廊下の向こうに、あの男が歩いているのが見えた。
友人なのか、誰かと並んで歩いてかすかに笑っている。
笑っていてすら酷薄に映る冷たい表情を、思い出す。
冷たい目、冷たい手、冷たい表情、けれど似合わない甘い甘い匂い。

二月以上ほとんど毎日傍にいた。
あの甘い匂いに包まれ、埃っぽい部屋で過ごした。
瑞樹以外で、あんなに傍にいた人間はいない。
厳しく俺を殴る手は、けれど褒める時は泣きたくなるほど優しく撫でてくれた。

「きょ、う」

口に出しそうになって、咄嗟に閉じる。
何を、しようとしているんだ。
あの男は、もう俺を見ないのに。
俺の存在なんて、忘れてしまったのに。
俺は、馬鹿か。

眠れなくて、最近常に頭のどこかが霞がかってる。
うまく、ものを考えられない。
いつでも頭痛がして、食欲もない。
自分の体が、自分のものじゃ、ないみたいだ。

何をしたらいいか、分からない。
自分が、何をすべきなのか、分からない。

母に捨てられてからは、ずっと生きるために生きていた。
父と兄の顔色を窺って、殴られないよう怒られないように怖いことがないように、物陰に隠れて、息を潜めて生きていた。
食べて眠ることだけが、目的だった。

瑞樹と出会ってからは、瑞樹の背中を追いかけることが目的になった。
瑞樹みたいに優しくなって、瑞樹みたいに賢くなって、瑞樹みたいに強くなりたかった。
そして、ただ、瑞樹と一緒にいたかった。
瑞樹とずっと一緒にいること、それだけが、生きる意味だった。

「………」

でも、もう瑞樹とは一緒にいられない。
瑞樹は、俺を鬱陶しがっている。
父や兄と同じように、俺を疎ましがっている。
当然だ。
俺はこれまで、瑞樹に選択も責任もすべて、何もかもを押し付け甘えてきた。
瑞樹が迷惑がっているのを分かっていながら、しつこく付きまとった。
瑞樹が、うざがるのは当然だ。
気付いていながら、やめられなかった。
そして、とうとう、瑞樹を、失う。

どうしたら、いい。
俺は、どうしたらいいんだ。
俺は空っぽで、何もない。
瑞樹がいないと、何もできない、何も考えられない。

「秀一、大丈夫か、顔色が悪い」

隣を歩いていた瑞樹が、俺を見上げて首を傾げる。
綺麗な綺麗な、眩しい瑞樹。
強くて賢くて優しい、絶対的な、俺の、主。

「大丈夫だ、ありがとう、瑞樹」

せめて、これ以上心配をかけないようにしないと。
これ以上、鬱陶しがられたくない。
弟としてすら、傍にいることはもう、難しいだろう。
今はただ、旦那様と瑞樹の優しさで、傍においてもらっている。
いつ捨てられる。
いつまでここにいられる。

「ん?」
「瑞樹?」

瑞樹が不意に制服のポケットを探る。
そして携帯を取り出し、一瞥すると、楽しそうに顔を歪めた。

「………」

瑞樹にこんな表情をさせるのは、今のところ一人だけだ。
胸が、ずきずきと痛む。
俺は、瑞樹にこんな楽しそうな顔をさせることはできなかった。
ただ、困らせ、怒らせるだけだった。
いや、そもそも、瑞樹に笑ってほしいなんて思ったことがなかったかもしれない。
瑞樹は強くて眩しくて、ただ、俺を守ってくれる存在だった。
瑞樹を笑わせ幸せにしたい、なんて、考えたこともなかった。
してほしいと思うだけで、してあげたいなんて思わなかった。
俺はどこまで、甘えていたんだろう。

「なんかあの馬鹿が呼んでるから行ってくるわ」

瑞樹が楽しそうににやりと笑いながら、携帯をひらつかせる。
こんなに、瑞樹に楽しそうな顔をさせるあいつは、きっと俺よりもずっと、瑞樹を幸せにしている。
俺が嫉妬するのも、おこがましい。
あいつの方がずっとずっと、瑞樹のために、なっていた。

「分かった。気を付けて」

俺がなんとか笑って頷くと、瑞樹は身軽に身をひるがえす。
この学校に来ることになって鬱屈していたが、あいつと出会ってずっと楽しそうだ。
きっと、それで、よかったんだ。

「………おい」
「え」

しかし瑞樹は一度立ち止まり、俺の元へと戻ってくる。
そして鋭く強い目で俺をじっと見上げ睨みつける。
威圧されて、一歩後ずさってしまう。

「お前、本当に、大丈夫だな」

俺の様子にはずっと、気づいているようだ。
前はもっと心配して、追求してくれた。
もう、ほとんどそれもない。
いつまでも成長しない俺に、とうとう呆れられてしまったのだろう。

「ああ、平気だ」

だから、今度こそ、自立しないと。
瑞樹から離れないと。
瑞樹から離れて何をしたらいいか分からない。
でも、もう、迷惑をかけないようにしないと。

「いいか」
「わ」

瑞樹は少し苛立ったように、俺の襟首をつかみ、顔を近づける。
挑むような目はキラキラとして、いつだって見惚れてしまう。

「お前は俺の大事な弟なんだからな。自立しろとは言ったが、困ったときは頼っていいんだからな!」

胸がぎゅうっと、引き絞られる。
泣き出してしまいそうだ。
泣いて、瑞樹に縋りたくなる。
助けて。
助けて、瑞樹。
苦しい。
助けて。
怖い怖い怖い怖い。
底なし沼に沈み込んで、這い上がれない。

「ありがとう、瑞樹。大丈夫だ」

でも、もう言ったらいけない。
これ以上迷惑をかけたらいけない。
これ以上、嫌われたくない。

「………お前がそう言うなら、いい。でも、本当に言えよ」
「うん、ありがとう。瑞樹は優しいな」

瑞樹はもう一度俺を睨みつけ何か言いたげにしていたが、手を離し、去っていく。
ほっと息を吐き、体の力が抜ける。
後少しで、泣いて喚いて、縋りつきそうだった。
助けてと言ってしまいそうだった。

「………どうしたら、いいんだろう」

いっそ、消えてしまいたい。
誰にも認められない。
誰にも必要とされない。
こんな自分が、ここにいる意味などあるのだろうか。

誰か、俺を見て。
誰か、俺を必要として。
誰か、俺をいらないものじゃないと言って。

「あ、ちょっとおい、そこの一年」

ふらふらと歩いていると、不意に呼び止められた。
声の方を向くと、見覚えのない生徒がいた。
校章から二年生だとは分かる。

「はい、なんですか?」
「ちょっとこっち来てくれるか。荷物運ぶから手伝ってほしいんだ」
「………はい、わかりました」

どうせ、暇だ。
何もすることはない。
誰からも呼ばれることもない。

「どこですか?」

二年の男についていくと、どんどん人気のない空き教室のように向かっていく。
この学校は生徒数がどんどん減っているせいか、閉鎖されている教室も多い。
口ぶりからして近くかと思ったのに、どこまでいくのだろうか。

「ごめん、そっちの教室、入って」

辺りはすっかり誰もいなくなって、静まり返っている。
そういえば、ここは、あの男がいる資料室の近くだ。
あいつは今もあそこで、お菓子を食べているのだろうか。
でかい図体に似合わない、かわいい趣味。
馬鹿馬鹿しい、何を考えてるんだ。

「何を運ぶんですか、って、え」

教室に入ると、教室の中には二人の人間が立っていた。
全員、二年のようだ。
こちらを見て、嫌な感じににやにやと笑っている。
ざわりと、全身に鳥肌が立つ。
この感じは知っている。
兄が、その取り巻きと俺を嬲ろうとしていた時の、空気。

「………っ!?」

本能的に咄嗟に教室から出ようとした時、後ろから衝撃を感じる。
突き飛ばされたと認識するより早く、手が地面につく。
埃っぽく、ざらりとしていて、手に不快な感触がする。

「な、に!?………ぐっ」

慌てて体を起こそうとする前に、脇腹に痛みを感じて今度は横に倒れる。
眼鏡が、耳から落ちて、カシャリと音を立てて転がる。
何が、なんだか分からない。
何。
何が起こってるんだ。
ここには、兄さんはいないはずなのに。

「ほら、抑えろよ」
「お前もそっち抑えろ」

訳も分からないうちに、腕と足を抑えられる。
慌てて視線を巡らせると、歪む視界の中、三人の男が、俺の手足を押さえつけている。
何で、何が、何をされているんだ。

「な、何する、何」

男たちは、にやにやとしながら、俺を見下ろしている。
そして、一人が俺のシャツを掴んだと思うと、思いきり左右に引っ張る。
ボタンが飛び、シャツがはだけ、腹が露わになる。

「な、や、やめろ!やめろ」

そこで慌てて手足を動かすことを思い出す。
とりあえず足を動かし逃げようとするが、六つの手に押さえつけられままならない。
こいつらが何をしようとしているのか分からない。
ただ、理不尽な扱いを受けようとしているのは分かる。

「ふざ、けるな!、なんだ、お前ら!」

俺が暴れ出したことすら余興なのか、男共は楽しげに笑っている。
よく見えないけれど、どんな顔をしているのかはよく分かる。 人を好きに弄び、嬲ることを楽しむ、残酷な顔。
その表情はよく覚えがある。
殴られることはよくあった。
だからといって、慣れるわけじゃない。

「いいから大人しくしてろよ」
「そうそう、怪我したくないだろ」
「大人しくしてたら優しくするしさ」
「うわー、ベタで最低な発言だな」

そしてその言葉で、俺は殴られようとしている訳じゃないとうっすらと認識する。
殴られるよりも更に最悪な事態。
あいつ以外に俺をそんな目で見る奴が、いるとは考え付きもしなかった。
瑞樹ならともかく、俺がそんな対象になるとは、思ってもいなかった。

「な、に」

男たちの手が、俺の剥き出しの腹を撫でる。
べたついて、脂ぎった、目。

「お、結構つるつる」
「本当だ。割と白いな」
「いい感じ」

悍ましさに、全身の毛孔が開く気がした。

「ど、け!」

渾身の力で足元の男を蹴り上げ、緩んだところでもう一度両足で蹴りつける。

「離せ!」

自由になった足に反動をつけ、身をひねる。
そのまま、腕を押さえつけていた男を巻き添えに床を転がる。
手が自由になると同時に立ち上がり、もう一人の男に肩からぶつかり突き飛ばす。

「いってー!ふざけんなこいつ!」
「殺すぞ!」

下衆ども。
最低なやつら。
ケダモノ。
もう好き勝手にされたくない。
こんなこと、されたくない。

「ほら、そっち抑えろよ!」
「捕まえろ!」

とりあえず、逃げろ。
俺は瑞樹ほど強くない。
大勢で囲まれたら、敵わないかもしれない。
それに、食事も睡眠も取っていないせいで、体がうまく動かない。
何をしてるんだ、俺は。
こんなことじゃ、瑞樹を守るなんて、おこがましいにもほどがある。

「くっ」

追いすがる手を振りはらい、狭い教室を逃げ纏う。
なんてみっともない。
なんて情けない。
でも、逃げることしかできない。
こんなのは、嫌だ。
捕まったら終わりだ。
なんとか辿り着いた教室の扉に手をかけて、思いきり開く。

「はっ、………っ」
「何逃げられてんだよ」

しかし、そこにも、もう一人、男がいた。
味方じゃないのは、俺を掴もうとするその手の悪意で分かる。

「ど、け!」
「ぐは!」

走る勢いのまま、その胸に思いきり肘をいれる
後ろにたたらを踏む男の腹に膝をいれ、廊下に倒す。
倒れこんだ男を踏み越え、更に逃げようとする。

「あ、つ」

しかし、髪がぐいっと引っ張られる。
振り払おうとするが、足元の男でバランスが悪く、後ろに倒れこむ。
尻もちをつくが、もう一度立ち上がろうとする。
逃げないと。
早く早く早く、逃げないと。
しかし、更に髪を引っ張られ、腕も取られ、引き倒される。

「ふざけんな!」
「ぐ、ぅ」

床に強かに頭と背中を打って、視界がぐるぐるとまわる。
その間にももう一度手足を押さえつけられる。

「この、くそが!」
「あ、くっ」

思いきり太ももと、脇腹を蹴り上げられ、痛みに呻く。
体を庇おうにも手足を拘束させれて、出来ない。

「はー、暴れやがって」
「めっちゃいてーんだけど」
「お前油断しすぎだろ」
「だってさー」

滲む視界で見上げると、男は四人そろって俺を見下ろしていた。
がっちりと押さえつけられて、びくりとも動けない。
頭も背中も腹も足も、痛い。
痛い痛い痛い。

「縛っとく?」
「手は縛っておいた方がいいだろ」
「足は脱がしてからだな」

言いながら、カチャカチャと音がしたと思うと、ズボンを引き下ろされた。
剥き出しの足が外気に触れて、寒気に震える。
腕が後ろ手に縛られる。

「や、やめ、何して」

押さえつけられているが、じっとなんてしていられない。
一瞬自由になった足をばたつかせようとするが、またすぐに押さえつけられる。

「いやー、さすがに分かるだろ?」
「や、めろ!何考えてんだ!この、変態野郎!」
「うっせーよ!」
「ひっ」

男のうちの一人が、手を振り上げる。
身についた恐怖に身が竦む。
目を瞑ったと同時に、頬に熱い衝撃が走った。

「………っ!」

じんじんと頬が熱を持ち痛い。
怖い怖い怖い怖い。
怒らないで、ごめんなさい。
怖い。
違う、これはあの人じゃない。
今、俺を打つのは、あの人じゃない。

「………や、やめ、やめろ」

でも、怖くて、痛くて、自然に涙があふれてくる。
こんな奴らに、こんなところを見せたくないのに。
でも、怖い。
頬を打たれるのは、怖い。

「やめ、て」

聞いてくれないと分かっていながら、訴える。
そんな俺を男たちが、じっと見下ろしてる。
ごくりと、誰かが唾を飲み込む音がした。

「うわ」
「なんか結構クルな」
「こいつ、あれだ。泣き顔そそるわ」
「結構いいな」
「な、こいつでよかったわ」

口々に勝手なことを言っている。
静止の声は、勿論届くことはない。
それどころか、下着すら下され、下半身が剥き出しになる。

「ひ、い、や、やめろ、やめろ!」
「お、いいな、パンツは足にかけとけよ。萌える」
「あ、後、靴下も脱がすな」
「お前らマニアだなー」
「かわいそ、すげー縮こまってる」
「はは、ほんとだ」

身に着けているのはもはや意味をなさない破けたシャツと靴下のみというみっともない格好。
身を丸めたくても、押さえつけられていてそれもできない。

「ほら、泣きわめけよ。誰も来ないから」

怖い怖い怖い。
なんでこんなことになったんだ。
俺が悪いからか。
俺が悪い子だから、こんなことになったのか。
俺が、いらない子だから、こんな風になるのか。

「怪我させたりはしないから、安心しろって」
「いやもう、この時点で、ぼっこぼこにしてるけどな」
「ま、流血沙汰にはしないってことで」
「そーそ、お前も気持ちよくしてやるって」

手が、俺の体を意思をもって這いまわる。
気持ち悪さに、吐き気がする。
頭が痛い。

「なんか、エロいな」
「ほんとだ。乳首とか、膨らんでてえっろ」
「こいつ、桜川のお手付きなのかな」

その言葉に、恐怖に竦んでいた体に、熱が灯る。
怒りに頭が支配される。

「瑞樹は、そんなこと、しない!」

言った奴を殴りたくて、腕を動かすが、縛られていてなせない。
悔しい。
なにより、瑞樹を汚した奴は、許せない。
瑞樹は、綺麗で、眩しいものなんだから。
薄汚い俺とは、違うものなんだから。

「暴れんなって!」
「う、く」

剥き出しになっていた腹を殴られる。
衝撃で、こらえていた吐き気が、また込み上げてくる。

「う、ぐ、げえ」

ほぼ空っぽだった胃から、胃液と共にわずかな吐瀉物がこみあげてくる。
体を横にして、それを吐き出す。
苦しい。
痛い。

「きったね、こいつ吐きやがった」
「くっせ!」
「ふざけんな!」

また顔が殴られる。
胸も、腹も、手も、足も殴られる。

「おい、内臓殴んな。つーか、あんまやりすぎんな」
「う、く、げえ」

痛い痛い痛い。
もう嫌だ。
痛いのは嫌いだ。
痛いのは嫌だ。
もういやだ。
消えてしまいたい。

「う、う」

どうして俺は、いつも、皆から嫌われるんだろう。
どうして、誰からも必要とされないんだろう。
どうして、俺はいらないものなんだろう。
いらないものだから、こんな目に遭うのは、当然なんだろうか。

助けて。
誰か助けて。
瑞樹。
でも、瑞樹は助けに来ない。
瑞樹はもう、俺なんていらない。
じゃあ、誰も助けてくれない。
俺を助けてくれる人なんて、誰もいない。

「何してるんだ?」

その時、ぐちゃぐちゃになっていた頭に、涼しげな声が響いた。
思考が一瞬でクリアになる。
聞き覚えのある声。
最近聞いてなかった声。
閉じていた目を開き、その声がした方になんとか顔を向ける。
俺のすぐ上の、開いたドアから、蛇のような印象をうける男が立っていた。
ぼやがかった視界の中、よく見えないけれど、きっと酷薄な表情で、俺を見下ろしている。

「よお、柳瀬」
「見ての通り、コーハイを可愛がってんの」
「お前も混じってく?」

柳瀬。
柳瀬が、俺を、見ている。

「いや、俺はいい」

けれど、柳瀬は、首をゆるりと横に振る。
全身に冷水をかけられたような、衝撃。

「じゃあな」
「あ」

柳瀬が最後に俺を一瞥して、踵を返そうとする。
視線を逸らす一瞬、唇を歪めて、笑った気がする。

「や、なせ」





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