立ち上がったら打ちつけた背中が痛んだが、気にせずそのまま和樹の元へと向かう。
しかし気配に気づかれたのか、小刀は和樹に届くことはなかった。
すんでのところで、俺の手を振り払う。

「な、にすんだよ!」

そのままもう一度腹を蹴られた。
一瞬肺が圧迫されて、呼吸が止まる。

「………く、はっ」

けれど痛みを気にしてる余裕もなく、もう一度小刀を振りかざす。
今度は体をかばった和樹の腕の皮膚を切り裂くことは出来た。

「つっ、ふざけんな!」
「ねえ、和樹、いらない。お前、いらないよ。どうして、お前いるの。お前、いらない」

何度も何度も切りつけるが、和樹が逃げるせいで、中々当たらない。
もっとちゃんと、運動しておけばよかった。
そうしたらこんなに手こずることはなかっただろうに。
どうして、こいつは抵抗するんだろう。
意味が分からない。
だってこいつは、いらないのに。

「馬鹿じゃねえの!いらないのは、お前なんだよ!」
「お前が、いらない」

いらない、和樹はいらない。
いらないのは、和樹だ。

「そうやって、いっつもいっつも、自分が被害者ってツラしやがって!」
「消えてよ、和樹」

もう一度小刀で、今度は顔を狙う。
するとようやく顔をかばった和樹の手の平の皮膚を裂くことが出来た。
こいつでも、流れる血は赤いんだな。
和樹は、歯ぎしりして、呻くように吐き捨てる。

「母さんの部屋を取ったのも、学校でお前と比べられるのも、物を譲らされるのも、全部全部、ムカついたんだよ!少しイジメたらうじうじして被害者アピールしやがって!いつだってお前はいい子なのかよ!」

睨みつける和樹の目も、赤い。
その憎しみに満ちた目を見て、ひどく、苦い思いが胸を突き上げた。
なぜだか分からないその感情に、一瞬だけ手が止まってしまう。

「本当にウザいんだよ!お前が消えろよ!」
「ぐ、かはっ」

もう一度みぞおちを蹴りあげられて、踏ん張れなくて倒れこむ。
背中と腹と、腕とがじくじくと痛む。
衝撃で手放してしまった小さな刃物が、古い畳の上をくるくる回って滑っていくのがスローモーションで見えた。

「つっ、ふざけんな!死ね!消えろよ、消えろ!」

腹にのしかかられて、顔を殴り付けられる。
口の中に、鉄の味が広がった。
鼻がつんとして、鼻血が出たのが分かる。
ああ、懐かしい痛みと、味。
あの頃、いつだって傍にあった痛みと匂いと味だ。

「………っ、かず、き、お前が、消えろ、よっ!」

俺も和樹の腕に爪を立てて、その皮膚を抉り取る。
すると俺の顔を殴りつけていた大きな手は、俺の首に回る。

「ぐっ、く」

喉に指が食い込み、気道が塞がれ酸素が供給出来ない。
その手に更に爪を立てるが、びくともしない。
うまく処理できない唾液が血と共に口いっぱいに広がり、更に気道を防ぐ。

嫌だ嫌だ嫌だ。
もうこいつに好きにされるのは嫌だ。
負けるのは嫌だ。
絶対に、こいつにこれ以上奪われるのは、ごめんだ。

「ぐ、ぅ、う」

けれど酸素が回らない脳は白みがかって、何も考えられなくなっていく。
鼻も鉄の匂いで詰まって、苦しい。
咳き込みたくてもえづきたくても、何もできない。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
もう、壊されるのは嫌だ。
嫌だ。

「かはっ」

いきなり喉の圧迫が消えて、空気が肺に急激に供給される。
気道に入った唾液にむせて、咳き込む。

「ごほっ、かはっ、かは、げほ、けほ、けほ!」

血が混じった唾液を吐きながら苦しくて体を横にすると、霞がかった視界の中に転がった小刀が見えた。
急いでそれに手を伸ばして、しっかりと握りしめる。
もう、奪われるのはごめんなんだ。

「か、ずきっ」

ふらつく体を半分起こして、和樹の姿を探すと、義弟はなぜか畳に倒れ込んでいた。
ちょうどいい、今なら、あいつも逃げられない。

「うあっ」

けれど手首に痛みを感じて、手を思わず開いてしまう。
小刀をもう一度取り落としてしまった。
背中に衝撃を感じて、俺の体はもう一度畳の上に倒れ込む。

「鷹、それ持ってろ」

聞こえてきたのは、今は誰よりも傍にいる人の声。
姿を探そうと頭を上げるが、腕を背中にひねりあげられ痛みに呻く。
そのまま、畳に突っ伏すようにして、押さえつけられる。

「ごめん、痛かった?」

それは、最近親しくなった、大事な友人の声。
俺の上に乗っているのは、鷹矢なのか。

「っつ、た、かや?」
「うん。落ち着け、守。怪我、大丈夫か?」

そういえば、先輩が鷹矢を連れて来てくれるって、言ってたっけ。
二人が、帰ってきたのか。
それなら、早く夕飯を作らなきゃ。
さっさと、やるべきことを、やらなきゃ。
なんとか自由になる首を持ち上げて前を見ると、先輩が和樹を立ち上がらせ殴りつけていた。
ああ、駄目だ。

「鷹矢、放して」
「あ、痛い?」
「あいつ、消さなきゃ、放して、鷹矢」
「駄目だよ!落ち着けって!」
「だって、もう、嫌だ。もう、全部、失うのは、嫌だ」
「いいから、ちょっと落ち着け!」
「ねえ、鷹矢、放して」
「駄目だってば!」

鷹矢が放してくれなくて、苛々してくる。
どうして、言うことを聞いてくれないんだ。
もう嫌なのに。
さっさとあいつを消したいのに。
それから、早く二人のご飯を作ろう。

「ぐはっ、な、こいつ、ふざけんな!」

和樹は先輩に反撃しようとしているが、軽くいなされてまた顔を殴りつけられた。
顔に、腹に、肩に、先輩が的確に攻撃をくらわせている。
赤いものが飛び散って、それが血だと気付いた。

「ちょ、峰兄、やりすぎっ」
「先輩、やめてください!」

鷹矢が止めようとする前に、俺も焦って先輩を止める。
先輩が和樹の襟首を抑えつけ、もう一発入れようとしていた手を止める。
和樹の顔からも鼻血なんかが出てるから和樹の血かと思ったが、どうやらそれは先輩の手から溢れているらしい。
先輩の手に、傷が、あるのだ。

「先輩、手を怪我します、やめてください。手、大事にして。そんな奴触らないでください」
「え、そっち!?」
「そうだな」

鷹矢が驚いたような声を上げるが、先輩は素直に頷いて手を止めてくれた。
よかった、あんな奴を触って、先輩の手が汚れたら大変だ。
先輩の手は、俺のものなんだから。
その手を傷つけたのは俺のせいだと思うと、けれどいっそ消えたくなった。

「さっさと出てけ」

手で殴るのはやめてくれて腹を蹴りあげ、廊下に放り出す。
和樹は廊下に倒れ込みながら、腫れあがった顔に悔しそうな表情を浮かべ先輩を睨みつける。

「………っ」
「救急車で運ばせるか?」

先輩は特に気負うことなくそんな和樹を見下ろして、馬鹿にしたように鼻で笑った。
やっぱり先輩は、強いな。
俺もそんな風に強くなりたかった。
何もかもを手に入れたいとは思わない。
だけど、何も失わないぐらい、強くなりたかった。

「こんなの、犯罪だろっ」
「不法侵入に器物破損。ああ、窃盗もか?後、家人に対する暴行だな。強盗傷害?やり合うなら別に構わないが」
「………お前が、全部、悪いんだからな!」

和樹が俺を睨みつけて、呪うように吐き捨てる。

「さっさと行け」

けれど先輩が一歩近づくと、慌てて立ち上がって階段を駆け下りて行った。
いっつも偉そうにしていた和樹のその逃げっぷりは滑稽で少し笑ってしまいそうだった。
ぼんやりとその姿を見ていると、先輩が俺の方に視線を向ける。

「おい、人の家を事件現場にするな」
「………」

呆れたように見下ろす先輩に、申し訳なさが一杯になる。
哀しくて、苦しくて、先輩の顔を、見ることが出来ない。
畳に這いつくばったまま、顔を伏せる。

「………すいません、ごめんなさい、先輩、ごめんなさい」
「何がだ?」
「先輩の、絵、守れなかった。俺、守れなかったです。また、守れなかったんです。それに、先輩の手、傷つけちゃった。先輩の手。先輩の、手なのに」

また、あいつに奪われてしまった。
また、俺は大切なものを失った。
大事な大切な貴重な、先輩の絵を、あんな奴に、奪われてしまった。
そして自分で傷つけ失いそうになった。
俺はどこまでも、駄目な奴だ。

「守」

促されて、項垂れて畳に伏せていた顔を恐る恐る上げる。
先輩は真面目な顔でこちらを見ていた。
怒られるの、だろうか。

「こっちに来い。鷹、放していい」
「あ、う、うん」

背中から重みが消えて、腕が解放される。
捻りあげられていた腕は少し痺れていた。
よろよろと体を起こすが、先輩に近付くことも顔を見ることも出来ずにその場に立ちすくむ。

「よくやったな」

けれど聞こえてきた声に驚いて、咄嗟に顔を上げる。
先輩は俺の二歩先で、楽しそうに笑っていた。
呆然とする俺に、真っ赤に染まった手を差し伸べる。
ぽたりと、一雫畳に血が落ちて、丸い染みを作る。
その手の平にざっくりと傷がついており、恐らく俺があの小刀でつけたのだ。
それを見てまた消えたくなったが、先輩は気にせず笑う。

「守ろうとしたんだろ?偉いな、よくやった」

昔、和樹に物を壊された時、母さんに怒られた。
あんたがいけないんだと何度も言われた。
絵を破られた時も、昔父さんから貰ったおもちゃを壊された時も、耕介さんに貰った大事なスケッチブックをめちゃくちゃにされた時も、お前が悪いのだと言われた。
俺が悪い子だから、いけないのだと、言われた。

「俺、偉い、ですか?」
「ああ、いい子だ」
「せんぱ、い」
「いい子だ。それでいい。奪われるなら戦え」

抗っていいですか。
戦っていいですか。
俺は諦めなくても、いいですか。

「先輩、でも、先輩の手」
「これはお前のものだ。お前が傷つけお前が守る」

先輩が一歩近づいて、俺の頬を触れる。
ぬるりと濡れた感触に、血の匂いがいっぱいに広がる。
俺の鼻血なんかと混じって、鉄の匂いで眩暈がする。
先輩の手、先輩の血、先輩の熱さ。
俺の血、俺の熱、俺の心。

「せんぱい」
「ほら、来い」
「先輩っ」

先輩の胸に飛びつくと、愛しい腕が俺を抱き上げきつく抱きしめてくれる。
すぐにもイってしまいそうな快感と、泣きたくなるぐらいの安心感。
顔も腹も背中も喉も痛むが、そんなの気にならないぐらいに、胸がいっぱいになる。

「せんぱ、せんぱいっ、先輩っ、先輩!」
「よしよし」
「俺、まもりたかった。まもりたかった、んです」
「分かってる」

頭を撫でてくれる手に、涙が滲んでくる。
たくましい背中に手を回ししがみつきながら、必死で訴える。

「俺、嫌でした。我慢するの、嫌でした。俺の、大事なの、あいつに消されるの、嫌でした。だから、頑張りました。もう、奪われたくなかったんです」
「これからは徹底抗戦しろ」
「でも、和樹に、逆らうと、怒られたんです。駄目な子って、言われた。俺、嫌だったのにっ!嫌だったのに!!」
「嫌だったな」

ああ、昔、こんな風に耕介さんに慰められたっけ。
耕介さんは、もう頑張らなくていいって言ってくれた。
疲れ果てた俺を癒し、守ってくれた。

「俺、俺、スケッチブック、大事だったのに!俺の、大事だったのに!先輩の絵、俺のなのに!俺の大事なものだったのに!だから、もう我慢しなかったんです!俺のものを奪う奴なら、いらないんです!もういらないっ!」
「それでいい。二度と奪われないようにしろ」
「………うんっ」

そして先輩は今度は、俺に戦っていいって教えてくれた。
諦めなくていいって、最後まで抗えって、教えてくれる。

「俺、悪い子でも、いいですか?」
「俺が、今のお前をいい子って言ってるんだ。俺の言うことが聞けないのか?」

見下ろすと先輩はいつものように性格の悪そうな笑顔を浮かべていた。
俺は勢いよく頭を横に振る。
俺は先輩のものだ。
先輩が言うなら、それが絶対。
先輩が俺のこといい子だと言ってくれるなら、俺はいい子だ。

「お前は、誰のものだ、守」
「俺は、先輩の、ものです」

先輩は満足げに頷くと、俺の鼻先にキスをしてくれた。
久々に触れた先輩の唇の感触に、涙がもっと溢れてくる。
耕介さんが、休んでいいと教えてくれた。
先輩が、戦っていいと教えてくれた。

「ま、やり方は考えろ」
「は、い」
「お前が塀の向こうにいったら、俺の作品が売れなくなるだろうが」

その言葉に、もう我慢が出来なかった。
涙腺が壊れたように、涙が溢れてくる。。
胸の熱い想いが、口から叫び声になって溢れてくる。

「う、ううう、あああ、あああっ、う、ひ、く、あ、ああああ」

先輩の絵を初めて見た時のような、感情の奔流。
自分の体も、自分の頭も、自分のものではないように、ただ泣き叫ぶことしかできない。
ただ、俺の体を抱き上げる人の体にしがみつくことしかできない。
この熱を、この匂いを、この体を、感じていることだけが、今俺の出来る全て。
そしてそれが、俺が考えればいい、全て。
他のことは、何も考えなくてもいい。

「ひぃっく、あ、ああ、せんぱ、い、あ、うう、ひ、あ、うっ、うううぅ」

先輩が恐らく俺の涙と鼻血と先輩の血で汚れている顔をぺろりと舐める。
それから小さく笑って、俺を抱き上げたまま床に倒れていた絵とイーゼルを器用に直す。

「せん、ぱ、い?」

踏みにじられて破れぐちゃぐちゃになった絵具を見て、哀しい気持ちを和樹への怒りがこみ上げてくる。
けれど、先輩が、真っ赤な手で俺の血まみれの顔を拭い、そのままその手をキャンパスに滑らせた。
赤黒い血が、破れたその絵に、彩りを加える。
それは、無造作に色を重ねただけなのに、まるで計算されたかのように美しく、絵に新たな生命を吹き込む。
俺の薄汚い血と、先輩の綺麗な血が、絵に鮮やかな印象を添える。

「………あ」
「これは、お前の絵だ。お前のためだけの絵だ。血が乾くまでの一瞬の間だけだけどな」

先輩が振り返って、にやりと笑う。
俺の血と先輩の血で出来た、先輩の絵。
それはなんて、美しいのだろう。
狂おしいほどに切なくて、胸が痛くなる、美しい色の集まり。

「せんぱ、い」
「お前は、俺のものだ。そしてこの手とこの絵はお前のものだ」

その言葉に、俺はまた先輩の首にしがみつき、泣き叫ぶことしかできなかった。


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