君の着飾る姿に惑い、 君が語る言葉を信じ、 君が紡ぐ夢を見る。 君がそれを望むなら、何より優しい偽りを。 けれど歪つな真実の、甘美な味で俺は酔う。 緑を失い、そして俺は睦月をも失った。 最初、叔父から電話を受けたときは、何かと思った。 いつも冷静な叔父が、焦った様子で支離滅裂な発言を繰り返している。 『睦月が、今からそちらに行くと思う。頼む、こちらに連れてきてくれ』 『……睦月がどうかしたんですか?』 『睦月が、いや、緑が、違う、睦月が……』 「叔父さん?」 その時、チャイムが鳴り響いた。 混乱している叔父にひとまず断って、俺はインターフォンに視線を送る。 ぞっとした。 「み、どり……?」 そこにいたのは、紛れもなく緑だった。 なんの、冗談だ。 緑は、もういないはずだ。 『省吾、開けて』 甘く、高い声。 なんだ、なんなんだ。 これは一体、なんなんだ。 頭の片隅では、分かっている。 これが、何を指しているのかは分かっている。 けれど、心が受け付けることを拒否している。 震える手で、エントランスの鍵を開ける。 俺は、恐怖していたのだと思う。 とびきりの、悪夢だ。 あの時からずっと続いている、悪夢がまた終わらない。 そして、部屋のチャイムがなる。 何も考えられずに、ふらふらと玄関に向かい、鍵を開ける。 「省吾!」 華やかな笑顔で、俺の首に巻きつく細い腕。 体型の目立たない緩やかな服は、どうしても女性としか見えなくて。 なんで、こんなに狂ってしまった。 どこから、壊れてしまった。 何より愛しい存在が、おぞましく俺の罪を突きつける。 そして、そこには、やはり、『緑』がいた。 そうだ、俺がすべてを壊した。 緑を利用し傷つけ失い、そして睦月をも、壊した。 叔父さんと叔母さんは、緑を失ったばかりの混乱の中にいた。 失った娘のふりをする息子を、どうしたらいいか、分からなかった。 それが似ていれば似ているほど、二人は余計に失った現実を強くする。 二人には、睦月を受け入れられなかった。 悪い言い方をすれば、壊れた睦月まで見ている余裕がなかった。 だから、俺が睦月を引き取った。 緑を失って壊れてしまった睦月と、親父の別荘で二人で暮らしている。 それは精神をすり減らすような痛みを伴う生活。 日々、自分まで壊れていく感覚がする。 「省吾」 そう言って笑う『彼女』は、緑そのものだ。 大輪の花のように華やかに笑う。 甘えて媚を含んだ声で、俺を呼ぶのは、緑。 化粧の味のする唇で、キスをするのは緑。 甘い匂いのする体で、腕を巻きつけるのは、緑。 密やかに控えめに笑って、臆病に人を伺っていた従弟は、どこにもいない。 俺の欲しかった、睦月が、いない。 ここにいるのは、緑のふりをした、誰か。 睦月ではない。 けれどやはり、緑でもない。 緑を追い詰め、そしてお前もそこまで追い詰めたのか。 いつでも姉の言うことを聞いて、姉の影に隠れていた睦月。 姉を失ったことが、耐えられなかったのか。 その行動の、一つ一つがまさしく緑で、どれだけ睦月の中で緑が大きかったのか、分かる。 たまに、耐え切れなくなって、お前は睦月だと訴える。 けれど睦月は認めない、それでも突きつけると癇癪を起こして暴れる。 半狂乱になって泣き叫ぶ。 「睦月はいない!睦月なんていらない!緑だけいればいい!」 自分を否定し続ける睦月を見ていられなくて、俺はそれを仕方なく認める。 すると安心したように首に腕を絡める。 「大丈夫よ、省吾には緑がいるから、そんな悲しい顔をしないで」 無理をして作った高い声で、優しく俺を慰める。 緑は俺が追い詰めた。 睦月は俺が壊した。 その両方を、常に突きつけられ続ける。 腕の中に収まる細く華奢でしなやかな体は、何よりも誰よりも愛しいのに。 愛しい人間が、それを認めない。 拷問だ。 これが、俺のやってきたことへの、罰か。 「省吾は、緑が好きでしょう?」 「………俺は、お前が好きだよ」 けれど、俺は絶対に睦月を緑とは呼ばなかった。 せめてもの抵抗。 告げたくて、でも告げられなかった想いを、こんな形で口にする。 俺は緑ではなく、お前が好きだった。 それが、すべての始まりで終わりだった。 でも、捨てられない、諦めきれない想い。 「省吾は、緑が欲しくないの?」 「俺は、今のお前を抱く気はない」 俺が抱きたいのは、緑ではなく睦月。 緑を愛そうとして、それでも捨て切れなかった衝動。 それが間違った欲望だとよく知っていたのに、諦めきれなかった想い。 今更、覆せるはずもない。 抱きしめ、キスをして、同じベッドで寝る。 睦月としたかったそれを、今している。 でもこれは、睦月ではない。 俺の愛した従弟は、どこにもいない。 誰よりも愛しい人は、俺に別の人間を愛することをねだる。 苦しくて、少しづつ少しづつ本当に自分が病んでいくのを感じる。 時折、もうこのままでいいのではないのかと、思う。 緑は帰ってこない。 睦月も帰ってこない。 だったら、今の緑の形をした睦月を、愛せばいいのではないのか。 細く白い首も、しなやかな硬い体も、赤い唇も。 それは全部俺の愛した睦月のもの。 だったら、もういいのではないだろうか。 欲望のまま睦月を抱いて、緑と暮らせばいいのではないのだろうか。 それが、幸せなのではないだろうか。 睦月も緑も、二人を幸せに出来る。 むしろ、睦月が元に戻ったら、俺の手には入らない。 想いを告げたところで、軽蔑されて、嫌われて、緑を追い詰めたことを罵られるのがオチだ。 だったら、今のままでいいのではないだろうか。 そうしたら、睦月を手に入れられる。 こんなこと、考えること自体、病んでいる。 けれど、緑のふりをする睦月を暮らしていると、もはや何が現実か分からなくなってくる。 二人きりの閉ざされた空間で、何が正しいのかが分からない。 無性に逃げ出したくなる。 自分が狂う前に、逃げ出してしまいたい。 でも、俺は、逃げられない。 俺の罪を、償わなければいけない。 睦月が作る食事を食べて、睦月の語る話を聞いて、睦月を腕に抱いて寝る。 緑が好んだ食事を食べて、緑が好んだ話を聞いて、緑の姿をした誰かを抱いて寝る。 俺が今一緒にいるのは、誰だ。 睦月だ。 それは、睦月。 緑ではない。 大丈夫、まだ俺は、正気でいる。 ここにいるのは、睦月だ。 壊れてしまった、可哀想な睦月。 元に戻るまで、一緒にいなくては、いけない。 辛くて、逃げ出したい。 けれど、逃げ出してはいけない。 それにしても、なぜ睦月はここまで緑に固執するのだろう。 仲の良くない、姉弟だった。 よく似た面差しをしていた双子だったのに、中身はまるで正反対で。 緑は睦月を嫌悪し、睦月は緑を畏怖していた。 二人の不和の原因は、もしかして俺にあったのかもしれないけれど。 二人はもう、幼い頃からお互いを倦厭していた。 いつも言うことを聞いていた姉を失って、頼るところをなくしたからかと思った。 だが、睦月は確かに姉を恐れ、機嫌をいつも伺っていたけれど、姉に頼るようなことはなかった。 緑がいなくなっても、睦月が失うものはほとんどない。 なぜ、そんなにも、緑になりたがる。 まるで別々の人間だった二人。 興味も、振る舞いも、何もかもが別々だった。 それなのに、睦月はこんなにも、緑にそっくりに振舞える。 ずっと、緑を見ていたのか。 『綺麗なのは、緑だ』 『緑は、明るくて可愛くて、皆に好かれるから』 『俺は、情けなくて、どうしようもない』 『俺がいてもいなくても、一緒だ』 いつも必要以上に、緑を理想化し、自分を卑下していた。 卑屈で臆病で、明るく社交的な姉をいつも羨んでいた。 憧れていたのか、緑に。 睦月は、緑になりたかったのか。 だから、今緑になっているのか。 緑に、成り代わろうとしているのか。 睦月を捨てて、緑に成り代わろうとしているのか。 そこまで自分が嫌いだったのか。 緑が羨ましかったのか。 『緑がいれば、皆幸せだわ。いなくなったのが睦月でよかった』 この家で、そんなことを言っていた睦月。 自分がそこまでいらなかったのか。 愚かで卑怯で、哀れで弱い睦月。 睦月がいなくなって、緑が帰ってくればすべてよくなると、思ったのか。 それなら、俺はお前を緑として扱うべきだろうか。 緑として、愛するべきだろうか。 今度こそ、緑を愛するべきだろうか。 そうしたら、お前は幸せになれるのだろうか。 緑は幸せになれるのだろうか。 もう、辛いことはなにも、なくなるのだろうか。 分からない。 もう分からない。 何が正しくて、何が間違いなのかも、分からない。 正直、半月もした頃、俺は壊れかけていたと思う。 睦月をあくまでも緑として扱わないと誓ったのに、それも崩れかけていた。 ふとした瞬間、睦月を緑と呼びそうになる。 緑として、話しかけそうになる。 これは睦月だ。 これは睦月だ。 これは睦月だ。 何度も何度も繰り返す。 繰り返していないと、睦月がいなくなってしまいそうだから。 それでももう苦しくて、辛くて。 こんなに苦しいなら、認めてしまえばいいのではないかと思った。 目の前の『彼女』を、緑だと。 それを、見る前では。 ある日買出しから帰ると、睦月の姿が見えなかった。 自室にいるのかと、探して歩き回る。 なんとなく、足音を忍ばせて驚かせようかと思った。 辛い暮らしだけれど、緑も睦月も、俺は愛していたから。 だから少しだけ、楽しかった。 わずかに開いた、睦月が自室として使っている一室のドア。 静かに近づくと、部屋の中で座り込んだ睦月の姿が見えた。 無表情で、しかし大事そうに胸に抱えた小さな木箱を見つめていた。 この家に睦月が持ってきたのは、ほとんどが緑の持ち物だ。 けれど、そのなんの装飾もない木箱は、緑の持ち物としてはふさわしくない。 緑のものは、すべて可愛らしく愛らしいものばかり。 どちらかというと、それはシンプルなものを好む睦月のもののように感じた。 一瞬切なそうに眉を寄せると、そっと手の中に収まる木箱に口付ける。 何よりも大切なものだというように、優しく唇で触れる。 愛おしさが溢れるような、そっと触れるだけの長いキス。 無表情だからなのか、その時の睦月は『睦月』に感じた。 黙っていても、華やかな緑、穏やかな睦月。 二人の違いは、明らかだったから。 その箱に興味が湧いたが、声をかけるのが躊躇われて、そっと離れる。 しかし開きかけのドアが、キイと小さく軋む音がした。 ぼんやりと、座り込んだままこちらを見上げる睦月。 悪戯が見つかった子供のように、決まりの悪い焦りを覚える。 「……だれ、省吾、兄さん……?」 その瞬間、見つかった気まずさなんて一瞬で消え去る。 今の言葉が信じられなくて、何度も何度も反芻する。 今、なんと言った。 省吾、兄さん? それは、緑の呼び方ではない。 緑は、そんな呼び方はしない。 では今、部屋の中にいるのは。 あそこにいるのは、誰だ。 けれどそれはほんの一時で、睦月は緑へとすぐさま変わる。 ぼんやりとした無表情は、喜怒哀楽のはっきりとした緑のものへ。 「省吾、お帰りなさい!」 艶やかな笑顔で、俺に向かって駆け寄ってくる。 細い腕を、俺の首に絡めてくる。 でも、今確かに、あそこにいたのは、睦月だった。 確かにあれは、睦月だった。 俺が睦月を、見間違えるはずがない。 ずっとずっと見ていた、睦月。 では睦月は、まだいるのか。 まだ睦月は、ここにいたのか。 睦月を抱く腕が、震える。 食事の用意をしにキッチンへ向かった睦月の背中を見て、俺は部屋に滑り込む。 部屋の隅の置かれたサイドテーブルの上に置かれた、小さな木箱を手に取る。 期待と、不安で焦って一度取り落としそうになる。 ここに、睦月の大切なものが、睦月が正気に戻る何かが、あるのだろうか。 恐る恐るそれをあけると、そこにはグリーンの古びて汚い布の切れ端。 想像していたようなものではなくて、拍子抜けする。 睦月は、なんでこんなものをあんなにも愛おしそうにしていたのだろう。 そっと取り出して何かないか、眺める。 布の切れ端には、ボタンがついていた。 これは、服か? 服が何かで切り取られたものか。 誰の服だろう。 睦月のものだろうか。 もう随分痛んでいて、古いもののようだ。 どこかで、見た気もする。 『あれ、そのシャツ』 その時、唐突に、ある光景が浮かんだ。 本当に唐突に、脳裏に蘇る。 今まで忘れ去っていたなんでもない会話が、鮮明に再生される。 部屋の中で、胸に、服を抱いた睦月の姿。 『あれ、そのシャツ』 そうだ、そんなことを言った気がする。 睦月のものにしては、明るすぎる色のシャツ。 着ているところを見たことがなかったが、確かに見覚えがあって。 『なんか見覚えあるな。お前のだっけ?』 『あ、いや、その……』 慌てたように目をそらす。 けれどその時の俺は、それに気付かず、シャツがなぜ見覚えがあるのかを考えていた。 そしてうっすらと、そのシャツを昔着ていたことを思い出した。 明るいグリーンを気に入っていて、なくなった時探した記憶があったのだ。 『ん?あ、もしかして、俺のか?ああ、だから見覚えあったのか。お前にやったんだっけ?』 『う、うん……』 どこか気まずそうに頷く睦月に、気付けなかった。 それきりその話は終わった。 思い出しもせず、今の今までずっと忘れていた、会話。 よく考えろ。 なぜ、睦月が俺のシャツをずっと持っていた。 なぜ、あの時、手に抱いていた。 どうして、今ここにある。 どうして、あんなに愛おしそうに口付けていた。 緑として? いや、違う。 これは緑のものではない。 このシャツは、睦月が持っていたもの。 では、これは睦月のもので。 そして、この箱に口付けていたのは、緑ではなく睦月で。 では、睦月はなぜ、俺のシャツを、まるで宝物のように扱う。 まるで想い人にするように、愛おしそうに抱きしめる。 睦月に、嫌われてはいないと思っていた。 俺を避けるようになって、懐かなくなって。 それでも、触れると嬉しそうにしていたから、嫌われてはいないと分かっていた。 もう立派な男になって照れくさいのと、緑に言われたから避けられていたのかと思っていた。 緑が、睦月を嫌悪する理由。 睦月が、急に俺から離れていった理由。 緑が、睦月を執拗に俺から遠ざけようとした理由。 睦月が、俺を避けるのに、そのくせずっと見ていた理由。 緑があんなにも激昂した理由。 睦月が、緑になりたかった理由。 それは、もしかして、たった一つの理由なのか。 俺は、ものすごい、勘違いをしていたのか。 ぼやけていた真実が、俺の欲していたものが、すぐ手の届くところに、あった。 「俺は、睦月が好きだよ」 ふとした瞬間に、俺はそれを口にした。 緑のように化粧をして、緑の服を着て、髪を巻いた睦月の表情が凍る。 その頼りないあどけない表情は、たとえ緑の格好をしていても、確かに睦月だった。 「………な、んで…」 目の中の光が、揺れる。 何かを言いたげに、赤い唇が開き震える。 けれど、その一瞬後に、睦月は緑に戻る。 「緑は、睦月が嫌い。嫌いよ。あんな子いなくなって、清々する」 でも、それだけで十分だった。 今一瞬、睦月は帰って来た。 やはり、目の前の人間は、睦月でしかない。 緑には、なりきれない。 緑になれるはずがない。 お前は、睦月なんだから。 ああ、やっぱりお前はそこにいた、睦月。 お前が戻ってくるのは、きっと簡単なことなんだ。 ずっとそれは、そこにあった。 なら、俺ももう迷わない。 もう、こんな悲しい生活は、いらない。 一生罪を背負って生きていこう。 さあ、そろそろ目を覚まそう、睦月。 この残酷で優しい夢から。 |