「とりあえず部屋を移ってくれ。ここはお前が入っていい部屋じゃない」

愛想笑いする和樹を促すと、しぶしぶ俺の部屋に戻る。
あの空間にこいつがいるだけで、先輩の作品が汚れていく気がする。
家を入れたことは、完全に失敗だった。

「なあ、守」

部屋に戻った和樹が、いまだ親しげな笑顔を浮かべながら話しかけてくる。
けれどこれ以上こいつのこんな気持ちの悪い態度は見ていたくない。

「お前が必要なのは、耕介さんや先輩のコネかなんか?それとも俺があの二人から金を引き出してお前らに貢ぐこと?どっち?」
「おい、守、何言って」
「俺はお前を信用していない。お前を信じる理由はない。そもそも、お前と仲良くするつもりなんて全くない」

ああ、最初に、こう言っておくべきだった。
そうしたら、あんな思いをせずにすんだ。
皆に迷惑をかけることはなかった。
例え和樹が近づいた理由が違ったとしても、どうでもいい。
俺はこいつを受け入れることは、一切ない。

「俺に、お前たち家族は、必要ない。俺はお前たちの家族じゃない」
「………」

接触するのは、控えて欲しい。
お前なんて、俺の家のお情けで生きている家畜。

「全部全部、母さんとお前が言ったことだよ、和樹。俺もそう思う」

だからもう、俺はお前たちに近づきたくない。
和樹は少しだけ不快気に眉を顰めて、それでもまだ猫なで声を出す。

「だから、まだ根に持ってるのかよ。あの頃のことなんて忘れろよ。今は皆、お前ともう一度家族になりたい……」
「まさか本当に金のためとか、そんな下らない理由で、あんなに蔑んでいた俺に愛想笑いをするとは思わなかった。想像もつかなかった。お前がそんなにプライドないなんて知らなかった」

和樹の下らない言い訳を聞きたくないので、遮って嘲笑ってやる。
俺を散々乞食だのなんだの罵った男が、金のために俺に媚びへつらう姿は滑稽で楽しいが、度が過ぎれば醜悪で見苦しい。

「俺は血の繋がった両親にも見捨てられた生きている価値もないクズなんだろ?そんな奴に取り入るのって哀しくならない?」

俺が笑って言ってやると、和樹が鼻に皺を寄せた。
ああ、その顔は、なんて懐かしいんだろう。
そうだ、俺の知っている和樹は、よく俺を見て、こんな顔をしていた。

「………随分、生意気になったじゃねえか。相変わらずうじうじうじうじ執念深くて根暗なこと言いやがって。全然変わらないのな、お前」
「和樹もな。そういう態度の方が似合ってる」

そう、俺の顔を見て、汚物を見たように顔を顰めるのも、そんな低い声で罵るのも、猫撫で声で愛想笑いの和樹よりずっと身近なもの。
いっそ懐かしくて安心すらする。
和樹はすでに取り繕うのをやめたのか、嫌らしく鼻で笑って、人の神経を逆なでするような口調で話しかけてくる。

「本当に執念深いよな、お前。親に見捨てられてる可哀そうなお前に、せっかく俺が父さんと義母さんにとりなしてやろうとしてるのにさ」
「必要ない。俺は義父さんも母さんもいらない。勿論お前はもっといらない」
「よく言うよ。義父さんと母さんがお前に会いたいって言った時、涎垂らして飛び付きそうだった癖に。愛に会えるって言った時は泣きそうだったよな。お前家族いないもんなあ、惨めな奴」

胸がちりちりと、火であぶられるように疼く。
切り捨てようとしてもいまだに残った生乾きの傷跡が引っ掻かれては血を滲ませる。
それでも、和樹の言葉は俺の傷を抉るまでには至らない。

「そうかもな。正直に言えば、母さんに会える、妹がいるって知った時は嬉しかったし、期待したよ。今度こそ、俺のことを見てもらえるんじゃないかって」
「お前、義母さんに散々見捨てられて、それでもいじらしくいい子にしてたもんなあ。まあ、義母さんは俺の方が可愛かったんだけど」

ああ、そうだ。
母さんは自分の生活を守るために、お前ら親子に取り入ろうとして必死だった。
お前はそれをよく知っていて、母さんを振り回しては楽しんでいた。
急に現れた義母への反抗に俺を嬲り、そしていつしか手段は目的に変わった。

「そうだな。お前らが俺にしたことを後悔していて、謝ってくれたりして、それでまた和解できたらなって思ったよ」
「謝る?俺が?お前に?なんで?」

鼻で笑って、和樹が馬鹿にしたように吐き捨てる。
そう、俺は奴隷だから、お前らに何をされても文句は言えない。

「そうだな、お前は何も悪いことしてないもんな。奴隷扱いのものを壊そうとしただけ。それだけだ」
「お前が俺の家に住んでたことだっておこがましいんだよ。何調子乗ってんの?」
「うん。母さんははっきりと俺はいらないって言ってくれたし、お前も昔のことを何も気にしてない最低な奴だって、改めて分かった。未練をばっさり打ち切ってくれてありがとう。もう俺はお前たちに何一つ期待することはないし、家族とは思わないし、いらない」
「元々お前なんて家族じゃないし」

その言葉は、やっぱり胸に突き刺さった。
俺にはこいつらは一切必要ない。
それでも、ずっと焦がれていたのは、本当だ。

「………うん」

一回目を伏せて、小さく頷く。
そう、俺はこいつらの家族じゃない。
目を開いて、笑ってみせる。

「お前は赤の他人。だから、出てってくれる?傘は貸すよ。招かれざるとは言え、客だし、それぐらいはする。そして二度と来ないでくれ」
「………」
「ああ、後、耕介さんからも先輩からも、俺は金を引き出せる立場にはない。何を期待してるんだか知らないけど、無駄。時間がもったいなかったな」

俺の反抗を予想していなかったのか、和樹は不機嫌そうに舌打ちした。
けれどすぐに嫌らしい笑顔を取り戻し、俺を昔のように嘲笑う。

「お前、本当にオカマだったんだな。中学の頃からウリやってたの?よかったな、お前みたいな奴でも売れるものあったんだ。どんだけうまいの?ケツにいれられるってどんな感じ?体で金もらうってどんな気分?」

昔だったら、傷ついたかもしれない。
何一つ価値がない俺は、貶められても何も言えなかった。

「超気持ちいいよ。最高。俺結構うまいらしいし、先輩はとっても高く買ってくれてる。俺のこの体には、それほどに価値があるみたい。お前にはなくて残念だな」

でも、その通りですよね、先輩。
こんなの、本当のことです。
それに俺は、あなたを引き留め執着させる、俺の体を誇らしくも思うんです。
あなたの作品と引き換えにできるなら、俺も捨てたもんじゃないでしょう。

「………このオカマ野郎」
「うん、その通り」

穏やかな気持ちで頷くと、和樹は笑顔を捨てて眉を吊り上げた。
ゴキブリでも見るように俺を見て、吐き捨てるように忌々しく俺をなじる。

「昔っからほんっとムカつくんだよ、その偉そうな態度で人のこと馬鹿にしやがって。いい子ぶりっこで、周りの同情買おうとして、苛められても我慢する健気な僕って態度が本当に気持ち悪かった。まあ、お前が我慢していい子にしても、義父さんも母さんも、お前のことなんて全く見てなかったけどな。学校でも苛められて、暗くて存在している価値もない奴なのに、俺の義兄ヅラしてるとか、本当に心底キモイ」

そうか、そんな風に思っていたのか。
いい子ぶりっこ。
仕方ない、いい子じゃないと、俺は捨てられると思っていたのだから。
まあ、それも間違っていたのかもしれないけれど。

「お前、超邪魔だった。ていうか今も邪魔。なんでお前生きてるの?お前が死んでれば皆幸せだったのに。お前が死んで保険金でも下りれば、俺たちは幸せだったのにな」

本当に死すら、望まれていたのか。
お前が嫌いだったよ。
俺だって、お前が大嫌いだった。
でもいつか、笑いあえる日がくるんじゃないかと思ったことも、あったよ。
ああ、未練を一つ一つ断ち切ってくれて、母さんもお前もなんて優しいんだろうな。
これで心おきなくお前らを切り捨てられる。

「………だったらもう顔を合わせなきゃいいのに。その方がお互い幸せだろ」
「うるせーな、クズのオカマの癖に人に口ごたえしてんじゃねーよ。お前なんて家畜以下の価値しかないくせに」
「………」
「俺に殴られても、父さんにも義母さんにも見て見ぬ振りされて、誰にも助けてもらえないで、信じてもらえないで、優しい俺たちの同情で生きてたくせにな」
「………」

罵られても殴られても死にかけても、母さんは俺から目を逸らした。
俺の腫れあがった顔を見て、義父さんは不快そうに眉をしかめた。
俺が何かしたら、責められた。
何もしなくても、責められた。
俺はずっと、こいつらの奴隷だった。
俺は人として認められていなかった。
タダメシを食らう家畜で、ストレス解消用のサンドバッグだった。

ああ、駄目だ、こんな暗い感情に囚われるな。
昔を思い出すな。
もう、あの頃とは、違うんだから。

「………言いたいことはそれだけか?これ以上建設的な話し合い出来ないんだったら、帰れ。ここにいてもお前の得になることはない」
「だから、誰に向かって偉そうな口聞いての?俺の下僕のくせにさ」
「俺はお前の下僕じゃない。俺はお前たちの奴隷じゃない。搾取用の道具じゃない。俺は、大切な人達がいる。今の生活がとても満ち足りている。お前たちの顔色を伺って生きるしかなかった頃とは違う。もう、俺にお前たちは必要ない」

そう、俺には頼れる保護者達がいる。
優しい温かい友人達がいる。
圧倒的なまでに俺を惹きつけて従属させる人がいる。

「お前が何を言おうと、俺にはなんの影響もない。何も、感じない」

だから、家族は、もういらない。
そう言い放つと、和樹は顔を真っ赤にした。
怒り、という題名をつけて額縁で飾りたくなるぐらい、真っ直ぐなまでの感情の発露だった。

「ああ、うぜえ!お前本当にうぜえよ!」

そして和樹は俺に背を向けて、手を振りあげた。
その先にある物を見て、頭が真っ白になる。

「和樹!」

けれど手が届く前に、和樹はそれをなしていた。
がしゃんと大きな音を立ち、俺は悲鳴をあげた。

「ああっ!」
「邪魔くせえな!こんな汚ねえ落書き、後生大事に飾ってんじゃねえよ!」
「やめろ!」

倒して、踏みつけにされた、先輩の絵。
先輩らしくて、先輩らしくない、それでも俺の心を揺さぶって振り回す、大切な絵。
それが、和樹の足に、踏みにじられている。

「ふ、ざけんな!」
「触るんじゃねえよ!」

その腕をとって引き離そうとするが、ガリガリの俺は簡単に振り払われた。
そのまま腹を蹴りつけられ後ろに吹っ飛び、机に背中を打ちつける。
ガタガタと、机の上にあったものが落ちてくる。

「………くっ」

和樹が、俺の焦りを見て、その絵が俺の大切なものだと分かったのだろう。
こいつは昔から俺の大事なものを見つけるのが、とてもうまかった。
哄笑しながら、絵を何度も何度も踏みつける。

「あっはは!そういえばあの時も、お前の絵を破ったっけ。あの下手くそな絵!お前泣いて俺に歯向かってきたよな。でも、義母さんにお前が止められて、怒られてさ。あの時、本当に面白かったよな。な、楽しかったよな、義兄さん?」

破られたスケッチブック。
耕介さんが初めて会った時にくれた、俺の宝物。
大事に大事に隠してあった、俺の心の全て。
暗く冷たい家の中で、俺を支えてきてくれた思い出。
それを全て、破り捨てられた。

「お前がいた頃、本当に面白かったぜ。殴っても誰にも何も言われない豚なんて、そうは手に入らないだろ?」
「………」

そうか、こいつがいるからいけないんだ。
こいつが全て、俺の大事なものを取って行くんだ。
こいつがいる限り、俺は大切なものを失い続ける。
こいつがいるから、いけないんだ。

優しい母さんも、大切な思い出も、大事な宝物も。
全部全部、こいつが奪っていった。
こいつがいるから、奪われる。
これからも、こいつがいたら、奪われる?
じゃあ、どうしたらいいんだ。
安心できない。
こいつがいる限り、俺は安心できない。

「………」

机から落ちてきたものが、俺の周りに散らばっている。
スケッチをしようと用意していたスケッチブックに鉛筆、そして鉛筆を削っていた小刀。

「………ああ、そっか」

小刀を手にしっかりと握りしめる。
目の前には笑いながら俺を罵って、先輩の絵を踏みにじり、飾ってあった先輩の作品を床に叩きつける義弟の姿。
なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

「なら、いなくなればいいんだ」」

もう、いらない。
和樹は、もういらない。

いらないんだ。


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