どうして、俺は、こんなに、不安で仕方ないんだ。 まるで雷の鳴る日のように、暗闇で一人でいるときのように、心細くて仕方ないんだ。 なんで。 どうして。 「………」 「秀一?」 隣にいた瑞樹が、不思議そうに見上げてくる。 そうだ、隣に瑞樹がいるのに。 不安なことなんて、何もないのに。 「なんだ、瑞樹?」 「いや、お前がどうかしたか」 「………なにもない」 自分でもどうしたいのか、分からない。 自分の感情が分からない。 瑞樹に、説明できるはずもない。 何も、怖いことなんて、ないはずなのに。 「そうか」 瑞樹はそれきり、俺から視線を逸らす。 いつもなら、もう少し、追求してくるのに。 しつこいぐらいに、聞いてくれるのに。 もう、俺には、なんの興味も抱かなくなってしまったのだろうか。 そんなに、俺がうざかったのだろうか。 距離をおけば、鬱陶しがられないと思った。 せめて弟として傍にいられると思った。 でも、あいつも離れて行った。 瑞樹も俺が距離をおいて、清々しているのだろうか。 ようやく解放されると思っているのだろうか。 「お、秋庭じゃん」 瑞樹の綺麗な顔に朱がさし、ぱっと輝く。 そして軽やかに、廊下を駆けていく。 視線の先には、長身で端正な顔立ちをした、下衆な男の姿。 胸がずきずきと痛む。 痛い。 怖い。 怖い怖い、底なし沼に落ちていくようだ。 「げ、さ、桜川」 「何ビビってんだよ」 「ビビってねーよ」 秋庭は、身を引きながら瑞樹から視線を逸らす。 挙動不審な態度。 けれど、それよりも、俺が視線を奪われるのは秋庭の隣にいた男。 「じゃあ、俺は行くぞ」 「おお」 酷薄さを漂わせる無表情な男は、俺を一瞥したきり何も言わない。 表情を変えもしない。 ごく普通に、自然な態度で、無視をする。 確実に目に入った俺を、まるで最初から知らない人間のように、無視する。 あの時から宣言通り、ずっと呼ばれていない。 ずっとこんな風に、無視される。 俺なんていなかったかのように、扱われている。 これを望んでいたはずだ。 あの男と離れたかったはずだ。 逃げたかったはずだ。 あの卑怯な男に脅されるのは、御免だったはずだ。 どうして。 なのにどうして。 どうして、こんなに不安になる。 なんで、なんでなんでなんで。 俺には瑞樹が、いれば、それでよかったのに。 あんなに卑怯な男なのに。 あんな男、大嫌いだったのに。 憎くて仕方なかった。 暴力で捻じ伏せられて、好き勝手にされたのに。 屈服させられ、弄ばれた。 なのに。 それなのに。 こんなの、おかしい。 俺には、瑞樹がいればいいのに。 ああ、でももう、瑞樹とも、一緒にはいられない。 こんなの瑞樹にも頼れない。 話せない。 頼ったら嫌われる。 うざがられる。 傍にいられなくなる。 瑞樹から距離をとらなきゃ。 「………」 「秀一?」 瑞樹から3歩ほど離れたところに突っ立っている俺を、瑞樹が振り返る。 まだ、瑞樹の視界には俺がいる。 俺の存在を認めてくれている。 そのことに、安堵する。 でも、距離をおかなきゃいけない。 じゃなきゃ、嫌われる。 「………俺も、先に行く」 分からない分からない分からない。 どうしたらいい。 怖い怖い怖い。 何が怖い。 分からない。 助けて瑞樹。 駄目だ、瑞樹には頼れない。 じゃあどうしたらいい。 怖い、怖いよ、瑞樹。 怖い。 桜川の本家の重く纏わりつくような空気が、今日も肩にずっしりとのしかかる。 このまま地に沈み込み、息もできなくなってしまいそうだ。 ただ座っているだけで、じっとりと汗を掻く。 ライオンの威圧感を持つ人の前で、ただ、ひれ伏す。 座上の王者は、今日も俺のことを嘲笑い、見透かす。 「で、秀一、お前はなんか成長はあったか?まだ瑞樹の金魚のフンしてんのか?」 「………もうし、わけありません」 金魚のフン、その通りだ。 だから、俺は鬱陶しがられた。 成長することもなく、ただ瑞樹に甘えていた。 瑞樹の傍にいたい。 でも、俺にはいる資格はない。 瑞樹に疎ましがられている。 なんで俺は、ここにいるんだろう。 旦那様の言うとおりだ。 誰にも望まれない存在。 ただ一人、俺を認めてくれていた瑞樹にすら、とうとう、見放される。 「やめろ、親父。もう行け、秀一」 「………はい、失礼いたします」 いつもはもっと、俺を庇ってくれた。 今日はただ冷たく、さっさと外に出される。 どうして、瑞樹。 どうして。 違う、何を甘えてるんだ。 だから俺は、駄目なんだ。 だから皆から、見放される。 父も兄も母も、俺を認めず、疎ましがった。 「やっぱ俺、過保護すぎたよなあ。だからあいつあんなになったっちゃのかなあ」 「今更気づいたのかよ?まー………」 襖を閉じるギリギリに、そんな会話が聞こえてきた。 全身に冷水をぶっかけられたように冷たくなる。 頭が真っ白になる。 体が震える。 心臓が、キリキリと痛み、苦しい。 息が出来ない。 ああ、やっぱりだ。 だから、俺は、駄目なんだ。 そしてとうとう瑞樹にも、切り捨てられる。 もう駄目だ。 もう、誰も俺を、見てくれない。 もう誰も、俺を認めてくれない。 「帰ってきてたのか、豚」 俯いていた顔を上げると、そこには、侮蔑に顔を歪める兄の姿があった。 この人が俺を見るときはいつだって、嫌悪か嘲笑を浮かべている。 いつもは恐怖を抱くけれど、今日はその感情すら浮かばない。 「………にい、さん」 犬と、豚、どっちがましだろう。 家畜として食われるのと、ペットとして飼われるなら、どっちが幸せだろう。 ああ、でも、どっちも人の役には立てる。 俺は、誰の役にも立てない。 家畜にもペットにもなれやしない。 「その辛気臭い顔をやめろ。いつでも悲劇の主人公みたいな顔しやがって。お前がいるせいで、こっちは気分が悪くなるってのに」 「もうし、わけ、ありません」 ただ人を不快にさせるだけの存在。 ただ人に迷惑をかけるだけの存在。 「動くなよ」 「ぐっ」 言われると同時に、思いきり腹を蹴られる。 痛みに胃液がこみあげ、しゃがみこみそうになるが、動けば余計に殴られる。 「瑞樹様に目をかけてもらえてるからって、いい気になるなよ。お前は這いつくばってるのがお似合いの豚なんだからな」 「………はい、すいません」 豚なら、いっそよかっただろうか。 俺は犬にすらなれなかった。 なんでもいい。 誰かの役に立てる存在になりたかった。 「またやってんのかお前は」 その時後ろの襖が開き、瑞樹が出てくる。 そして不機嫌そうに言い放った。 「さっさと失せろ」 旦那様によく似た、王者の威厳。 眩しい瑞樹。 強い瑞樹。 一緒にいられるだけで、俺も強くなれる気がした。 俺も何かになれる気がした。 そんなの、勘違いだったけど。 「ほら、行くぞ、秀一」 「は、い」 いつもなら、気遣ってくれる瑞樹は、さっさと俺を促す。 もう駄目だ。 もう終わりだ。 もう、駄目なんだ。 俺は、何にもなれなかった。 「…………大丈夫か?殴られたのか」 「あ………」 けれど数歩歩いて、瑞樹が振り返る。 そして眉を寄せて心配そうに、覗き込んできた。 「だ、大丈夫」 瑞樹が話しかけてくれた。 瑞樹が心配してくれた。 瑞樹が気遣ってくれた。 瑞樹が見てくれた。 「お前も、いい加減、少しはしっかりしろよ。雨宮にも亘にも言い返せ。俺が許すから」 「………はい」 ああ、でも弱い俺を、やっぱり鬱陶しがってるんだ。 早く、俺を、捨てたいんだ。 瑞樹は優しいからこうやって気遣ってくれるけど、本当は、鬱陶しいんだ。 「じゃあ、また後でな」 「はい、瑞樹様」 自室に戻れば、もう、我慢できなかった。 その場にずるずると座り込む。 「う………」 うずくまり、口を押えて嗚咽を堪える。 蹴られた腹が痛くて、吐き気がする。 頭が痛い。 苦しい。 息が出来ない。 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。 怖い怖い怖い。 苦しい。 もういやだ。 瑞樹にも嫌われた。 瑞樹にもとうとう見放される。 この家は、嫌だ。 この家は、怖い。 助けて助けて助けて。 誰か、助けて。 この前は、平気だったのに。 この家にいても、平気だったのに。 そうだ。 メールが、あったんだ。 あいつから、メールがあった。 チョコを買ってこいなんて、馬鹿なこと言っていた。 そうだ。 急いで、ポケットから取り出した携帯は、けれと当然のように何も表示していない。 『じゃあな、雨宮』 冷たくいい放たれた言葉が、脳裏に浮かぶ。 全身から、嫌な汗が噴き出してくる。 指先まで冷たくなっていく。 胃液が逆流して、喉に不快感とすっぱさを感じる。 口元を抑えて、必死に耐える。 「ぐうっ」 母は俺を捨てた。 父と兄は俺を虫けらのように嫌悪し、侮蔑した。 そして、瑞樹にもとうとう、見放される。 雷の鳴る夕暮れに耳を塞いでくれた。 いい子って言って頭を撫でてくれた。 俺を見てくれた。 それもとうとう、なくなってしまう。 でも、瑞樹が俺を見放しても、あいつは、一緒にいてくれるって言ったのに。 ずっと飼ってくれるって言ったのに。 雷の鳴る夕暮れに耳を塞いでくれた。 いい子って言って頭を撫でてくれた。 抱きしめて、キスしてくれた。 大事な犬だと言ってくれた。 「………嘘、つき」 俺は、もう、誰の犬でも、ないのか。 |