私は、加賀谷の家で3日間眠って過ごした。 ただひたすら、眠くてだるかった。 加賀谷に与えられる食事をとり、服を着替えさせられ、言われるがまま入浴して、髪を乾かされた。 小さな子供のように何から何まで世話をされて、すべてを委ねた。 そして、それ以外の時間は、すべてを睡眠に費やした。 薬のせいもあったのかもしれない、けれど家にいる時には考えられないぐらい、眠った。 最初のうちは、よく悪夢にうなされ、飛び起きた。 ひどく汗をかいて、訳もない焦燥に叫び出す。 教科書と参考書を探そうとして、ベッドから転げ落ちて這いずり回る。 食事をとっていた時に、急に勉強をしなければいけないという脅迫観念に囚われる。 狂ったように暴れて、食事をぶちまけたりもした。 そんな時、加賀谷はただ私を抱き止めて落ち着くまで大丈夫だと言い聞かせる。 無理矢理栄養を取ろうとした時を思い出す牛乳を拒絶する私に、ココアを作ってくれる。 体が温まった私をリビングに横にして、窓を開ける。 開け放した窓から風が入り込んで、懐かしい川の音がする。 すると私は徐々に落ち着きを取り戻して、眠りにつく。 リビングが、一番よく眠ることができた。 毛足の長い絨毯と陽の光、そして川の音。 それが、私をゆったりと眠りに誘った。 加賀谷は世話を焼くけれど、特に何も言わない。 ただ、ほとんど答えない私に向かってとりとめのない会話をたまにして、後は本を読んだり料理をしていた。 その間彼も学校を休み、私に付き合っていてくれた。 最初の夜、一度だけ母から電話がきた。 『芙美さん、今どこにいるの?』 いつも穏やかでしとやかな母の、焦りと怒気を含んだ声。 期待に、胸が揺れた。 怒ってくれるだろうか。 心配、してくれただろうか。 けれど淡い期待は、次の母の言葉で予想通り儚く砕け散る。 「友人の家に…」 『これ以上困らせないで頂戴、もうそんな我がままを言う歳でもないでしょう。お祖父様とお父様は怒っていらっしゃるし、千津さんも心労で熱出してしまうし』 「…………」 『今なら私がとりなしてあげるから、早く帰ってらっしゃい』 お母さん。 ねえ、お母さん。 私は、怒られてもよかった。 いえ、怒られたかった。 なんで心配させたんだって、そう怒られたかったんです。 なぜ家を出たんだって、理由を聞いてほしかったんです。 期待していたのに裏切られた、と嘆かれたかったんです。 ただ、あなたたちを心配させたことを、怒られたかったんです。 「………お母さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」 『芙美さん、もう勝手なことはしないで頂戴ね』 「けれど、もう少しだけ家には帰りません。……帰れません」 『芙美さんっ!?』 私の言葉がよほど意外だったのだろう、母の珍しく大きな声が響く。 けれど私はそれを遮って、通話を終えた。 そして、携帯の電源を切ってしまう。 彼らはきっと体面を慮って、探したり捜索願いを出したりもしないだろう。 そんなことに確信を持つことが出来る自分がちょっとだけ悲しかった。 ずっと傍らで会話を聞いていた加賀谷が、電話を切った途端に声をかけてくる。 どこか大人びた、静かな声で。 「芙美さん、いいの?」 「はい…」 今帰っても、きっと一緒になってしまう。 私は彼らの関心を買おうとして、足掻いて足掻いて自滅する。 そして結局は、すべてを失ってしまうのだ。 それが、分かっていた。 「……なんで、私は千津のように、愛されないんでしょうか」 「千津?」 「妹です。かわいくて、素直で、無邪気で、誰からも愛されて。どうして、私はあんな風になれなかったんでしょうか」 意識しないまま、問いかけが口を滑り出ていた。 それはずっと胸にあったけれど、口に出すのがあまりにも屈辱的で、知らないふりをしていた。 自分が可哀想な妹に、負けていると思いたくなかった。 妹は、私より可哀想だと、信じていたかった。 本当は、自分の方が哀れだと分かっていたけれど、それに気付きたくなかった。 「どうして、千津は愛されて、私は愛されないんでしょうか」 「俺は、芙美さんが好きだけどね」 「あなたの言葉は、いつだってうそ臭い」 「ひどいな、本当なのに」 幼い顔の男の言葉は、いつでもどこか、嘘くさい。 ただの同級生とはいえないぐらい、世話になっている。 今静かな気持ちで、自分を見つめられるのは、彼のおかげだ。 彼に、今、支えられている。 それでも笑顔を崩さない彼の言葉を、信じきれない。 「芙美さんはそのこと、家族に言ったの?」 「……え?」 いつものように暴言を投げつけても、彼は動じることはない。 面白そうに笑うだけ。 そして柔らかに、けれど鋭く心に入り込む言葉を返すだけ。 「愛して欲しいって、私を見て欲しいって、話を聞いて欲しいって、言ったの?」 「…それは」 そんなこと訴えたことはない。 だって、千津は何もしないでも愛されている。 私はあんなに勉強して、努力しているのだ。 それなのに、愛されない。 体を壊すぐらい頑張ったのに、彼らは私を見てくれもしない。 それとも、私は何か、間違っていたのだろうか。 「そっか」 「……何が言いたいんですか?」 「ううん、別に?」 こうやって、加賀谷は時々私に疑問を投げかける。 それは、決まって私の心をかき乱す。 彼は答えは求めない。 答えを与えない。 ただ、投げかけるだけ。 相変わらず、彼は理解できない。 彼が何を考えて、何を望んで私の世話をするのか分からない。 理解できないものは薄気味悪くて、怖い。 加賀谷が気持ち悪くて、怖かった。 けれど、彼の言葉は私の堅く凍った心を、揺らす。 彼の料理は、食事を拒絶をしていた胃を柔らかく満たす。 綺麗に掃除された清潔なリビングが優しく眠りを促す。 ゆらゆらとした眠りが、ささくれ立った心を静かになだめて、染み渡る日差しが死んでいた細胞をじわじわと息を吹き返していくような気がした。 彼の作り出す環境が、私を少しづつ癒していた。 「顔色もだいぶよくなったし、熱もすっかり下がったね」 「はい、加賀谷君の、おかげです」 食べて、眠る。 それを繰り返すうちに、どこかリアリティのなかった世界が色を取り戻していった。 少しづつ、思考を停止していた頭が動き始める。 どうしようもない焦燥も、掻きたてられる情動も落ち着いていく。 静かに、自分を見つめることができるようになってきた。 自分がなぜこんなことになってしまったのか。 自分が何を求めていたのか。 自分が何がしたかったのか。 それは形にするのはあまりに辛かったけれど、はっきりとした輪郭を持ち始める。 隣にいる男が、それを手助けしてくれた。 彼の投げかける言葉が、仕草が、私に考える時間を与えた。 「そっか、元気になってよかった」 「……はい」 私の言葉に、加賀谷は無邪気に笑った。 笑うと幼い顔がますます幼くなる。 まるで小学生のように、悩みのない笑顔。 「じゃあ、デートしようか!」 「…はい?」 「約束してたでしょ」 その言葉に耳を疑った。 それはあまりに意外な言葉だったから。 「……本気だったんですか?」 「なんだと思ってたの?」 正直、からかっているのだと思っていた。 私を貶めるために、あんな賭けをしていたのだと思っていた。 今でも、その考えは捨てきれない。 でも今の彼の行動は、私を陥れるためにやっているとは思えない。 だからこそ余計に、彼が分からない。 「私なんかと、デートして楽しいんですか?」 「絶対楽しいよ!」 無邪気な顔でそう断言されて、わざわざ否定する気も失せる。 どうせ細かいことを聞いても、彼の考えは分からない。 それに、約束は約束だ。 今なら、彼と共に出かけることも、苦痛ではない。 相変わらず不可解なままだけれど、家族よりも近しい場所にいる、人。 「………どこへ行くんですか?」 「どこいこっか、うーん、そうだなー、あーそうだ、あれだこういう時行くとしたら、やっぱあれでしょ!」 |