刻み込まれた痕跡が、俺の体を熱くする。
繰り返される想い出に、ただ幸福を感じてる。
あなたが笑顔をくれるたび、一層あなたに惹かれていく。

だから教えて、お願いだから。
あなたを忘れる、その術を。



***




季節が春に変わる頃、緑と兄さんが付き合い始めた。
ずっと、覚悟はしていたはずだ。
何度も何度も二人が並んでいる姿を想像しては、いつか来る痛みが少しでも痛くないようにと祈った。
兄さんは緑のもので、兄さんの手は緑のためにある、とそう知っていた。

だからもう、覚悟していたはずなのに。
笑って、二人を祝福しようと誓っていたのに。

それなのに、想像していた以上に苦しくて、哀しくて、辛い。
身を引き裂かれるような、痛みと、寂しさ。
兄さんが、緑のものになってしまう。
もう、絶対にこの手に届かない。
俺に笑いかけてくれるのも、俺を撫でてくれるその手も、全てもう、なくなってしまう。

本当に、自分が愚か過ぎて笑ってしまう。
たとえ緑がいなくとも、俺が兄さんとずっと一緒にいることはありえない。
従兄弟という血のつながりだけで、見てもらえているだけなのに。

諦めた、はずだろう。
もう、ずっと前に諦めていたはずだ。
大事なものをもらって、綺麗な過去を守るため、俺は、諦めたはずなのに。
いつまでも未練がましく、この想いを断ち切れない。

どこにいったら、あなたと緑を見ないですむ。
いつになったら、あなたを見てこの胸は痛まなくなる。
どうしたら、あなたを諦められる。

分からない分からない分からない。
苦しい。

それでも、この想いは気付かれてはいけない。
仕舞い込んで、なかったことにしなければならない。
兄さんに知られたら、最後に残った大切な思い出までも、なくなってしまう。

『あんたの汚い思いを省吾に知られたら、見捨てられちゃうわね。いい、黙っててあげるから省吾に絶対近づかないで』

緑の笑い声が脳裏に蘇る。
ことあるごとに突きつけられた、恐ろしい現実。

寂しくて、苦しくて、哀しくてどうしようもできない。
この感情はなんなのだろう。
兄さんへ向ける、この執着心は。
幼い頃の尊敬と親愛をそのままに、どうしてこんなにも強く歪んでしまったのだろう。

優しい感情さえあれば、それでよかったのに。
あの人を、兄のようにただ慕えれば、よかったのに。
弟として、緑とあの人を祝福できれば、よかったのに。

どこで変わってしまった。
どこで歪んでしまった。
どこで間違ってしまった。

クローゼットの奥にしまいこまれた、グリーンのシャツを取り出す。
残された、わずかな俺の宝物。
あの時の兄さんの言葉、兄さんの抱擁、そして、このシャツ。
あの夜、兄さんを諦めたあの夜に、意地汚く掠め取った想いのよすが。

もう兄さんの温もりも匂いもないけれど、そのシャツを抱きしめる。
あの時の、兄さんの抱擁を思い出すように。

緑の隣で笑う兄さん。
少し薄いその唇で、緑に触れる。
あの唇も、あの笑顔も、あの指も手も、すべて緑のものだ。

あの唇で、指を吸われた時のことを、俺は今も鮮明に覚えている。
刻み込まれた熱さを、忘れることができない。
兄さんの濡れた舌が、傷口をなぞる。
思い出して、あの時のようにそっと自分の唇で自らの指に触れる。

感触が蘇り、体の芯にじんわりとしたしびれが走る。
腰の辺りに熱を感じて、自分の薄汚い欲望を知る。

汚い汚い汚い。
なんで、ただ想っているだけじゃいられないんだ。
こんな体、いらない。
兄さんをどす黒い欲望で汚すだけ。

俺は頭をふってうずくまり、覚えかけた熱を忘れようとする。
こんな気持ちを抱くだけで、兄さんに対する裏切りだ。

諦めろ。
こんな想いはさっさと捨て去れ。
お前には身分不相応だ、想うだけでもおこがましい。

「睦月?」
「あ、わ!」

突然後ろからかけられた声に、俺は文字通り飛び上がった。
それは、俺の頭をいっぱいにしていた人のものだったから。
突然声を上げた俺に、かけたほうが驚いたようだった。

「ど、どうしたんだ?」
「な、なんでもない。何?なんだよ、いきなり。の、ノックぐらいしろよ」
「ノックしたんだけど、お前が返事しなかったんだろ」
「え、そうなの。わ、悪い。」

俺が焦りも手伝って抗議すると、兄さんは肩をすくめる。
自分のことで頭がいっぱいで、周りに気がまわらなかったらしい。
慌てすぎて自分の手の中にあるものを、しまうことを忘れていた。
兄さんは俺の宝物に気付き、首を傾げる。

「あれ、そのシャツ」
「え……」

記憶を探るように、眉根をよせて指で唇をなぞる。
俺は咄嗟にそれを隠そうとするが、今更だ。
もう、兄さんの記憶から消しでもしない限り、なかったことにはできない。

「なんか見覚えあるな。お前のだっけ?」
「あ、いや、その……」

素直に頷いておけばよかったと気付いたのは、そのすぐ後。
突発出来事に弱い俺は、誤魔化すこともできずにただうろたえる。
俺が何の言葉も見つけ出せずにいると、兄さんは思い出してしまったようだ。

「ん?あ、もしかして、俺のか?ああ、だから見覚えあったのか。お前にやったんだっけ?」
「う、うん……」

勘違いしてくれた兄さんにそう、答えるしかなかった。
俺にかけてくれたのをいいことに、そのまま掠め取っていたなんて、言えない。
俺の捨てきれない未練を表した、惨めな過去。

俺は話を断ち切るために、グリーンのシャツをクローゼットにしまいこむ。
そして話題を逸らすため、兄さんの目的を聞いた。
兄さんが俺に会いにくる用事なんて、ないはずだ。
ここには、緑に会いに来るんだから。

「に、兄さんはどうしたの?緑は?」
「緑はまだ帰ってないから、お前に相手してもらおうと思って」
「……俺は、勉強があるし」
「少しくらいいいだろ。教えてやるよ」

そう言ってクローゼットの前に突っ立っていた俺に、近づいてくる。
俺がどんな態度を取ろうと、邪険にしようと気にすることなく接してくれる。
近頃ではそれにたまらない苛立ちを感じる。
何も知らずに近づくこの人に、見当違いな怒りを覚える。

どうして、いつまでも俺に優しくする。
どうして、いつまでも俺に話しかける。
どうして、俺に忘れさせてくれない。

「………」
「……お前は、本当に色が白いな。緑より白いんじゃないか」

苛立って、腹が立って、いっそ殴りかかりたい。

それなのに、頬に触れられると、感情が高ぶって涙が出そうになる。
兄さんが傍にいるだけで、たまらなく嬉しい。
いっそ、嫌いになってしまえれば、いいのに。

「………どうせ男らしくない」
「でも、綺麗だな。俺は、好きだよ」
「綺麗なのは、緑だ。俺は男のくせに、ガリガリで白くて、情けない」

そう、綺麗なのは緑だ。
同じ顔立ちをしているのに、生命力に溢れて人の目を惹きつける。
男の癖にいつまでもガリガリで白くて貧相な俺と違って、緑は本当に綺麗だ。
たとえ俺と緑の性別が逆だったとしても、一緒だろう。
中身が違うだけで、まとう空気はこんなにも違う。

「確かに緑は、綺麗だな。最近本当に女らしくなったし」

昔から緑を誰かに褒められる時は複雑になる。
大嫌いだけれど、緑は俺がああなりたいというそのものだから。
綺麗で、快活で、華やかで周りから愛されて。
だから、緑を褒められると、悔しくて不快になると同時に、少しだけ卑屈に嬉しくなる。

そうだ、俺の片割れは、俺の理想は、素晴らしいだろう、と。

でもやはり兄さんの口から緑を褒める言葉がでるのは、辛い。
同じもので出来てるはずなのに、なんで俺は、緑じゃないんだろう。

「でも、お前の髪も、白い肌も、細い体も、全部睦月らしい、すごい綺麗だ」

けれど、兄さんはそう言って俺の髪に指を絡める。
大きく無骨な手が優しく撫でてくれて、顔が、体が熱くなる。
昔から兄さんは俺と緑、それぞれの個性を見てくれた。

緑と違って人見知りだからと言って、緑を見習えとは言わない。
緑と違って運動が苦手だからと言って、どうしてできないのかといわない。
緑よりも俺の方が勉強ができるからと言って、緑の努力を見ないことはしない。

だから、俺たちは兄さんが大好きだった。

「……それは、褒め言葉じゃない」
「そういや、そうか?」

はは、と笑って見せる兄さん。
嬉しいけれど、でもそれはフォローだと分かるから俺はかわいくなく冷たく返す。
この体の何もかもが、コンプレックスでしかない、忌々しいもの。

「でも俺は、とても綺麗だと思うし、好きだよ」
「……兄さん…」

急に低くなった声に、面食らう。
その言葉に、思わぬ真剣さが含まれていたから。

「………」

兄さんの目から笑いが消える。
怖くなるほど、まっすぐに見つめられる。
言葉はないまま、兄さんが俺に一歩近づく。
吐息が触れるほどの近さ。
なぜかその目を見ていると、言いようのない不安を覚え、俺はシャツの胸の辺りを掴む。
兄さんは何も言わない。
ただ、俺を見ている。

「に、いさ……」

耐えられなくなって、その名を呼ぼうとした瞬間。
開け放されたままだたドアから、澄んだ高い声が響いた。

「省吾!」

訳がわからないまま、張り詰めていた空気が緩む。
兄さんが、俺からそっと体を離す。
緑の声によって、いつもの穏やかな表情に戻っている。

大きくため息をついて、肩を撫で下ろした。
なんだったのだろう、今の空気は。
いつもと違って、変で怖かった兄さん。

「……おかえり、緑」
「なんでこんなところにいるの!」
「こんなところって、お前なあ……」
「いいから、早く緑の部屋に行こう!」

部屋に入ってくると、俺を一度睨みつけて兄さんの腕に絡みつく。
緑は少しでも俺と兄さんがいることを嫌う。
それに、俺は腹を立てたりはしない。
気持ちは、分からないでもない。

緑は兄さんの腕を引っ張って、俺の部屋から引きずり出そうとする。
兄さんは苦笑して緑を宥めながらそれについていく。
部屋から出て行く瞬間、緑が何か思いついたのか立ち止まる。
ちらりと俺に視線をやって、薄く笑った。

「あ、ねえ。省吾、キスして」
「ん?」

突然の緑の申し出に、面食らう兄さん。
そんな態度にしびれを切らして、再度甘えてねだる緑。

「キス!」
「はいはい」

ちゅ、とかわいらしく音をたてて緑のなめらかな頬にキスを落とす。
しかし緑は不満気に、そのつやつや光る口紅を塗った綺麗な唇を尖らせてもう一度ねだる。

「違う、口!」
「あのなあ……、今じゃなきゃだめか?」
「早く、今ここで!」

兄さんはもう一度退室を促すが、緑は頑として譲らない。
緑の我儘に慣れている兄さんは肩をすくめると、苦笑して唇に軽いキスをする。

「これでいいか?」
「うん」

満足気に頷くと、緑が兄さんの腕にぎゅっと捕まり胸を押し付ける。
そして得意げに俺に笑いかけた。

「さ、早くいこ、省吾」
「はいはい、お嬢様。悪いな睦月、邪魔した」

二人連れ立って、部屋を出て行く。
そして一人残された、俺。

そんなに見せ付けなくても、兄さんはお前のものだ。
お前は兄さんと一緒にいて、俺は、一人だ。
近づいたりしない、迷惑をかけたりしない。
けれど、俺の薄汚い想いすら許せない、潔癖な緑。

部屋の隅で立ち尽くしたまま、しばらくそこから動けなかった。



***




緑と付き合うようになって、兄さんは以前より家に来るようになった。
緑も一人暮らしの兄さんの家によく行っているようだ。
自分の感情に正直で無邪気なところを持つ緑は、周りの目を余り気にしたりはしない。
父さんや母さんがいるのに、リビングのソファで兄さんの膝に座り込む。

「ねえ、省吾、省吾は緑が好きよね?」
「ああ、好きだよ」
「省吾は緑のものでしょう?」

困ったように苦笑する兄さん。
父さんや母さんもそんな緑をたしなめながらも、微笑ましく見ている。
二人も、兄さんの両親も昔から兄さんと緑が結婚すれば、なんて冗談交じりに言っていた。
小さい頃から仲むつまじかった二人。
なんて微笑ましい、温かい光景。

ただ俺だけ、二人を祝福できない。
俺だけが、居場所がない。
この辛いだけの空間にいられなくて、俺は音をたてずに逃げ出した。

「う……」

部屋に一人になって電気もつけないまま座り込むと、涙が知らずに溢れて来る。
情けない。
諦めると誓って、何年もたつのに、なんて情けない。
兄さんと付き合うようになって、ますます自分のものだと所有権を見せ付ける緑。
家にいるのも、ただ辛い。

苦しい苦しい苦しい。
二人がいる限り、俺は緑を羨み、兄さんに惹かれつづける。
自分の惨めさを、思い知る。
もう、頼むから二人とも、俺の目の前から消えてくれ。

俺の嗚咽が響く部屋に、カチャリと小さな音が割ってはいる。
慌てて後ろを振り返ると、そこには誰よりも会いたくない人の姿。
もう、顔も見たくない人の姿。

「睦月」
「に、にいさ、ん!?」

どうして、この人はいつも都合の悪いときにくるのだろう。
兄さんの温もりを欲する時に来てしまうんだろう。
お願いだから、俺に近づかないで。

「なんだ、また泣いてるのか?」
「ちがう………」

暗い部屋だから顔は見えないはずだ。
それに期待して、兄さんから顔をそらず。
声が少しだけ上擦ってしまうのは、どうしようもないけれど。

「………緑は?」
「ちょっと、やらかした」

気性の激しい緑に、兄さんはたまに手を焼く。
緑は、常に自分が場の中心で、兄さんの関心を一身に受けていないと気がすまない。
付き合い始めるようになって、一層兄さんの言葉を、手を、態度を求める。
けれどその我儘さえ愛らしいのだから、緑はずるい。

ただいつものことだから、少しだけ兄さんも疲れるのだろう。
強すぎる束縛から、逃げてきたようだ。
気まずい顔をして、話をそらすように部屋に入り込んでくる。

「で、お前はなんで泣いてるんだ?」
「……なんでもない」
「なんでもないわけ、ないだろう?」

気遣わしげに、俺の顔を覗き込む。
大きく無骨な手で、頬に触れる。

触れられて、思った。
ああ、部屋に鍵をかけよう。
俺はきっと期待しているから。
こんな風に、兄さんが俺を慰めてくれるのを、待ってしまっているから。

「睦月」

いつかの時のように、兄さんが俺を抱きしめる。
まだまだ幼かったあの時より、俺はずっと成長した。
兄さんに触れられる時に感じる、この欲望も、執着も、もう理解している。
手足も伸びて、ずっと貧相なままでも、どこまでも男の体。
こんな子供のように、慰められるのは、ふさわしくない。

懐かしい匂いに包まれて、力強い腕に身を任せる。
このままこの想いを告げられたら、いっそ楽になれるだろうか。
兄さんに軽蔑されてしまえば、もうこんな苦しい想いをしなくても、すむのだろうか。
嫌悪され、避けられれば、やっと、諦められるだろうか。

「……睦月、泣くな」
「…………」

どこか切ない声で、俺の名前を呼ぶ。
唇が、こめかみを掠める。
ぞくりと、背筋に弱い電流のような刺激が走る。

その感覚に、吐き気をおぼえた。

「やめろ!触るな!」
「う、わ」
「触るな!触るな触るな触るな!」
「睦月?落ち着け」
「いやだ、触るな!!」

自分の中に感じた薄汚い欲望に、恐怖する。
兄さんに知られてしまうかもしれない、こんなみっともない、いやらしい、汚らわしい。
こんな想い、絶対知られるわけには、いかない。

いきなり暴れだした俺をなだめようと、背中を叩いたり頭を撫でたりしているが、逆効果だ。
この人に、触られたくない。
俺の汚さがばれてしまう。
この人が、穢れてしまう。

ふ、とため息をつくと、兄さんは俺から離れていく。
心のそこから安堵して、俺は体を丸くして膝に顔を埋める。
兄さんに顔を見られたくない。
泣いているのと動揺で、息が乱れ体が震える。

「………分かったよ」
「…………い、やだ…」
「………ごめんな」

大きなため息を聞こえた。
呆れているのだろうか、愛想を尽かしたのだろうか。
せっかく慰めにきたのに、こんな態度をとって。

でも、もうそれでよかった。
兄さんの気配が部屋の中から消えるまで、俺は顔を上げなかった。
このまま消え去ってしまいたかった。



***




それから半月もした、雨の降っていた休日の日。
兄さんと緑はその日も、一緒に出かけていた。
両親もいなくて、俺は図書館に出かけていた。

夕方頃に、帰宅すると玄関の鍵が開いていた。
不審に思う。
みんな今日は遅くなるようなことを言っていたから。

入ると、緑の高いヒールの靴があった。
兄さんの靴はない。
またケンカでもして、帰って来てしまったのだろうか。
最近、二人のケンカの数が増えている気がする。
それが、嬉しいのか哀しいのか、俺にはわからない。

顔を合わせてもお互い嫌な思いをするだけだから、真っ直ぐに自室に戻る。
けれど階段を上がって、自室から明かりが漏れているのを見て、嫌な予感を覚えた。

シャキンシャキン、とかすかな金属音が聞こえてくる。

なぜか焦る心を抑えられず荷物を放り出して、部屋に駆け込む。
飛び込んだ時に目に入った光景が、一瞬理解できなかった。

部屋の真ん中で座り込むのは、よく見慣れたグリーンのシャツを切り刻む、俺の片割れ。

「な、に……」
「………」
「何をしてるんだ、緑!」

俺のことなんて聞こえないように、俺の大事な宝物を執拗に細かく切り刻む。
見渡せば、部屋の中が荒らされていて、アルバムも散らばっていた。
兄さんと俺が一緒に写っている写真が、切り刻まれている。
俺と、兄さんの想い出をなくしてしまうように。

「…………」
「……やめろ!」

近づいて静止すると、ようやくその手を止め座ったままこちらを見上げる。
荒んだ嫌な光を帯びる目で、睨まれる。

「こんなのいつまでも未練たらしく持って!知ってたんだから、隠し持ってたこと」
「やめろ、やめろよ!」
「うるさい!省吾は緑のものなんだから!あんたなんかが省吾のものを持たないで!」

緑はヒステリックに叫びながら更にシャツを切り刻もうとする。
俺はただ、やめろとしかいえない。
緑の手によって、俺の想いをすべてが、切り捨てられていく。

「ああ、汚い!汚い汚い!気持ち悪い!なんであんたみたいなのが緑の弟なの!?いやだ、変態!汚い!気持ち悪い!」
「やめろよ!やめてくれ!」

なんでなんでなんで。
その言葉ばかりが頭の中を繰り返す。
俺は兄さんの傍にいることはなかっただろう。
俺は全部お前の言うことを聞いただろう。

なのに、なんで。

「なんで、そこまでするんだ!想ってだけだ!約束どおり兄さんに近づいたりしてない!ただ、想ってただけなのに……」
「想う?本当に身の程知らず!あんたなんて、省吾を見てもだめなの!いつまでもあんな気持ち悪い目で省吾を見て!省吾だっていい迷惑よ!」
「緑!」

聞いてられなくて、俺は悲痛な叫び声を上げて姉を止めようとする。
けれど緑は狂気を帯びた目で、俺は睨みつけ、止まることはない。
おかしい、今の緑はおかしい、どうしてこんな。

「本当に鬱陶しいのよ!なんであんたなんかいるの!?緑だけでよかったのに!省吾の傍にいるのは緑だけでよかったのに!あんたなんて、いらない!いらないいらないいらない!」
「どうして!」

そこまで言われて、我慢ができなくなった。
何もかもを、俺から取り上げていく緑。
俺は、ずっとずっと我慢していたはずだ。
お前に、従っていたはずだ。
それなのに、どうしてそこまで否定されなくては、いけないんだ。

「どうして、お前は俺から全部取り上げるんだ!兄さんまで手に入れて、それなのに何が不満なんだよ!なんでこんなことするんだよ!なんで俺から何もかも奪っていくんだ!」
「あんたが邪魔だからよ!あんたが省吾の近くにいるだけで、目障り!」
「……俺は、お前にも、兄さんにも迷惑をかけてない!お前が、全部持っていったのに!」
「あんたの存在が目障り!あんたなんて緑のおまけのくせに!緑の出来損ないのくせに!」
「緑!!」

悔しくて、腹が立って、仕方がなかった。
でも、それよりも何よりも、緑の言葉が哀しかった。
緑の言うことは、もっともだったから。

俺は緑の出来損ない。
俺は緑のおまけ。
俺はいるだけで、兄さんの迷惑。

いつだって現実を突きつけてくるのは、この姉だ。
俺によく似た、でも全く違う顔を、今は怒りで赤く染めている。
緑だけだったのなら、よかったのに。
それは、俺だってずっと、感じていたこと。

「男なのにウジウジして、暗くて、省吾に色目使って!本当に鬱陶しくて、気持ち悪い!汚い!あんたなんて、いらなかったのに!緑だけでよかったのに!」
「………緑っ」
「省吾だって、気持ち悪がって迷惑してた!あんたなんて消えなさいよ!」

手を振り上げて、その顔を打とうとする。
けれど挑戦的に俺を見上げるのは、いつも正しい、真っ直ぐな緑。
緑の言うことは、真実だ。

俺は宙で拳を握り締めると、強く唇を噛む。
上げた手は、振り下ろせない。

「……何よ、ぶたないの?」
「…………」
「ほんっとうに意気地なしの虫けらね!」

嘲笑すると、思いついたというように俺の手をとる。
どこか狂気に満ちていても、たとえそれが嘲笑でも、笑う緑は綺麗だ。

「省吾のところにいきましょう?」
「え………」
「省吾の前で謝らせてあげる。今まで気色悪い目で見てごめんなさいって。もうしませんって。俺は変態で汚いですって」
「み、どり……」

どうして、どうしてそこまで言われるんだ。
分かってる、緑は正しい。
緑はまっすぐで、いつだって間違えない。

それでも。

「いいわ、緑が言ってきてあげる。省吾に全部言ってきてあげる。そのシャツをどんな風に使ってたか。あんたが省吾をどんな薄汚い目でみてたか。そうよ、そうしたら……」
「どうして………」

声をあげて笑うのは、俺の理想で、俺がありたかった姿。
嫉妬すると同時に、ずっと憧れていた、俺の片割れ。

そして、ずっと、嫌いで憎かった、俺の片割れ。

「二度と、省吾があんたに近づかないようにしてあげる。顔も見たくないって思わせてあげる」
「………緑!」
「そうしたら、あんただってようやく自分の立場を思い知るでしょ。緑のできそこない」

緑が、嫌いだ。
緑が、憎い。
緑が、いなければよかった。

緑が、消えてしまえばいい。

「やめろ!!」

声をあげて笑って、更にシャツを切り刻もうとするから、その手を止めようとする。
緑が振り払った裁ちバサミが、俺の皮膚を切り裂いた。

立ったままの俺の右足を大きく切り裂いて、血が飛び散る。
痛みに膝から力が抜け、倒れこむ。
手で押さえると、その指の隙間から血が溢れていく。

部屋が、写真が、シャツが、赤く染まっていく。

「つっ…」
「あ……」

一瞬慄いたように、身を引いてハサミを取り落とす。
顔は一気に青ざめ、綺麗な顔が恐怖に引き攣っている。

「み、どり……」
「………もう、いやだ!あんたなんて、消えてしまえばいい!」

なぜか緑のほうが泣きそうな声を上げながら、部屋から駆け出していく。
溢れていく血の中にうずくまりながら、俺は去っていくその華奢な背をただ見ていた。

それが、俺が緑を見た、最後の光景。





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