「私にも、手伝わせくれませんか?」

潮風でベタベタになった髪や体を綺麗に洗ってリビングに向かう。
すでに台所で夕食の準備をしていた彼を見かけ、そう声をかけた。

海辺の街で、一緒にシーフードを買い込んだ。
食材を買うというのも始めての経験で、とても新鮮だった。
魚の名前なんて全然分からない私に、加賀谷は楽しそうに一つ一つ説明して、魚を買う時のコツなんかも教えてくれた。
本当に賢い人っていうのは、確かにこういう人なんだと思う。
なんでもできる、器用な人。

「芙美さん、手伝ってくれるの?」
「はい…、やらせてくれませんか?」

楽しそうに材料を切り分けていく彼を見ていて、興味を持った。
それに、自分が買った食材がどんな風に変わっていくのかが知りたかった。
勉強しか知らなかった私が、他の何かに興味を持つなんてもしかして初めてだったかもしれない。

「もちろん!」
「あ、ただ料理なんて調理実習でしかやったことないから…」

間違いなく、手伝うなんてものじゃない。
むしろ足手まといになるだろう。
それも彼は拒んだりしない、嬉しそうに笑ってたまねぎを私に差し出した。

「いいよ、一緒に作ろう!きっと楽しいよ!」
「はい」

そうして2人でどうにかこうにか作り上げたのは、魚介をいっぱいつかったパスタ。
コンソメスープにシーフードサラダ。

私の作ったスープはインスタントなのにはずなのになぜかしょっぱいし、私の切った材料は不揃いすぎて食べにくい。
それでも、楽しかった。
笑いながら、誰かと一緒に何かをするのが楽しかった。
指示をされて、失敗して、味見をしあって、笑われて、笑って。
きっと彼1人で作るより、ずっと手間がかかっていた。
それでも、彼も楽しそうにしていてくれた。

そういえば、妹は母とよく一緒にお菓子作りをしていた。
あの楽しそうな様子を思い出す。
今楽しい気持ちと、きっとそれは一緒なんだろうか。

「………おいしい」
「自分で作るとやっぱり違うでしょ」
「はい」

パスタとサラダは加賀谷が味付けをしたので、文句なしに美味しかった。
でも、しょっぱいスープも、食べにくいパスタの具材も美味しかった。
美味しいと感じたのが、久々だった。
ここにきて、温かさと味を感じるようにはなっていたけれど、頭で考えて言うのではなく、心から食事を美味しいと言ったのは、久々だった。
私は今日の食事を行儀が悪いぐらい沢山食べた。

お腹が満たされて、心地よかった。
一緒にお茶碗を洗って、楽しかった。
リビングに座って、耳に馴染んだ川の音を聞く。
とても、穏やかな気分だった。

だから、食後に加賀谷が剥いてくれた林檎を食べながらそれを告げることにした。
6月の海でひそかに決心した、そのことを。

「加賀谷君」
「はい?」
「私、明日家に帰ろうと思います」

うさぎの形に剥いた林檎を銜えたまま、加賀谷は言葉を失った。
一瞬動きを止めてそれからゆっくりと林檎を咀嚼して飲み込む。

「………そっか」
「はい、帰ってどうしたらいいか、まだ分からないけれど」

分からないけれど、それでも帰る決心がついた。
いつまでも逃げていられない。
さすがにこれ以上ここにやっかいになっているわけにもいかない。
ここは居心地が良すぎて、甘えすぎてしまいそうだから。

「大丈夫?」
「分かりません。正直、まだ家族に会うのは怖いです」

重く息苦しく冷たい家。
そこに帰ることを考えるのは、心がすくむ。
彼らが私を受け入れてくれるとは思わない。
それでも、やっぱり諦めきれない。
もう一度、ちゃんと話さなければいけない。

「帰って、とりあえずどうするの?」
「……もう一回、勉強をしてみようと思います」

何をしようとして思いついたのはそれしかなかった。
再度、勉強に向き合ってみようと思ったのだ。
私はそれが好きなのか、嫌いなのかすら分からない。
家族に認められたからやっていただけで、本当はやりたくないことなのか。
それとも、それ以上に何かあるのか。
とりあえず、それを見つめてみようかと思ったのだ。

「そっか」
「はい」

私のやりたいことをつたないながらに、一生懸命説明する。
彼には、知っていて欲しかったから。
ここにいて、私はどう考えるようになったのか知っていて欲しかったから。
加賀谷が待っていてくれた答えを、伝えたかった。

「でも、無理だけはしちゃだめだよ」
「はい。食べて寝て、遊びます」

私の珍しい茶化した言葉に、加賀谷は優しく笑った。
そして頭を撫でてくれる。
それだけで、彼が私の答えを受け入れてくれたのが分かった。

幼いそばかすを浮かした、まるで小学生のような同級生。
けれど私よりずっとずっと大人で、何もかもができる器用な人。
1週間前からは考えられないほど、彼を近く感じた。
ずっと嫌いだった人との、奇妙な同居生活は、終わりを告げる。
それに寂しさを感じている自分が、意外だった。
しかし、嫌な気持ちではない。

木曜日に彼の家に転がり込んで、5日間過ごした。
長くて、けれどあっという間だった気がする。
何かが変わったとは断言できない。
しかし、最初の日のように、みじめで苦しくて自暴自棄な気持ちはない。
ただ、静かで落ち着いていた。



***




次の日の朝、朝食とった後、私は家に帰ることにした。
登校時間にかぶると変な目で見られるので、少しだけ時間をずらした遅い時間。
加賀谷が家の前までついてきてくれるというので、一緒に家に向かう。
家に近づくと、門の前で誰かが立っているのが目に入った。

ふわふわの髪、大きな目、華奢な手足のかわいらしい少女。
平日だというのに、学校へ行きもせず妹はきょろきょろと辺りを見渡している。

「千津…、どうして?」
「お姉ちゃん!」

妹は顔をくしゃりとゆがめると、私に向かって駆け寄ってくる。
何がなんだか分からず、私は飛び込んでくる軽い体を受け止めた。

「…だめじゃない、そんなに走っちゃ」
「そんなのどうでもいいよ!」

体の弱い妹の走る姿はあまり見かけない。
全力で走り、飛びついてきた妹をぼんやりとたしなめると、背に回る手にぎゅっと更に力が入る。

「すっごい心配したんだよ!携帯かけてもでないし!私がお姉ちゃん怒らせちゃったから!ごめんね、ごめんねお姉ちゃん、ごめんね」

大きな目から涙がぼろぼろとこぼれてくる。
そういえば、妹は泣き虫だった。
ずっとずっと小さい頃、泣く妹を慰めた覚えがある。

「千津……」

温かく軽い頼りない体。
それでも強い力で、私にしがみ付く。
純粋な好意をぶつけてくる。

家族の中で、私を心配してくれていたのは、妹だった。
好きだといってくれるのは、妹だった。
駆け寄ってくるのは、妹だった。

妹の純粋な好意が煩わしかった。
素直に、私を好きだという妹が嫌いだった。
躊躇いもなく泣いて、笑える妹が羨ましかった。
感情を周りの人間に伝えることができる妹が、妬ましくて憎かった。

「ごめんね、お姉ちゃん、ごめんね」
「……ううん、ごめんね、千津」

複雑な感情は、消えない。
こんなにも私を慕う妹を、やっぱり好きだとは思えない。
ちっぽけで情けない私。
それでも小さい頃のように、この温かさが心地よいと、少しだけそう思った。

「なんで今日帰ってくるって?もしかして毎日ずっと待ってたの?」
「あ、あのね、加賀谷さんがね、電話してくれたの。毎日、お姉ちゃんは大丈夫だよって、電話で私に連絡してくれてたの」

涙で濡れる妹の顔を指で拭って聞くと、妹は意外なことを口にした。
そして私の後ろにいる人間に視線を向ける。

「え?」

その言葉に驚いて後ろを振り返ると、加賀谷がにこにこと無邪気に笑っていた。
そういえば、携帯を一昨日貸した気がした。
その時に妹の携帯番号を知ったのだろうか。

「こんにちは、千津ちゃん」
「あなたが、加賀谷さんですか?ありがとうございます!」

妹は私から離れると、まるで同い年のように見える少年に近寄る。
頭を下げる妹に、加賀谷はそのふわふわの髪をぽんぽんと撫でた。
私にしてくれたみたいに。
ほんの少し、妹を加賀谷から引き離したい衝動に駆られた。

「かわいい妹さんだね、さすが芙美さんの妹だ」
「………」

その言葉に、ざらっとした感情が胸をつく。
妹を褒められるのは、あまり好きではない。
まして、加賀谷がそれを口にするのは、なんとなく嫌だった。

「それじゃあね、千津ちゃん、芙美さんをよろしく」
「はいっ!」
「芙美さん芙美さん、また明日学校でね」

加賀谷はもう大丈夫だと思ったのか、最後に私の手を握った。
その温かさはわずかに不快で、そして心強かった。

家族へ挨拶をしようか、とも言われたがさすがに男のクラスメイトの家でずっと泊まっていたなんて言ったら大問題だろう。
私は頷いて決意を示すと、彼は温かく微笑んでそれを受け入れた。

加賀谷は手をふって去ると、今度は妹の小さな手が私の手をとる。
咄嗟に振り払いそうになったが、それを抑えてその手を握り返す。

「じゃあ、行こうお姉ちゃん」
「………うん」

目を伏せて、深呼吸をする。
大丈夫だ。
この5日間で、ゆったりと私は自分を取り戻した。
きっと今はもう、私は壊れることはない。



***




祖父と父に強かに殴られた。
母に、泣きつかれた。

篠崎の名に泥を塗るなと、そうなじられた。
こんなことで逃げ出すなと、叱られた。
怒号と泣き声が薄暗く重く冷たい家に響き渡る。

やはり、苦しくて、悲しい。
何よりも家を大事にして、私を見てもらえないのが辛い。
妹に庇われるのが屈辱で、その妹を褒める家族を見ているのが嫌だった。

でも、心は思いのほか静かだった。
罵られても、殴られても、自分でも驚くほど強い感情がわきあがってくる。
負けるものかと、自分自身を奮い立たせる。

「本当に申し訳ありませんでした。少しだけ考えたかったんです」

私の声はやっぱり彼らには届かない。
自分自身でも分かってない想いを、彼らにわかってもらうことは出来ない。
改めて、もう一度だけ自分を見つめて、そしてもう一度彼らと話そう。

希望が生まれていた。
きっと、いつか、分かってもらえると、信じていた。



***




静かに変化がなく時間が流れた。
それでも私の中では変化が徐々に現れていた。

毎日、勉強をした。
それは今までのように、何もかもを投げ捨てるような生活ではなかった。
きちんとした食事をとり、深い睡眠をとり、時間を決め勉強をした。
たまに買い物をして、食事を作ったりもした。
慣れない調理は散々な結果だけれど、なぜか美味しく感じた。
勉強時間は減っているのに、驚くほど効率は上がり目に見えて成績はあがった。

祖父や、両親はいまだにほとんど口を利かない。
母だけは少し態度が軟化してきて、料理を作るようになった私と一緒にご飯を作ったりした。
よそよそしく、ぎこちなかったけれど、それはとても楽しかった。
母と、一緒に何かができるのが、すごくすごく嬉しかった。

妹と話すようになった。
好きな音楽や読んでいる本。
体育が出来ないのがつまらなくて、皆に置いていかれるのが悲しいという話。
妹も、苦しみを抱えているのが分かった。
分かっていたけれど、改めて聞いて素直に労わりたいと思った。

そして、恋の話。
妹は誰かに恋をしているらしい。
頬を染めて楽しそうに、誰だかわからない想い人の話をする。
恋という感情は、私にはまだ分からなかったが、その話をする時の妹はいつもよりずっとかわいらしくて、温かな気持ちになった。
きっと恋とは、素敵なものなのだろう。

昔はくだらないと切り捨てていたものに、興味をもち肯定できる。
その自分の変化が、心地よかった。

妹への複雑な感情は消えない。
祖父と両親と一緒に話している姿を見ると妬ましくて、かわいい顔をひっぱたいてやりたくなる。
それでも、少しづつ関係はいい方向へと向かっていた。

きっと、祖父と父も、分かってくれると、信じることができた。


***




そして、1学期の終わりの期末試験。
私は1位をとった。

嬉しかった。
ただ、純粋に嬉しかった。
自分の努力したものが、結果として形になったのが嬉しかった。
祖父や両親に認められようとした訳ではなく、褒めてもらおうとしたしたわけではなく、ただ純粋に自分の努力が誇らしかった。
私は、一番にそのことを伝えたい人を探して校舎内を走り回る。
その人は、人気のない昇降口にいた。

「加賀谷君!」

思わず声をあげて駆け寄ると、彼は電話中だった。
にこにこと笑いながら、甘く高い声で電話の向こうの人と楽しげに話している。
少しだけ、その光景を見て不可解なざらりとした感情が胸をつく。

「あ、本当!すごいね。うんうん、うん、頑張って。応援してるから、うんいつでも俺は味方だよ」

私を見て、ちらりと微笑みかけると2,3言別れの言葉を告げて電話を切る。
そして向かい合っていつものようにうそくさい無邪気な笑顔を私に向ける。

「どうしたの、芙美さん?」
「…あ、ごめんなさい、電話中」
「ううん、いいよ、どうしたの?」
「あのね、期末試験、1位になりました」
「おお、さすが芙美さん!」

思っていたように、彼は自分のことのように大げさに喜んでくれる。
そうしてくれるとは思っていたけれど、本当にそうしてくれて笑顔がこぼれてくる。
喜びを共有してくれる人がいるということが、こんなに嬉しい。

「うん、すごく、嬉しいです」
「うん」
「安心しているんじゃないの、これで許されるって、安心じゃないんです。ただ、嬉しいんです」
「そっか」

ぽんぽんと頭を撫でられる。
子供のような外見の彼に、子供のように褒められあやされる。
でも、それは以前のように苛立ちを覚えるものではなかった。
胸が、温かい気持ちでいっぱいになる。

「…ありがとう」
「俺は、何もしてないよ」
「ううん、でも、ありがとう」

伝えたい感謝は沢山ある。
見捨てないでいてくれてありがとう。
世話を焼いてくれてありがとう。
考えを聞いてくれてありがとう。
考える時間をくれてありがとう。
私の、傍にいてくれてありがとう。

伝えたいことはいっぱいあるのだけれど、溢れる想いはただその一言でしか言えなかった。
それでも彼は笑ってくれた。



***




私は駆け足で家に帰る。
弾む心が抑えきれなくて、自然と頬が緩む。
昔々、田舎に行っていた両親と妹が帰ってくる日のような、そんな晴れ晴れしい気分。
家までの距離が、待ち遠しい。

『それで、芙美さんはどうしたい?』

意志を聞かれた。
はじめて、答えを待っていてもらえた。

ねえ、加賀谷君。
私はやっぱり医者になりたいんです。
命令されるからではなく、義務感からではなく、やっぱりなりたいと思うんです。
それだけしかないから、というわけではなく、それをやりたいと思うんです。
それを見つめているうちに、いつしかそれは本当に私の夢になっていました。
最初はただ純粋に、医者になりたいと思っていたんです。

それを今から、あの人たちに伝えようと思います。
そして。
例え、それがなくても愛して欲しいと、家族として見守って欲しい、とそう告げようと思います。
貴方達の思うように、私は出来ないかもしれない。
けれど、私は貴方達が大好きです。
だから、貴方達も私を好きになってくれると嬉しい。
たとえ分かってもらえなくても、何度でも伝えようと決めたんです。

そして、それを彼らに伝えることが出来たら、あなたにも言いたいことがあるのです。
溢れすぎて伝えきれない感謝。
それと、それ以上の、何かを。

このちっぽけな勇気を、あなたは喜んでくれるでしょうか。





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