なんだか、あの時を思い出す。
塾のテストで100点をとって、逸る心で祖父の部屋を目指した。
あの時のように、祖父は笑ってくれるだろうか。
父は褒めてくれるだろうか。
母も、泣くのをやめてくれるだろうか。
私があの人たちを、笑わせることができるだろうか。

その時の私は、希望でいっぱいで。
体が軽くて、まるで羽が生えたようで。
祖父や両親や妹と、絶対分かり合えると信じきっていて。


それが、もう遅かったなんて、想像もしていなかった。



**




怒られるのを承知で、緩む頬を押さえきれずに祖父の部屋に向かう。
はしたなく小走りでパタパタと音を立てる。
私のそんな様子に驚いたように目を見開いて、家政婦が声をかけてくる。

「芙美さん?」
「あ、北野さん、お祖父様はいらっしゃいますか?」
「はい、ご自室にいらっしゃいますよ」
「ありがとうございます!」
「あ、今は旦那様と奥様と千津さんがいらっしゃいます」

それならちょうどいい。
あの人たちにも、言おう。
この大事な大事な決心を告げよう。

医者になりたい。
だから、頑張るから見守っていて欲しい。
不出来な私は、あなた達の希望に添えないかもしれないけれど、それでも見守っていて欲しい。
私が出来損ないでも、愛して欲しい。
私もあなた達を愛するから、あなた達も愛する努力をしてほしい。

私はあなた達が大好きだから。

小さな勇気を胸に、祖父の部屋に飛び込もうとする。
しかし、その前に室内の会話が私の耳に届いた。

「では、やはり千津に篠崎を継いでもらうか」
「ええ、芙美はもう、どうにもならないでしょう」

冷たく響く、祖父と父の声。
それは、それほど大きくもないのに、はっきりと聞こえた。

どういう、ことだろう。

ふすまにかけようとした手が宙に浮いたまま、私は動きを止めてしまう。
今聞いた言葉の意味が、分からない。

「うん、お姉ちゃん大変そうだし、私が頑張るよ」
「千津さん、偉いわ。でも、無理はしちゃだめよ、貴女は体が弱いんだから」
「分かってるよ、もう大丈夫だってば!」

妹の高く可愛らしい声と、母の穏やかな女らしい声。
どういうことだ。
耳に入ってきた言葉が、理解できない。

祖父と、父と、母と、妹。
私の家族。
私を抜いた、私の家族。
私を抜いて、進められる会話。

「芙美は本当に情けない。役立たずにもほどがある。体の弱い妹にこんな負担をかけて」
「違うよ、お姉ちゃんはただ、勉強が好きじゃないだけだよ!」

そこまで聞いて、我慢が出来なかった。
大きな音を立てて、ふすまを開け放す。

「違うっ!」

驚いたように見開いている、私に向けられた4対の目。
私の家族。
近づこうとした。
分かり合えると、思ってた。
それなのに。
それなのに、やっぱりどこまでも遠い、私の家族。

「芙美!」
「どういうことですか!?」

普段なら絶対出来ないけれど、その時は構わず祖父に詰め寄った。
祖父は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの厳しい顔になる。
いつも通りの、私を蔑む、冷たい目。

「千津が篠崎を継ぐって、どういうことですか!?」
「お前は逃げ出したんだろう、もういい。お前には何も言わん」
「違う!逃げ出したんじゃない!ただっ!」

ただ、考える時間が欲しかっただけ。
勉強をする意味を、思い出したかっただけ。
機械には、なりたくなかっただけ。

あなた達と、家族になりたかっただけ。

頭の整理ができずに、うまくそれを告げることが出来ない。
胸がいっぱいで、気持ちを形にできない。
何かを告げようとする前に、祖父の荒げた声で遮られた。

「うるさい!お前のような篠崎の恥さらしはもうどうでもいい!」
「私はっ、私はあなた達にっ!」
「うちには千津がいればいい!お前は好きなようにしろ!」

ああ、言われてしまった。
分かっていた、それはずっと分かっていた。
それでも、口にされ、突きつけられた。
そうやって、やっぱり拒絶するのか。
私をいらないと言うのか。
妹だけでいいと、言い切るのか。
私を切り捨てるのか。
私は、あなた達の、家族ではないのか。

「お姉ちゃん、勉強するの、嫌だったんでしょう?だから、逃げたんでしょう?」
「誰がそんなことをっ」

場の空気をとりなすように、妹が、怒りに震える私に恐る恐る話しかけてくる。
純粋な妹。
純粋で素直で、それゆえに残酷な妹。

「要(よう)君が言ってたよ?お姉ちゃんは、本当は勉強をしたくないんだって」
「要君…?」

どこかで、聞いた名前。
いや、分かっていた。
その名前が、誰を指すのかを、分かっていた。
ただ、今ここでその名前が出てくるのを認めたくなかった。

「あ、その、えーと、加賀谷さん」

頬を朱色に染めて照れくさそうに、その名を口にする妹。
その照れくさそうな顔は、覚えがあった。
好きな人がいるのだ、と嬉しそうに話す妹のいつもより何倍も愛らしい様子。

足の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになった。
信じたくない、それだけは、信じたくない。
嘘だ嘘だ嘘だ。
そんなことは、嘘だ。
妹が嘘をついている。

「……どう、いうこと?」
「あのね、好きな人いるって言ったじゃない?あれね、要君のことなんだ。お姉ちゃんのこと相談しているうちにね、要君と仲良くなったの」

それでも純粋な妹は、残酷に現実を私に付き付ける。
この痛みが、夢ではないと愛らしく教える。

「……加賀谷君が言ったの?私が、勉強を嫌いだって」
「うん、さっきもね、期末の成績もよかったから、お祖父ちゃんに言うねって言ったら、応援するよって」

その言葉に、思い出す。
彼を探して辿り着いた人気のない昇降口。
甘く高い声で楽しそうに電話をしていた、彼の姿。

『あ、本当!すごいね。うんうん、うん、頑張って。応援してるから、うんいつでも俺は味方だよ』

崩れ落ちそうになって、ふすまに手をかけて体を支えた。
目の目が真っ暗になっていく。
世界が、壊れていく。
何もかもが、崩れていく。

「だからね、お姉ちゃん、もういいんだよ。もう頑張らなくて、いいんだよ」

何も、考えられなかった。
気が付くと振り上げた手を、妹に対して打ち下ろしていた。
手加減なんてしてない。
華奢な妹は、祖父の部屋の畳に面白いように倒れこんだ。

「芙美!」

祖父と父と母が、妹にかけよる。
妹は頬に手をあてながら私を見上げている。
怒ってはいない。
ただ不思議そうに、目を丸くして呆気に取られていた。
自分の行動に何一つ疑問を持っていない、ただただ純粋な目。

「うああああああ!!!!」

その大きな目が、自分の醜さとみじめさを何よりも映す。
こらえきれない衝動に、私は叫んだ。
苦しくて苦しくて、叫んでいないと息が出来ない気がした。
それでも、この苦しさはなくならない。

「芙美!」

父の大きな手が、私の頬を強く打つ。
けれど、それは痛くない。
もうそんな些細な痛みは感じることはない。

「何をするんだ!この出来損ないが!」
「芙美さん!どうしてこんなことを!」
「うるさい!うるさいうるさいうるさい!!」

うるさい、うるさいうるさいうるさい。
うるさい雑音。
もう貴方達なんていらない。
貴方達が私を捨てるなら、私も貴方達はいらない。
私なんていらないんだから、もう貴方達にどう思われようと関係ない。

「あんたがいなければよかった!あんたなんていなきゃよかった!あんたがすべてを取っていく!」

妹をもう一度打とうとして、父にとめられた。
代わりに妹に対して呪いの言葉を吐き出す。
そうしても、この現実が代わるわけもないのに。
ただ、自分を更に惨めにするだけなのに。

「芙美!なんてことをするんだ!」
「うるさい、もういや!いやだ!信じてたのに!お父さんもお母さんも、お祖父様も、信じてたのに!」

信じていた。
希望を持っていた。
今は駄目でも、きっと分かり合えると。
きっと、私も愛してくれると。

そう、信じていた。

「……少しは私のことを見ていてくれると、信じていたのに…っ」

私が悪いかっただろうか。
何が悪かったのだろうか。
いつから、こうなってしまったのだろうか。
何を、すればよかったのだろうか。

もう分からない。
もう、どうでもいい。
もう、何もかもいらない。

「もう皆いらない!!もういらない!!消えて!消えてしまえばいい!!」



***




そのまま家を飛び出して、私はそこを目指す。
穏やかな一週間を過ごした、小さな一戸建て。
私の心と体を癒した、幼い姿の男がいる家。

「やあ、芙美さん、どうしたの?」

変わらない無邪気な笑顔で、彼は私を迎えた。
走ってきたので、服も髪も乱れている。
きっと、私はひどい形相をしている。
何かがあったなんて、一目で分かる。
それでも、彼は変わらない。

落ち着いた、嘘くさい笑顔を浮かべて、家の中に招き入れる。

「…っ…なんで!なんで!」

いつものリビングで、ソファを勧められるのも振り払ってそう切り出す。
すべてを聞きたくて、でも何から聞けばいいか分からない。
何もかもが、分からない。
言葉にできない思いが、もどかしく私はその言葉を繰り返す。

「どうしたの?芙美さん、」
「触らないで!」

にこにこと笑って、私の頬に手を伸ばす。
力いっぱいその手を払いのけた。
こんな時でも、彼は笑顔を崩さない。
この笑顔が、ずっと信じ切れなかった。

「どうしてよっ!!」
「どうして?何がかな?」

時折見せる大人びた笑顔で、腕を組む。
そばかすを浮かせた、まるで小学生のように幼い少年。
けれど、ちらりと唇を舐める様子は肉食獣のような残酷さを潜ませていた。

「学校で付きまとって芙美さんを苛立たせたこと?勝負を持ちかけて限界まで追い込んだこと?壊れていく芙美さんが分かっていたのに、それに手助けしたこと?千津ちゃんに近づいたこと?千津ちゃんと付き合っていること?千津ちゃんに勉強が芙美さんを追い詰めてることを伝えたこと?」

楽しそうに指折り数えて、一つ一つ告げていく。
闇に、足から飲まれていく。
自分より小さな少年が恐ろしくて、一歩後ずさる。
まるで知らない人間のようだ。
こんな人は知らない。
私は、こんな人は知らない。

「……全部」
「そう、全部分かっていてやったことだね」

なんとか搾り出した声が、かすれてざらざらとしていた。
しかしそんな私の動揺なんて気にもせず、彼はあっさりと答える。
ずっと見守ってくれていた。
答えを聞いてくれた。
答えを待ってくれた。
私の欲しいものを、すべてくれた人。

「嘘は言ってないよ」

くすくすと笑う彼は、いつもと変わらないのに。
無邪気な笑顔は、何度も見ていたものなのに。
目の前にいる、この男は一体誰だ。

「芙美さんが好きなのは本当、芙美さんを見ていると苦しくなるのも本当、千津ちゃんにだって嘘は言ってないよ。それがどういう事態を引き起こすかは、分かっていたけれどね」

再度、手を伸ばされ頬に触れられる。
彼に触れられる時はいつでも、ゾクリと不快感が走る。
けれど、振り払うことすら出来なかった。

「とても楽しかったよ、芙美さん。芙美さんが追い詰められてボロボロになっていくのも、すべてを失って壊れてしまったのも、そこからしぶとく回復して俺に笑顔を見せてくれるようになったのも、俺に心を許してくれたのも」

真っ黒になっていく。
頭がくらくらする。
世界が回る。
目の前の男の顔が歪む。
すべてが、壊れていく。

「芙美さん、強情だから苦労したけどね。俺も頑張ったよ、超勉強したし」

一歩距離をつめられる。
体が強張って、動くことが出来ない。

「でも楽しかったよ。今、また全てを失って絶望している姿も」

顔を寄せられて、耳元で高く甘い声が囁く。
息を吹き込まれて背筋に寒気が走った。

「大好きだよ、芙美さん。芙美さんを見ていると、苦しいよ。ゾクゾクする」

そっと体を離すと、視線を合わせてくる。
その目を見て、背筋に寒気が走って体が震えた。
ああ、この人の笑顔がずっと嘘臭かったのは、目が笑っていなかったからか。
冷たいのとは違う。
どこか、暗いところを見ている深い色。

「ねえ、芙美さん、愛と憎しみってどっちが強いと思う?」

それはいつか投げかけられた問いかけ。
分からない、と答えた。
私には人を愛したことも憎んだこともないから。

「俺はね、憎しみのほうが、強いと思うんだ」

あの時、私と同じように分からないと言った男は今度は答えを口にする。
彼は何を言っているのだろうか。
あの時も分からなかった。
今も、分からない。

「いや、ちょっと違うかな、愛ゆえの憎しみ?可愛さあまって憎さ100倍って奴?」

くすくすと、無邪気に笑う。
いつものように、笑う。
私はそれを見て、暗いところに引き込まれていく。

「ねえ、芙美さん芙美さん。俺のことが好きだったでしょう?俺、芙美さんに優しくしたもん。嬉しかったでしょう?好きになったでしょう?俺が一番好きでしょう?」

あなたに、感謝していた。
伝えきれない溢れる想いを告げたかった。
あなたといると、安らいだ。
確かにあなたは、優しかった。

「それで、俺に裏切られてどういう気持ち?ねえ、俺が憎い?殺したいほど憎い?」

加賀谷に向ける感情。
そんなものはすでにもう自分でも分からない。
この男をどうしたいかなんて、分からない。

分からない。
分からない。
分からない。

ただ、逃げ出したい。
この男から、逃げ出したい。
この暗い目をした男から、逃げ出したい。
飲み込まれてしまう。
暗いところに、引きずり込まれる。

「ほら、そこにナイフがあるよ。前に一緒に林檎を食べたね」

息のかかるぐらい近くにいる加賀谷が顎で後ろを指す。
私の後ろには、ガラスで出来たローテーブル。
ここで、2人でご飯を食べた。
温くて、美味しいご飯を食べた。
毛足の長い絨毯がふわふわして、心地よかった。
風が吹くと流れる川の音が、ゆったりと眠りへ誘った。

「楽しかったね、芙美さん、一緒に過ごしたあの一週間」

あの日、林檎を剥いてくれたナイフが、果物籠に入っている。
一緒に海にいった。
一緒に料理を作った。
笑いながら、一緒にすべてをした。
楽しかった。
穏やかだった。
だた静かだった。
ありったけの勇気を、振り絞ろうと決めた日だった。
目の前の男は、笑ってそれを受けてとめてくれた日だった。

「う、わ、ああああああああ!!!!!」

恐怖から逃れるためか、怒りからか、憎しみからか、哀しみからか。
鞘から抜けたナイフを、後ろ手にとって、目の前の男へと払った。
男は避けようともせずに、ただ薄く笑って手を広げるような仕草をした。

「…っつ」
「あ…、いや、あ…」

毛足の長い絨毯に、赤い赤い色が散る。
手に持ったナイフに、血が伝う。
加賀谷の薄いTシャツが避けて、胸に一線赤い筋が走っている。

血は怖い。
人を傷つけることは、怖い。
体が抑えきれないほど震える。
震える手から、ナイフが転げ落ちた。

「……これだけ、芙美さん?」
「いやあああ!!!」

残念そうに、胸の傷をなぞる加賀谷。
痛みに眉を寄せているけれど、やっぱり彼は笑っていて。

私は逃げた。
振り返らず、ただ逃げ出した。
無様にみっともなく、すべてから逃げ出した。

何もかも見たくなかった。
もう、何も残っていなかった。





BACK   TOP   NEXT