音が聞こえる。
なんの、音だろう。
聞きなれない音。
不思議と心地いい、水の音。
昔、妹の静養地へ行った時に聞いた、川の音に似ている。

耳を澄ますと、かすかに下から響いてくる。
その音につられて、ゆっくりと意識が覚醒していった。

まだまだ重いまぶたを、なんとか持ち上げる。
今、何時なんだろう。
寝すぎただろうか。
なんだか、もう部屋の中が明るい。
早く勉強をしなくては、遅れをとってしまう。
今日やることは、理科の復習。
しかし数学の問題集が、遅れている。
あれを先にやるべきだろうか。

鉛でも入っているような体を無理矢理持ち上げると、見慣れないモスグリーンの枕が目に入った。
ギシギシと体が軋んで、痛い。
左頬が、ジンジンと熱を持っている。
日常と化していた胃痛が、ちりちりと痛む。
けれど、頭がすっきりしていた。
相変わらず熱をはらんでいて重いけれど、あの割れそうなほどの頭痛がない。
いつもゼリーがつまっているようにぶよぶよとしていた思考が晴れている。

軽く頭を振って、辺りを改めて見回す。

「ここは……」

6畳ほどのそれほど広くもない部屋。
私の部屋ではない。
物は少ないが、机とベッドと棚しかない私の部屋よりは生活感に溢れている。
雑然として見えるが、なんだか奇妙に整っていて、違和感を感じる部屋。
ぼんやりと辺りを見回すと、ベッドの向かいにあった扉が開いた。

「あ、芙美さん、目が覚めた?」
「……加賀谷君?」
「そう、おはよう。昨日のこと覚えてる?」

朝から見たくもない人間の顔を見て、思い切り眉が寄ったのが自分でもわかった。
せっかくすっきりとしていた気分が、どんよりと曇っていく。
その変化が分かったのか、加賀谷が困ったように笑う。

「そんな顔しないでよ、芙美さん。かわいい顔が台無しだ」

私は、この男のこういう茶化すような口のきき方が好きではない。
いつも、からかわれて馬鹿にされているような気がする。
だから自然と問う私の口調もきつくなる。

「どうして、加賀谷君が?」
「どうしてって、ここは俺の家だよ?」

どこかおかしそうにくすくすと笑う。
そういえば、この人は笑顔しか見たことない気がする。
困っている時も、私を心配しているふりをする時も、いつだって笑っていたように思える。

「ほら、昨日の夜、俺が芙美さんを家につれこんだでしょ」
「昨日の夜…」

馬鹿みたいに、加賀谷の言葉を繰り返す。
もやが晴れたみたいにすっきりとしている頭で、昨日の出来事を思い出そうとする。

「そう、思い出した?」
「昨日は…」

昨日はそう、確か実力テストがあって。
職員室の前で、人が騒いでいて。
そうだ。
そうだ、そして、この男に負けたのだ。

嫌な胃の痛みが蘇ってくる。

それどころか、私は10番以内にもいなくて。
それで。
それで家に帰って、お祖父様に呼び出されて。

それで。

「うっ」

投げつけられた墨。
浴びせかけられる罵声。
可哀想な妹に庇われる私。
妹に八つ当たりして、祖父に殴られた。

いやだ、思い出したくない。
苦しい苦しい苦しい。
息が出来ない。
痛い痛い痛い。

「あ、はっ、う、く」

これ以上思い出してはいけないと、何かが告げる。
目を強く瞑る。
ベッドの上で、耳を塞いで顔を伏せ身を縮める。
そうしていれば、襲ってくる恐怖から逃げられる気がしたから。

それでもあらゆる隙間から、じわじわとソレは這い寄ってくる。
足元から私を飲み込んで、喰らいつくそうとする。

「芙美さん芙美さん、大丈夫大丈夫、何もないよ、大丈夫だよ」
「勉強、勉強しなくちゃ、私は医者になるんだから、私は勉強しなくてはいけない、私は…」

そう、勉強をしなければいけないのだ。
私にはそれしかないのだから。
勉強を、勉強をしなければ。

『本当にお前が体が丈夫だったらよかった。そうしたらこんな出来損ないに任せることもなかった』

祖父の声が聞こえる。
祖父が、私を否定する。
私をいらないと、言う。

「芙美さん、もう何も考えないで、芙美さん芙美さん」
「いや、ごめんなさい、お祖父様、すいませんすいません、もうしません…、だから」

いやだいやだいやだ、思い出したくない。
これ以上思い出したくない。
痛い、いやだ、いやだ、痛い痛い。

『芙美はもういい。あんな奴、これからもどうにもならん。芙美は使い物にならん』

厳格な絶対の力を持った祖父の声が、鮮やかに脳裏に蘇る。
生々しい傷を切り裂いて血が溢れ出す。
私にとって一番の人、絶対の人。
彼の言うことが、私のすべて。
だめだ、思い出してはいけない、忘れてしまえ。
だめだだめだだめだ。

『あの娘は、あんまり勉強ができないようだし、無理なことさせるより…』

父の、苦しそうな声が聞こえる。
諦めたような、呆れたような声。
出来損ないな私を、切り捨てる。

どんなに逃げてもそれは私を追いかけて捕え、ねじ伏せる。

「いやあ!!ごめんなさいお祖父様!!ごめんなさい、お父さん、お母さん許して、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
もうしません、もうしないから。
次はもうこんなことないようにするから。
だからお願いです。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
いらないって言わないで。
私を否定しないで。

私を、見捨てないで。

「芙美さん芙美さん、落ち着いて大丈夫、大丈夫だから」

聞いてるだけでざわざわと背筋が粟立つ声が耳元で聞こえる。
私を抱きしめるようにして押さえつけ、必死で大丈夫と耳元で繰り返す。
嫌な男。
嫌な男が私の背を優しく撫でる。
気持ち悪い。
怖い。
この男の温もりが、気持ち悪くて怖い。

「触らないで!あなたのせいよ!全部あなたのせい!あなたがいるからこうなった!」
「分かった、分かったから、分かったよ芙美さん。ごめん、ごめんね、俺が悪かった、芙美さんは何も悪くない、何も悪くないよ」
「そうよ、あなたがいけない!あなたがいるから私が捨てられる!私がいらない!私なんていらない、いらないいらないいらない!いやだ!もういやだ!」
「いらなくなんかない、いらなくなんかないよ、芙美さん、芙美さんは大事だよ、芙美さんはいらなくなんかないよ」

聞きたくない。
そんな嘘は聞きたくない。
この男の言葉は毒だ。
毒を吹き込んで、私を殺そうとする。

怖い、この男が怖い。

「もうやだ、なんで!どうしてよ!なんで、勉強、勉強しなきゃ!」
「少し休んで芙美さん、眠ろう、ね」

勉強しなきゃいけない。
私は勉強をしなくてはいけない。
休んでいる暇なんてない。
勉強をしなくては。
勉強をして、勉強をして。

「勉強して、どうするの?」

静かな声が、耳朶を振るわせる。
考えてはいけないのに。
それは見ちゃいけないのに。
それに気付いてしまったら、私は。

勉強をするのだ。
私は勉強をするだけでいい。
勉強して。
そして。

「そんなに勉強をして、どうなるの?」

幼い高く甘い声が、驚くほど低く男の声に聞こえた。
やっぱり、この男の言葉は、毒だ。

見たくなかったのに。
それに、気付きたくなかったのに。

勉強をして、どうなるのだ。

祖父は私を必要ないといった。
父はそれも仕方がないと認めた。
母は2人の言うことに頷くだけ。
妹は自分がいればいいと言った。

それなら。

それだったら、私はいらない。
私が勉強をする意味は、もうないのだ。
私は、いらないのだ。

心から溢れた血が、そのまま目に伝わってあふれ出す。
男に抱えられたまま、私はただそれを見つめた。

そうだ。
私はもう、勉強をする必要はない。





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