お医者さんが言ったとおり、私の体はどんどん丈夫になっていった。
やっぱりちょっとのことで熱を出すけれど、小さい頃のように眠れないようなひどい咳や、嘔吐を繰り返して入院することはなくなった。
このまま大人になれば、病気をしていたことなんて忘れてしまうだろう。
私は徐々に自分の枯れ木のような頼りない体に力が行き渡っていくのを感じていた。

でも、相変わらずお祖父ちゃんやお父さんやお母さんは、1人で何もさせてくれない。
私に何もするなという、何も考えるなという。
私を信じてくれない。

けれど、できるの。
私はできるの。
きっときっと1人で、立てるの。

お姉ちゃんがそう教えてくれたんだから。



***




近頃、お姉ちゃんがどんどん顔色が悪くなっている。
ずっと、勉強をしている。
一緒にご飯を食べることもなくなった。
田舎に療養に行くこともなくなり、本家で暮らせるようになった。
それでも、お姉ちゃんが遠いのは変わらない。

「ねえお母さん、お姉ちゃん一緒にご飯食べないの?」
「芙美さんは今日も塾で遅くなるから、後で食べるわ」
「お姉ちゃん、具合悪そうだよ」
「今年は受験だから、遅くまで勉強しているのよ。近頃成績が落ちているから、しょうがないわ」

お母さんの言うことは、なんだかもぞもぞしてい落ち着かない。
勉強なんかするより、一緒にご飯食べることが大事じゃないかな。
いっぱい眠ることが、大事じゃないかな。

お姉ちゃんを信頼しているお母さんが言うなら、そうなんだろうか。
すぐに具合が悪くなってしまう私だから、そう思うのだろうか。
お姉ちゃんは強くて、自分でなんでもできるから、大丈夫なのかな。

でも、お姉ちゃんは、いつみても、なんだか眉を寄せて苦しそうにしている。
私が発作に苦しんでいる時みたいに。
まるで息ができないように、背中と肺に骨が突き刺さるような痛みを感じているように。

お姉ちゃんは、勉強することが、本当は嫌なんじゃないだろうか。
勉強をしているお姉ちゃんは、いつでも辛そうだ。
お姉ちゃんは勉強が本当は嫌いなんじゃないだろうか。
勉強が、お姉ちゃんを追い詰めているんじゃないだろうか。

だから、時々、声をかける。
お姉ちゃんに、これ以上苦しくなって欲しくなくて。

「お姉ちゃん、今日は勉強を休んで、一緒に遊ぼう」
「………私は、勉強をしなくてはいけないから」

薄く笑って答えてくれるけど、お姉ちゃんは私を見ていない。
優しい言葉をくれるけど、それは冷たく私を切り捨てる。
お姉ちゃんと私を隔てる薄い膜は、まだまだ消えない。
どんなに近づこうとしても、お姉ちゃんに近寄ることができない。
私がまだまだ何もできないからだろうか。

お姉ちゃんが好きなのに。
お姉ちゃんに近づきたいのに。
お姉ちゃんに、笑って欲しいのに。

何もできない私が、お姉ちゃんに近づけない私が、悔しい。
私がもっともっと丈夫で勉強ができて、お姉ちゃんが勉強する必要がなくなれば、お姉ちゃんは楽になれるんだろうか。
私が頑張れば、お姉ちゃんは幸せになれるだろうか。
そうなって欲しい。

だってお姉ちゃんは、私に生きる力をくれたんだから。
死んでいた私に、命をくれたんだから。

お姉ちゃんには、笑って欲しい。



***




その日、学校から帰ると、家の中はなんだかざわざわとしていた。
珍しく早く帰っていたお父さんとお母さんが、ひそひそと怖い顔をして何かを話している。

「お父さん、お母さん、どうしたの?」
「…ああ、千津さん、お帰りなさい。具合は悪くない?」

その時初めて私の姿に気付いたように、母が近づいてくる。
ふっくらと温かい手で、私の頬を撫でる。
私がそこにいることを、確かめるように。

「ただいま、大丈夫よ、もうほとんど熱なんて出さないもの」
「まあ、この前熱出したばっかりじゃない。体育なんて参加して。あんまり心配させないでちょうだい。無理しないでね。千津さんは何もしなくていいんだから」

母の心配は、分かる。
確かにまだまだ私はちょっとのことで熱を出す、ふがいない体を持つ。
ずっとずっと母を心配されて、母に守られて生きてきた。
母がいなければ、きっと私は生きることができなかっただろう。

それでも、時々母の心配が息苦しい。
母の心遣いがじわりじわりと私の手足を辛め取っていくような気がする。
私を動けないように、縛り付けて逃げられないようにしていく気がする。
だから、この会話を打ち切りたくて、少し乱暴に元の話に戻す。

「分かったよ、それでどうしたの?」
「芙美さんが、試験でとても悪い成績をとって…」
「お姉ちゃんが?」

あんなに頭のいいお姉ちゃん。
とても頭のいい学校へ入って、それでもトップの成績を保っていた。
勉強もろくにできない私と違って。

「芙美さん、勉強していなかったのかしら…」
「お姉ちゃんがそんなことするはずないでしょ!お姉ちゃんはどこ!」

馬鹿なことを言い出すお母さんを、思わず怒鳴りつける。
お姉ちゃんはずっとずっと頑張っていた。
あんなに辛そうな顔をして、あんなに息苦しそうな顔をして。
私よりずっと知っているはずなのに、なんでそんな馬鹿なことを言うんだろう。

「…ち、千津さん?芙美さんだったらお祖父様のお部屋よ」

お母さんは私が怒鳴ったのが意外だったのか、目を大きく見開いて何度も瞬く。
私はそんな驚いたお母さんを置いて、急いでお祖父ちゃんの部屋に駆け出す。

「千津さん!走っちゃ駄目よ!」

お母さんの言葉を最後まで聞かず、私は一番奥にある部屋に急いで向かった。
お祖父ちゃんは、厳しくて怖い。
いつも傍にいるとドキドキして、落ち着かない。
お祖父ちゃんとずっと一緒にいれるお姉ちゃんをすごいと思っていた。

でも、お祖父ちゃんは、お姉ちゃんに、とても厳しい。
お姉ちゃんは篠崎の家を継ぐ人だから、それに見合った教育を受けている。
何もする必要のない、ただ甘やかされる私と違って。

でもお祖父ちゃんは怒ると行き過ぎるところのある人だから、お姉ちゃんが心配だった。
奥まったところにある和室に近づくと、声が聞こえてくる。
抑えた、けれど怒りをこめた荒々しい太くよく通る声。
擦れた、女の子にしては低い、そして今は弱弱しい声。

「真一と厚子がお前が継ぐから大丈夫だと言うから大目に見ていれば!」
「申し訳ございません、すいませんすいませんすいません…っ」

その擦れた声を聞いて、頭が熱くなった。
強くて賢くて、いつも背筋を伸ばしているお姉ちゃんがみじめぽく謝っている。
私の大好きな、強い強い、なんでもできるお姉ちゃんが。
お姉ちゃんが、謝る必要なんてない。
だって、お姉ちゃんがずっとずっと勉強をしているのを、私は知っていた。
何かを考える前に、その部屋に飛び込む。

「おじいちゃん!!」
「なんだ千津!口出しするんじゃない!」
「お姉ちゃんをいじめないで!」
「芙美のふがいなさを叱っているだけだ!」
「もういいじゃない!今回は調子が悪かっただけよ!」

お祖父ちゃんの言葉は、行き過ぎて、私は悔しくてたまらない。
なんでお姉ちゃんがこんなに叱られなくてはいけないのだ。
お姉ちゃんに期待しているから怒るのは分かる。
お祖父ちゃんは、私を怒ることはない。
だって、私はポンコツだから。
私は何もできなくていいんから、何もできなくて怒られることはない。
何もできないのが、当たり前なんだから。
期待なんてされないから、怒られることもない。

けれど、お姉ちゃんは出来ることを当然とされて怒られる。
お姉ちゃんはなんでもできるから。
お姉ちゃんが大変で、お祖父ちゃんはひどいと思った。

でも、少しだけ、羨ましかった。
期待されているお姉ちゃんが、ちょっとだけ羨ましかった。

「妹に庇われて情けないと思わないのか!千津は体が弱いにも関わらず優秀な成績を収めているぞ!」
「私はお姉ちゃんみたいに、頭のいい学校じゃないもの!」
「お前は体が弱いんだから仕方がない。ああ、本当にお前が体が丈夫だったらよかった。そうしたらこんな出来損ないに任せることもなかった」

仕方がない。
ずっとずっと言われてきた言葉。
私は寝込んでいて、仕方ない。
私は勉強ができなくて、仕方ない。
私は何もできなくて、仕方ない。

私は生きていても、仕方ない。

違う。
私だってできる。
私だって、1人でできる。
私だってできるんだから。

熱くなる体と心から、自然と言葉が零れ落ちる。
私は何も考えずに、溢れ出てくるその思いを口にした。

「私、もう丈夫になったよ!だから、お姉ちゃんを責めないで、私が勉強すればいいじゃない!この家は私が継ぐよ!」

思っていなかったこと口にして、自分自身で驚く。
それでも、その言葉を口にした瞬間、霧が晴れていくように頭がすっきりとしていく。

そうだ、そうすればいいんじゃないか。
そうすればお姉ちゃんは勉強をしなくてすむ。
苦しくなくてすむ。
私は認められる。
お姉ちゃんは楽になって、私を一緒にいてくれる。
きっと、笑ってくる。

「余計なことを言わないで!!」

けれど、次の瞬間、私は後ろから衝撃を感じて、前に倒れこむ。
その叫び声が誰のものか、わからなかった。
私の後ろにいる人は、私に対して、いや、誰に対しても声を荒げることなんてなかったから。

お祖父ちゃんに受け止められて、畳に座らせられ、私は後ろを向く。
そこには私を睨みつける、お姉ちゃんがいた。
始めてみる、静かに笑う薄い膜を持った人じゃない。
唇を悔しそうに歪めて、私を憎憎しげに見下ろしている。
初めて見る、お姉ちゃんの強い感情。

怒っているのだろうか。
なぜ、怒っているのだろうか。

呆然としたまま座り込んでいると、お祖父ちゃんがお姉ちゃんを叩く。
何かをお姉ちゃんに言う。
叩かれて横に向いた顔を再度前に向けた時、お姉ちゃんの表情から怒りは消えていた。
お祖父ちゃんの部屋にかかっている能面のような顔をしていた。
何もない、のっぺりとした、青白い、無表情。

それは、何も映さない、何の感情もないのに、なぜだかとても悲しかった。

その後、お姉ちゃんが頭を下げて部屋を出て行って。
私は何もすることが出来なくて。
慌てて入ってきたお父さんとお母さんがお姉ちゃんを怒って。
私はそれは違うんだと何度言っても聞いてくれなくて。

そして、お姉ちゃんは家から姿を消した。



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