いやだいやだいやだ。
いやだ。
いやだ、置いていかないで。
いやだ、待って。
俺を、捨てないで。

「………い、やだ………っ」

突然の訪問者に驚いたのか、押さえつけていた手が緩んでいる。
身を思いきりひねって、その手から逃れる。
転がった反動を利用して、膝をつき、体を起こす。
体中がずきずきとして痛い。
腹と胸が特に、痛い。
腕が後ろで縛られているせいで、バランスがとりづらい。
ふらついて、また倒れそうになるのを、なんとかこらえる。
嫌だ。
嫌だいやだいやだ。

「あ、おい!」

我に返った一人が、また俺を押さえつけようと手を伸ばす。
中腰の姿勢のまま走り始めると、太ももと腰が悲鳴をあげる。

「待て!」

前にも一人、手を伸ばす。
邪魔だ。
手は使えない。
足を使ったら走れない。
だったら、どうすればいい。

「…………っ」
「うわ!………つあっ」

伸ばされた手に、思いきり噛みつき、引きちぎる。
いや、引き千切れはしなかった。
少しだけ皮膚を噛み千切ったぐらいだ。
皮膚の気持ち悪い感触と、鉄の味が口の中に広がる。

「ってえ!!!」

怯んで手を引いたところで、走り出す。
扉は開いている。
廊下に飛びだし、ぼやける視界の中、男の姿を探す。
そいつは、廊下の先にいた。

「やな、せ………やなせ!」

走り出して、呼ぶ。
けれど、柳瀬は、振り向かない。
どうして。
お願い、置いていかないで。
俺を捨てないって、言ったのに。
捨てないって、言った。
いい子だって、言った。
俺を飼い主になると言った。

「京介っ」

お前が言ったんだ。
お前が、俺を飼うって言ったんだ。
飼ったからには一生面倒見るって、言ったんだ。

「きょうすけ、きょうすけ、きょう、すけ!」

だから、いかないで。
いやだ。
もう俺を、置いていかないで。
柳瀬がようやく立ち止まり、振り返る。
振り向いて、くれた。

「きょう、すけっ」

その胸に倒れこむようにして、飛び込む。
そしてうまく動かない体で伸び上り、その顔に近づく。
吐瀉物と血にまみれた唇を、その薄い唇に押し当てる。

「ん」

キスは服従の証。
そう教え込んだのは、この男だ。
何度も何度も、教え込まれ、屈服させられた。
矜持も意地も虚勢も、全てを叩き壊して、踏みにじった。

「………秀一」

間近にある柳瀬が少しだけ驚いた顔で、俺を見ている。
それが少しだけ、嬉しかった。
俺に感情を動かされているのが、嬉しかった。
名前を呼んでくれたのが、嬉しかった。

「きょう、すけ」

そこで、もう限界だった。
膝の力が抜けて、その場に倒れこみそうになる。

「いい子だ」
「あ………」

しかし、腰を支えられて、引き寄せられる。
柳瀬の大きく堅い胸に、倒れこむ。
冷たい男に似合わない、甘い甘い匂い。
ああ、柳瀬の、匂いだ。
体の力が、全て抜けていく。

「って、おい、柳瀬そいつよこせ!」
「くっそ、いってえ!そいつの耳も引きちぎってやる!」

後ろから、男たちの声が聞こえて、反射的に体が震える。
もうあんな奴らに、触れられるのは、嫌だ。
暴力だけ与えられるのは、嫌だ。

「悪い、気が変わった。こいつは俺がもらってく」

さっきは俺を見捨てた柳瀬が、俺を抱きしめ、そう静かに宣言する。
モノ扱いされているのに、安堵で泣きそうになる。
これで捨てられない。
柳瀬が、俺を、捨てない。

「はあ!?」
「何言ってんの、お前!」

突然気を変え獲物をかっさらっていこうとする柳瀬に、当然男たちは激昂する。
しかし柳瀬は動じない。
かすかに笑って、静かに言う。

「悪いな。埋め合わせはする」

その馬鹿にしたようにも聞こえる冷静な声に、更に感情を昂ぶらせる。

「なんだ、てめえ、ふざけんな!」
「お前も一緒にやってやろうか!」
「あ、おい」

後ろから、男たちが乱暴に近づいてくる足音が聞こえる。

「少し待ってろ」

柳瀬はそう言って俺から手を離し、自分の後ろへと押しのける。
力の入らなくなった体は、その場に倒れて尻もちをつく。
急に離れた温もりに、心細くなる。

同時に柳瀬が前に出ていて、軽く握った拳を向かってきた男に向かって突きつける。
それは、まるで自分から向かってきたかのように、綺麗に男の鼻に入る。
そして素早く腕を一回引くと、もう一度軽く腕を前に突き出す。
もう一人の鼻にも、それは、魔法のように入る。

「ぐあ!」
「が!!」

座り込んで呆然と見ているうちに、鼻血を出した二人はバランスを崩す。
そして柳瀬は肘を一人のこめかみに突き入れると同時に足を振り上げ、もう一人の背中を蹴りおろす。
瞬きをする暇もなく二人は、廊下に倒れこんだ。
俺を嬲った男たちが、みっともなく情けなく、鼻を抑えて、呻いてのたうつ。

「今回は俺にも非があるから、これくらいで」

息を乱すことなく、柳瀬はその場に佇んでいた。
そしてかすかに笑って、残った二人に視線を向ける。

「で、お前らはどうする?」

その場を支配する、圧倒的な力。
瑞樹が持つ生まれながらの王者の空気とは違う。
冷たく鋭い刃のような、静かで深い、黒い、狂気じみた、何か。

「………っ」

気圧されたように、立ちすくむ男達二人は、後ずさる。
そして一人が、悔しそうに顔を歪め、歯ぎしりをする。

「………俺ら、はめられた?」
「何がだ?」

もう一人はすでに冷静になったのか、ため息をつく。
そして軽く肩を竦めた。

「埋め合わせは、しろよ」
「分かった。悪いな」

それで話はついたらしい。
柳瀬が振り返ろうとする。
そこで倒れこんでいた一人が立ち上がり、どこに隠し持っていたのかナイフを振りかざす。

「あ、やな、せ!」

慌てて立ち上がろうとする前に、柳瀬は軽く振り返る。
鈍く光る刃を持つ手を軽く叩くと、それは男の手から飛んでいく。

「つうっ」

軽く見えるがそれが重いのは、俺もよく知っている。
しびれたのか男が顔を歪め手をおさえる。
その男の顔を片手で掴むと、柳瀬がポケットから何かを出し突きつける。

「俺としてはここで終わりたいけど、まだ続けるか?」

柳瀬の手にあるのは、ボールペンだった。
今にも触れそうなほどに、男の目すれすれに突きつけながら、柳瀬はうっすらと笑う。

「………」

男は、怯えた顔で、ただ引きつっている。
震えて汗を掻く男の態度を降伏と受け取ったらしい柳瀬が乱暴に手を離して解放する。

「悪かったな。埋め合わせは必ずする」

そして今度こそ、振り返った。
廊下に座り込んだ男は、すでに抵抗する様子はない。
突っ立った男二人も、倒れこんだ男も、動く様子はない。

「待たせたな」

そして座り込んだ俺を抱き上げてくれる。
腕も解いてくれて、両手が自由になる。
まだじんじんと痺れてうまく動かない。
でも、温かさと、甘い匂いにほっとして、その首に顔を寄せる。

「こいつの服をよこせ」

立っていた男が慌てて動き、服を持ってきた。
それを受け取って、柳瀬がうっすらと笑う。

「ありがとう」

そういえば、シャツと靴下だけのみっともない格好だった。
恥ずかしくなって、柳瀬にしがみつき、顔を隠す。
人気がないとはいえ、こんな姿を誰かに見られるわけにはいかない。

「や、やなせ。服、着たい」
「ちょっと待て」

情けない姿の俺を抱えたまま、柳瀬はすたすたと歩く。
俺は重いだろうに、まったく危なげない。
そしていつもの、資料室まで、連れてこられる。

「よい、しょと。さすがに大型犬は重いな」

部屋の奥、定位置に座り込み、俺を抱え直す。
柳瀬がここでくつろぐ時の、いつもの姿勢。
酷薄な細い目が、俺の顔を覗き込み、軽く首を傾げる。

「大丈夫か?」

叩かれた頬が、熱を持っていてじんじんとして、痛い。
蹴り上げられた脇腹も胸も、しくしくと、痛い。
嘔吐した喉も、ひりひりとしていて、痛い。
手も足も、全てが痛い。

「……っ、く、う」

込み上げてきた感情のまま、柳瀬の胸に、思いきり拳を叩きつける。
何度も何度も、その堅い体に、叩きつける。

「な、んで、なんで、なんで、なんで!」
「こら、痛いだろう。どうした?言ってみろ?」

宥めるように背を撫でる手が気に入らない。
覗き込む目に、媚びるような声に苛立つ。
近づけてくる顔を押しのけ、その髪を引っ張る。
お前が悪い。
全部全部お前が悪い。

「はなせ!ふざけんな!この、馬鹿!なんで!最低だ!」
「こら、だから、暴れるな」

柳瀬は楽しそうに笑って、暴れる俺の手を取る。
そして擦りむけて手の平を見て、ちゅっと音を立ててキスをする。

「手も怪我をしてるだろう。無理するな」

悔しい悔しい悔しい。
余裕たっぷりのこの男が、気に入らない。

「どうして、俺を、捨てた、んだっ」

そんな優しいことをしたって、優しいことを言ったって、助けてくれたって、お前は俺を捨てた。
見捨てた。
ずっと一緒にいるって言ったくせに。
ずっと飼ってくれるって言ったくせに。
俺を裏切った。

「ずっと、飼うって、言ったのに!お前が、言ったのに!」

悔しさに、涙が溢れて、ぼろぼろと零れていく。
怖かった。
悔しかった。
この世界で、俺は、ただ一人ぼっちだった。

「お前は俺の犬じゃないんだろう?俺の犬なら大事にする。何もかもから守ってやる。望むものを与えてやる」

柳瀬は、俺の顔を覗き込み、歌うように言う。
そして、続ける。

「でも俺の犬じゃないならいらない」
「………っ」

俺は、犬じゃない。
俺は、モノじゃない。
でも、犬になりたかった。
でも、モノになりたかった。

「もう一度聞くぞ、秀一」

瑞樹の犬になりたかった。
瑞樹のモノになりたかった。
所有されたかった。
何も考えないでいられる存在になりたかった。

「お前は、誰の犬だ?」
「俺は………っ」

俺は自分で何も選択できない。
何も考えられない。
何も出来ない。
従属していたい。
どうせ俺が何をしても何を考えても、全ては無駄で、俺の全ては人を不快にさせる。

「俺は」

だから圧倒的な力で、支配されたかった。
正しい道に、明るい所に、眩しくて真っ直ぐな瑞樹に連れて行ってほしかった。
でも、瑞樹は、もう、俺から離れていく。
俺は捨てられる。
一人は、嫌だ。
一人ぼっちは、嫌だ。

「俺は、お前の、犬だ………っ」

だから、この圧倒的な暴力に、ひれ伏す。
言った瞬間に、体が力が抜ける。
奇妙な安心感に、包まれる。
意思を無視されて、捻じ伏せられて、従属させられてることに、安堵する。
もう、何も考えなくていい。
命令してもらえる。

「いい子だ」

柳瀬が、優しく優しく目を細めて、笑う。
満足げに、無邪気に子供のように笑う。

「いい子だな、いい子だ、秀一」

そして俺をぎゅっと抱きしめてくれる。
頭を優しく撫でてくれる。

今度は、嬉しくて涙があふれてくる。
ああ、やっぱり、これでよかったんだ。
俺は、こいつの犬で、いいんだ。

いい子って言ってもらえる。
優しくしてもらえる。
抱きしめてもらえる。

「可愛い、いい子だ」

額に、頬に、耳に、キスをしてくれる。
温かい。
気持ちがいい。
涙が止まらない。

圧倒的な支配。
叫びたくなるほど優しい慰撫。
瑞樹すら、くれなかったもの。

「………俺、汚れてる」

柳瀬の唇が、血に汚れているのに気付いて、首を横に振る。
けれど、蛇のような男は、楽しげに笑うだけだ。

「言っただろう?俺の犬なら、薄汚れてるぐらいでちょうどいい」

眩しい瑞樹。
正しい瑞樹。
一緒にいれば、俺も明るい場所にいける気がした。
ずっと焦がれていた、綺麗なもの。

「おれ、きたなくて、いい?」
「ああ、勿論だ」

この男は、綺麗じゃない。
眩しくない。
正しくない。
俺が、憧れていたものとは、正反対の存在。

「う、く、ああ、ううう」

涙が溢れてくる。
なんでだろう。
哀しくて?
悔しくて?
怖くて?
嬉しくて?
分からない。

「怖かったな。助けられなくて悪かった。今度からは、あいつらには手出しさせない。お前を守ってやる。ずっとずっと飼ってやる。ずっと傍にいてやる」

でも、ただ目の前の男にしがみつく。
首に腕を回し、頬を擦りつけ、甘い匂いを嗅ぐ。

「可愛い秀一。いい子だ。可愛い可愛い、俺の犬」
「ひ、く、ううう」

柳瀬は頭を優しく撫でてくれる。
背中を撫でてくれる。
首にキスをしてくれる。

「一人は、嫌だっ!嫌わないで!傍にいて!俺を見て!」
「ああ、分かった。嫌わない、傍にいる。お前をずっと見ている」
「俺を、捨てるな………っ」

もう、捨てないで。
もう、俺を一人にしないで。
犬でいい。
モノでいい。
ただ、一緒にいられる存在でいられるのなら、それでいい。

「お前が言ったんだ!お前が、お前が、お前が、ずっと、俺を飼うって、言ったんだ!」

その圧倒的な力で、支配して。
首に鎖をつけて、捻じ伏せて。
それで俺は、安心できる。

「本当は、お前が助けを求めたらそれでいいと思っていた」
「………え」

柳瀬が俺の頭を撫でながら、くすくすと笑う。

「そうしたら、助けてやろうって思っていた」

首から顔を離して、柳瀬の顔を覗き込む。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだろう俺の顔に、柳瀬はキスをする。

「でも、お前は自分で俺の元へ来た」

あの時、柳瀬しか見えなかった。
置いて行かれたくなくて、それだけしか、考えられなかった。

「あいつらに噛みついて、逃げ出して、俺の元へ来た」

柳瀬がとても満足げに笑って、俺の鼻に、唇にキスをする。

「偉いな、秀一。それでこそ俺の犬だ」

褒められて、胸が、きゅうっといっぱいになる。
こんな言葉で、嬉しくて、仕方なくなる。

「何をしてでも、誰を傷つけてでも、お前を守ってやる。ずっと傍にいてやる。飼ってやる」
「うんっ」
「だから、どこにいても、全てをかなぐり捨てても、誰を傷つけてでも、何をしても、俺の元へ帰ってこい」

帰る場所なんて、なかった。
瑞樹の傍が、いることが許される場所だった。
でもそれすら、失いかけていた。
そんな俺に、柳瀬は居場所を与えてくれる。

「………俺は、捨てないか?俺を、見ていてくれるか?」
「ああ。最後の最後まで、面倒を見るのが、飼い主の役目だ」

安心と喜びで、顔が緩んでいく。
頷きかけて、けれど、胸にまだひっかかるものがある。

「………でも俺は、瑞樹を……」

瑞樹は俺をいずれ捨てるだろう。
あの家からも追い出されるだろう。
でも、それでも、俺が瑞樹に受けた恩義は、忘れられない。
瑞樹がいるから俺は生きてこれた。
瑞樹にとって俺はいらない存在だけど、俺にとって、瑞樹は必要でやっぱり大事な存在だ。
それだけは、変えられない。
けれど柳瀬は、やっぱり楽しげに笑う。

「構わない。友達も兄弟犬も、必要だろう。一緒に散歩するぐらいが元気でいい。お前が卒業するまで、保護者も必要だろうしな」
「………」
「その後は俺が、ずっと飼ってやる。それまで兄弟の元で過ごせばいい」

寛大な言葉に、でも少しだけやっぱり怖くて、重ねて問う。

「瑞樹を、好きでもいい?」
「ああ。でも帰るところは、俺のところだ」

柳瀬は躊躇いなく頷いてくれた。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、胸がいっぱいになる。

「ありがとう、京介!俺は、何をしてでも、京介の元へ、帰る」
「いい子だ」

今度こそ俺は、柳瀬に思いきり抱き着いて、その唇にキスをした。
柳瀬も俺を強く抱きしめて、キスを深くする。

「ふっ、ん」

舌をからめられ、その舌を舐め、吸い、唾液を飲み込む。
唇を食み、歯列を撫で、教えられたとおり、柳瀬の唇をむさぼる。
甘い舌を、心行くまで味わっていると、頭がくらくらしてくる。
体が、熱くなっていく。

「はっ」

ようやく離れた時には、息が上がっていた。
柳瀬の唇を濡らす唾液すらもったいなく感じて、舐めとる。
もっと傍にいたくて、もっと一緒にいたくて、体を摺り寄せる。

「勃ってるな」
「んっ」

腹にあたっているだろうそれに気づいたのか、柳瀬が笑う。
かーっと顔が熱くなっていく。

「だって………」
「いい子だ、俺の匂いで発情するようになった」

俺の匂いで発情するようになれと、言われたことがあったっけ。
あの時は、怒りと屈辱でいっぱいだったけれど、今となっては、この言葉すら喜びだ。

「でも今日は体に障るから、お預けだ」
「………」

けれど柳瀬は体を離してしまう。
もっと触ってほしいのに。
見てほしい。
構ってほしい。

「そんなに不満そうな顔をするな」

尖らせた唇をつままれる。
だって、触ってほしい。
気持ちよくしてほしい。
嬲られ、屈服させられたい。

「本調子になったら、抱いてやる」

けれどその言葉に、不満がすべて消えていく。
そして同時に、体の奥がずくりと疼く。
結局、こいつに抱かれたのは、最初のあの時だけだ。
あの熱を痛みを屈辱を、体は今でも覚えている。

「だからそれまで、いい子にしてろ」
「………分かった」

やっぱり少しだけ、怖い。
こいつにすべてを預けて委ねて、暴かれ、支配されるのは、怖い。
矜持を踏みにじられ、悔しくて、恥ずかしい。

「いい子だ」

でも撫でられる手は優しくて心地よくて、目を閉じる。
甘い匂いに包まれると、不安が何もかも消え失せていく気がした。





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