10/02/07 先導者

久しぶりに聡さんの研究室に顔を出した。
家に置いてある本を持ってきてくれと言われた。
この前、立て突くようなことを言ってしまったので、ちょっと顔を合わせ辛いと思っていたが、聡さんはいつも通りで安心した。
聡さんはこんなことで怒る人ではない。
とんだ取り越し苦労だ。

本や不思議なもので溢れかえるこの研究室は、とても落ち着く場所だった。
聡さんの淹れてくれる珈琲は、彼の喫茶店と同じぐらいにおいしい。

聡さんはお薦めの本や最新の学会での発表の話、僕の興味のありそうな話をしてくれる。
忙しいのに、いつだって僕の時間を割いてくれて、狭かった僕の世界を広げてくれた。
数学も登山も音楽も料理も、全ては聡さんに教わった。
今の僕を作り上げたのは、聡さんだ。

そういえば、この研究室に最初に来たのはいつだっただろう。
聡さんが僕を気にかけるようになったのは、僕が虫垂炎にかかった時に一人で病院に行ってしまってからだ。
僕の常識の欠如に気付いた両親が、心配して僕の相手をするように聡さんに頼んだ。
聡さんは暇を見ては僕の相手をしてくれた。
聡さんが見せてくれる世界はいつだって広くて、とても楽しかった。

たとえ、彼の言うことが納得出来なくても、反発してしまったとしても、僕は聡さんをずっと尊敬するし、好きだと思う。
誰よりも僕を、大事にしてくれた人だ。

聡さんに礼を言った。
聡さんは突然のことに驚いていた。
どうしたのかと聞いてきたので、僕は聡さんに感謝しているし、敬愛していることを伝えた。

まるで別れの言葉のようだと言われた。

10/02/08 友人

喫茶店で、彼がよく話している横井さんに会った。
柔らかそうな茶色の髪をした、穏やかなかわいい人だった。
彼は、自慢げに横井さんは料理もお菓子作りもうまいし、なんでも出来るのだと紹介してくれた。
横井さんの友人だという八代さんもきりっとした顔立ちの活発そうな人だった。
彼女は料理が下手だと正直に紹介して、怒られていた。
僕の知らない、彼の顔。
はしゃぐ彼を微笑ましく思いながら、また胸やけのように胃がもたれる不快感を覚えた。

彼がバイトで忙しいので、彼女たちと普段の彼について話した。
彼はやっぱり生真面目で不器用で、でも素直でいい人だ、と話していた。
僕の知らない学校での彼の話を聞くのは楽しかった。
とても親しげに話す横井さんからは、彼への好意が見え隠れしていた。
でも、とても泣き虫ですよね、と言われて、複雑な気分になった。

彼のそういう一面を知っているのは、自分だけだと思っていたから。
僕よりも、彼女たちのほうが、彼をよく知っているのかもしれない。
それは当然のことだ。
僕が知っている彼なんて、ほんの一面に過ぎないのだから。
人間を、全て知り尽くすことなんてできないし、彼と一緒にいる時間は彼女たちの方が多いだろう。

彼の話を聞くのはとても楽しかった。
彼女たちはとてもいい人で、彼の側に彼女たちのような人がいてくれて、とても嬉しい。
それは確かだ。
けれど、やはり不快感が胸をよぎった。

10/02/09 嫉妬

瀬古に、昨日の感情の動きを相談してみた。
最近、聡さんの代わりに自分の感情を瀬古に話すことが多い気がする。
なぜなのかと考えて、瀬古が厳しいからだと思い至った。
聡さんは僕を全肯定するけれど、瀬古は僕を否定する。
僕の考えを否定し、僕を否定する人間は沢山いたけれど、瀬古はそれだけではない。
しっかりと話を聞いてくれて、自分の考えを述べてくれる。
それが、とても爽快に感じるからだ。
全肯定されるのは心地よいが、それは必ずしも正しくはない。

瀬古は、それはただの嫉妬だろう、と言った。
恋人に近付く女が許せないのは、当然だろうと言われた。
そうなのだろうか。
これは、嫉妬なのだろうか。
嫉妬というのは、これもまた初めて抱いた感情かもしれない。
誰かを羨ましいと思ったことも、妬ましいと思ったこともなかった。
ああ、でも確かに僕は彼女たちを羨ましいとも妬ましいとも思ったかもしれない。
彼とずっと一緒にいて僕の知らない彼を知っている彼女たちに、嫉妬した。
そうだったのか。
僕はなんて子供なのだろう。

僕が修行がたりないと言うと、嫉妬なんて誰でも抱くものだから否定する方がおかしいと言った。
そうなのだろうか。
誰かを妬むという気持ちは、いいものだとは思えない。

なにはともあれ、やはり瀬古との会話はとても有意義だ。
君が僕を嫌いでよかったと言うと、瀬古は嫌そうな顔をした。

10/02/10 適当

テスト期間中のため、瀬古たちと勉強会になった。
駅前のファミレスを目指していると、偶然彼とあった。
横井さんと二人でいた。
彼と横井さんの並んだ姿はとても似合いの恋人同士のようだった。
彼はとても楽しそうだった。

彼と別れてから、気分が悪くなった。
胸がムカムカして、消化不良のように感じた。

瀬古が顔色が悪いが大丈夫か、と聞かれた。
食当たりかもしれない、胸が気持ち悪い、と答えた。
お前は本当に馬鹿だ、と言われた。
我慢は美徳でもなんでもない、とそうも言われた。

意味が分からなかったが、瀬古のいうことだから意味があるのだろう。
ジュースをご馳走してもらった。
冷たい炭酸水に、少しだけ気分がよくなった。

10/02/11  恐怖

休日だったため、午前中はジョギングや筋トレ、部屋の掃除を行った。
千秋が、彼の喫茶店に行ったと言っていた。
とてもいい人で、ケーキをおごってもらったと言った。
知らなかったが、お返しをしなくてはいけない。
友達を大事にしろ、と言われた。
彼と付き合うようになって、僕の表情が分かりやすくなったとも言われた。
僕の変化はよく言われる。
彼と一緒にいるようになって、僕はいい方向に変われているのだろうか。

午後は彼の家で勉強をした。
彼は昼食にグラタンを作ってくれた。
本当にみるみるうちに上達している。
努力家の彼のその生真面目な性格が、とても好ましい。
ホワイトソースの作り方は横井さんに習ったということだった。
彼の口から彼女の名前が出るのはやはり少し気分が悪い。
これは、嫉妬なのだろうか。

彼に色々聞かれた。
人を好きになったことはないか。
嫌いになったことはないのか。
キスとかをしたくならないのか。

嫌いだと思った人間はいない。
好きな人は沢山いる。
彼に触れたくなる衝動は、感じたことがある。
だが、衝動のままに、彼に触れてしまったら彼に嫌われるのではないだろうか。
だから、僕からキスはしたくない。
彼に触れるのは怖い。

10/02/12 瀬古

テストの最終日だったので、学校は早めに終わった。
瀬古に誘われ、何人かで遊びに出た。

森本になんで嫌いな人間とよくいるのかと聞かれた。
僕は別に瀬古は嫌いじゃない、好ましい人間だと思っていると伝えた。
瀬古がとても嫌そうな顔をした。
彼は整った顔をしているので、そんな顔をしていてさえ魅力的だ。
森本が俺はどう、と聞いてきた。
森本も嫌いではない、少々軽くて調子のいいところがあるが、そういうところは逆に好ましくも感じると伝えた。

深山ってやっぱり変な奴だと言われた。
それは何度も言われてきた言葉なので、ただ頷いた。
本当に変な奴だ、と瀬古が続けて言った。
しかしその後に、でも、中々面白い、と付け加えられた。

どういう意図を持って言われたか分からないが、面白いと言われるのは悪い気分ではない。

10/02/13 兄妹

たまっていた本を読んで、料理を作って、今日はクイーンの問題に挑戦してみた。
数々の人が挑戦してきて積み上げられた歴史を思うだけでもとても感動する。

冬兄さんが久々に家に帰ってきて、父と母も集まった。
祖母は冬兄さんが帰ってきてとても嬉しそうだった。
子供扱いされることに、冬兄さんは少々困っていたようだ。
明るい冬兄さんと、千秋がいると両親もとても楽しそうだ。
食卓が明るくなるのは、いいことだと思う。
僕には、こんな風に両親や祖母や兄妹を楽しませることはできない。

家族といる時間は楽しいと思う。
けれど、やっぱり僕一人、外れた存在なのだな、と思う。




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