梅雨時の6月の海は、人気がなかった。 空は今にも雨が降り出しそうなほどどんよりと曇って、すべてを灰色に変えている。 電車を1時間半乗り継いでやってきた、ちょっと遠くの海辺の街。 夏は海水浴で賑わうだろうそこは、ただ静かに色褪せた景色を横たえていた。 「やっぱまだ人がいないねー」 「………海」 写真なんかで見るのとは違う、青い空青い海はない。 灰色の暗い雲、それを映してやはり灰色の水の連続。 けれどそれは大きくて、広くて、果てなく遠くまで見渡せるのが新鮮だった。 「あれ、海初めて?」 「はい、初めてきました」 「そっか、泳げなくて残念だなー」 そう言って加賀谷は海に向かって駆け出す。 途中で靴と靴下を器用に脱ぎ捨てて、水に足を浸した。 「うわ、つめた!」 「……冷たいですか?」 私もぶかぶかの加賀谷のスニーカーと靴下を脱いで小走りに水に向かう。 足をばしゃばしゃと動かして楽しんでいる加賀谷の隣に並ぶ。 浸した途端冷気が伝わり、ゾクゾクと肌が粟立って思わず小さく声をあげる。 波と共に足の下の砂が掬われるのが、ちょっと面白かった。 冷たさを、感じるも久々だった。 加賀谷の家に来て、思い出すことや、始めて知ることばかりだった。 食事の味、お風呂の温かさ、毛布の柔らかい手触りに、深い睡眠。 体調を気遣われること、身なりを整えることを注意されること、考えることを促されること、答えを待たれること、答えを押し付けられないこと。 そして今は、初めての6月の海の、水の冷たさ。 「海には、よく来るんですか?」 「ふふ」 何気ない疑問を投げかけると、加賀谷は嬉しそうに大きな目を細めた。 その笑顔があまりにも優しげだったから、私は面食らう。 「……私、何かおかしなこと言いました?」 「ううん、少しづつ、俺のこと聞いてくれるようになったでしょ、それが嬉しくて」 確かに、以前はこの男のことなんてどうでもよかった。 視界から消えて欲しかった。 存在を消し去ってしまいたかった。 興味なんて、ひとつもなく、ただわずらわしいだけの存在だった。 それが、今では一番近い位置にいる。 改めて考えると、それはとても不思議なこと。 この男が好きではない。 けれど、彼が何を考えているのか少し知りたかった。 「……海は、好きなんですか?」 「うーん、どうだろう。月並みだけどなんかでっかい海見てると、悩みとかどうでもよくなるよね」 彼の言うとおり、この果てが見えない灰色の水を見ていると、とても自分が小さく頼りないもののように思えてくる。 それは大きなものに包まれる安心感。 けれど、同時に取り残されたような不安を感じた。 そんなことを考えていると、彼が言葉を続ける。 「でも、自分がものすごいちっぽけに感じて寂しくてちょっと嫌なんだよね」 「………え?」 「何、そんな驚いちゃって」 「……あなたでも、そんなことを感じるんですね」 彼の言葉がとても意外だった。 以前のように軽薄で何も考えていない馬鹿だとは思わないけれど、いつでも自信に満ちて悩みなんてないような彼が悩みを感じていること。 そして、私と同じことを感じているのが、信じられなかった。 「俺だって人間だもんよー」 「そう、ですよね……」 「なんだよ、それ」 私の呆けたような答えに、加賀谷は特に気を悪くしたようなこともなく、くすくすと笑う。 そう、目の前の男も人間なのだ。 私と同じように、悩んで苦しんで、自分がちっぽけだと感じている。 そんな当然なことを改めて知って、何か心の中がざわつく。 いつだって不可解な隣の男が、少しだけ近く感じる。 「あなたは、大勢の人に囲まれて、いつも笑っていて寂しいなんて感じないと思った」 男女問わず好かれて、そして彼自身もまっすぐ好意を表して、いつも楽しそうで。 彼がふざけて笑う姿を、苦々しい気持ちで見ていたことを思い出す。 自分とは、対極にいる人間だと思っていた。 しかし加賀谷は別人のように大人びた顔で笑うと、水を蹴り上げる。 散った飛沫が、白く光ってガラスのようだった。 「夜の街とか、嫌い。ネオンがいっぱい光っててさ、ビルも明かりがいっぱいで、沢山の人がいるんだって分かって安心するだけどさ、その中の誰も、自分のことを知らないんだって感じる。何百人、何千人って人がいるのに、俺のことを知っている人は1人もいないんだ。怖くて怖くてたまらなくなる。誰も、俺のことを知らないし、誰も俺のことを気にかけない」 この人はいつも笑っている。 今も、静かに笑っている。 でも、それがどこか空々しく感じる。 いつもこの人に感じる、うそ臭さをより強く感じさせた。 「俺は、大勢の誰かに囲まれるより、こうして誰かと向き合っている方が好き。ちゃんと見て、触って、ここにいるんだって感じてるときが、一番安心する」 向かい合って、大きな手が私の手を包む。 潮風に晒された手はいつもより冷たかったけれど、やはり温もりを伝えてくる。 わずかな不快感。 けれど、私も手に力をこめた。 「……加賀谷君」 「はい?」 「加賀谷君は、なんで私をこんなに気遣ってくれるんですか」 それは、ずっと気になっていたこと。 私なんか、なんの価値もない。 そう、家族すら気にかけてくれない、役立たず。 しかも彼に対しては、いつもひどい態度ばかりだった。 差し伸べた手を振り払って、笑顔を切り捨てて、優しい言葉を拒絶した。 それなのに、めげずにずっと傍にいてくれたのは、確かにこの人だ。 「そうだなー、そりゃ芙美さんが好きだからかな」 「それが、分かりません」 好きになる理由なんてない。 好きになってもらう要素なんてない。 私は人を不快にはさせるだろうけれど、人を楽しくさせることなんて出来ない。 「うーん、まずは名前かな」 「名前?」 「母さん、文香っていうんだよね、だから芙美って名前がまず気に入った。俺マザコンだからー」 茶化していうけど、彼には母親がいないことを思い出す。 明かりの少ない、綺麗に整った家。 彼の家で過ごす間、他の誰かが姿を見せることはなかった。 何かを思ったわけじゃない。 でも、握った手に、更に力をこめる。 加賀谷もそれに気付いて、少し笑って握り返される。 「後はね、芙美さんの俺を蔑む目が最高」 「……はい?」 「前にも言ったじゃん、俺変態なんだってば」 「……?」 「去年の、2学期の期末だったかな。成績表の前で成績下がったって騒いでたらさ、芙美さんがものすっごく軽蔑した目で俺らを見て通り過ぎてったんだよね」 「………」 「それがすごい印象に残ってた」 「……それで、私を?」 思い出しているのか、くすくすと笑う加賀谷。 そう、私は成績を下がったことを冗談にして笑っている同級生が大嫌いだった。 それをして許される環境が、妬ましかった。 「それでね、それ以上にいい成績を収めたのに、全然嬉しそうじゃなかった芙美さんがもっと印象に残ってる」 「え?」 「芙美さんあの時、ただ安心したというようにため息ついてた、すごい辛そうな顔で」 成績が上がって嬉しいと思ったことはない。 上位の成績を収めるのは当然のことで、わざわざ喜ぶことでもない。 誰も褒めることはないし、いい成績を収めてようやく許された。 「それから見るようになってたんだよね、なんかいつ見てもお腹空いたような顔して」 「……お腹すいた?」 「お腹すいたっていうか飢えた顔っていうのかな」 そうなだろうか。 彼がそういうならそうなのかもしれない。 私は確かに、ずっと飢えていた。 何に。 答えはずっと気付かない振りを続けてきた。 けれどそれはもう、すぐそこにある。 「お腹いっぱいにさせてみたいなーって思ってた」 やっぱり彼の思考は理解不能だ。 分からないことは気持ち悪い。 どこかうそ臭い、彼の言葉がざわざわと落ち着かない。 戸惑う私に、彼はやっぱり無邪気に笑った。 「ねえ、芙美さん芙美さん?愛と憎しみってさ、どっちが強いと思う?」 「………え?」 「誰かを愛するのと、誰かを憎むのって、どっちが強い感情なんだろうね」 唐突で思いがけない質問に、すぐに答えることができない。 冗談なのか、本気なのか、彼の態度からは判別が付かない。 それでも、彼は私にずっと本気で向き合ってくれた。 だから、私も少し考えてから真摯に答える。 「………分かりません。私は、誰かを愛したことも、憎んだことも、ない」 「そうだよね。そりゃそうだ、俺ら中学生だし」 納得したように何度も何度も頷く。 幼く小学生のような姿からは想像できない、大人びた笑顔。 落ち着かないざわざわとした気持ちが、強くなる。 「あなたは?」 「え?」 「加賀谷君は、どっちが強いと思うんですか?」 そうやって返ってくるのは予想もつくはずなのに、その時加賀谷は心底驚いた顔をした。 彼らしくなく言葉を失って、じっと私の顔を見つめる。 それからうつむいて、揺れる波を視線を移す。 「………俺も、分からないや」 苦い笑いを含んだ小さな擦れた声が耳に辛うじて届いた。 私は何がなんだか分からず、曖昧に頷く。 彼に何か声をかけたかった、でも、何を言ったらいいか分からなかった。 だから手に更に力をこめる。 彼も改めて私の手を包み込みなおす。 その後は無言で、ただ手をつないで波打ち際を歩いた。 「それで、芙美さん」 「はい」 「芙美さんは、これからどうする?」 いつか聞いた言葉。 最初の日に、同じ問いかけをされた。 けれど、あの時と違って、今は答えが少しだけ見え始めている。 本当は見たくなかった。 けれど、見なくては先に進めない。 夢を見た。 加賀谷の家でまどろむ間、昔々の夢を見た。 母は私と妹、女しか産まなかった。 しかも妹は体が弱い。 そんな妹に母は付きっきりで次の子供を望むべくもなかった。 母は生まれたばかりの妹のために病院に泊まりこみ、静養に田舎に向かう。 父は忙しくて家には余り構わないが、時間を見ては田舎に向かった。 幼い私は祖父に預けられ、家政婦に育てられた。 寂しかった。 しょうがないことだといい聞かされても、寂しかった。 けれど、祖父は厳しくて、我儘や泣き言を許さない人だったから私は我慢するしかなかった。 祖父は父と母と私を責める。 父は祖父と衝突する。 母はただ泣いている。 そして父と母はより家に寄り付かなくなる。 それがただ悲しかった。 なんでそうなってしまうのか分からなかった。 けれど、物心がつくうちに、その理由が分かってくる。 病院を継ぐ、お医者さんがいない。 それがいけないのだと。 だから私は小学生にあがってしばらくした頃、教員に聞いた。 お医者さんになるにはどうしたらいいのだろう。 それは女でもなれるのだろうか、と 実直な教員らしく彼女は、なれる、と答えた。 いっぱい勉強を頑張れば、女の子でもなれる職業だ、と。 それは、その後の塾のテストだった。 私は勉強をすれば、きっと皆が笑ってくれるのだと思った。 お医者さんになれば、きっと祖父は機嫌がよくなって、父や母を怒らなくなり、父も母も妹も私の傍にいてくれるだろうと思ったのだ。 頑張って勉強して100点を取った。 それを握り締めて、家に向かう。 いつもは行儀が悪いと言われるけれど構わず、祖父の部屋に駆け込む。 何か祖父がたしなめの言葉を口にする前に、私はテストを突きつける。 『おじいさま、芙美は100点をとりました。芙美がおいしゃさんになります。だからお家は大丈夫です』 祖父は、きょとんと目を見開いた。 一瞬の後、厳格でいつも気難しい顔をした祖父が破顔した。 私を抱え上げ、大きな手で頭を撫でてくれた。 低く響く声で気持ちよさそうに笑う。 『そうかそうか、芙美はえらいな。いい子だ、芙美はいい子だ』 祖父が私に向かってそんな風に笑うのは、初めてで、胸がいっぱいになった。 自分は間違っていなかったのだ。 私が医者になれば、皆が笑ってくれるのだ。 これ以上、父も母も責められない。 そしてきっと幼い妹も責められることもない。 そのことを告げると、父も母も笑った。 私を褒めてくれた。 私を見てくれた。 『えらいな、芙美』 『芙美さんはいい子ね』 優しい手で頭を撫でられ、温かい言葉をくれた。 嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。 自分が皆を笑わせることができたのが、誇らしかった。 だから、私は医者になろうと、思ったのだ。 そんな温かい記憶。 「私は、認められて、愛されたかった」 「うん」 「褒めてほしかった頭を撫でて欲しかった、笑いかけて欲しかった」 「うん」 それで、私は最初の気持ちのまま、努力をした。 けれど、最初は褒めてくれた彼らも、私が成績を収めるのは当然なことになっていく。 勉強をすることは義務となり、義務を怠れば冷たく叱られる。 そして、見捨てられるのが嫌で、私は勉強によりのめりこむ。 勉強だけをしていた私は、笑顔を忘れ言葉を失い家族との関係を壊していった。 「勉強をしていたら、愛されると、思っていた」 でも、勉強だけをしているうちに、家族の中で私は勉強をする機械となっていた。 ただ、それだけの存在になっていた。 勉強だけをする機械。 機械を労わって愛する人間なんていない。 「何もしないで愛される妹が妬ましくて憎くてしょうがなかった。体の弱い妹を労わるふりして、同情して見下して自分を守った」 妹は家族へ笑顔や楽しい会話など、温かいものをあげた。 冷たい機械と、温かな人間、どちらを愛するかなんて分かりきっている。 「私は勉強をするだけで愛されると思って、訴えなかった、話しかけなかった、笑いかけなかった。ただ、妬んでいた」 そして自分を追い詰めて、体を怖し、家族の気をひこうとした。 訴えかけることができないから、訴えて嫌われてしまうのが怖いから、そうやってアピールした。 そんな自分に気付いてしまった。 浅ましく、卑怯な自分に気付いてしまった。 でも、そんな自分の非に気付くと同時に、心の底で納得できない。 こんなに頑張ってるんだから、認めてよ、と子供な私が叫んでいる。 「情けないですよね、納得できないんです、やっぱり。家族の愛は、無条件で与えられるものだと信じている。ただ笑っているだけの妹が愛されるのは不公平だって、思ってしまう」 加賀谷は何も言わない。 彼は何も言わない。 静かに笑って、見つめている。 けれど醜い私を、軽蔑する気配はない。 「自分が悪い、って思うの同時に、なんで私だけ、とか家族がひどい、とか悲劇のヒロインぶってしまうです」 加賀谷は急かさない、求めない、待っていてくれる。 海風はまだ少し冷たくて、加賀谷の手の温もりが少しだけ心地いいと思った。 |