頭の上から水が流れる。
髪から伝って、ぽたぽたと流れていく。
座り込んだまま水を浴びていると、手足が冷えてしびれていく。
冷えていくたびに、現実感がなくなるようで、気持ちよかった。

『芙美さん?長くない?』

シャワーの音が聞こえるだけだったバスルームに、高い声が響く。
曇りガラスの向こうに、小さな人影が見えたが何も感じなかった。
心はすでに飽和状態で、何も考えることができなかった。

『芙美さん芙美さん?』

繰り返し名前を呼ぶ、彼のくせ。
私を家にひっぱりこんで、バスルームに押し込んだ人。
私の大嫌いな大嫌いな、無邪気な笑顔をする男。

『芙美さん、ごめんね、入るよ』

しびれを切らしたのか、彼は少しだけ焦った声でそう断るとサッシのドアを乱暴に開く。
開いた瞬間に、大きな目を更に大きく見開いた。

「ちょっと芙美さん!なんで服着たまま風呂はいってんのさ!うわ、ていうかこれ水じゃん!」

慌てて私に歩み寄ると、蛇口をひねって水を止めてしまう。
冷たくて気持ちのいい水がなくなって、少しだけ残念だった。
加賀谷は冷え切って血の気の引いた私の手を取ると、大げさに声をあげる。

「こんな冷え切ってるし、まだ6月だってば、何してんの!」

小さな子供をたしなめるように言うと、両手で私の手を握り締める。
体温を伝えるように、強く包み込む。
冷え切った手に伝わるその温かさが、不快だった。

「ほら、脱いで、ちゃんと温まって」

そう言われても、動く気になれない。
疲れていた。
もう一歩も動きたくなかった。

「あー、もう!なんか無反応だし知らないよ」

そう言って彼が私の服に、正確には私が着ていた彼の服に手をかける。
濡れて纏わり付くTシャツを引っ張り脱がされても、特に何も感じなかった。

「うわー、本当に無反応ー、もー、なんだかなー、萎えるなー」

そう言いながら彼は手際よく服を脱がしていく。
水を吸って重くなったスウェットパンツを脱がされて、下着まで外された。
そしてシャワーを熱めに設定すると、頭からかけてくる。
遠慮なく最大水量でかけられるお湯に、息ができなくて苦しくなる。
冷え切った体には熱すぎて、血流の戻る手足がジンジンとしびれる。

「や、くるし」
「はいはい」
「熱い…っ」
「そりゃこんな冷え切ってれば熱くも感じるでしょうよ」
「やだ……」
「いやだねー」
「苦しい……」

力なく訴えても、彼は聞いてくれない。
どこか楽しげにシャワーを向け続ける。
そして思う存分私を濡らすと、湯船に放り込まれた。

「はい、湯船にお湯張ってあるから入ってー」

肩まで無理矢理押さえつけられると、温められた皮膚の奥まで熱が染込んでくる。
微熱をもった体がにはだるくて、軽く眩暈がした。

「はい、髪洗いますー」

男は湯船に座り込む私の頭に無造作にシャンプーをかける。
特に処置をしていないから、だらだらと洗剤の混じった水が流れてきて目にしみる。
強く目を瞑って、それをやり過ごす。
加賀谷はそんなことを気にせず、少しだけ乱暴に髪をかき回し始める。

「痛んでるねー」
「…………」
「かゆいとこはありませんかー」
「…………」
「はい、無反応ー」
「…………」
「流すよ、水流れるから注意ー」
「…………」

同じようにして、リンスまでしてくれる。
私はその間ずっと目を瞑ってされるがままになっていた。
まるで自分で子供か動物みたいに頼りないものになったような気がした。

「はい、今度は体ー、あー、どうしようか、とりあえず、湯船から上がって」

上がってといいながら、ひっぱり出される。
さすがに小柄な彼には私は重かったらしく、少しだけ大変そうだ。
そのまま洗い場に座り込むと、彼は自分の汗を拭ってスポンジを手にした。

「もういっか、手足だけで、はい、手出してー」

今度は思いのほか丁寧に、体を洗われる。
柔らかいスポンジで皮膚をなぞられるのが、くすぐったかった。

「俺、介護資格取れるかも」

そんなことを言いながら彼は自分も水浸しになりながら私を洗ってくれた。
手足と背中を綺麗に洗われると、バスルームから出されてバスタオルをかぶせられる。
大きくて柔らかいバスタオルをもう一枚出されて頭をガシガシと拭かれた。

「さっきコンビニ行ってパンツ買って来たよ。この前罰ゲームでエロ本買って来させられたより羞恥プレイだった。コンビニの姉ちゃんに変な目で見られるし」
「………」
「はい、無反応ー」
「………」
「さすがにこれは、俺着替え手伝うのやだからね」

そう言って紙袋に入った下着と、彼のものと思われる新しい服を渡される。
そして彼は脱衣室からするりと出て行った。
残されて、しばらくぼうっとしていたが、やはり何も考えられずただ言われたとおり服を身に着ける。
脱衣室を出て行くと、扉の前で待っていた加賀谷に手を引かれてリビングまで連れて行かれた。

リビングの毛の長いカーペットに座らされると、後ろのソファに加賀谷が腰掛ける
後ろからドライヤーを当てられ、髪をきっちり乾かしてくれた。

「はい、完璧、綺麗綺麗」
「…………」

満足そうに額の汗を拭う仕草をすると、ぽんぽんと私の頭を撫でる。
私は人形のように、ただされるがままだ。

「はー、やれやれ、よし、ご飯だ」

ドライヤーをしまいこむと、今度はかいがいしくリビングから続くダイニングキッチンへと向かう。
何かを作っていたのか、鍋に火をかけるとシチューのような匂いが漂ってきた。
少しもたたないうちに、目の前のローテーブルにスープ皿が二つ置かれる。
わずかに小さく刻まれた野菜の入った、白色のスープが入っている。
加賀谷は座る前に、リビングの窓を大きく開け放した。
今日はいい天気で、南向きの窓から6月のぼんやりとした日差しが入り込んでくる。

「食事終わったら、病院行こうね」
「…………」
「学校には連絡しておいたから。さすがに俺が連絡するのもアレだから友達に頼んだ」

彼の言うことを聞き流しながら、私は目の前に置かれた食事を見る。
食べ物を見るたびこみ上げてきた吐き気が、今はない。
胃の痛みも激しい偏頭痛も、ない。
ただ温まったせいか、頭がぼうっとして頬の痛みが強くなっていた。

リビングの窓は開いていて、風が吹き込んでくる。
風とともに、寝ている時に聞こえていた川の流れのような水音がした。

「音……」
「ん?」
「水の音がする………」
「ああ、これか」

加賀谷は立ち上がると、窓の傍に近づいてカーテンレールにかかっている風鈴のようなものをいじって見せる。
小さな貝殻のようなものがいっぱい付いていて、揺れると擦れ合って音がする。
軽く指で突くと、またざああっと音がした。

「もらいものなんだけど、確かに水の音みたいだよね」
「昔どこかで聞いたことがあります…」
「ああ、なんか懐かしい音だよね。ずっと鳴ってるとうるさいんだけど」

再度、加賀谷か指で突く。
すると、また川の流れが聞こえた。
目を瞑って、その音に聞き入る。

「気に入った?」
「…わかりません」

もう一度、今度は風が吹いて、水音が流れる。
私はその音を聞き入りながら、目の前のスープをスプーンで掬って口に運ぶ。
ミルクを使ったスープは、自然と喉を通り抜ける。
荒れている食道と胃に、優しく染み渡る。

「………温かい」
「無理しない程度に食べてね」

綺麗に乾いた髪が、開け放した窓から入ってきた風にさらわれる。
どこか懐かしい水の音がする。
優しい味のスープが、胃の中を温める。

リビングに明るい光が、差し込んでいる。
嫌いな男がにこにこと笑っていて。

ただ、静かだった。





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