「ダイエットとかしてるかい?」
「……いいえ」
「夜、眠れてる?」
「…………」

答えずにいると、深い皺の刻まれた初老の医者は軽く苦笑した。
年季の入った木造建築の診療室は、薬の匂いが染み付いていた。
篠崎の大きな総合病院とは違う、小児科と内科だけの小さな町医者。
私の他には老人が2人と、風邪を引いた幼児を連れた母親がいるだけのささやかな診療所。
幼い頃から診てもらっていると言って、加賀谷に連れてこられたのはそんな病院だった。

「過労と栄養失調と急性胃炎。まるでサラリーマンみたいだね」
「…………」
「眠れないようなら、眠薬を少し出すけど」
「…結構です」

隠しても、医者には私の体調なんてお見通しなのだろう。
人のよさそうな顔で微笑む彼は、長年多くの患者を見てきた確かな自信が見て取れた。
けれど、薬に頼って眠るのは怖かった。
自分が病人だと、認めてしまうようで怖かった。
ここにいる時点でそんなこと、否定するまでもないのだけれど。

「胃に穴を開けたくなかったら、ストレスはため込まないようにね」
「……ストレス」
「そう、血を吐く寸前だよ。悩みがあるなら心療の方を紹介するけど。相談ぐらいな意味でね」
「…………いえ、大丈夫です」

相談、何を相談すると言うのだろう。
自分が勉強ができないことを、相談するのだろうか。
そう言うと、医者はやはり苦く笑った。

「………そうか。じゃあ点滴打とうね。胃薬と解熱剤出すから、栄養があって消化がいいものを食べて、よく寝て、よく遊んで」
「遊ぶ?」
「そう、ストレスなんてためないぐらいにね」
「………はい」

遊ぶ。
遊ぶって、何をするんだっけ。
遊ぶというのは、何を指すんだっけ。
楽しいこと、だっけ。
私は、何が楽しいんだっけ。

私は勉強をする以外、他に何をしていたっけ。
覚えていない。

朝起きて、勉強して、学校へ行って、塾へ行って、帰って来て勉強して、眠る。
その合間に食事や入浴をするだけ。
それすらも、近頃時間が惜しくておざなりにしていた。

楽しいこと。
私は一体、何が楽しいと、思うのだろう。



***




「芙美さん芙美さん、どうだった?」

診察室から出ると外で待っていた幼い少年が駆け寄ってくる。
大きな窓から明るい陽が差し込む待合室の中、制服姿じゃないのが少しだけ不思議だった。

「よく食べて、よく寝て、よく遊べって言われました」
「なんだよそれ、相変わらずだなー、あのじいちゃん」
「……加賀谷君は、ずっとこちらに?」
「そう、大昔からね。ごめんね、篠崎病院じゃなくて。芙美さん保険証ないし、ここ融通利くから」

思ったよりも、本当に色々なことに気付く男だと思った。
無神経で自分さえよければいいタイプのお調子者だと思っていた。
けれど、昨日からずっと、彼は大人だった。
私よりもずっとずっと大人びて、気遣いのできる人だった。
私の戸惑いには気付かず、小柄な少年はそばかすを浮かせた顔で無邪気に笑う。

「さてと、んじゃ帰りにお昼ご飯を調達して帰ろうか」
「……はい」

なんで大嫌いなこの人と一緒にいるのか分からない。
素直に言うことを聞いているのか、分からない。
でも、勉強を失って何をしたらいいのか分からない私に、指示を与えてくれるのはこの人だけだったから。

「雑炊にしようか、まだ重いもの食べれないだろうしね」
「…………」

意外に大きな手が、私の手を取る。
相変わらず人の温もりは、慣れなくて鳥肌が立つほど気持ち悪い。
けれど振り払うのも面倒で、私はその手に従った。



***




日差しの差し込む明るいリビングで、言ったとおり卵の入った雑炊を2人で食べた。
今まで気にしていなかったけれど、料理は彼が作っているのだろう。
料理の味が美味しいまずいをあまり感じたことがない。
だからよく分からないのだけれど、彼の料理は、上手な気がした。
家で家政婦が作ってくれる料理に比べて材料が不揃いだったり、調味料の加減が大雑把だったりしたけれど、それでも中学生が作る料理とは思えないほどだった。

「それで、芙美さん、これからどうするの?」
「…………」

食事が終わって、買ってきた歯ブラシで歯を磨いて、薬を飲まされた。
私はすべてを彼に委ねて、ただ黙って静かに時間が流れるのを見ていた。
そしてふいに、いや、ついにそのことを問われた。

「家に帰る?」

家に、帰る。
それを想像しただけで、忘れていた胃の痛みが蘇った。
広く大きな家のイメージは、闇で覆われている。
まるで泥の入った水槽のように、息苦しくて暗くて冷たい場所。
父がいて、母がいて、そして妹と祖父がいる。
体が、震えた。

怖い。
まだ、帰りたくない。

「……もう少しだけ、ここにいても、いいでしょうか?」

自然と口をついて出た図々しい、願い。
一瞬、自分の言ったことをすぐに否定しようとした。
今まで散々罵倒して、拒絶して、そして今も嫌いな男に、願う。
それは、どれだけあつかましくみじめなことか、分かっていた。

けれど、やはり家に帰りたくない。
でも、家を出て、他に行く場所がなかった。
友達も、こんな時受け入れてくれる親戚もいない。
結局、目の前の男を頼るしかなかった。

「いいよ、別に」
「…………」

予想以上にあっさりと頷く、加賀谷。
あまりのためらいのなさに、こちらが呆気に取られてしまった。
自分で言ったことなのに、意外な答えに言葉を失う。

「あ、でも騒ぎになると困るから、家に連絡はお願いね」
「…うん」
「だったら好きなだけいれば?」

本当になんでもないことのように言うから、いいの?と問うことすら忘れてしまった。
やっぱり理解ができない、不可解な人。
どうして、私なんかをそこまで面倒を見るのか。
他人に関わることを拒んできた私には、彼の考えていることが想像すらできない。
無償の善意など、薄気味悪い。

そう思うが、それでも今は彼にすがるしか、ないのだ。
だから、抵抗はあったがただ彼の好意に感謝することにした。

リビングから出て、携帯を取り出す。
着信が入った様子は、ない。
目を伏せて、大きく息を吐き出して、家の電話番号を呼びこむ。
3回のコールの後、聞きなれた家政婦の声が響いた。

『はい、篠崎でございます。どちらさまでしょうか』
「………もしもし、北野さん?芙美です」
『芙美さんですか?どうされました?』

家政婦の声には、驚いた様子や焦った様子はなかった。
家族は、私のことを何も伝えていないことが分かった。

「……その、母はいますか?」
『奥様は千津さんが熱を出されたので付き添いで病院に行かれましたよ』
「……お父さんや、お祖父様は?」
『お二人とも、お仕事に行かれました』

胸に真っ黒いものがたまっていく。
ただ、あまり驚いてはいなかった。
少し予想していたことだったから。

あの人たちは私が携帯を持っていることを知っているはずだ。
それなのに、着信履歴も留守電も入っていない。
だから、このことは予想ができていた。

それでも胸にぽっかりと空いた空洞に、黒く重いものが広がる。
ほんの少しだけ期待していた。
あの人たちが私を心配してくれるんじゃないかと、期待してしまった。

期待した分、落胆は大きくなる。
だからやっぱり、心は血を流す。

そこで気付いた。
そうか、私はあの人たちに気にかけてもらいたかったんだ。
心配、して欲しかったのだ。

癇癪を起こす、小さな子供のようだ。
気を引きたくて、ワガママを言う。
自分の浅はかさがおかしくて、少しだけ笑った。

「……そうですか、では伝えておいてくれませんか。少しだけ友人の家に泊まる、と。学校も休みます」
『え、芙美さん?』
「すいません、よろしくお願いいたします」

家政婦が何かを言う前に、切電ボタンを押した。
大きく息をついて、黒くたまったものを吐き出そうとする。
そんなことをしても、何も軽くならなかったけれど。

空虚だった。
けれどどこか納得して、軽くもなっていた。

「大丈夫だった?怒られなかった?」

リビングに戻ると、加賀谷が首を傾げて問う。
怒られるなら、どれだけよかったんだろう。
学校を休んだことを、飛び出したことを、成績が落ちてしまったことを。

けれど、そこにあったのは無関心。

「大丈夫です。すいません、少しだけお世話になります。後でかかったお金を払います」
「まあ、その辺はあんまり気にしないでいいけど」

加賀谷はそれ以上深くは聞かなかった。
それがただ、ありがたかった。
家族の話を、今はしたくない。

そう言えば、昨日から加賀谷の家族を見ていない。
そのことに、ようやく気付く。

「…加賀谷君の、ご家族は?」
「今その質問なんだ」

疑問を素直に口にすると、加賀谷がおかしそうに笑う。
気付くのが遅いと言いたいのだろう。
私自身そう、思う。
ようやく辺りを見回す余裕が、出てきたということだろうか。

「…すいません」
「いいよ、芙美さんのそんなところ好き。うち母さんはいないし、父さんは仕事であんまり帰ってこないから。今は出張中で2週間くらい帰ってこないからちょうどいいよ。寂しくないしね」
「ああ、だからあんなに料理が上手なんですね」
「そこでそういう反応が返ってくるんだ!」

加賀谷の言葉を聞いて、私はただ、納得した。
お父さんと2人だから、あんなに料理が上手でなんでもできるのだ、と。
けれど私の率直な感想に、加賀谷はお腹を抱えて笑う。

「な、何か変な反応でした?」
「いやいやいや!今までにない反応だからさ!やっぱり芙美さんが好きだなー」

加賀谷が私を好きだというのは、嬉しくない。
それが本当ではないと、知っているから。
偽者の好意なんて私はいらない。

ひとしきり笑うと、加賀谷は目尻の涙を拭いながら再度問う。

「それでうちにいて、何したいの?好きなだけいてもいいけど、そういう訳にもいかないしね」
「………分かりません」
「そっか」

答えにもならない答え。
でも、男は許してくれた。
答えを聞いてくれた。
答えを、急がなかった。
答えを押し付けなかった。

「あ、そうだ、ここにいる間の条件、一つあった」
「………なんでしょうか」
「勉強はしないでね」
「…………」
「勉強したい?」

問われて、考える。
私には勉強しかなかった。
勉強だけをしていればよかった。
それだけしていれば、あそこにいることを許された。
私に望まれたのは、それだけだった。
どんなに焦っていても苦しくても、勉強をしていればどこか安心できた。
それさえ、すればよかったんだから。

「…勉強しないと、怖いです。どんどん取り残されていく気がする。何もかも失う気がする。怖くて怖くて、仕方ないです。すごい、不安です」
「うん」
「……でも」

私はもう、勉強をしなくて、いいから。

そう、突きつけられてしまったから。
今はただ、空っぽだった。
何も考えたくなかった。
勉強のことも、家族のことも、先のことも。

ただ、眠かった。
寝てしまいたかった。
心も体も、休息を訴えているような気がする。
このまま何も考えず、温かい日差しに包まれて、川の音を聞きながら、眠りたかった。

薬の力も手伝ってか、体が温かくだるく重くなっていく。
床に座り込んだまま、私は目をこすった。

「…眠いです」
「いいよ、寝て」
「…ここで、寝てもいいですか?」
「どうぞ」
「ありがとう…」

許しをもらってカーペットに身を横たえると、手足が重くなって自然と瞼が閉じる。
毛足の長いカーペットがふわふわとして気持ちよかった。
落ちていく意識の中で、柔らかく滑らかな感触の毛布をかけられたのが分かった。

おやすみ、と最後に甘く高い声が聞こえた。





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