「もしもし、篠崎、千津さん?」 知らない、声だった。 男の人にしては高くて、女の人にしてはざらついている。 語尾を微妙に延ばした話し方は、なんだか幼稚園の先生のようだった。 携帯にかかってきた見知らぬ番号に、わずかな期待をこめてでると、その言葉が私に降りかかった。 「………どなたですか?」 警戒心もあらわに怪訝そうな声で問うと、受話器越しの声はちょっと笑った。 そしておどけた感じで明るく名乗る。 「始めましてこんにちは、俺は加賀谷って言います」 「加賀谷、さん…?」 記憶をさかのぼっても、思い当たる人はいない。 俺って言うからには、男の人なんだろう。 「そう、芙美さんのお友達です。今、芙美さん俺のうちにいるから」 「お姉ちゃんが!」 勢い込んで、受話器を握り締める。 お姉ちゃんがいなくなって、2日。 お祖父ちゃんもお母さんもお父さんも怒っていて、それなのに誰もお姉ちゃんを探そうとしない。 探しに出かけようとしたのに、熱が出てしまってお母さんに病院につれていかれてしまった。 そのまま寝込んで、気が付いたらどうすることもできなかった。 あの時、おそらくお姉ちゃんを怒らせたのは、私。 なんでお姉ちゃんが怒ったのか分からないけれど、怒っていたのは、確かだから。 だから、消えてしまったのは私のせいだと思った。 何度電話しても、電源を切っているのかお姉ちゃんは出ない。 心配で心配でたまらなかった。 けれど、この電話の向こうの高い声をもつ男の人は、お姉ちゃんを知っていると言う。 「お姉ちゃんはっ、お姉ちゃんは大丈夫!?」 「………」 「加賀谷さん!?」 息を呑むのがかすかに聞こえて、加賀谷さんは黙り込む。 私は更に電話に向かって声を荒げる。 少し沈黙して、向こうの人はくすくすと笑った。 「芙美さんは大丈夫だよ。元気にしてる。安心して」 その言葉を聞いて、全身から力が抜けた。 部屋の真ん中で、携帯を握り締めたまま座りこむ。 「よかったあ……」 その声は、鼻声になっていたと思う。 安心して、涙が出てくる。 加賀谷さんは相変わらずくすくすと楽しそうに笑っている。 「大丈夫だよ、千津ちゃんはお姉ちゃんが好きなんだね」 「…うん、私、お姉ちゃんが大好きだよ」 だってお姉ちゃんは仕方ないって言わない。 私が何もできないって言わない。 何もしなくていい、って言わない。 1人でしていいって、言う。 私を信じてくれる。 「そっか、千津ちゃんはいい子だね。芙美さんにこんな妹さんがいてよかった」 「え…」 「こんなにお姉ちゃんが大好きな妹がいて、芙美さんは幸せだよ」 そうなのかな。 お姉ちゃんは、私みたいな妹でも、よかったのかな。 お姉ちゃんみたいに、色々することができないけど、何もできないけど、それでもお姉ちゃんはいいのだろうか。 「千津ちゃんは、いい子だね」 その高く、どこか落ち着く先生のような声は、心の中にすとんと入ってきた。 「お姉ちゃんは、どうして家出したのかな?」 そう聞いた相手は、加賀谷さん。 お姉ちゃんのお友達の、男の人。 男の子は怖い存在だった。 乱暴で優しくなくて、たまに学校へ行くと、嫌がらせされたり、ひどいことを言われたりした。 でも加賀谷さんは、優しくて明るくて、楽しい。 小さくて、まるで私と同い年ぐらいに見えるのに、大人の人のように落ち着いているときもある。 今まで接したことのないタイプの同年代の男の人で、ドキドキした。 一緒にいるのが、嬉しかった。 お姉ちゃんが帰って来てから、私達はよく会うようになった。 学校の帰りに、メールで待ち合わせして、公園とかでお話する。 お姉ちゃんがいなくなっている間、加賀谷さんは毎日電話してくれて、励ましてくれた。 お姉ちゃんに何かしたんじゃないかと、悲しくなっていたら慰めてくれた。 そして今も、私の話を聞いてくれて、相談に乗ってくれる。 どうしたら、お姉ちゃんの力になれるのか、一緒に考えてくれている。 お姉ちゃんの相談をしているから、このことはお姉ちゃんには内緒。 加賀谷さんの家から帰って来て、お姉ちゃんはずっと柔らかくなった。 いつでも辛そうに、息苦しそうにしていることが少なくなった。 私にも、よく話しかけてくれるようになった、一緒にいてくれるようになった。 それはきっと、加賀谷さんのおかげなんだと思う。 だって、加賀谷さんは一緒にいると、本当に落ち着く人だから。 とても、優しい人だから。 「千津ちゃんはどう思う?」 「勉強することが、嫌だったんじゃないのかな、って思うの」 「どうしてそう思うの?」 「だって、勉強をしている時のお姉ちゃん、すごく辛そうだもん」 「うん、確かにそうだね」 加賀谷さんは、私の言葉に頷いてくれた。 同意を得られて、ほっとする。 加賀谷さんは、お姉ちゃんのことをよく知っている。 もしかしたら私よりも、お姉ちゃんのことを知っているかもしれない。 「なんであんなに勉強するのかな、家を継ぐことがそんなに大事なことかな」 「千津ちゃんは、芙美さんが勉強をする理由が分からないの?」 「お姉ちゃんは、病院を継ぐからでしょう?」 加賀谷さんは目をパチパチとして、驚いたようだった。 この人は目が大きくて幼いから、時々私より年下に見えると気がある。 そしてしばらくして、納得したように1人で何度も何度も頷く。 「そっか、そうだね。面白いね、千津ちゃん」 「………どうしたの?」 「千津ちゃんは、ソレを当たり前のように持っているから気付かないんだ。芙美さんがソレを持っていないことに、気付けないんだね」 にこにこといつものように笑いながら、よく分からないことを言う。 加賀谷さんは、時々謎かけのように難しいことを言う。 いつもは私と同い年かそれ以下に見えるぐらいなのに、とても大人っぽい時がある。 「ソレ…?」 「芙美さんが欲しくて欲しくてたまらないもの、芙美さんが勉強をする理由」 「どういうこと?」 首を傾げて問うけど、加賀谷さんは相変わらずの笑顔で答えなかった。 代わりに、さっきの私の言葉を肯定してくれる。 「確かにそうだね、千津ちゃんが言うとおり、芙美さんが逃げたのは、勉強からってのもあったと思うよ。勉強が、芙美さんを追い詰めていたから」 「そうだよね!そっか、お姉ちゃんは勉強がなくなったら、楽になるのかな」 「どうだろう、そうかもしれないね」 「私が、家を継いだら、お姉ちゃんは、楽になれるのかな」 加賀谷さんは何も言わず、頭を撫でてくれた。 それが、私の言葉をそうだよ、って言ってくれているみたいで、とても嬉しい。 あの夏の日、初めて1人で出かけた時のように沸々と力がわいてくる。 私の手足が、頑張れと訴える。 「私が頑張ったら、きっとお姉ちゃんは楽になれるよね」 「うん、千津ちゃんが頑張ったら、きっと芙美さんは幸せになれるよ」 「そうだよね!うん、私、頑張る!」 「千津ちゃんは、すごくいい子だね。かわいい、いい子」 加賀谷さんはくしゃくしゃと髪をかき回す。 子供にするみたいで、お父さんやお母さんにされるのは嫌いだった。 でも、加賀谷さんにされるのは、嬉しい。 心がほわほわと、あったかくなる。 加賀谷さんの大きな手に、ドキドキする。 小さい頃から読んでいた本で、こんな気持ちが書いてあった。 私は多分、加賀谷さんが好きなんだと思う。 優しくてあったかくて、大人なこの人が。 「芙美さんが幸せになれるのを、祈ってるよ。きっと幸せになれる」 「うん!」 「君が芙美さんを幸せにすることができるよ」 「うん!」 加賀谷さんが微笑みかけてくれるのが嬉しい。 希望が生まれてくるのが、嬉しい。 私にすることができたのが嬉しい。 生きる意味が出来たのが嬉しい。 お姉ちゃんの力になれるのが、嬉しい。 「千津ちゃんが、それに気付けたらね」 最後に加賀谷さんが小さく低い声で言った一言は、風の音にかき消された。 どうしたら私はあなたにこの感謝の気持ちを伝えることができるのかな。 どうしたらあなたは楽になれるのかな。 どうしたらあなたは一緒にいてくれるのかな。 どうしたらあなたは笑ってくれるのかな。 私が頑張れば、きっとお姉ちゃんは楽になれる。 お姉ちゃんを勉強から解放してあげれば、お姉ちゃんは笑ってくれる。 私に一番大切なことを教えてくれた、お姉ちゃん。 大好きなお姉ちゃん。 今度は私がお姉ちゃんのために、いっぱいいっぱい頑張るから。 そしたらお姉ちゃん、今度は2人で一緒に遊びたいんだ。 2人で今度こそ、一緒に散歩をしよう。 そしたら、きっと、絶対楽しい。 ずっと遠いところにいた私達だけど、きっと近づける。 それで、お姉ちゃんも、一緒に笑ってほしいんだ。 |